『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって(承前)
しかし、フリートレンダーとハウザーの著作は対照的だが、それらを読み進めていくうちにおのずと浮かび上がってくるマニエリスムについてのイメージはたしかにある。それは一方向への突出というイメージである。
マニエリスムの典型的な画家として、たとえばポントルモ、ティントレット、エル・グレコ、あるいはフォンテーヌブロー派の作品がよく引き合いに出されるが、一見するとこれらの画家・画派の作品はひとつの様式には当てはめられないのではないかと思えるほど個性的である。それがわずかな時代差によるものなのか、それとも地域差、あるいは画家の個性に帰されるべきものなのかはともかくとして、これらの画家たちは様式上の共通項でくくるよりは、それぞれがある方向へべクトルを突出させているという、その突出感に共通性があるとしたほうがわかりやすいのではなかろうか。たとえば、精神性の、宗教性の、エロスの、アレゴリーの、色彩の突出といったように。それは少なくとも盛期ルネサンスの古典主義的な作品にも、バロック期の自然主義的な作品にも見られない性質であると思える。だが、このような突出はなぜ生じるのか。
ハウザーのマニエリスム論は、マニエリスムがルネサンスとバロックの間の過渡期の様式であるよりも、マニエリスムとバロックが決定的に対立する様式であり、概念であることを強調している。そしてマニエリスムとバロックがじつは同時発生したものであり、盛期ルネサンスにおいてほんのしばらく均衡を保っていたが、やがて「知的な国際的エリートたちの芸術上の表現」であり「より複雑で、繊細で、排他的な」マニエリスムが支配的傾向となり、最終的には「民衆的で、主情的で、どの民族にも迎えられるような」バロックがこれに取って代わったと説く。この一見独断的な論法は、しかし、形式上の純粋な美しさを体現する古典主義様式が本来はかないものであり、「はじめから、ひとつの夢であり、望みであり、ユートピア」にすぎないというハウザーの前提をよく吟味してみるとき、説得力をもつ。
たとえば、素朴な目でイタリア盛期ルネサンスの傑作と呼ばれるレオナルドの〈最後の晩餐〉、ラファエロの一連の〈聖母子像〉、ミケランジェロの初期の〈ピエタ〉を見るとき、私たちはこれらの作品のあまりに完璧に均衡のとれた美しさに、人間の大地から生まれた作品であるというよりも、どこか別の星から降ってきたのではあるまいかという印象さえ受ける。あるいは社会的な束縛をいっさい知らない理想的な青春というイメージ。事実、これらの作品はすべてキリスト教的主題に基づきながら、完璧に異教徒的=ギリシア的であり、福音書の倫理性からはこのような理想的に調和のとれた作品が生まれないことは歴然としている。聖書のテクストから生まれる画像としては、ジオットの祭壇画やティントレットの劇的な〈最後の晩餐〉のほうがはるかに自然だろう。レオナルドの〈最後の晩餐〉はあまりに静的で、二次元の平面に無限の奥行をつくりだす画家の圧倒的な技量と知性だけが光っている。ラファエロや初期のミケランジェロが描く女性にしても、心身の成熟の絶頂にあって、いつでも母となれる条件を備えながら、母であることの重みから解放されている、女性がもっとも美しく輝くつかのまの一時期を「処女懐胎」という聖書の主題を自由に飛躍させて描いているという印象を受ける。
このイタリア・ルネサンスのどこにも属さない、いわば無臭の美的世界はおそらく歴史のエアポケットからしか生まれないだろう。すなわち、ヨーロッパ中世がローマ帝国の遺制から抜け出し、いゆる絶対王政を確立する過渡期と、勃興する民衆のエネルギーがローマ・カトリックの枠からはみだし、各国のプロテスタンティズムに吸収されていく二重の過渡期にあって、メディチ家を初めとする世俗の金融資本家によって保護されていたのがイタリア・ルネサンスの芸術だとすれば、マニエリスムの突出性は、ヨーロッパが歴史の幸福な空白期のようなルネサンスを経て、真にヨーロッパ的な肉体を備えていく過程でのきしみのように思われる。1510年、マルチン・ルターはローマを訪れ、「キリスト教的主題と異教的主題が奇怪千万な調和をなして混在しているラファエロ」が聖書研究と等価に見られているのに慣概してドイツに帰るが、結局、彼は教皇レオによって破門される。これが、1527年に多くのルター派の兵士を含む神聖ローマ皇帝軍によってカトリックの総本山であるローマが蹂躪される「ローマ略奪(サッコ・デイ・ローマ)」につながってゆくのはじつに象徴的である(註9)。
パスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』もまた、このような危機ときしみの構造を内部に備えている。キニャールの本来的な文体の特徴はジャンセニスト的な禁欲と簡素さにあるが、この作品ではそういった抑圧をあえて解除し、レトリックの遊び、アレゴリーの過剰、細部の誇張、倫理的分裂をいたるところで噴出させている。彼はこの小説を書くことで「羊水のようなものを獲得し」、小説に対する恐れを払拭したと述べている(註10)。これは、彼が小説家としての肉体を獲得したということと同義だろう。この作品の全体的基調がバロックであるか、マニエリスムであるかについては読者の判断にまかせることにするが、少なくともその細部にはマニエリスティックな要素がふんだんに含まれている。
この小説の主人公の親友フロラン・セヌセは、国立古文書学校の卒業生で、ギリシア・ローマの古典語に通暁し、美術館の学芸員のポストを求めている人物として登場する。彼の「生涯唯一の情熱はボンボン」であり、童歌の蒐集家でもある。彼の容姿は決のように描写されている。
彼はひょろっと背の高い男だった。フィリップ辺境伯——少なくともミュンヘンにあるバルドゥンク・グリーンが描いた肖像——に似ていたが、それよりずっと美しく、髪は栗色、顔は同じようにいびつで、目は大きく熱っぽく、きらきら輝いていた。
ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあるこの肖像画(図3)は〈ノイブルク伯フィリップ〉と呼ばれ、画家のフライブルク滞在中(1512−17)に同市の大学に遊学していた14歳の公子を描いたものだというが、クラーナハがそうであるように、きわめてマニエリスティックな雰囲気をもつ作品である。陶器のなめらかな釉{うわぐすり}ような肌合い、赤い帽子と瀟洒なアクセサリー、肩にまいた毛皮のショール。このフィリップに似ているというセヌセは、この小説のなかでもっともマニエリスティックで危うい人物として描かれている。この作品の冒頭を飾るセメセの部屋の描写は異常なまでに人工的である。その広い部屋の壁は薔薇色で、英国製の銅のレールから垂れ下がる青いカーテンは「大時代がかったドレープ」をつくり、その中央には黒っぽい大きなテーブルが置かれている。その上にセヌセは辞書を開いたままにしたり、何冊もの本を積み重ね、色とりどりの吸取紙や色鉛筆を並べている。しかも、それをでたらめに散らかしているのではなく、入念に演出していた……。彼は話者のシュノーニュに向かってこう言う。
「儀式にほんの小さな傷が入っただけで、星が落ちてくる」。そこで私が、そもそもきみの生きている世界は確固としたものではなさそうだね、と指摘すると、「人間は宇宙ほど確固としたものではない」と答えた。そして、しどろもどろになってこう言った。「文明は人間ほど確固としたものではない。ぼくの人生は小さな文明さ。そして文明は脆いものなんだ」
ここで私たちは、マニエリスムが「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であるというハウザーの定義に「脆さ」の要素を付け加えてもよいかもしれない。
バルドゥンク・グリーンはデューラー、クラーナハなどと並んで16世紀ドイツを代表する画家とされるが、ここでキニャールがこの画家を持ち出しているのは、たんに登場人物の外形描写を補強するためだけでなく、バルドゥンクがシュヴァーベン地方の出身であり、そこが主人公のシュノーニュの故郷であることも関係している。事実、この作品にはシュヴァーベン地方やアルザス・ロレーヌ地方、すなわち独仏国境沿いの地方に関係した作家・画家がおびただしく登場する。その端的な例は、小説の冒頭に引用されているグリンメルスハウゼンであり、本文中に何度も登場するヴィーラントであり、ヴュルテンベルクで活躍したフランスの二人の建築家フィリップ・ド・ラ・ゲピエールおよびニコラ・ド・ピガージュであり、エミール・ガレのガラス器である。キニャールの父方の家系はアルザス地方の出身であり、ドイツとフランスにはキニャールという名のオルガン奏者が百人以上存在するという(註11)。彼はその「存在証明」をしたかったのかもしれないと語っているが、おそらくその「存在証明」とはフランスとドイツという近代国家成立の過程で分裂した自我の存在証明でもあっただろう。それは古文書研究家のセヌセと音楽家の主人公シュノーニュという、明らかに作者自身を投影させた二人の分身の描き方に端的に表れている。(つづく)
註
(9)クリストファー・ヒバート『ローマ——ある都市の伝記」(横山徳爾訳、朝日選書)
(10)Le Monde des livres, le 3 août 1986.
(11)前出『中央公論文芸特集』