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猫さんの就職した出版社は目黒にあった。初冬の空に初めてモズの大群を見かけた日のことを、彼は今も鮮明に憶えている。入社して半年ほどが経ち、会社勤めにも仕事にも少しは慣れてきたころ、横殴りの北風に吹きつけられながら、山手線沿いに目黒駅のほうに向かって歩いていると、白金台のほうから押し寄せてくる真っ黒な雨雲のようなものが目に入った。まるで駅ビルに襲いかかるように接近してきたかと思うと、駅ビルの壁に沿って急上昇し、寒風を突いて昇れるだけ昇り、今度は戦闘機のような形になって真っ逆さまに降下し、それを何度も繰り返す。駅ビルの前まで来たとき、ようやくそれがモズの大群だということがわかった。モズの群れはひとしきり駅の上空を旋回すると多摩川のほうに向かって飛び去っていった。
唖然としてその場に立ち尽くしていると、背後で女性の声がした。
——猫柳くん。
振り返ると、キャメルのコートの襟もとから暖色系のスカーフと薄い灰色のハイネックを覗かせた女性が立っていた。冷たい風に当たっているせいか、白い肌が紅潮し、目が涙ぐんで見える。虚を衝かれて動揺した猫さんは、言葉を返すことができなかった。それがどういう場面であれ、状況であれ、虚を衝かれるというのはあまり気持ちのいいものではない。彼は、声をかけてきたこの同僚の女性を意識していたし、それゆえ避けていたから、なおさらだった。
猫さんは大学を卒業すると目黒線——当時は目黒と蒲田を結んでいたので目蒲線と呼ばれていた——の沿線に引っ越したので、目黒駅の改札口を通り抜ける彼女の後ろ姿を何度か見かけることがあった。しかし、声をかけることはなかった。それどころか、彼女の後ろ姿に気づくと同じ電車に乗らないように、必要もないのに駅の売店——当時はまだキオスクという呼称は定着していなかったし、そもそもJRではなく、歴とした日本国有鉄道であった——でガムを買ったり、週刊誌を買ったりしていた。
二人の勤めている会社は、出版社としてはそんなに大規模な会社ではなかった。出版しているのは国語と英語と美術の教科書だけだったから、営業部を除いた編集部にかぎっていえば、そんなに大人数ではなかった。猫さんは国語のセクションに配属され、彼女は美術の担当だった。ただし、彼女は二年先輩だった。しかし、年齢は同じだった。彼女は四年制の美術大学を順当に卒業し、猫さんのほうは中学を卒業するのに四年かかり、高校は三年で卒業したが、大学は一年留年したのである。
会社は三階建ての社屋で、二階のフロア全体が編集部になっていた。部署は簡単なパーティションで区切られていた。当然のことながら、狭い給湯室のなかで顔を合わせることもあるし、コピー機の前で譲り合うこともある。当然のことながら礼儀として、頭を下げるし、精一杯の笑顔を作ることにもなる。
彼女の目は大きくもなく小さくもなく、二重でもなかった。しかし、日本人には珍しい薄い鳶色の目をしていた。そして一七〇センチ近い背丈があった。これは当時——七〇年代——の女性としては、大女の部類に入った。
男性社員の誰もが、まぁ美人なんだろうけど、と言葉を濁した。虹彩が薄いのも、背が高いのも、おそらく日本人の男の大半が敬遠したくなる身体的特徴なのだろう。しかも、本人に悪気はないのだろうが、彼女には相手の目をじっと見つめる癖があった。
彼女は背が高いから社のどこにいても目立った。すれ違いざまに目が合うと、彼女はかすかにほほ笑み、目を逸らさなかった。おそらく誰に対してもそうしていたのだろうが、猫さんは否応なく彼女を意識した。意識すればするほど、距離を保とうとした。
猫さんが懸命に彼女を避けようとしていた理由はもうひとつある。べつにもったいをつけるほどの理由ではなく、ようやく手に入れた独身生活——親から経済的にも精神的にも完全に独立した生活——をもっと楽しみたかったのである。ガールフレンドがほしいとは思わなかった。はっきり言えば、様々な理由が重なって女性を恐れていた。その理由をほじくり出して、あれこれ分析したり反省したりするのは、彼の性分には合わなかった。面倒だから遠ざける。それでいいではないかと思っていた。
彼が大学を卒業するのに五年かかったのは、いわゆる学業と生活の両立は、やはりたいへんだったのである。一年分余計にかかった学費は親に負担してもらうしかなかった。そういう親に対する負い目からようやく解放されたばかりだったのである。
それに加えて、学生時代の四畳半一間、トイレは共同、風呂は銭湯という暮らしからも自由になりたかった。目黒にある出版社に就職することが内定したとき、猫さんは目黒線沿線の不動産屋を小まめに歩いて回った。最低でも六畳間と台所、浴室とトイレもほしかった。駅まで多少遠くても、歩いて通えるのであればよしとした。新築でなくとも、しっかりとした造りのアパートを探していると不動産屋には告げた。
そして探しはじめて半月もしないうちに、その条件に適う物件が出てきた。目黒駅から二駅の武蔵小山、駅まで歩いて十分、背後には林業試験場の跡地を整備したばかりの広大な公園が広がる。部屋は八畳、もちろん台所もバス・トイレも付いている。想定していた上限よりもいくらか高かったが、初任給は学生時代にアルバイトで稼げる額の二倍ほどだったから、家賃が高くなっても、それなりにやっていけると計算できた。自炊には慣れていたし、もう学校には行かなくていいのだから、これはほとんど天国ではないかと、学生時代に生活のやり繰りで苦労した猫さんはその場で足踏みしたいほど喜んだのである。この幸福をたった半年、一年で放棄してなるものか。
彼女の名前は波多野庸子という。新入社員として、編集部のひとりひとりに挨拶して回ったときに渡された名刺に印刷されていたこの名前を、猫さんは容姿とともにすぐに記憶した。しかし、モズの大群を目黒の上空に初めて見た日、初対面とは言わないけれど、会社の外で二人きりで顔を合わせるのは初めてなのに、彼女は相手を「猫柳くん」と呼んだのである。後にも先にも、学校の女性教師以外から、くんづけで呼ばれたのは初めてだった。猫さんにしてみれば、相手から一気に距離を詰められ、主導権を奪われたということになる。そういう展開は——男としては——好ましくなかったし、できれば避けたかった。
——これから帰るの?
彼女はいきなりそう尋ねてきた。猫さんはいささか面食らった。先輩風を吹かせたいのか、とも思った。
——いや、ちょっと、本屋に寄ってから……。
嘘ではなかった。早めに帰れるときには本屋に寄るのが、彼のお決まりのコースだった。駅ビルのなかに小さな本屋が入っていて、月末の給料払いでツケにすることもできた。猫さんは当惑したまま歩き出し、そのまま改札口の前を通り、駅ビルの反対側に位置する本屋に向かった。彼女は無言で後ろからついてきた。猫さんは本屋に入ると、文芸誌や囲碁・将棋の月刊誌が並ぶ棚のほうに進んでいった。彼女はモードや映画の雑誌が並ぶ反対側の棚に回った。五分ほど雑誌のページをめくってみたものの気分が落ち着かないので、同年代の若い雇われ店主に会釈をすると店を出た。彼女もあとを追うように店を出て、そのまま二人は改札口を通り抜けた。
言うまでもなく目黒線は目黒駅が始発なので、同じプラットフォームに並ぶことになる。猫さんがいつもの位置に立つと、当然のように彼女も隣に立った。列車が入ってくると、同じ車両の同じドアから車内に入り、並んで吊革を握った。猫さんが避けたかった展開である。無言が続いた。二人ともまっすぐ前を見ていた。外はすでに暗くなりかけていた。並んで立っている二人の姿が窓に映っている。二駅はほんの一瞬である。このまま無言を押し通すわけにはかないと思っていると、彼女のほうが先に沈黙を破った。
——夕食はいつもどうしてるの?
彼女はまっすぐ前を見たまま、そう言った。猫さんは返事に詰まった。馴れ馴れしいというより、順序を一つか二つ飛ばしている。電車のなかで初めて隣り合わせた場合、どこで降りるのかとか、どこに住んでいるのかとか、ふつうそういうことを先に訊くものだろう。つまり、彼女もまた彼が目黒線で通勤し、二駅目で降りるということをすでに知っていたということだが、そんなふうに筋道を立てて考える余裕は彼のほうにはなかった。
——自分で適当なものを作って食べてるけど。
——自炊しているんだ。
そしてまた会話は途切れた。窓に映る彼女が猫さんを見ていた。電車はすでに不動前駅を過ぎて、武蔵小山に向かっていた。
——僕は次で降りますけど?
——次の洗足に行きつけのお店があるんだけど、どうかしら?
彼女が隣の駅から通勤しているということを、猫さんはそのとき初めて知った。まるで自分が誰かに監視されているような気持ちになった。彼女は、真横にいる猫さんの顔を覗きこんだ。ほほ笑んではいたが、真顔だった。
二人は結局、駅の近くの、おかみさんがひとりでやっている京都のおばんざい屋風の店に入ることになった。
ずっとあとになってから、猫さんがのちに奥さんとなる彼女の口から聞いた話であるが、彼が入社してきた第一日目に、わたしはこの人と結婚しようと思ったというのである。
男にとっては空恐ろしい話であるが、この話を聞かされたとき、自分の人生は自分ではどうにもならないものだということを彼は観念した。誰しもそうではないかという意見は正しい。しかし、正しい意見はにわかには信じられない。正しい意見はわかりやすいだけだから。そして、この世にわかりやすいものなど一つもないというのが、還暦を過ぎて生まれ育ったところへ帰ってきた猫さんの感慨でもあった。