『星の王子さま』を書いたサン=テグジュペリは奇妙な言葉を残している。「ノスタルジーとは、何かよくわからないものにたいする欲望のことだ」(La nostalgie, c’est le désir d’on ne sait quoi.)
じつはこの言葉、どの著作に記されているのか、いまだに確かめることができないでいる。というのは、サン=テグジュペリの本を読んでいて発見したのではなく、Le Petit Robert というフランス語の定番辞書のなかの、nostalgie の項に用例として載っているのを若い頃に発見して以来、ずっと気になっている言葉なのだ。
かつては「得体の知れない欲望のことだ」と解釈していた。でも、今読み直してみると、「よくわからないものを求めること」だと解釈したほうが自然なような気がする。しかし、どちらにしても、ある意味では「よくわからない」定義だ。
ふつうは「郷愁」とか「望郷の念」とか、訳される。
でも、サン=テグジュペリの言葉は、過去を懐かしんだり、惜しんだりしているようには受け取れない。すでに存在した過去を振り返っているというより、まだ確定していない先の何かを見ている。つまり、得体の知れないものを希求している。
はたして「ノスタルジー」とは、そういうものだろうか?
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感性という言葉も、ノスタルジーに負けず劣らず、考えだすとよくわからなくなる。はたしてこれは、その人の持っている資質を指す言葉だろうか。感受性とどう違うのだろうか。感性に経験はどんなふうに作用するのだろうか、云々。
このブログに扉として掲げている写真にしても、そこに自分の感性が反映しているのかどうか、それは自分で撮った写真のことなので、自分ではよくわからない。
ただこの齢になるまで、おびただしい絵画、造形、映像作品をみてきたことは確かだ。パリのルーブル、オルセーには何度足を運んだかわからない。言うまでもなく、パリにはほかにもたくさんの個人美術館がある。ドラクロワ、モロー、ロダン……切りがない。パリも、ノルマンジーも、南仏も、どれだけ歩き回ったことか。
東京で暮らしていたころには、気になる画家の回顧展があれば、必ず足を伸ばしたものだ。芋を洗うように混んでいる評判の展覧会ではなく、ひっそりとしている美術館がいい。
ある風景に目を奪われたとき、まずはファインダーを覗く。そこで角度も枠も定まればシャッターを切る。でも、微妙に落ち着かないときは、一歩、二歩、三歩、あるいは十メートル、あるいは数十メートル、対象に近づくこともあれば、遠ざかることもある。しゃがみ込んで低く構えることもあれば、カメラを高く掲げて、背面のモニタを通じて構図を確認することもある。
そのときの基準はどこにあるのか?
感性、だろうか?
よくわからない。
でも、なにか、頭か心のなかで、一生懸命あちこちの抽斗を開けたり、閉めたりしているような気がする。
いや、それ以前に、ある風景に出会って、それに心惹かれるとき、その体験は、例のデジャビュ(déjà-vu)、既視感に近いような気がする。あ、どこかで見たことがある!
でも、それがどこかの美術館、展覧会で見た絵の記憶なのか、記憶のなかに眠っている子供のころに見たどこかの景色なのか、それはわからない。
ただ、はっきりしているのは、ああきれいだ、ああ美しい、と思う心が動いていて、その心の動きを正確に伝えるためのフレームやアングルを、適切な露出やホワイトバランスを求めていることは確かであり、それを決める要素は、やはりたくさん見てきた造形作品にモデルがあるような気がしている。
感性といえば感性なのだが、憧れのような気もするし、嫉妬のような気もする。突き詰めていくと、やっぱり得体が知れない。
そもそも、美しさ、あるいは美しい、きれいだと感じることそのものが、得体の知れないものではないか。
『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミートリーだったか、『白痴』のラゴージンだったかの言葉(面倒だから確認しない)。
「美とはおっかないものだよ」
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で、今朝、起きがけに、ふと思ったのだ。
それは、恋しい、ということなのではないだろうか、と。
手の届かないものを求める焦慮に近い気持ち。
英語では、I miss you. という。
フランス語では、Je te manque.という。
そこにないもの、そこにいないひとを切に求める気持ち。
それが、サン=テグジュペリがノスタルジーという言葉を通じて伝えたかったものではなかったか。
パイロットだったサン=テグジュペリは、サハラ砂漠に墜落して死んだ。