カミュの『異邦人』を久しぶりに読み返しているうちに、主人公にして語り手のムルソーがどんなものを食べていたのか、みょうに気になってきた。最初にムルソーが食べる場面は早くも二ページ目に出てくる。
二時のバスに乗った。とても暑かった。いつものように食事はセレストの店ですませた。みんな、ひどく同情してくれて、セレストは「母親はかけがえがない」と言った。店を出るときには、みんなで見送ってくれた。僕はいささかあわてていた。エマニュエルのところに行って黒のネクタイと喪章を借りなければならなかったのだ。彼は数ヵ月前に叔父を亡くしていた。
何を注文し、何を食べたかについては、何も触れられていない。母親の葬式の前日に、主人公が何を食べたかなんて、どうでもいいことだろうと言われればそれまでだが。
こうしてムルソーは、アルジェから八十キロ離れたマランゴの養老院まで行く。そして、死体置き場の小部屋で、門衛といっしょにカフェオレを飲み、煙草をふかし、母親を弔う通夜の晩をすごす。この行為は、のちの裁判シーンでは、検察官がムルソーの「無感動」な態度を告発するときの格好の材料になるが、ここでは、飲み食いする場面としてことさら取り上げるほどでもない。
次にムルソーが食事をする場面は、二日後の日曜日にとぶ。ちなみに、その前日の土曜日——つまり葬儀の翌日——は海に泳ぎに行き、そこでかつて同じ事務所で働いていたマリー・カルドナという女性と再会し、映画を見てからそのまま夜をともにしている。「夜、マリーはすべてを忘れ」、ムルソーが目覚めたときには「いなくなっていた」と書かれている。
彼は、今日が自分の嫌いな日曜日であることを思い出し、マリーの髪の毛が残した潮の香りに埋もれるようにして、また十時まで眠り、目が覚めても昼までベッドのなかで煙草を吸っている。
いつものようにセレストの店で食事をする気にはなれなかった。行けばきっとあれこれ質問されるだろうし、そういうのは苦手だから。卵をいくつか焼いて、皿からそのまま食べた。パンはもうなくなっていたけれど、わざわざ買いに行くのがおっくうだった。
「卵をいくつか焼いて、皿からそのまま食べた」というところ、小首を傾げた人もいるだろう。でも、ここは原文そのものが少し舌足らずなのだから仕方がない。ちなみに、定番の翻訳と言える窪田啓作訳(新潮文庫)では「卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた」となっている。でも、原文には皿(le plat) という言葉はあっても、鍋とかフライパンに該当する言葉はない。たぶん、訳者は状況を想像して訳したのだろう。鍋からじかに食べるというのはあっても、皿からじかに食べるというのは妙だから(ただし、小皿に取り分けないで、大皿からじかに取って食べるという意味では使われる。しかし、ここでは一人で食べているのだから、やっぱりおかしい)。とにかく、字義どおり訳すると、拙訳のようになる。いや、この一文は、いわゆる字義どおりには訳せない。なぜなら「焼く」と訳した動詞(cuire) は「煮る」場合にも使われるから。そうなると、これは目玉焼きではなく、ゆで卵になる。あるいは何個も溶き合わせて(卵が複数形だから)、オムレツを作ったのかもしれない。とまあ、重箱の隅をつつくような話ではあるけれど、翻訳家泣かせの一文にはちがいない。
それはともかく、いかにも、日曜日の昼まで寝ていた独身男の食事らしい。目玉焼き——だと仮定して——も、ちゃんと作ろうとすればデリケートな料理らしいが、ムルソーがどのくらいまめに調理しているのかは、この部分からはわからない。なにしろ、塩をふるところさえ書かれていないのだから。
このあとムルソーは、自分の住む下町のアパルトマン——今どきの日本語で言えばマンションだが、日本のフランス文学業界ではこう呼ぶことが慣わしになっている——から、ひたすら往来を見下ろして午後を過ごす。晴れていた空が陰り、雨がぱらぱらと降り、ムルソーはまた煙草をふかしたり、チョコレートをかじったりしながら、下町の賑わいを見つめている。やがて日は傾き、夕闇が降りてくる。
すると突然、街灯に明かりがともり、すでに夜空に上がっていた最初の星たちの輝きがうすれた。歩道の上の人々と光を見ているうちに、目が疲れてくるのを感じた。街灯がぬれた舗石を照らし、規則的に行き交う路面電車の明かりが、つややかな髪や笑顔や銀のブレスレットに反射した。やがて電車があまり通らなくなり、樹木や街灯の上ではすでに宵闇が濃さをまし、いつのまにか街から人影が消え、ふたたび閑散とした通りを最初の猫がゆっくりと通りを渡っていった。そこでようやく、夕食をとらなければと思った。椅子の背に長いこと顔をあずけていたせいで、少し首が痛んだ。外に出てパンとパスタを買ってくると、自分で料理を作り、立ったままで食べた。また窓辺で煙草を吸いたくなったが、夜風が冷たく、寒気がした。窓を閉めて引き返そうとしたとき、窓ガラスに映ったテーブルと、その上に置いてあるアルコールランプとパン切れが目に入った。なんの変哲もない、あいかわらずの日曜日だった。ママはもう埋葬されたし、明日からはまた仕事、結局なにひとつ変わりはしないのだ、と思った。
数ページにわたって続く、街路の描写はとても美しい。この景色は、著者カミュが少年時代に住んだアルジェの下町、ベルクール地区の中心をなすリヨン通りだ。じつに細かく、ときに遠近法を無視して描写されている。いや、ムルソーが語っているというべきか。でも、何を食べたかはわからない。パンとパスタを買ってきたのだから、スパゲティか、マカロニかペンネの料理でも作ったのだろう。トマトも買ったと書いてあれば、赤いソースのからんだ白いパスタが目に浮かぶが、パンとパスタだけじゃ、何もわからない。この物語の冒頭でムルソーが受け取る電報と同じだ。
今日、ママが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、よくわからない。養老院から来た電報には、「ハハウエシス。マイソウアス。アイトウノイヲヒョウス」とある。これじゃまるで要領を得ない。まあ、昨日だったのだろう。
ムルソーの語りには、わからない、知らない、どうでもいい、などの言葉が頻出する。カミュの最初の構想では「無関心な男」というタイトルだったそうな。やがてカミュは『幸福な死』という長編小説を書くが、結局この小説は未発表のままに終わった。だが、この作品を踏み台にして、『異邦人』という、おそらく文学史に永遠に残る傑作が生まれた。でも、この種の事柄は文庫版の解説にも書いてあることだから、知りたければそれを読むといい。
食事の話を続けよう。
ムルソーは何事もなかったかのように、仕事に精を出す。彼の仕事は通関代行業、港のなかにある海運事務所で働いている。
さて、昼時。ムルソーはエマニュエルという発送係といっしょに外に出る。港に浮かぶ貨物船が真昼の光にまぶしく照り映えている。そこにトラックがやってくる。ムルソーとエマニュエルはけたたましいエンジン音を響かせて通りすぎるトラックを追って駆けだし、荷台に跳び乗る。トラックは巻き上がる埃と太陽の光のなかを疾走し、不揃いな波止場の敷石の上ではね、エマニュエルは大声で笑いこける。
汗だくでセレストの店に着いた。太鼓腹と前掛けと白い口ひげという、いつもの出で立ちでセレストが迎えてくれた。「なんとかやってたかい」ときくので、うん、と答え、腹がへってるんだと言った。そそくさと食って、コーヒーを飲んだ。それから部屋に戻って、少し眠った。ワインを飲みすぎたせいだろう。目が覚めると、煙草が吸いたくなった。遅くなったので、走って電車に飛び乗った。午後はずっと働いた。事務所の中はとても暑く、夕方外に出て、波止場をゆっくりと歩いて帰るのは気持ちがよかった。空が碧くて、満たされた気分になった。でも、ゆでたジャガイモの料理が作りたかったので、まっすぐ部屋に帰った。
セレストの店では何を頼んだのか、あいかわらずわからないが、会話を避けるかのように「そそくさと」食べ、コーヒーを飲んで帰ってしまう。そのあと、ワインを飲みすぎたせいで眠くなったというから、料理を食べるのと同じ勢いで、立てつづけに何杯か飲んだのだろう。おもしろいのは、夕暮れどきのムルソーの気分の揺れ方だ。鬱陶しい事務所を出て、気持ちのいい潮風の吹く波止場を歩き、「空が碧くて、満たされた気分」になっているのだから、どこかのカフェに立ち寄って、ビールとか、あるいは、南仏やアルジェリアでは夏定番のパスティス(ウイキョウのリキュール)の水割りなんかを引っかければいいものを、そうはしないで、まっすぐ家に帰って自分で夕食を作ろうとする。芋をゆでて、どうするのかはわからないけれど。
料理をするムルソーというイメージは好もしい。美食家ではないが、生活の手触りというのか、かたちというのか、そういうのは大切にする。とはいえ、それを強調するために、食事のシーン、食べ物についての場面をことさら詳しくは書こうとしていない。絵にたとえるなら、わざと白地を残している。
この空白というか、穴のようなものが、読者の想像力と好奇心を吸い寄せる。
ものを食う場面ばかりではない。たとえばムルソーに兄弟・姉妹はあったのか。養老院の院長は、母親の通夜と葬儀のためにやってきたムルソーに向かって、こう語りかける。
「マダム・ムルソーがここに入られたのは、三年前のことです。あなたはたったひとりの扶養者だった」。僕は何かとがめられているような気がして、弁解しようとした。だが、院長がさえぎった。
「たったひとりの扶養者」という言葉から、ムルソーが一人っ子だったと結論することはできない。兄弟姉妹がいても、遠くに住んでいるとか、この小説の書かれた時代からすれば戦死してしまったという可能性もある。そもそも、ムルソーの弁解自体が封じられている。
父親のこともまったく書かれていない。いや、正確に言えば、たった一箇所で言及されている。それは、小説の第二部第五章に記されている。裁判で死刑が確定し、ムルソーは独房へと引き戻される。そして三たび、御用司祭の面会を拒否し、もうじき自分の首を刎ねるであろうギロチンのことをひたすら考える。
そんなとき、ふと母から聞いた父に関する話を思い出した。僕は父を知らずに育った。この人について正確に知っていることといえば、このときママが話してくれたことだけだろう。彼はある殺人犯が処刑されるところを見に行ったというのだ。刑場に行くと考えただけで具合が悪くなった。それなのに刑場に行き、帰ってきて、朝食べたものの一部を吐いた。それを聞いて、自分の父が少し嫌になった。
奇妙な記憶だ。というか、よりにもよって、こんなことを息子に詳しく語る母親も母親だ。ムルソーの父と母は離婚したのだろうか。それとも死別したのだろうか。これもわからない。著者カミュも父を知らずに、母の手で育てられた。彼の父は一歳のアルベールと四歳上の長男を残して、第一次大戦で戦死している。しかし、著者は著者、小説の主人公ではない。
これは小説を読むうえでの原則であり、礼儀であるだろうと思う。しかし、(かつての)批評の多くが(べつに『異邦人』の場合にかぎらず)、著者の生い立ちを詳しく調べ上げ、作品に書かれた場面や状況に当てはめては、探偵小説みたいに創作の謎を解こうとした。
あるいは精神分析医のように、主人公の(あるいは作者の)心の病を解析するものもある。これは完璧な「父殺し」「母殺し」の心理構造を持つ作品であり、オイディプス・コンプレックスの象徴的物語であると。
その種の批評、論考を読むと、それなりに説得はされる。しかし、それがこの小説の魅力だろうかと、一読者として考えたときには、はたしてどうかと思う。
*
それはともかく、食事の話を続けよう。
ジャガイモ料理をしようとまっすぐ帰宅したムルソーは、アパルトマンの暗い階段を登りながら、同じ階に住むサラマノ老人と鉢合わせになる。この老人は、自分と同じように老い、なおかつ重い皮膚病にかかっているスパニエル犬と暮らしている。
狭い部屋に犬とふたりで暮らしているせいで、サラマノ老人はついに犬に似てきた。老人は顔に赤みがかったかさぶたがあり、黄色い毛がまばらに生えている。犬のほうも飼い主の猫背がうつったのか、首を伸ばし、鼻面を前に突き出して歩く。似たもの同士だが、憎み合っている。
細かい描写だ——食事の場面とはうって変わって。一日に二回、決まって朝の十一時と夕方の六時に、老人は犬を散歩に連れ出す(つまり、物語の現在時刻は六時だということだ)。妻を失って以来八年、散歩の経路はかわらない。犬が老人を引っ張り、ときどき老人はつまずく。すると老人は犬を打ち、ののしる。犬はおじけて、はいつくばり、今度は逆にずるずると引きずられる。ときには歩道に立ちつくし、たがいの顔を見つめあう。
階段の途中で老人は「こんちくちょう! くたばりぞこないめ!」とどなり、犬はうなり声をあげている。ムルソーが、こんにちは、と声をかけても、老人は振り向きもせず、「こいつ、まだ生きてやがるんで」と言い残して通りに出ていく。
ムルソーはさらにもうひとりの隣人と出会う。女を食い物にしている女衒だと近所では評判の悪い男が「部屋にブーダンとワインがあるんだが、いっしょにやらないか?」と声をかけてくる。ムルソーは自分で夕飯を作らなくてもすむと考え、誘いにのる。
ブーダンとは、豚の血と脂身で作る腸詰めのことだが、独特の臭みがあって、フランス人でも敬遠する人がいる。まあ、庶民の食べ物といっていいだろう。
話が遠回しになったが、結局この夜、ムルソーはジャガイモ料理を作ろうとまっすぐ家に帰ってきたのに、隣に住む女衒の誘いで、しこたま酒を飲むはめになる。このレイモンという男、「小柄で肩幅が広く、ボクサーのように鼻がつぶれていて」、台所付きの一部屋に住み、「ベッドの上のほうにはスポーツ選手の写真やら、女のヌード写真が二、三枚貼ってある」という、典型的な街のチンピラとして描かれている。
レイモンは四方山話をするために、ムルソーを部屋に誘ったわけではない。金ばかり浪費して働こうとしない女を懲らしめてやりたいのだが、「あいにくまだ、あいつのからだに未練を感じている」。そこで、その未練を断ち切り、女にさんざん痛い思いをさせてから捨て去るために、ムルソーに手紙を書いてほしいというのだ。嘘八百の甘い手紙を書いて、女を呼び寄せ、まんまとこの部屋にまたやってきたら、ベッドの上でたっぷりいい思いをさせてやってから、「最後の最後というときになって」女の面に唾を吐きかけてやりたいという。ムルソーは「レイモンを満足させない理由はない」という奇妙な理由で、手紙の代筆を引き受ける。
サラマノ老人と犬のエピソードが、みじめで哀れな話なら、こちらのレイモンと娼婦のエピソードは自堕落な男と女の、ふつうなら犬も食わない情痴話だ。男は、偽の手紙でまんまと呼び寄せた女を「血を見るほど」ひっぱたき、女は血を見て喚き、やがて警察がやってくる。
貧しい下町における、貧しい集合住宅の、貧しい隣人たちの話がえんえんと続くが、なぜか卑しくはない。
もう少し食事の話を続けよう。
次にムルソーが食事をする場面は、かなり奇異な印象を与える。彼は「いつものように」セレストの店にやってくるのだが、そこで奇妙な女性客に遭遇する。
すでに食事を始めていたとき、妙な感じのする小柄な女が店に入ってきて、同じテーブルに座ってもいいか、ときいてきた。もちろん、かまわない。しぐさがひどくぎくしゃくしていて、小さなリンゴみたいな顔のなかで二つの目がきらきら輝いている。ジャケットを脱いで腰かけると、夢中になってメニュをのぞきこんだ。そしてセレストを呼びつけ、間髪置かず明瞭だがせわしない声で、選んだ料理をいっぺんに注文した。前菜が出てくるまでのあいだ、バッグから小さな四角い紙と鉛筆を取り出し、前もって代金の総額を計算し、それにチップを加えた額を財布から抜き出して、自分の目の前に置いた。そのとき前菜が運ばれてきたので、それをまたたくまに平らげた。次の料理が出てくるまで、またもやハンドバッグから青鉛筆と週のラジオ番組表が載っている雑誌を取り出した。そして、ひどく入念に、ほとんどすべての番組にひとつずつ印をつけていった。
女は食事のあいだじゅう、ずっとこの作業を続け、食べ終わると、ジャケットをはおってすぐに出ていってしまうのだが、奇妙なのはこの女の行動だけでなく、ムルソーもおかしいのである。先に食べ終わっているというのに、彼もまた何かに憑かれたように女の一挙手一投足をじっと見つめ——それが上の引用に該当する——、おまけに女が店を出てからも、そのあとを追いかける。
これはいったいどうしたことか?
たしかに女の行動は少し偏執的かもしれないが、異常とまではいえない。都会ではよくある光景だ。ムルソーはこの女の何に引っかかったのか。その説明はない。
しかし、この小説を読みとおしたことのある人はおわかりだろうが、この女はムルソーを裁く公判の傍聴席にも顔を出すのである。セレストの隣に座っているという説明はあるが、どういう関係かはわからない。そして、今度は女のほうが被告席のムルソーをじっと見つめる。
おそらく、この女が『異邦人』という作品のなかでは、もっとも謎めいた人物として描かれている。その行動と態度が謎めいているというよりは、あまりに説明がないために。なぜ作者はこんな女を作中に登場させたのか、そのこと自体が謎めいている。
この女についても、おもしろい解釈があるが、ここでは謎は謎のままにしておこう。
さて、最後の食事の場面に移ろう。なぜなら、ムルソーはこの日、人を殺し、収監されてしまうから。拘置所でも食事は出るだろうが、ムルソーはそれについて感想を述べることもなければ、食べ物の思い出を語ることもなくなる。生活はこの日で途切れてしまう。
ムルソーとマリーは、レイモンといっしょに海に遊びに出かける。レイモンの友人が浜のはずれに小さな別荘を持っているのだ。家は岩場を背にして建っていて、前のほうを支える基礎杭は水に浸っている。持ち主の名はマソン、大柄でがっしりした体躯、女房のほうは小柄でぽっちゃりした体つきで、愛嬌があり、パリなまりでしゃべる。週末と休日だけ、夫婦でここにやってくる。「女房とはウマが合ってね」とマソンは言い添える。彼の妻とマリーは、女同士、声をそろえて笑う。そのときムルソーは、本気で結婚しようかと思う。
マリーが最初に海に入る。少し遅れて、ムルソーとマソンが続く。ムルソーは、泳ぎの遅いマソンを置いて、すでに沖合いで泳いでいるマリーを目ざす。
水は冷たく、泳いでいて気持ちがよかった。マリーといっしょに岸から遠ざかっていくうちに、たがいの手足の動きや、全身に満ちる充足感のなかで、二人の思いがひとつになるような気がした。沖に出て、われわれは浮き身をした。顔を空に向けていると、なおも口もとに押しよせてくる薄い波のヴェールを太陽の光が払いのけてくれた。
たぶん、ここにムルソーの短い人生の絶頂がある。何事もなければ、ムルソーとマリーは結婚するだろう。読者はしぜんとそう思う。しかし、最後の食事のときがやってくる。もちろん、本人も含めて、だれも最後だとは思っていない。
海からあがると、すでにマソンが呼んでいた。すごく腹がへっていると応じると、彼は女房に向かって、この人が気に入ったよ、と言った。パンがおいしく、取り分けてくれた魚のフライはたちまち平らげた。次には肉料理も出てきたし、フライドポテトも出てきた。みんな、ものも言わずに食べた。マソンはよく酒を飲み、こっちにもひっきりなしに注いでくれた。コーヒーが出てきたときには、少し頭がふらついて、やたらに煙草を吸った。
こうして男たち三人は腹ごなしの散歩に出ていく。
真昼の太陽が浜辺に垂直に降りそそいでいる。やがて、向こうから二人のアラブ人がやってくる。偶然ではない。レイモンが痛めつけてお払い箱にした情婦の兄弟が、復讐のためにあとをつけてきたのだ。殴り合いの喧嘩が始まる。レイモンが相手のナイフで傷つけられ、喧嘩の決着はついたかにみえる。しかし、傷の手当てを終えたレイモンの腹はおさまらない。仕返しのために、また浜辺に出ていく。今度は拳銃を持って。来るなというレイモンの言葉を無視して、ムルソーはあとを追う。撃ち気にはやるレイモンをなだめて、銃を取り上げるムルソー。なんとかレイモンの逆上はおさまり、二人はマソンの別荘に戻ってくる。しかし、ムルソーは家のなかには入らない。何かに憑かれたように、また浜辺へと出ていく。銃を持ったまま。
真昼の太陽がなおも激しくムルソーに襲いかかる。涼しい場所に惹かれて、浜辺から少し奥の、泉が湧き出している場所へとふらふらと歩いていく。
はたして——と言うべきか——、そこにさっきのアラブ人がいる。今度はひとりで。男はムルソーを見つけ、ポケットに手を突っこんでナイフを握る。ムルソーもポケットに手を突っこんで、レイモンの拳銃を握る。二人の距離は十メートルほど。ここで回れ右をして帰れば、何事もなく終わる、とムルソーは考える。しかし、「ママを埋葬した日と同じ」太陽の光が背後から彼を押す。距離が縮まる。アラブ人はナイフを構える。その刃に反射した光が長い刀のようにまっすぐに伸びてくる。眉毛にたまっていた汗のしずくが一気に流れて、ムルソーは盲る。
海から重苦しい吐息が運ばれてきた。あたかも空の全域が開かれ、火の雨を降らすかと思えた。全身が張りつめ、ピストルを握る手が引きつった。引き金が抵抗を失い、指先がつややかな銃床に届いた。そのとき、乾いた、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まった。そして、その日の均衡と、そのなかで味わっていた浜辺のまたとない幸福を、自分の手で壊してしまったことを僕はさとった。それから、ぐったりと倒れている体になおも四発の弾丸を撃ちこんだ。弾は深くめり込んだはずだが、そんなふうにも見えなかった。それはまるで不幸の扉を打つ、四つの短いノックの音のようでもあった。
*
これで、われわれとムルソーとの食事は終わりになる。
第二部で展開される裁判については、なにも言うことがない。独房でのムルソーの、いつになく雄弁なモノローグについては、あまり関心がない。関心があるのは、あくまでも〈娑婆〉にいるムルソーだから。
それにしても妙なものを書いている、とわれながら思う。ムルソーの食事の場面を引用し、前後関係を説明し、筋立てを追うだけ。なんの論評もない。感想文にすらなっていない。
この作品の翻訳は版を重ねて、すでに文庫版は百刷りを超えている。たしかに版は重ねているが、意外と読まれていないような気もする。あるいは、強く惹かれる人と、反発する人と、二つに割れるようにも思う。主人公ムルソーが少数の人には好かれるが、「世間一般」の人には嫌われるように。そういう主人公が語っている小説が万人に受け入れられるとは思えない。
それはともかく、最初に読んだのはいつだったか? これがまた悩ましい。手持ちの文庫本の奥付には、昭和二十九年九月三十日発行、昭和四十六年十二月三十日四十一刷、とある。奥付によって本を買った日を特定することはできないけれど、少なくとも昭和四十六年(筆者高校二年)以降であることはまちがいない。でも、高校時代に読んだ記憶はない。では、大学在籍中のいつ読んだか? それも憶えていない。
ただ、異様な感じを受けて、最初はなじめなかったという記憶がある。ようするに、よくわからなかった。
この「異様な感じ」(あるいは「奇妙な感じ」、「ふしぎな感じ」)は、だれもが受ける印象なのだそうだ——フランス語を母語とする読者でさえも。だからこそ、この『異邦人』という作品をめぐって、おびただしい論評と研究の努力がつぎこまれた。
では、最初に原書を読んだのはいつだったか? やはり手持ちの原書の奥付を見ると、一九七七年(昭和五十二年)三月二十八日に刷られた版であることがわかる。購入したのがいつであったか、その記憶はないけれど、本気になって読んだ時期については、はっきりと憶えている。アルジェリアに出稼ぎにいく直前のことだ。著者のカミュ本人が録音した朗読テープを、新宿西口にあるフランス文学の専門書店でたまたま見つけ、原書を読みながら、毎日ヘッドフォンを通じて聴いていた。そう、あのなつかしい初代ウォークマン、何度も巻き戻しと早送りを繰り返したせいで、一年ともたなかった。さすがのソニーも、そんなユーザーを想定してはいなかっただろう。
アルジェに滞在していたとき、街の中心部にはほとんど毎日のように通った。施主のSONELGAZ(アルジェリア電気ガス公団)での打ち合わせのために——広大なサハラ砂漠に何カ所かディーゼル発電所を建設するというプロジェクトだった——、あるいはサハラの現場からの依頼で、部品やら工具やらを街の金物屋で手に入れるために。アルジェの街は、海岸から急勾配に立ち上がる地盤に建設された都市だから、郊外の住宅地にあった事務所から都心部に出るには、つづら折りの坂路をくねくね曲がりながら降りていくことになる。カミュ一家の住んだリヨン通り——独立後はモハメド・ベルイズダード通り——にはよく工具や金具を買いに行ったし、カミュお気に入りのミシュレ通り——同じくディドゥシュ・ムラド通り——から狭い路地に入ったところにあるベトナム料理屋は、ほとんど日本人御用達の店だった。映画『望郷』(ペペルモコ)で有名な港の鉄門をくぐって港内に入り、日本の貨物船に乗せてもらって、すき焼きなんぞ、ご馳走になったこともある。ムルソーの職業である通関代行業者を、業界では今でも乙仲(おつなか——乙種海運仲立業の略。戦前の海運組合法の用語)と呼んでいることも、この時期に知った。もう三十年も前の話だ。
アルジェリアから帰ってきて、翻訳業を始めてまもなく、珍しい経歴の編集者に出会った。高知の出身で、大学を卒業すると、遠洋漁業のマグロ船に乗ったという。自分の翻訳がはじめて本になったときの担当編集者だったから、水道橋にあった事務所によく遊びに行ったものだ。いろんな話を聞かせてもらった。作業中にウィンチで小指を落とした乗組員がいて、あわてて指を拾って、オイル漬けにしたというような話——次の寄港先で、手術の可能性があることを期待したのだと言うが、笑えばいいのか、同情すればいいのか、わからない話だ。
『どくとるマンボウ航海記』みたいの書いたらいいじゃないですか、とけしかけると、いや、話すのはともかく、書くのはちょっと・・・・・・「一種の戦争体験なんですよ」と。
それはわかるような気がした。戦争はかならずしも銃を担いでするものではない。あちらでは、何度もそれを実感させられた。現地の商社マンも、メーカーの出張社員も、派遣労働者も、戦地に送られた兵士なのだ、と。
アルジェリアには二度渡った。この国の東部にジジェルという県があり、同名の県庁所在地がある。首都アルジェの次は、地中海に面したこの町の郊外に冷凍倉庫を建てるプロジェクトの通訳として滞在することになった。
ここで生まれて初めて、飯場暮らしというものを経験した。鉄柱の骨組みにベニヤ張りという、いたって簡単な住居。そういう建物が二棟あって、一方の棟の一階には、共同の食堂と娯楽室と風呂があり、その二階には建設会社のスタッフと通訳が、それぞれ四畳半の個室を与えられて過ごしている。もう一方の棟には、様々な職種の職人さんたちが暮らしている。総勢三十名ほどだったろうか。
建設現場の周囲はなんの手入れもされていない野原だった。初夏には真っ赤なヒナゲシが咲き乱れ、野原を横断する電信柱のてっぺんには、巨大なコウノトリが巣を作っていた。掘り返された地面には、黒光りする鎧を背負ったフンコロガシがそこかしこでせっせと働いていた。
海岸を通る国道から現場に通じる道はでこぼこの砂利道だったが、どういうわけか片側だけユーカリの並木があって、車が通ると、並木全体がざわざわと騒ぎ立った。枝葉の音ではなく、そこに巣くう大勢の雀たちの羽ばたきの音だった。
ほつれたセーターを着た少年が山羊を追い、ロバが情けない声を振り絞っていた。
ファーブルの驚異的な忍耐力も、セザンヌの強靱な色の力も、こういう風土から生まれたのだろうと思った。地中海の向こう側の話ではあるけれど。
現場では毎日のようにトラブルが起こる。とりわけ事故が怖い。けが人が出ると病院に運びこむのは通訳の仕事だ。現地雇いの労働者にせよ、日本から派遣されてきた労働者にせよ、通訳が病院側とけが人のあいだに入らなければならない。言葉を訳していればすむという仕事ではない。
現場にはもう一人通訳がいた。小さな現場になぜ二人も通訳がいたのか、今も——というか、今となっては、よくわからない。
彼は勉強家だった。いつも部屋にこもって本を読んでいた。あるとき読んでいたのはジェームズ・ケインの本——タイトルはたしか『セレナーデ』、原語の英語ではなく、フランス語訳だった。このときの話の展開や経緯はもう思い出せない。なにしろ、彼の名前さえ忘れてしまっているのだから。なぜそんなものを読んでいるのか、ふしぎに思って、こちらから尋ねたのだろう。彼は答えた。
「カミュの『異邦人』はケインの影響を受けているという説もあるんだよ」
カミュとアメリカのハードボイルドの関係について話を聞いたのは、これが初めてだった。
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は日本に帰ってからすぐに読んだ。ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラング出演の映画(一九八一年公開)は、ずいぶんあとになってからテレビで見た。これをきっかけに、チャンドラーの作品にもはまった。
しかし、アルベール・カミュとアメリカ文学——とくにハードボイルドと呼ばれる作品群——との影響関係を証明することは、思ったよりはるかに面倒な手続きを要する。
『異邦人』は、第二次大戦中の一九四二年に刊行され、占領下のフランスで売れつづけ、増刷された。サルトルが『異邦人』の文体とヘミングウェイの文体の類似を指摘し、フォークナーやスタインベックからの影響を問う文芸誌のインタビューには、カミュみずからその手法を使ったことを正直に認めている。
ヘミングウェイの初期の代表作(たとえば『日はまた昇る』『武器よさらば』などの長編、あるいは短編集『われらの時代』)はどれも一九二〇年代に発表されている。ハメットの『マルタの鷹』は一九三〇年、ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は一九三四年の刊行だ。『異邦人』のあの有名な「今日、ママが死んだ。ひょっとしたら昨日かもしれないが、よくわからない」という書き出しは、すでに一九三八年の『手帳』にそっくりそのまま記されている。そして、四〇年の五月には、『異邦人』書き終える、と記されている(草稿に記された最終的な「完成」を示す日付は一九四一年の二月だそうだ)。
カミュがアメリカの同時代文学をどこまで読んでいたか、あるいはそのフランス語訳がいつごろ出版されたか、そういうことを確かめるには、研究者の緻密な考証を必要とする。だが、ここでは、カミュが他言語で書かれた同時代の文学をどの程度摂取していたかということよりも、彼がまさにその「同時代」を生きていたということをあらためて確認してみれば用は足りる。
アルベール・カミュが生まれたのは、一九一三年のことだ。
翌年、第一次世界大戦が勃発し、父リュシアンは従軍してまもなく戦死する。
一九一七年にロシア革命が起こり、翌年ドイツと連合軍は休戦状態に入り、翌一九一九年にヴェルサイユ条約が締結される。
フランス共産党が創立されるのは一九二〇年(カミュが入党し、劇団「労働座」を創設するのは三五年のこと)。
大学に入学するのは一九三二年、翌年ドイツではヒトラーが政権を握る。
(ちなみにノーベル賞受賞は一九五七年、交通事故で死亡するのは一九六〇年、アルジェリアがフランスから独立するのは六二年のことだ)
こうしてみると、カミュの文学活動が本格化していく過程と、ヨーロッパの国々が二度の世界大戦で国力を消耗し、それに代わって、新しく誕生したソビエト連邦とアメリカ合衆国が力を増していく過程とは、みごとに重なっていることがわかる。
『異邦人』という作品は、まさにそういう時代の、ど真ん中に生まれた。
ムルソーは母の葬儀で涙を流さなかったがゆえに社会の憎しみを買い、殺人を犯したのは「太陽のせいだ」と法廷で発言して、ひんしゅくを買う。
かつて『異邦人』は「不条理」の小説と呼ばれた。「不条理」は「実存主義」と並んで、一時期の学生の流行語だった。今はもう、どちらも日常の言葉としては死語だろう。
しかし、世界が七〇年代から八〇年代へと移り、個人的にも二十代から三十代に跨ぎこす端境の時期に見た、あの太陽と、青い空と、青い海は、今も目に焼きついている。
アルジェでの夏は、週末になると一日中海で過ごした。ムルソーとマリーがそうしたように、沖合いに出て、いつまでも浮き身をしていた。ときに波が顔を洗っても、真上で輝く太陽がすぐに乾かしてくれた。その瞬間だけは、仕事のことも、人生のことも、日本に残してきた妻や子供たちのことも忘れた。
(2012/10/19)
*参考文献
・『伝記 アルベール・カミュ』H・R・ロットマン著、大久保俊彦・石崎晴己訳(清水弘文堂、一九八二年)
・『カミュ「異邦人」を読む』三野博司著(増補改訂版、彩流社、二〇一一年)
*地元の同人誌「不羈」vol.38に掲載。