*73 夫婦のこと、親子のこと(esq.07)

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猫さんの奥さんと、猫さんの母親は仲がよかった。まるで血のつながった親子のように。いや、その譬えは違うのかもしれない。実の親子というものは、そもそも仲がよくないものではないのか。自分自身が父親に対しても、母親に対しても、そしてその関係に対しても齟齬と葛藤を抱えて成長してきた猫さんはそう思うのである。

でも、それもわからない。誰しも余所の親子の愛のかたちなど窺い知れるはずもないし、自分の家族については距離が近すぎて、誰しもよく見えないものであるだろうから。仲のよい親子というのもあるだろうし、仲のよい嫁と姑というのも世間にはごくふつうに存在するのかもしれない。

とにかく、猫さんの奥さんと母親は仲がよかった。最初から気が合ったというのではなく、年を追うごとに、歳月を重ねるにつれて、親密さの度が増していき、最後には共犯関係のような壁さえ築かれて、夫であり息子であるはずの猫さんさえ容易に立ち入ることのできない二人だけの世界が醸成されていったのである。

猫さんは、それに違和感を覚えながらも、妻と親が仲良くしてくれるのは基本的にはありがたいことだったし、妻からも母親からも鬱陶しい干渉がないのはむしろ救いであった。

猫さんは高等学校を卒業して大学に入ったとき、両親の家を出た。学費は親が出してくれたが、生活費は自分で働いて稼いだ。アルバイトと学業の両立はたいへんだったでしょうと人によく言われるのであるが、猫さん本人はそんなにたいへんだと思ったことはなかった。それよりも親の家を出て、自立した生活を送ることのできる喜び、解放感のほうが圧倒的に大きかった。

猫さんは一人っ子であった。だから、その分だけ親の干渉、とくに母親の干渉が大きかったのだろうと誰もが想像するだろうけれど、猫さんが家を出た理由はそこにはなかった。奇妙な言い方になるけれども、父と母の絆が強すぎて、水入らずの家族であるはずの空間に自分の居場所が見つからなかったのである。

しかし、奇妙なのは自分のほうかもしれない、と猫さんは最近思うのである。両親と死に別れ、妻とも死に別れ、半世紀以上暮らしてきた東京を離れ、幼少期を過ごした土地に戻ってきて、あらゆるものと距離を置いて振り返ってみたとき、自分の感受性のなかに、いつのまにか自分自身を群れや集団から孤立させてしまう何かが潜んでいるのかもしれないと思うようになったのである。

猫さんの父は哲学者であった。朝から晩まで考えている顔をしていた。文字どおり無口であった。ほとんど何もしゃべらなかった。生活に関する一切合切、すべて妻に任せっきりであった。衣食住にまつわる好き嫌い、趣味、嗜好、そういうものにいっさい関知しなかった。すべて妻が選択し、それに異を唱えることはなかった。もしかすると、自分が今何を食べていて、何を着ているのか、それさえわかっていなかったかもしれない。生活に関しては、すべてが上の空であった。妻が肉体で、彼は頭脳であった。頭脳は肉体の一部にすぎず、肉体に依存しているくせに、肉体の中心にいて、肉体に指令していると勘違いしている奇妙な細胞集団である。

猫さんには、父と会話したという記憶がない。そのあるかないかの父と子の会話さえ、妻であり母である存在が代行していた。猫さんの母親は自分の夫の世話で精一杯であった。息子のことにまで気も手も回らなかった。

だから、すべてにわたって猫さんの父親は息子の反面教師であった。物心ついてからは——正確に言えば、中学生になって東京に出て来てからは——身の回りのことはすべて自分でやった。着るものは小遣いのなかから自分で買い、自分で洗濯し、アイロンが必要であれば自分でかけた。気むずかしい父の世話で神経をすり減らしている母の手を煩わせたくなかった。いや、母の世話になりたくなかった。高校生になって、生活のリズムが両親のそれと合わなくなり、ずれるようになると、食事も自分で作るようになった。母が台所に立っていない隙をぬって、弁当を作り、夜食を作った。

だから、大学に入り、自活するようになったとき不便はいっさい感じなかった。夜のアルバイト——居酒屋の店員であるとか、夜間の土木工事であるとか——で疲れた身体を引きずって学校に通うのはなかなか辛いものがあったが、睡眠不足はキャンパスのベンチで補うことができたし、勉強や読書は講義のない教室や図書館ですませた。四畳半のアパートはただ寝るだけの場所だった。

自分は自由だと感じられるとき、人は思いがけない力を出せる。逆に人に強いられて何かをするとき、そこには計り知れないエネルギーロスが生じるというのが、猫さんの生活信条であった。

大学を卒業して就職した先は教科書の出版社だった。文学部を出て就職できる先は限られていた。教職の免状を取得して教員になるか、新聞社か出版社に勤めるか、猫さんが思い描ける就職先はそれくらいしかなかった。教員にはなりたくなかった。理由は単純明快、父親が教員だったからだ。北海道では高校教師、東京に出て来てからは某女子大学の教授。教師にだけはなりたくなかった。新聞社も自分には向いていないと思った。誰かに会って取材したりインタビューしたりしている自分が想像できなかった。残るは出版社しかなかった。

父親が大学教授だったから、家の中は本で溢れかえっていた。書斎はもちろんのこと。玄関にも廊下にも本が積んであった。猫さんが家を嫌い、教師を嫌う理由は、この山のような本のせいかもしれなかった。しかし、血筋は争えないというべきか、猫さんも読書家であった。ただし、哲学書は読まない。読んだのはもっぱら小説であり、詩であった。猫さんの寝室もまた、本で溢れかえっていた。

一人暮らしをはじめたとき、これらの本を全部、四畳半のアパートの一室に運びこむことは不可能だった。けれども、実家の自分の部屋に本を残して出たくなかったので、古本屋を呼んで大半を処分した。四畳半の部屋に持っていくべき本を本棚一つに限定し、選別する作業はことのほか辛かったし、時間もかかった。迷ったら捨てるという原則を貫いても、本棚一つには収まりきらなかった。

出版社は何社か回った。猫柳という名前が珍しいので、まずそれが面接担当者の目を惹いた。父の名を知っている編集者もいた。「ひょっとして、あの哲学者の猫柳亮先生の息子さん?」父の名が出ると、猫さんの気持ちは萎えた。できれば父の重力圏の及ばないところに行きたかった。

そうして数社回り、最後にたどり着いたのが教科書の出版社だった。そこの面接担当者もまた猫柳亮の名を知っていた。しかし、哲学者としての父ではなく、高校教師だったころの父を知っている人だった。

——高校の先生にしてはとてつもない学識を持った人だと思っていたけど、やっぱり収まりきらなかったんだね、と言って、その人は遠くを見るような目つきになった。若いときは、北海道を回る営業マンだったと懐古した。教科書というのは地区で一括採用される出版物なので、採用されると大きな数字になる。だから、各社の営業合戦が激しい業界でもある。

——それとね、やっぱり色男だったよな。研究者気質なんだけど、色気があった。

この「やっぱり」は何を意味するのか、と猫さんは訝った。しかし、高校教師だった頃の父を知っている人に初めて出会ったことが、猫さんの心を揺すぶった。もう少しこの人の話を聞きたいと思った。

——父とはどういうお付き合いだったんでしょうか? と尋ねてみた。

——ごくふつうの教科書会社の営業マンと教科の担当の先生との、年に一度か二度のお付き合いにすぎないけれどね。猫柳先生は絶対に接待を受けない人だったから、そのお付き合いも難しいのだけれど、見識は抜群だから、編集部からも教科書の出来栄えについてよく話を聞いてきてくれと言われたし、教育委員会の教科書選定会議でも鶴の一声じゃないけど、影響力があったからね。

猫さんはそんな話には惹かれなかった。堅物の親父のことなら自分が一番よく知っている。気になるのは、さっきのあの「やっぱり」だ。しかし、新入社員を採用するための面接の席で、これ以上突っこんだ質問を繰り出せるわけがなかった。ここに入社すれば、話の続きが聞けるかもしれないと期待したわけではないが、何か因縁じみたものは感じた。そうしたら後日、出版社から猫さんのアパート宛てに採用通知が送られてきた。別にいいじゃないか、ここで。猫さんに迷いはなかった。

そして、この会社で猫さんは、のちに奥さんとなる女性と出会ったのである。

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