*83 閑話、その4(esq.16)

「小説のためのエスキス」と題した記事(*67)をアップしてから四ヵ月になる。ほぼ毎週に更新してきたので、今回で16回目。第1回目(esq.1)には、次のような威勢のいいことを書いた。

 

だから、これから書こうとしているのは小説ですらない。文学でもない。そんなものには収まりきらない何か、なのである。

 

しかし、いま実感しているのは、「小説」という器はじつに吸引力の強い、それでいて、ちょっとやそっとでは動かない、なにか岩か城のような手強い存在だということである。

この第1回目の記事には、小説の試みを始める理由として、「直近のきっかけ」と「古い怨恨」のような理由をあげた。前者は、隔週火曜に自宅で催している「私塾」で「無知の知」に至る認識というようなテーマで話をしたことに起因している。話した当人が、こんなことを澄ました顔(?)で解説したところで、なんの説得力も持たないだろう。そこで何か具体的な行動か、作品によって範を示すことはできないか。それがこの小説の試みの背景にあると、言い訳めいたことを書いた。

問題は、小説を書く試みの基盤となっている「古い怨恨」のほうである。それについては、こんなふうに書いた。

 

ごくごく単純化して言えば、小説を書きたいという欲望が、おそらく幼いころからずっと意識の底に潜んでいるからだろう。欲望という言葉が正しいかどうかわからない。むしろ書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為、作業だったので、翻訳というものを書く仕事を始めたとき(三十代の前半)、これは自分の天職であるとはっきりと自覚した。この仕事を失えば、おそらく自分の人生はないとも思った。

 

いま読み返すと、幼いころから「小説を書きたいという欲望」が意識の底に潜んでいたというのは、書いた本人も自覚しているようだけれど、少し不正確なのである。幼いころ(小学生のころ)に、小説を書くことや小説家になることを意識したことはなかった。漠然とした憧れはあったかもしれないが、それは小学生が将来なりたいものと訊かれて、バスの運転手とか消防士とか、あるいはお医者さんと答えるのと大差なかったと思う。

しかし、「書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為」だったということには訂正の必要を感じない。文章を書くことは好きだった。正確を期すれば、読書感想文のたぐいは苦手だったし、国語の評価もいつも5だったわけではなかったような気がする。中学校に上がっても、高校に進学しても、教科としての国語の成績にはむらがあったと記憶している。もっとはっきり言えば、国語の教科書にもテストにもずっと違和感を抱きつづけていた。国語に正解なんてあるのか?

好きだったのは、いわゆる自由作文の類である。大人のジャンルに当てはめれば、エッセイとか随筆になるのだろう。おそらくこれは、われわれの育ってきた時代と大きく関係している。

日本が戦争に負けて、仮名遣いは「新仮名遣い」に改められ、ほとんど無限ともいえる漢字の世界に箍をかけるようにして「当用漢字」が制定され、「話すように書く」こと、平易に身近なことを書き綴ること、無着成恭の「綴り方運動」に代表されるような「民主教育」の一環として作文教育が、たぶん全国津々浦々に広がっていったのだろう。

原稿用紙に文字を書き、それをガリ版の上に置いたパラフィン紙に鉄筆で書き写し、謄写版と言われる印刷機にかける。ほとんど江戸の瓦版のような、その原始的な印刷物に、私は子供のころから魅せられていた。

それが「文学」にのめり込んでいくにつれて、ものを書く喜びは変質し、濁っていく。

高校の終わりころから、いわゆる世界文学全集や日本文学全集に収まっている作品を濫読するようになってからは、もう何がなんだかわからなくなってしまった。書くことよりも読むことのほうがおもしろくなった。そして、理屈っぽくなり、評論家っぽくなっていった。そういう素質もあったのだろう。

けれどいつも意識の底では、「書くこと」を、「書くことの喜び」を、裏切っているという思いがうずいていた。「小説を書きたいという欲望」とは、正確に言えば、そういうことなのだろうと思う。

翻訳を生業とするようになり、書く道具は鉛筆や万年筆からワープロ、パソコンへと移り変わっていくにつれて、書く喜びと仕事との乖離はますます広がっていった。ワープロ専用機を使いはじめた当初、漢字変換の機能にとまどって、いつもキーボードの右隣に大きめのメモ用紙を置いていたことを思い出す。漢字で書くのかひらかなにするのか、送りがなはこれでいいのか、手で書いて確かめないと落ち着かなかったのである。

書く当てもないのに、原稿用紙だけは用意してあった——いまもクローゼットのなかで眠っている。

時代はあまりにも目まぐるしく通り過ぎていった。心のなかには時代に取り残された部分が息づいている——眠っているのか起きているのかはわからないが。

先日、次女から電話があった。スマートフォンはまさに年々進歩・進化しつづけて、ついに片手に端末を持ってテレビ電話ができるようになった。生まれたときに電話もテレビもなかった世代に属する人間にとっては、それはもう唖然とする出来事のはずだが、いつのまにかごく自然に生活のなかに溶けこんでいる。東京圏に住んでいる長女とも次女とも、月に一度か二度はこのテレビ電話をしているんじゃないだろうか。
「オトーさん、小説書きはじめたの?」

いきなりである。娘が親父のブログなど見るわけがないと思っていたら、「ときどき」覗いているのだそうな。虚を衝かれるのは気まずいものである。とはいえ、本来なら表に出さない創作過程をブログというかたちで公開しているわけだから、どこで誰が読んでいるかわからない。そこに娘が含まれていたとしても驚くほどのことはなく、想定していなかったこと自体が迂闊だというほかない。

次女はフリーランスの編集者として、父親と同じく出版業界に棲息している。二人の子を持つ母親でもあるので、父親のブログをまめにフォーローするほどの暇も必要もないし、ときどき覗いても、「フランス文学関係のめんどくさいこと」が書いてあるので、すぐ閉じるんだという。健全な親子関係である。

それがどういうわけだか、久しぶりにブログを覗いてみたら「小説」が連載されているのを発見した。おもしろい、と言ってくれるのだが、どうもこそばゆい。

それはともかく、ブログを覗いた娘から、主人公の名前を変えたのかと尋ねられた。え? 最初は「泉」さんだったのが、途中から「香」さんになっているという。これはこれは、まことに迂闊でした。さすがに、駆け出しとはいえ編集者を名乗っているだけのことはある。というか、たくさんの人が気づいていることで、知らないのは本人だけだとしたら、穴に入りたい気分である。さっそく直しました。

お詫びのしるしに(?)、なぜ「泉」という名前にしたかというと、そのとき館野泉のピアノを聴いていたからである。いずみ、っていい響きだな、と思ったのである。男性にも女性にも使うことのできる名にしたかったということもある。それがどうしてか、途中から香になってしまった。字形が似ていて、音も三つだから? 頭が混線したとしか思えない。

冒頭のほうで、小説は岩か城のように手強い存在だと書いたけれども、手強いというより、何か恐怖心のようなもの誘発すると言ったほうがいいのかもしれない。

子供のころには、当たり前のことだが、この種の恐怖心は感じたことがなかった。いまも、「閑話」と題した日常の延長線上にあるエッセイ風の記事を書く分には恐怖は感じない。

恐怖は、登場人物に名前を与え、それを動かすとき——あるいは、それが動いていくときである。小説とは所詮妄想だと、少し前のブログ(*79)に書いた。妄想にリアリティを与える作業は、まさしく力仕事だということを、いま痛感している。たとえばミラン・クンデラは、こんなふうに書いている。

 

私の計算では、毎秒この世で二ないし三人の虚構の人物が洗礼を受ける勘定になる。だから私は、そんな無数の洗礼者ヨハネの群れに加わることに、いつもためらいを覚えるのだ。しかし、どうしようもない。どうしても私は、人物たちに名前を与えなければならないのである。この場合、ヒロインがたしかに私のヒロインであり、(私が他のだれよりも彼女に愛着を覚えるのだから)私にしか所属していないことをはっきりと示すため、これまでどんな女性にも与えられたことのないタミナという名前で彼女を呼ぼう。(『笑いと忘却の書』西永良成訳)

 

著者自ら、こんなふうに告白してくれなければ、タミナという名前がチェコでは平凡な名前なのか、珍しい名前なのかさえ、読者にはわからなかっただろう——すくなくともチェコの読者以外は。

おそらく小説の登場人物の名前——とくに主人公(すなわちヒーロー、ヒロイン)の場合——を決めるという段階は、ただたんに気恥ずかしいだけでなく、小説全体を決定するものだから——あとから変えることは、作品全体のトーンを変えてしまうことになる——、やはり勇気がいることなのだろう。ミラン・クンデラのような天性の語り部でさえも。いや、だからこそ、というべきか。

ミラン・クンデラは、どこからタミナという名前を思いついたのか、そこのところは書いていない。天から降ってきたのかもしれないし、読者にそう思わせようとしているのかもしれない。

猫柳についても、そういうことにしておこうか。泉については、ばらしてしまったけれど。ついでにばらしてしまうなら、波多野庸子の姓は、メゾソプラノ歌手の波多野睦美さんから拝借した。声楽についてはよく知らないのだが、あまりにも美しい声なので、彼女の歌が入っているCDは三枚持っている。あとはストリーミングで聴き惚れている。庸子については、ヨウコという発音が好きで、庸の字がなんとなく好きだから、ということにしておこう。

今回も「閑話」ということで、本筋から逸れているわけだが、さっきからくどくど恐怖とか不安とか言い訳しているとおり、書き出せないでいるのだ。

波多野庸子は猫柳泉と結婚して、猫柳庸子となるわけだが、*69(esq.3)ですでに書いたように、この夫婦には子供がいない。この時点では、そんなに深くは考えずにそう書いた。この試みはあくまでも創作ノートのようなものであるから、とにかく書き出してみること、辻褄が合わなくなれば変更すればいい、それくらいの考えだった。

それに猫さんは書いている自分の分身であり、庸子さんが、五十代のなかばでこの世を去った私の妻の分身——モデルというのは多少憚れる——であることは、このブログをときどき覗いてくださっている方なら、程度の差こそあれ、気づいていることだろうと思う。

すでに書いたように、私たちには二人の娘がいる。現実の要素をそのまま小説に持ち込むと、小説としては書きづらくなる。よほどの自覚があるか、自虐精神に富んだ人でないかぎり、今どき私小説は書かないだろう。

私小説を書くつもりはなくても、「私」とか「僕」とか、一人称で書きはじめると、どうしても自分の延長線上のものになってしまう。自分の経てきた人生についての打ち明け話がしたいわけではない。

哲学は文学という世界のなかで王様のように君臨している。あるいは、哲学は自分が文学の世界に含まれることさえ認めたがらないかもしれない。哲学が死んだとは思っていないが、西洋文明(文化)が営々として積み重ねてきた無数の概念の構築物は、やはり閉ざされていると思う。大学で専門的に研究している人か、少数の知識人にしか読めない。ようするに難しい。だが、重要なことは難しいのは内容ではなく、言葉だということだ。ふだんは使わないような言葉ばかりが出てくる。

中原中也は、身の回りのものだけで無限を夢みると語り、独特の柔らかな音と言葉の世界を築き上げた。それを柔らかい認識と呼んでみたらどうだろう。詩とはそうしたものではないか。わかりやすい詩ばかりとはかぎらないけれど。

小説でその先鞭をつけたのは、やはり太宰治だったし、太宰は今でも読まれている。太宰に傾倒している又吉くんが『火花』で芥川賞をとったのも慶賀すべきことだ。

妙な言い方に聞こえるかもしれないが、太宰は終生「文学」と格闘した人だった。若いころに共産主義に傾倒したのもそうだし、晩年に志賀直哉に噛みついたのも、彼の「思想」の現れだった。「フローベールはおぼっちゃん、モーパッサンは苦労人」と言ったのも太宰治だ。

趣はだいぶ違うけれど、谷川俊太郎の詩も平易な言葉だけできている。みなさんご存じのように、御尊父は哲学者の谷川徹三だが、息子の俊太郎は親の反対を押して大学には進まず、詩人として食べていく道を選んだ。

このなかに村上春樹の名を加えておくと、何を言おうとしているのか、さらに明確になるだろう。最近、「文藝春秋」(六月号)に父との葛藤を綴ったエッセイが発表されたが、読んで驚いた。谷川俊太郎も村上春樹も一人っ子だが、それだけでなく父親がどちらも京都帝国大学を出た秀才なのだ。ちなみに猫柳泉もその生みの親の私も一人っ子ですが、うちの父は旧制中学どまりです。

われ万巻の書を読めり、と詠った詩人をまねるわけではないけれど、むずかしい哲学の本はもういい、と思う。

半世紀近い昔のことになるが、大学の文学部に入ったその年からずっと大学には違和感を感じてきた。大学をやめて、新聞配達でもしようかと思ったことさえあった。でも、その勇気も根性もなかった。とくにフランス文学は遠かった。だったらなぜフランス語なんか選んだんだと当然問われるだろうが、なんとなくである。みんなその程度だ。ただ問題は、この私だけ、えんえんとその違和感にこだわりつづけて、半世紀が経ってしまったということだ。そして、落ち着いた先が、この違和感は日本人だから発生するものではなくて、フランスの作家たち、詩人たちが一様に抱えている違和感だということ。古代ギリシア・ローマ文化の正当なる嫡子にして、カトリックの長女フランス、ああ、そんなものは幻想なのだ。そして作家たちや芸術家たちは、この幻想と闘ってきたのだ。

話題はさらに遠くに逸れてしまった。もとい。

猫さんと庸子さんのことだ。なぜ彼らには子供がいないのか? できなかったのか、それとも、子をつくろうとしなかったのか?

それ、おかしいだろう、とみなさん思うだろう。なぜなら、そういう設定にしたのは、書き手の私なのだから。勝手にしてよ、と言われてもしかたがない。

この設定は思いつきにすぎないけれど、それを突き詰めていけば、ある「認識」に至るのではないかと思っているのだ。あるいは、たんなる思いつきだと思っていることが、もしかすると根の深い問題だったと気づくこともあるかもしれない。

それが本当の哲学なのではないか。誰かが書いた難しいテクストを解読することが哲学ではないだろう。それは訓詁学だ。

現段階では、つくろうとしなかったのではなく、できなかったという設定のほうが自然ではないかと思っている。その根拠はない。ないというよりも、やはり自分がそうだったから。結婚した以上は、それが自然の流れだと思っていた。あえて妊娠を拒む理由はなかった。

だとすれば不妊の理由を考えなければならない。そしてこの問題については、庸子さんの視点に立って書くべきだとも思っている。もちろん、男性の側が不妊因子を抱えていることもあるわけだが、重要なことは女性の側に立って書くということ、そのこと自体にある。

男が男中心の考え方から脱却できなければ、それは本当の「認識」にはならないだろう。人間が人間中心主義の考え方から脱却できなければ、あらゆる科学はむなしいだろう。地球はぼろぼろになっていくだろう。われわれ人類はそういう段階——たぶん最後の段階——に突入したのだと思う。

今度は話が大きくなりすぎた。そうならないために「小説」——君子の説く「大説」ではなく、小人が小さな声で説くもの——を書こうとしているのに。

去年から看護専門学校で講師を務めているので、不妊と不妊治療に関して、専門家の先生にいろいろ教えを請うているところである。

そして、驚いたことがある。古い資料でも最新の資料でも、男女ともに原因を特定することのできない不妊が10%あるということ。その事実に驚き、書き出せないでいる。

勇気をもって書き出すべきだが、もうこの段階に入ると、とりあえず書いてみましたではすまされなくなる。妄想とはいえ、子をなすかなさないかは、軽々しくは書けないものだから。

多くの小説の読者は、そこに描かれたドラマの展開と行方を追って読むだろう。もちろん、それが小説を読む醍醐味であることに半畳は入れない。でも、その小説が何百ページあろうと、それはたったひとつの、作者にとってはかけがえのない、実人生における生死の交換にも近い「認識」の暗喩であるということも、頭の片隅に置いてほしい。

さらには、その「暗喩」は——あえて言葉に置き換えるならば——、私の愛した人、愛している人たちすべてが幸せでありますようにという祈りであることも、どうか信じてほしい。

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