昨日の夜、というか、昨日の未明というか(3月17日付の朝日新聞朝刊によると「16日午前2時13分」)、吉本隆明が死んだ。
昨日は夜遅くまで飲み屋で飲んでいたので、店のテレビで知った。
テレビで堂々と報道され、全国紙の一面でその死が報じられる「思想家」はこの人で最後だろう。
明治という時代もすごかったが、昭和という時代もすごかった。吉本隆明は昭和そのものだったと思う。
たしか大正13年の生まれのはず。うちのおやじは大正14年生まれで、平成11年(1999年)に死んだ。享年73歳だった。
僕にとって、吉本隆明はあくまでも書物の人だから、死んでも死んでない。本を読めば生きているのと同じだ。
でも、昨日の夜テレビの深夜ニュースで訃報に触れたときも、今朝、朝刊で訃報を読んだときも悲しかった。知人でも、親戚でも、友人でもないのに。
たぶん、近藤渉のことを思い出すからだろう。大学時代、僕にもっとも影響を与えた男だ。最後の論文は、吉本隆明の個人誌「試行」に掲載された。それが遺稿になった。手元にバックナンバーがないから、「試行」の何号だったか、論文のタイトルがどうだったか、思い出せない。ただ、坂本龍馬の「船中八策」からボードレール、ランボーまで同列に論ずる超ロマン主義的論文だったことだけは憶えている。
血の持病(いわゆる血友病だと思う)をかかえていたから寿命だったのだろう。
アルジェリアから帰ってきたばかりのころ、比喩でもなんでもなく、あっちの太陽と海の青さに目が眩んだ後遺症で、彼が住んでいた早稲田のアパートで大激論をかわしたことが苦い思い出になっている。意見が食い違ったというのではなかった。大学院なんかに進んで何を勉強してんだ、このやろう、って感じだったと思う。
二人の子を残して死んだ。奥さんの文子さんがひとりで育てることになった。でも、いろんな心因が重なったのだろう。近藤の実家があった大阪の家に引き取られる形になったのだけれど、文子さんもあとを追うように死んでしまった。
二人の仲人だった早稲田の窪田般彌先生は「脳の病気」と言っていた。精神病ではない。脳が萎縮する病気と言っていたから、アルツハイマーの一種だったのかもしれない。
近藤が死んで、まだ文子さんが二人の息子と一緒に早稲田のアパートで暮らしていたころのこと。何度か、線香をつけに行った。
吉本隆明の最新(結果的には最後の)詩集『記号の森の伝説歌』(角川書店、昭和61年12月刊)が出たばかりだったので、文子さんにそのことを話した。次に訪れたときは、仏壇に詩集が載っていた。
文子さんも一生懸命だった。本人は現代詩なんか読む人ではなかったのに。
窪田先生は「人形さんのようにきれいな人だったな」と何度も言った。たしかに、とてつもなく肌の白い人だった。目も大きかった。きれいでチャーミングで色っぽかった。
詩集の内容よりも、近藤の死と文子さんの死ばかりを思い出す。
コンピュータの日本語変換は皮肉だ。〈し〉と入力して、変換すると「詩」になったり「死」になったりする。
吉本隆明が死んで、なぜか東京が呼んでいると感じる。