*30 熊本の感興

前回、タイトルを魏志倭人伝にするか、熊本の感興にするか迷ったあげく、どっちでも同じことだとやけっぱちで(?)書きはじめたら、あんなことになってしまったが、タイトルが違えばおのずから内容も違ってくるのは当たり前のことだ。今回は前回のフォローというのか、前回が表なら今回が裏(逆も真なり)というようなものを書いてみよう。もちろんタイトルは「熊本の感興」、ポール・ヴァレリーの「地中海の感興」をもじって。詩人はこの名エッセイのなかで、自分の生まれた小さな港町(セート)について「生まれるならばそういう場所で生まれたいと思っている場所で私は生まれた」(吉田建一訳)と、万感の思いを込めて語っているが、本人はこの故郷についに帰ることはなかった。遺体だけが望み通りに帰郷をはたし、「海辺の墓地」という名の墓地に眠っている。三年前の初夏、アルルで翻訳講師をつとめるついでに、その墓を訪れることができた。

それはともかく、前回は何を書こうか迷ったあげくに「魏志倭人伝」という古い史書の海に沈んでしまった。なぜ迷い、混乱しているかといえば、熊本(そして、博多、日田)にいるときも、帰ってきてからも、自分はどうしてここにいるのか、どうしてあそこにいたのかと考え続けているからだ。いや、考えているのではなく、茫然としているといったほうがいい。

思えばいつもそうだったような気がする。生まれ育った場所(帯広)を去って東京に出たときも、アルジェリアに出稼ぎにいったときも、パスカル・キニャールに会いにパリに出かけていったときも、自分で決断して飛び出していったにもかかわらず、ふと興奮の醒める一瞬があって、「おいおい、ここはどこだよ」とか、「ついにここまで来たか」とか、そういう言葉が頭をよぎるのだ。

たぶん、切りがないのだ。さすがにこの歳になればわかってくる、自分という逃れられないものから逃れようとしているだけだということが。お釈迦様の手のひらの上を飛び回る孫悟空みたいに。

でも、今回は少し違う。自分で決断したわけではないから。伽鹿舎の加地葉さんがいなければ、こんなことにはならなかった。最初の出会いは東京だった。三年前(2013年の10月)にパスカル・キニャールの国際学会が開かれたときに、彼女は観客席の最前列に並んでいた。同じく伽鹿舎の木間新さん、そして「片隅」の執筆者のひとり、磯崎愛さんと一緒に。

磯崎さんは以前から私の訳したパスカル・キニャールの本を読んでくれている奇特な(?)読者のひとりだった(お会いしたのはやはりこの学会が初めて)。「翻訳物でいいのないかな?」と加地さんに尋ねられて、キニャールの名を挙げたのだという。そして、三人揃って学会にまで足を運んでくれた。でも、そのときは休憩時間にほんのわずか言葉を交わしただけだった。

翻訳家という職業は、作家や作品あっての黒子のような仕事だから、いわゆる「ファン」などという存在には縁遠いものだと思っていた。べつにこんな面映ゆい言葉を使う必要はないが(「ファン」という言葉を使ったのは私ではなく、彼女たちであるので念のため)、日常的には原文テキストと向かい合い、翻訳原稿が上がれば編集者と向かい合い、そして本ができあがり、書評が雑誌や新聞に載ったり載らなかったり、重版が決まりましたよという連絡があったりなかったり、そうこうしているうちにその本は過去のものとなり、すでに気持ちは次の本のなかにのめり込んでいる。その間、ことさら読者を意識したことはない。

翻訳者が黒子であるなら、黒子には観客である読者の顔は見えないのである。

それが忽然と目の前に現れた。とても新鮮な体験だった。

それからしばらくして、加地葉さんからメールが来た。自分も出版社を立ち上げようと思っていると書かれていた。そこには、津田新吾の名前もあった。若くしてこの世を去った青土社の名編集者、キニャールの本を精力的に出してくれた、わたしのもっとも敬愛する友でもあった。彼は死の直前、「本の島」という構想を抱き、個人出版社を立ち上げようとしていたのである。「津田新吾の名前を名前を見て、無視するわけにはいきません」というような返事を書いた。

そしてまた東京の銀座でふたたび三人で再会した。そのときはしかし、もうこの歳だから新しい出版社や編集者と一からお付き合いする余裕はないんですよ、とか言ったらしい(自分では忘れてしまったが、加地さんが覚えていた)。ふつうはそこで関係は途絶えるものだ。

ところが途絶えなかった。NHK出版から仕事の依頼が来て、それ自体は忙しくて断ったのだが、かつてここから出した『幸福はどこにある』が映画化されて日本でも封切られる、NHKでは再版できないので、どこかやってくれるところはないだろうか、と当時担当だった猪狩暢子さんが言うのである。

おう、それならば駄目もと(?)で加地葉さんに当たってみようと思った。タイミングがよかった。映画の公開には間に合わないが、DVD、BDの発売になら合わせられる。という具合にトントン拍子で事が運んでいったのである。

そのあとのことは説明不要だろう。

だから茫然としているのである。偶然が重なりすぎている。仕掛け人の加地葉本人でさえ「熊本まで来てくれるとは思わなかった」と言っているほどだ。彼女にとっても「駄目もと」だったのだ。

さて、その熊本のことだが、何か書こうにも、ほとんど素通りしただけだから、じつは何も書けないのである。しかし、今回の企画に協力してくださった方々の熱意、熊本の「電気館」、博多の「ブックス・キューブリック」、日田の映画館「リベルテ」でのトークショーに来ていただいた読者の方々の熱心な姿勢には心打たれた。

こうして徐々に「読者」という抽象的な集合名詞は個々の顔になって具体的なものになってくる。

こんな人生は想定していなかった。翻訳だって、最初は日銭を稼ぐ手段でしかなかったのだから。

だが、ここまで書いて、思い出すことがある。思い出すと胸が詰まり、顔から炎が噴き出す。

もう二十年以上も前のことだ。パリのガリマールのオフィスで初めてパスカル・キニャールと会ったとき、感極まって口走った言葉。「翻訳は自分に人生を与えてくれるだろう!」(La traduction me donnera ma vie!)

別の機会には(東京でのこと)、キニャールがあの大きな目を見ひらいて言った。「おまえは何か書かないのか?」たじたじとして切羽詰まった翻訳者の答え。「あなたのせいで書けなくなった」

よくもまあ、こんな生意気なことが言えたものだ。刺し殺してやろうか。

こうなったら、伽鹿舎からキニャールの本を出していくしかないではないか。そうすれば、いやでも(?)熊本に何度でも足を運ばなければならなくなるだろう。お邪魔でなければ。

宿命とは何かという問いは愚問だ。それは神の所在を尋ねるのに等しいから。

*29 魏志倭人伝

魏志倭人伝、熊本の感興、

どっちのタイトルで書き出そうか迷ったが、結局同じことだと思い、あまり気張らずにだらだら書くことにしよう。

しかし、内心は穏やかでない。還暦の年にフランスは南仏のアルルに呼ばれ、こんなことはもうないのだろうなと思っていたら、その三年後、春先に熊本に呼ばれ、秋にはまたアルルに行くことになった。

熊本にも、九州にも、きっとまた訪れることになるだろう。ただの予感として言うのでもないし、宿命と言うほど重くもない。そのあたりの微妙なところは書いてみないと、自分でも何を感じているかわからない。

 

魏志倭人伝を読み返しているのである。岩波文庫の「中国正史日本伝(1)」という副題のつけられた巻に収められている(石原道博編訳)。奥付を見ると、一九五一年第一刷、一九八五年第四十三刷新改訂版、一九八八年第四十八刷とある。いつ、なぜこの本を買って読もうとしたのか、もう思い出すことはできない。ただ、次の一節だけは鮮やかに記憶に残っている。

 

男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣〔いた〕るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身しまた以て大魚・水禽を厭〔はら〕う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。

 

刺青をした男たちが素潜りで魚介をとっている。最初は鮫や海蛇の害を避けるための刺青であったが、後に飾りになったと記し、遠い夏の時代、長江の下流一帯の会稽に封じられた小康の子(無余)が断髪入墨し、水害を避けたという伝説が紹介されている。

夏という神話時代の伝説を思い出すくらいだから、千数百年前の魏の国の記者(陳寿)は、刺青をした漁をする男たちの姿によほど強い印象を覚えたのだろう。不思議なのは、この一節を、倭の国は(海を挟んで)ちょうどこの会稽の東冶(現在の福建省)の東にあたる、と結んでいることだ。

魏志倭人伝はのっけから倭の国の位置を詳しく説明するところから始まっている。朝鮮半島の帯方郡を発って、対馬、壱岐に渡り、末魯国(肥前松浦郡、今の名護屋か唐津)に上陸し、伊都国(糸島郡)、奴国(博多付近)、不弥国(?)、投馬国(?)、そして邪馬台国へと至る道のりを、方角と距離を添えてかなり詳細に記そうとしている。だが、この「詳細」さが徒になって、われわれ日本人に難題をふっかけることになる。邪馬台国はどこにあったのか? 不弥国あたりから畿内大和説と九州説とに分かれて、いまだに決着がついていないようだ。

それも無理はない。倭人伝に記された妙に細かい地理の記述を読んでいると目眩がしてきて、これを書いた魏の国の記者は方向音痴だったのではないかと思えてくるほどだ。その一方で「(倭の国までの)道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし」と、あきれるほど大雑把に書かれている。これでは読者は戸惑うしかない。

つまり、この記者は実際に倭の国を訪れ、みずから調査して書いているわけでなく、又聞きで——伝聞をかき集めて——邪馬台国までの道のりを記し、「会稽の東冶の東」のところでは自らの感慨を述べているということなのだろう。

だが、重要なのはそんなことではない。この記者が倭の国の風俗、とりわけ鮮やかな刺青の美しさに触れて、中国の神話時代の記憶を新たにしているということだ。この刺青に驚いたのは古代の中国人ばかりではなく、大航海時代の西洋人もまた南太平洋諸島に住む民の浅黒い肌に彫り込まれたみごとな刺青に驚嘆し、おびただしい細密画を残している。

そしてなによりも、四方を海に囲まれた列島に住む日本人が、かつて——農業の民であるよりも前には——もっぱら漁労採集生活を営んでいたことを、この倭人伝の一節は鮮やかにわれわれ自身に思い出させてくれる。

邪馬台国の位置に関する論争は、魏志倭人伝の解釈をめぐる論争のように見えて、じつは日本という国の起源に関する論争なのだ。かつてわたしは次のように書いた。

 

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに敗れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族がゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパにとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽(ノスタルジー)はその亀裂から溢れだす。(パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』解説、青土社、1997年)

 

九州もしくは九州北部の地は、かつて「海の道」と「絹の道」の交点に位置していた。「海の道」は命の道であり、「絹の道」は文明の道だ。われわれもまた文明・文化の起源としての大陸・半島世界と、みずからの存在の根源としての環太平洋世界に切り裂かれている。柳田国男が三河の半島の岸辺に流れ着いた椰子の実から直感したものは、そのことであっただろう。

白川静は『中国の神話』を次のように書き出している。

 

わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを意味していよう。神話はいうまでもなく、その民族と文化の成立する過程において生まれ、その発展の段階に応じて展開し、何らかの統一的意志によって体系づけられるものである。はじめから統一的な民族、統一的な文化というものはなかった。統一はその最終的な段階において、ある求心的な目的に対して、その神話的表象を通じて成就されるのである。わが国の場合、それは国家成立の段階においてなされて。わが国の神話に、国家神話としての政治的性格が著しいのはそのためである。

 

これに続けて、日本の神話は「時間的な結びつきで成立する組織様態」(a)に特徴があり、ギリシア、ゲルマン、ケルトなどの西欧諸族の神話では「横様に結びつく組織様態」(b)、すなわち同時現象的なものを特徴としていると述べている。とくにギリシアの神話にはわが国の神話のような求心的な複合の関係がない、と。中国の神話はこのどちらにも属せず、「それぞれ孤立的、非体系的な群」をなす第三の神話様態(c)を特徴としている。中国はときに「神話なき国」と呼ばれたりすることがあるが、神話がないように見えるのは、このCの神話様態もまた複雑な構造と時間を内に秘めているからだ。もう少し引用を続けてみよう。

 

殷にかわった周は、もと西方の国である。それは古く、夏といわれる地であった。中国の古代文化は、東方の夷と西方の夏の対立としてとらえることができる。周が都を東の洛陽に遷した春秋期以後には、秦がその地を占めた。この周、秦は、西域とすでに交通をもっていたと思われる。西域の遊牧者、あるいは騎馬族によって、遠い西方の文化が次第にもたらされていた。東アジアの文化が不断に東海のわが国に波及していたように、その文化は草原と沙漠を越えて、中国に影響を与えた。こうして西方に対する神秘な想念が、やがて世王母説話を発展させた。神々の世界が、世王母の住むという崑崙を中心に展開される。古い山岳信仰を伝えるとされる『山海経』の神話は、この崑崙に集中されている。殷の神話がa的であるとすると、それはb的な平面的、同時的な世界である。

 

だが、強固な文字文化(漢字)を基礎とする中華の伝統はa的な世界にも、b的な世界にも自らを定めることはできなかった。殷の太陽神伝説も、夏の洪水神話も、たんなる古い帝王の説話として経典の形に取りこまれていく。「(C類型の)神話はこうして、経書のなかに隠されるのである」と白川静は言う。

少し遠回りしすぎているようだが、ようするに、どんな文明、どんな文化も一筋縄で語られるべきものではないということが言いたいだけだ。文明や文化、あるいは国に一つの起源だけを求めようとすることは、どんなに理と論を尽くそうと、それは短絡でしかなく、ある偏ったイデオロギーを粉飾しているにすぎない。

魏志倭人伝の世界に戻ろう。

 

その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。

 

「その南」というのは、邪馬台国の南という意味である。岩波文庫の編訳者橋本道博氏は、この狗奴国をクナ(国)と読み、「熊襲であろう」と比定し、クマソは球磨(Kuma)と阿蘇(Aso)のつづまったものだと自説を註で述べている。そして狗古智卑狗は菊池(久々智)彦のことではないかと推定している。たしかに、広大な阿蘇の西部には菊池という地名が今も残っている。もちろんこれは邪馬台国北九州説に拠らなければ成立しない論理である。

さて、問題はその北である。狗奴国の北は現在の佐賀、福岡にあたる。そこに二十一の国名が並んでいる。斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国と続き、「これ女王の境界の尽くるところなり」という記述で締めくくられる。こんな面妖な国名を羅列しても読みにくくなるだけだろうが、なんらかの呼び名を採用すること自体がその仮説に与することになるので、あえてそのままにしておく。

橋本説によれば、狗奴国=熊襲は「女王に属さない」ところで、その北は「女王に属する」ところということになる。

だが、「女王に属する」国々の名前をよく見ると、対蘇国とか、蘇奴国とか、華奴蘇奴国とか、「蘇」のつく国名が三つも含まれている。これはたんに和音に漢字を当てただけのことなのか?

ひょっとすると、阿蘇山の北側は「女王に属する」ところだったのではあるまいか? 「男子を王となす」国はもっと南に下がるのではあるまいか?

どうやら、卑弥呼と阿蘇を無理やりにでも近づけたくなったらしい。

阿蘇山を初めて見て、火を噴く雄々しい山という先入観は消し飛んだ。世王母のような地母神の住む豊穣の山とでも言おうか。阿蘇のカルデラが描き出す曲線は、富士の絶妙に均整のとれた線でも、アルプスの剣呑な稜線でもない。そこから草千里の広大な斜面がたおやかになだれおちていく。

よくもまあ、こんな土地と縁ができたものだと思う。熊本、博多、日田といえば、ちょうど邪馬台国とその境界あたりをうろうろしていたことになる。個人的には、頭のなかに畿内説が残る余地はまったくなくなった。

魏志倭人伝の読み方もすっかり変わってしまった。もはや史書ではなく、日本の起源について考えるための資料でもなく、空間的にも時間的にもはるか彼方の世界に思いをはせ、想像力の翼を羽ばたかせてくれる書物となった。

こんな機会を与えてくれた伽鹿舎のスタッフと、歓迎してくれた各地の人々に深く感謝したい。

今度熊本に行ったら、ぜひ有明と不知火の海を見てみたい。