*25 『幸福はどこにある』再版に際して

 

翻訳業に手を染めるようになってから30年ほどの時間がたってしまいましたが、再版の声がかかる機会はそう多くありません。フランス文学にかぎっていえば、名著、名作の誉れは高いのに絶版になったままの翻訳書は星の数ほどあります。

そういう逆風(?)のなかで、今回この作品が再版されることになったのは快挙であります。この快挙を仕掛けたのは、ほかならぬ伽鹿舎を主宰する加地葉さんです。

そもそも熊本の地に、九州限定配本を旨とする伽鹿舎という出版社を立ち上げ、「片隅」という文芸誌の発刊にこぎつけたこと自体が、奇跡とまでは言わないものの、やはり快挙と申し上げるべきでしょう。

地方創成、地方の自立が叫ばれる昨今ですが、これが中央からの声に呼応しているだけなら、なんの意味もないどころか、本意に悖ることにもなります。もとより政治のムーブメントなど儚いものです。一介の翻訳者であるわたしに、もし誇りうるところがあるとすれば、信頼すべきものは個人の力であると頑なに信じ、どこにも属さず、ひとりで翻訳と向かい合ってきたところだけです。

その点、加地葉さんはさすが火の国の女、その突進力たるや、まさに天晴れ。ひとりで前に突き進もうとする若い女性がどんどん登場してくれば日本の未来は明るい!

こういう生きのいい出版社から刊行される最初の単行本として、拙訳書が選ばれたことは、翻訳者冥利につきます。

わたしはかねてから、書籍は編集者の作品であると思ってきました。書き手の作品は原稿用紙まで、せいぜい初校のゲラまで、あとは編集者におまかせする。だから、タイトルにも装幀にも口を出したことはありません。そして本はみごとなできばえとなりました。田中千智さんの作品を掲げた表紙も、本文のレイアウトもすばらしい。

今回、著者のフランソワ・ルロールさんは、再版への序文を寄せてくださいました。これもまた加地葉さんが仕掛けた「快挙」のひとつです。この序文を読めば、著者が本書にこめた思いがよくわかるでしょう。

幸福とは何か? それはフランス文学の主題そのものです。むしろ人生の主題そのものと言ったほうがいいかもしれない。モンテーニュ、デカルト、パスカル、スタンダール、ミシュレ、バシュラール、アラン、カミュ、メルロ=ポンティ、わたしの愛読してきた作家たちは例外なく、そして晩年になればなるほど、この「幸福」という謎に直面し、実人生と書くことの双方でそれを追い求めた人たちでした。翻訳家としてのわたしのライフワークとなったパスカル・キニャールもそうです。フランソワ・ルロールがこの系譜に連なる作家であることはまちがいありません。ただし、こんなに平易なフランス語で書いた人はいません。そして、平易なフランス語ほど翻訳はむずかしい。なぜなら、原文から立ちのぼる幸福の気配をとらえなければならないからです。

フランス語にはBon vivant(ボン・ヴィヴァン)という言葉があります。辞書を引けば、楽天家、享楽主義者、美食家などという訳語が並んでいます。でも、どれも少しずれている。要は人生を愛する人、人生を楽しむ人ということなのですが、みなさん、もうおわかりでしょう、これがじつにむずかしい。あとは本書をお読みください。

最後に北の果てなる凍土の国から火の国のみなさんへエールを送ります。

2015年師走

 

*熊本に本拠を置く出版社「伽鹿舎」から拙訳書が再刊されるにあたって、熊本市のカフェ「Cafe ファンタイム」で20115年12月27日に催される発売記念会に寄せて書いた挨拶文。

*24 ライオン

ライオンの夢を見たのである。
 筋のようなものは何もない。ただふつうに寝ていたら、ソファの上にライオンが寝ていたのである。
 私はいつも床に布団を敷いて寝ている。ベッドのかわりに小ぶりのソファが置いてあって、そこはいつも猫に占領されている。
 その猫がライオンになっていたのである。ライオンであるから、途方もなくでかい。ミニチュアのライオンでも、仔ライオンでもなく、あの百獣の王、鬣ふさふさの立派な雄ライオンがソファの上で寝ていたのである。
 こんなふうに書くと、首を傾げる人もいるだろう。あんなに大きな動物がソファに収まるはずないではないか? へたをすると寝室をふさいでしまうのでは、と。
 たしかに。しかし、巨大だった。巨大なまま、小さめのソファの上に居すわっていた。
 もちろん、どう考えたって遠近法が狂っているのだ。夢だから仕方がないじゃないか・・・・・・。それでは身も蓋もない。この拙文はここで終わってしまう。
 そもそもどうしてこんな夢を見てしまったのか?
 どこの猫もそうだろうが、夏であれば家のなかでいちばん涼しいところ、冬であればいちばん暖かいところに居すわって動こうとしないことがある。よくもそんなに寝ていられるものだと思うほど、ぐっすりひたすら、ときには半日ほどもずっと寝ていることさえある。こんなに安らかに眠られると、起こすのが忍びなくなる。そんなふうに遠慮しているうちに、主人の寝室のソファが飼い猫のベッドと化してしまったのだ。主人のほうが遠慮して端のほうにちょこんと腰かけ、テレビを見ている。猫を追い出し、堂々と足を投げ出して横になればいいじゃないかと不思議がる人は、猫を飼ったことのない人である。
 そういう遠慮が積もり積もって膨れあがり、ライオンになった、と考えてみたらどうだろう。つまり遠慮の塊がライオンの姿になったと考えるのである。少なくとも猫派の人なら賛同していただけるのではないだろうか。
 では次に遠近法の狂いについてはどうか? 夢のなかでは、なぜソファの上で横になっているライオンが原寸大に見えたのか? ここで重大な(?)問題が生じる。なぜならば、私は今現在、夢を見ているのではなく、一ヵ月ほど前に見た夢を思い出しているからである。こんなこと書いたって文章にならんのじゃないかと思って放置していたのだが、じつは内心ずっと気になっていたのだろう。ブログのアドレスを新しくした(keitakahashi-tr.com)記念に(?)何か書こうと気張ったところ、ライオンの夢を思い出したのである。
 さて、この夢の記憶は正しいか? そもそも記憶に正しいとか、正しくないとか、そういうことがありうるだろうか。たしかに記憶違いというのはある。林檎を五個もらったのに、三個だと記憶しているような場合。しかし、夢は自分の心のなか、あるいは頭のなか、あるいは意識のなかで視覚のかたちをとって体験する事柄である。その夢自体——人生と同じく、見るそばから消えていくのだから——検証不可能である以上、その記憶もまた検証不可能であると言わざるをえない。検証とは第三者を介在させることである。夢のなかにも、記憶のなかにも第三者は存在しない。
 とまあ、この問題を追及していくと、まるで観念論哲学の論証みたいになって延々と終わらない。
 でまあ、現象学の判断停止ではないけれど、とりあえずこの問題は棚上げにして(括弧でくくって)、ここでは一ヵ月前に見た夢が記憶のなかで正しく保存されていると仮定して、話を進めよう。
 まずは見た夢をできるだけ正確に再現してみる。それほど難しいことではない。こんなに単純な夢はないと言えるほど単純なのだから。
 私は床に布団を敷いて寝ていた。ふと目が覚めて、布団に平行しているソファを見上げると、なんとライオンの巨大な顔がそこにあるではないか。猫と同じく前足の上に下顎を乗せて寝ているのである。うわー、やばい、こんなものを起こしてしまったら、ひとたまりもない。さっさと目を覚まして、夢から逃げ出さないと食われて死んでしまうぞ! というわけで本当に目が覚めたのである。もちろん、目が覚めればライオンなどいない。わが家の猫が、常夜灯の薄暗い明かりのなか、同じポーズですやすや寝ているだけである。
 自分の寝室にライオンが出現することなどありえないから、夢を見ながら夢を見ていることを私は知っていた。よくあることだ。還暦を過ぎるまで生きてくれば、悪夢に襲われ、そこから逃れられずに足掻くなどということはまずない。悪夢は今でも見るけれど、怖くなったら目が覚める。目を覚ませと、自分で号令をかける。
 夢のなかのライオンが実物大として記憶されているのは、おそらく、夢のなかで見上げたライオンの顔があまりに巨大で、あまりにリアルで恐ろしかったからなのだろう。
 猫に対する遠慮の塊がライオンに変身した、という理屈づけは、それなりに説得力というか、面白みはあるが、本当はそれよりもっと切迫した何かがあって、それがライオンの姿になったのかもしれない。
 たとえば、先月の半ば、私が翻訳した『エディに別れを告げて』の作者エドゥアール・ルイが来日し、対談やらトークショーの司会をやらされるはめになった。こんなことはぶっつけ本番でできることではない。作家本人や対談相手に何度もメールを書いて、段取りする必要があった。慣れないことをやるストレスやらプレッシャーは、慣れていないゆえにどう対処していいかわからない。その大きなストレスがライオンの形になった、とか。
 ま、それにも一理あるだろう。
 でも、ひょっとして、わが家の猫がソファでライオンになった夢を見て、その脳波が私のレム睡眠の脳波と混線したと考えたらどうだろう。
 荒唐無稽か? でも、人の心のなかには荒唐無稽を愛する部分があって、そこではもったいぶった理路は排斥されてしまうのだ。
 そう、『荘子』に出てくる胡蝶の夢、これを思い出すと、いつもうっとりしてしまう。
 むかし、荘周、夢に胡蝶となる。楽しく飛び回る蝶となり、自分が荘周であるとは思わなかった。しかし、ふと目が覚めれば、まぎれもなく荘周その人がいるだけである。いったい荘周が蝶になった夢を見たのだろうか、それとも蝶が今、荘周になった夢を見ているのだろうか。