*39 ニコラ・ブーヴィエの詩 熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。 ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)
『讃歌 ニコラ・ブーヴィエの詩』読みました。 難解な詩?と印象を持ちつつ、先生に導かれながら読み進めて、 「鉄道網」という北海道の詩でようやく親しみを覚えたところ 北海道のほぼ全域、「見るべきものなど」ない。と、 先生のそのおっしゃりかたに思わず破顔。 ラブソングⅠの頃にはすっかりブーヴィエに魅了されました。 「最後の税関」とくにその最終段、心にのこりました。 〈なぜぼくらが心破れたときにしか単純さを理解できないのか〉 そのわけがあるのですね。 あるのだと思いました。 桜ヶ丘公園の桜とともに、ブーヴィエの詩も わたしにうれしい贈りものでした。 ありがとうございます。 返信
おはようございます。 丁寧に読んでいただいてありがとうございます。 拙文を読み返して、いかにも舌足らず、と思いつつ、なぜか自分で好もしいと思うのはなぜなのか、よくわかりません。 むりやりわかろうとする気持ちを抛棄してしまったからかもしれません。 あるいはたんなる年齢のせいかもしれません。 やはりニコラ・ブーヴィエという詩人・作家が別格の人だからなのでしょう。 帯広は夜半から降りはじめた雨が夜明け前に雪にかわり、今はみぞれになっています。 留萌にも遅い春の兆しが訪れていることでしょう。 返信
高橋先生、今回ニコラ・プーヴィエの詩をご紹介いただき興味深く読みました。なんとかまとまった内容が書きたかったのですが、どうもそこまでは読み込みもできず、代わりにほんとうに偶然なのですが最近図書館で 借りた本の内容を少しご紹介します。 エリック・ファーユというフランス人が日本を旅して書いた「みどりの国 滞在日記」というものです。ほんの冒頭で著者は「到着してからほとんど読書していない」と思いプーヴィエの「世界の使い方」という紀行文を読みだします。私は先生の記事を読んだすぐ後だったので「へえー!」と思いました。著者は本の内容もけっこう書いていますが、私が思ったのは フランス人が異国の旅先で読書に飢えて読む本として出てきて、 「へえー!」という感じだったのです。 少しあとでプーヴィエについて (引用)彼のもっともらしい嘘のつき方や好んで仮説を組み立てるための 状況の曖昧さが好きだ。そして往々にして数語におさまってしまうあれほど多くの微細なフィクションが好きだ。ユーモア、ひそかにただよう詩情、決して行き過ぎることなくいつも踏みとどまる習慣_その結果 網膜が長いあいだ浸されてそれだけ強いイメージが頁の上に生み出される。今日では、文学の分野においてプーヴィエの作品はあまり評価されていない。(引用終わり) というわけでこの人は京都から鳥取に向かい駅前のあまりの無味乾燥さに またプーヴィエのことを考えだす、という感じです。 それにしても旅先で思うことや、それから一度北海道を離れてまた戻ってきた者(私含め)に無味乾燥であろうが見るべきものはないとしても故郷に対し「愛着」と「諦め」がないまぜになった感じ、そんなことを考えながら詩を読みました。 返信
コメントありがとうございます。 興味深く拝読しました。ただ残念なことに、ブーヴィエがプーヴィエと表記されています。何度か同じ間違いが繰り返されているので、たんなるキーボードのミスタッチではなく、間違って記憶されたものと思いますので、早い時点で指摘しておいたほうがよいと判断しました。よくあることですので、お気になさらないよう。 エリック・ファーユという人にかぎらず、若い世代にはニコラ・ブーヴィエを師と仰ぐ人、論文の対象とする人、日本について書かれた文章のなかでもっとも公平な視線を持っていると評価する人、様々ですが、なによりも言語によって表現する作家として傑出した人だと私は思っています。 返信
『讃歌 ニコラ・ブーヴィエの詩』読みました。
難解な詩?と印象を持ちつつ、先生に導かれながら読み進めて、
「鉄道網」という北海道の詩でようやく親しみを覚えたところ
北海道のほぼ全域、「見るべきものなど」ない。と、
先生のそのおっしゃりかたに思わず破顔。
ラブソングⅠの頃にはすっかりブーヴィエに魅了されました。
「最後の税関」とくにその最終段、心にのこりました。
〈なぜぼくらが心破れたときにしか単純さを理解できないのか〉
そのわけがあるのですね。
あるのだと思いました。
桜ヶ丘公園の桜とともに、ブーヴィエの詩も
わたしにうれしい贈りものでした。
ありがとうございます。
おはようございます。
丁寧に読んでいただいてありがとうございます。
拙文を読み返して、いかにも舌足らず、と思いつつ、なぜか自分で好もしいと思うのはなぜなのか、よくわかりません。
むりやりわかろうとする気持ちを抛棄してしまったからかもしれません。
あるいはたんなる年齢のせいかもしれません。
やはりニコラ・ブーヴィエという詩人・作家が別格の人だからなのでしょう。
帯広は夜半から降りはじめた雨が夜明け前に雪にかわり、今はみぞれになっています。
留萌にも遅い春の兆しが訪れていることでしょう。
高橋先生、今回ニコラ・プーヴィエの詩をご紹介いただき興味深く読みました。なんとかまとまった内容が書きたかったのですが、どうもそこまでは読み込みもできず、代わりにほんとうに偶然なのですが最近図書館で
借りた本の内容を少しご紹介します。
エリック・ファーユというフランス人が日本を旅して書いた「みどりの国 滞在日記」というものです。ほんの冒頭で著者は「到着してからほとんど読書していない」と思いプーヴィエの「世界の使い方」という紀行文を読みだします。私は先生の記事を読んだすぐ後だったので「へえー!」と思いました。著者は本の内容もけっこう書いていますが、私が思ったのは
フランス人が異国の旅先で読書に飢えて読む本として出てきて、
「へえー!」という感じだったのです。
少しあとでプーヴィエについて
(引用)彼のもっともらしい嘘のつき方や好んで仮説を組み立てるための
状況の曖昧さが好きだ。そして往々にして数語におさまってしまうあれほど多くの微細なフィクションが好きだ。ユーモア、ひそかにただよう詩情、決して行き過ぎることなくいつも踏みとどまる習慣_その結果
網膜が長いあいだ浸されてそれだけ強いイメージが頁の上に生み出される。今日では、文学の分野においてプーヴィエの作品はあまり評価されていない。(引用終わり)
というわけでこの人は京都から鳥取に向かい駅前のあまりの無味乾燥さに
またプーヴィエのことを考えだす、という感じです。
それにしても旅先で思うことや、それから一度北海道を離れてまた戻ってきた者(私含め)に無味乾燥であろうが見るべきものはないとしても故郷に対し「愛着」と「諦め」がないまぜになった感じ、そんなことを考えながら詩を読みました。
コメントありがとうございます。
興味深く拝読しました。ただ残念なことに、ブーヴィエがプーヴィエと表記されています。何度か同じ間違いが繰り返されているので、たんなるキーボードのミスタッチではなく、間違って記憶されたものと思いますので、早い時点で指摘しておいたほうがよいと判断しました。よくあることですので、お気になさらないよう。
エリック・ファーユという人にかぎらず、若い世代にはニコラ・ブーヴィエを師と仰ぐ人、論文の対象とする人、日本について書かれた文章のなかでもっとも公平な視線を持っていると評価する人、様々ですが、なによりも言語によって表現する作家として傑出した人だと私は思っています。
ごめんなさい。私はかなり長いこと間違ってインプットしてしまいましたね。