*34 地中海の光、熊本の雨。

机の上に一枚の名刺を置き、コンピュータの画面にグーグルマップを立ち上げ、検索欄に住所を入力する。熊本市中央区上林町・・・・・・。すると画面は北海道の現在位置から熊本市の繁華街のど真ん中へ、一瞬にして切り替わる。

通町、上通、並木坂。こういった地名がいまだに頭のなかで整理ができていないのである。通町という地名に通町筋という通りの名前(余所者にはとても紛らわしい)、上通は「かみどおり」と発音するのか、それとも「かみとおり」だったか・・・・・・。

ようするに熊本のみなさんに案内されるがままに歩いていたので、何にも頭に入っていないのである。とはいえ、二回も行ったのであるから、もう少し覚えていてもいいのにと、自分の方向音痴と齢を恨みながら、目の前の地図を覗きこんでいる。

え、上通のアーケードをずっと歩いていくと並木坂に通じるんだったっけ? こんなことでは、伽鹿舎の加地さんや天野屋さんに笑われるだろうなと思いながら書いているのである。

北海道の帯広市に生まれ、東京に出て四十年暮らし、そして生まれ育った町に帰ってきた。それなりの覚悟だとか、断念だとか、そういうものはあった(と思う)。しかし、そんな独りよがりの思い込みは人生をどこにも導いてくれないということが、しだいに骨身に染みてわかってきた。人生は他人が関与して初めて成り立つ、そんな当たり前のことに気づいたとき、年齢はすでに還暦と呼ばれる年をこえていた。

 

郷里に帰って四年たったある日の夕方、晩ご飯の支度をしていると電話が鳴った。くそ、こんな時間に何の用だと思いながら受話器を取ると、フランス人だった。アルルの翻訳学校のディレクターだとか言ってる。ああ、昨日だか、一昨日だかにメールしてきた人か。ごちゃごちゃ書いてあったから、あとでゆっくり返事を書こうと思っていたのだ。そもそも料理している真っ最中に面倒なことをフランス語でしゃべられても困る。
「あのね、今、夕食の支度をしているところなんですよ。メールはたしかに受け取ってます。今日中に返事を書きますから」と言って電話を切った。メールの返事を待ちきれずに電話してくるなんて、よっぽど切羽詰まっているんだろう。しかし、いったい誰から電話番号きいたんだ?

いきなりフランスから(あるいはフランス人から)電話がかかってくるなんて、東京で暮らしていたときだって、年に一度あるかないかだったから、狐につままれたような、みょうな気分だった。

いずれにせよ、様々な縁と偶然が重なって、二〇一三年の六月、南仏のアルルにあるCITL(国際文芸翻訳学院)という機関で、翻訳家志望のフランス人三名、日本人三名を相手にマンツーマンで実践的な翻訳スキルを叩きこむワークショップに参加することになったのである。

じつにわくわくする体験だった。フランス人の翻訳家と日本人の翻訳家がペアを組んで、受講生の質問にフランス語と日本語の双方の角度から答え、翻訳の精度を高め、文の味わいを深めていくという野心的な企画なのである。

わくわくしたのは仕事の中身だけではなかった。南フランスの土地を訪れること自体初めての体験だったから。職業柄、パリには何度も足を運んだ。しかし、それ以外の土地を訪れたことはほとんどなかった。せめて南仏だけでもと思いつづけていたのだが、向こうに知り合いがいるわけでもなかったし、時間的・経済的なこともあって、いつも二の足を踏んでいたのである。

じつは地中海も、その沿岸の風景も知らないわけではなかった。フランス側ではなく、地中海を挟んでその対岸のアルジェリアに、合わせて一年半暮らしていたことがあるのだ。二十代の終わりに一念発起して、現場通訳として彼の地に出稼ぎに行ったのである。「出稼ぎ」というのは言葉の綾ではない。そのときすでに所帯を持っていて、幼い子が二人もいたので、なんとしてでも稼がなければならなかった(だったらおとなしく日本でサラリーマンをやっていればよかったのだが、それはまた別の話だ)。

アルジェリアにいるあいだずっと水平線の彼方を見つめながら——これはけっして誇張ではない、海に面したリゾートホテルに寝泊まりしていたのだから——、帰りは必ずフェリーに乗って、マルセイユに行くぞと思っていた。ところが契約任期の一年が近づくと、一刻も早くパリに飛んで、さっさと東京に帰りたくなってしまった。ようするにホームシックにかかったのだ。家を出るとき、長女はまだ二歳、次女は乳飲み子だった。なんて極道者のオヤジだ。ホームシックだけでなく、罪悪感まで感じてしまったわけだ。

ところがいざ日本に帰ってくると、あのときなんでフェリーに乗らなかったのかと後悔の念が湧いてきた。で、またアルジェリアに渡ったが、帰る段になると、また南仏を飛び越えて帰ってきてしまう・・・・・・。

そうこうするうちに三十年の月日が経った(文は便利な道具だ。一年であれ、一万年であれ、そう書くだけでどんな時間でも飛び越えることができる)。

念願かなって、ようやく南仏の地をこの足で踏みしめることができるのだ。今度こそとばかりに、滞在先のアルルを拠点に、週末になればバスに乗り、列車に乗り、ポール・ヴァレリーとジョルジュ・ブラッサンスの故郷、セートにある「海辺の墓地」を訪れ、エクス(アン=プロヴァンス)ではセザンヌのサント=ヴィクトワール山に登り、その帰りがけにはマルセイユに寄って、港に落ちる夕陽を見ながら、スープ・ド・ポワソン(水で戻した干鱈のすり身のスープ、地中海の庶民料理の定番)を食べた。黄金の光にけむるこの港のはるか先には、このスープを初めて口にしたアルジェリアがある。人生が円環した、と思えた一瞬だった。

たぶん、二〇一三年という年は、生涯にまたとない特別な年であったのだろう。その年の秋の一〇月には、東京の日仏会館でパスカル・キニャールの文学を論じあう国際シンポジウムが開かれた。企画したのは筑波大学の先生、論者のほとんどは日本に住むフランス人の大学の先生、そんななかに一介の翻訳者も招かれたのである。プレゼンテーションのテーマはどうするか、いろいろ考えたが、最終的には自分の翻訳を読み上げることにした。なぜなら自分は学者でも研究者でも大学人でもなく、まさしく翻訳者として生きてきたのだから。

でも、ただ朗読するんじゃおもしろくない。せっかく原著者がそこにいるのだ。原文と訳文をサンドイッチにするようにして、原作者が原文を読み、次に同じ箇所の訳文を翻訳者が読み、そしてまた原作者が次を読み、その後を追いかけるようにして翻訳者が日本語を読み上げる・・・・・・。こういうパフォーマンスはどうだろう。いわく原文と訳文の朗読によるフーガ、現代のバロック作家パスカル・キニャールにふさわしいじゃないか!

自分で言うのもなんだが、このパフォーマンスは予想外の成功をおさめた。原文を読むキニャールも訳文を読む自分も読みながら感極まってしまった。終わると拍手喝采がすごかった。ああ、翻訳をやっててよかった・・・・・・。

こんなことを思い出しているのは、しかし、手前味噌に舌鼓を打とうというのではない。このシンポジウムの観客席の最前列には、どう見ても大学関係者ではなさそうな観客が三人陣取っていたのである。

じつはそのうちのひとりが、伽鹿舎を主宰する加地葉その人だったのである。だが、その日は休憩時間に少し挨拶を交わしただけで、記憶にさえ残らなかった。

その年の興奮は次の年の二〇一四年にも引き継がれた。というのも、明けて一四年の三月には「ツイッター文学賞」なる賞の海外翻訳部門で一等賞、四月には「本屋大賞」の翻訳部門でも一等賞を頂戴したのである。このすべてが一年という時間のなかで集中的に起こった。

 

そして翌二〇一五年の二月、虚をつくメールが飛びこんできた。加地葉さんからだった。文芸と本で町おこしをするという活動をしているという。このメールで初めて、加地さんが熊本の人であることも知った。しかし、文芸で町おこしとは、なんという破天荒なことを考える人か。
「九州を本の島に」というキャッチフレーズを思いつき、ネットで検索してみたところ、津田新吾の「本の島」構想を知ったという。津田新吾とは元青土社の編集者で、いち早くパスカル・キニャールという作家の稀有な才能を見抜き、その著作をずっと出し続けてくれた我が盟友にして恩人である。メールにはこう記されていた。

 

キニャールの本を始め、青土社で発行されてきた美しく素晴らしい本たちが、津田さんの情熱の元に生まれたことを今頃になって知った不明を恥じますとともに、こんなご縁もあるのだなと驚き、つい高橋先生にお便りをさしあげました。(・・・・・・)いずれ、高橋先生にも執筆のお願いを差し上げたいと思っておりますし、青土社でもしもこのままキニャールの本が絶版ということであるのなら、再版させていただければとも夢見ておりますので、また改めてごあいさつに伺わせてください。

 

津田は二〇〇九年の七月にこの世を去った。自分より何歳か年下だったと思うが、正確な年齢はたずねたことがない。私が東京の住まいを整理して、故郷に帰ったのも二〇〇九年、三月のことだった。その半年後に彼は病で逝ってしまった。
加地さんにはこんな返事を書いた。

 

 おはようございます。
 たしかに唐突で、多少面食らっております。
 とはいえ、津田新吾の名前を見て、ご返事しないわけにはいきません。
 九州で、伽鹿舎という出版社を経営なさっているのですね。
 ときどき東京にお出になるのであれば、一度お会いしたいものです。

 

そして、また加地さんからメールが来て、こちらもたまたま六月の下旬に東京に出る用事ができたので、会うことになった。いろいろな提案があったが、自分はすでに北海道に引っ込んでしまったので、熊本に本拠を置く編集者とこれから新たに信頼関係を築いていくのは難しいのではないかと、あまり芳しくない言葉を返すしかなかった。

ところが、である。出張から帰ったら、NHK出版のIさんからメールが届いたのである。以前、NHK出版から出た『幸福はどこにある』が映画化されて、東京で上映中だという。Iさんとしては思い入れのある本なのだが、NHKでは再版の予定はないので、どこか再版してくれるところはないだろうか。心当たりがあるなら、協力は惜しまないとのこと。

そこで、本を加地さんに送った。こういうときの加地さんの行動力には目を瞠るものがある。仔細は省くが、その年の十二月には伽鹿舎から『幸福はどこにある』の新装版が出る運びになった。またもや狐につままれたような気分であった。

年が明けると、三月に熊本の老舗の映画館「電気館」で特別に「幸福はどこにある」の上映会を開いていただけることになった。トークショーもやる予定。都合はいかが?というメール。こうなったら乗るしかないではないか。このイベントはさらにふくらんで、福岡の個人書店「キューブリック」では店主の大井さんと、日田の映画館「リベルテ」では館主の原さんとも対談をすることになった。

そもそも九州自体、それまで行ったことがなかったのである。北海道に引っ込んでもう何年も経つのに、なんで今さら九州からお呼びがかかるのだろう? アルルからの電話のときもそう、キニャールの文学を論じる国際シンポジウムに招かれたときもそう、「ツイッター文学賞」「本屋大賞」を立てつづけに戴いたときもそう、本人はただ目を丸くしているだけ、何かのいたずらか、としか思えない。しかし、熊本のみなさんの心温まる歓待は、アルルに呼ばれたときと同じ感動を呼び起こすものだった。

ところが月が替わり、その感動も冷めやらぬ四月十四日の夜、九時のニュースを見ていたら、突如熊本の映像に切り替わった。居ても立ってもいられなくなり、スマホから加地さん宛にメールを打った。いまのところ、そう大きな被害は出ていないという。

この時点では、誰も事態の深刻さを把握できていなかった。

翌々日、四月十六日、またもや襲ってきた、もっと大きいやつが。またメールを打った。

 

不安な夜を迎えていることでしょう。どうか気持ちを強く持って、この難局を乗り越えられますよう。この無力な祈りをあなたが代表して受け取ってください。

 

返信はなかった。最悪の事態が脳裡をよぎって眠れなかった。知らせがないのは良い知らせ、と不安を宥めるしかなかった。

さらに月が替わって十日、大きな封書が届いた。「片隅」の二号が入っていた。加地さんの手紙も同封されていた。みなさん無事とのこと。

そのとき、行こうと思った。また熊本へ、である。

 

熊本城の石垣が崩れ落ちる映像をテレビで見ながら、五年前の東北大震災での、上空のヘリからの映像を思い出していた。沖合いからの巨大な波が沿岸を襲う。川を遡り、田畑を押し流し、家も樹木も、人も車も、町全体を根こそぎ掠っていく。

その町の名は閖上(ゆりあげ)、川の名は名取川、亡き妻が生まれ育った土地だった。妻の実家のあるその土地を、何度訪れたことだろう。初めて見る上空からの映像、だが、映し出されている小さな港町が閖上であり、津波が遡っていく川が名取川であることは、すぐにわかった。

巨大な津波の舌は、見る見るうちに沿岸一帯の土地を舐めていく。刻一刻と人家が破壊され、人が傷つき、命を落としているはずなのに、その映像はまるでアニメの一シーンのようにさえ見える。

震災からしばらくして、被災地となった閖上の地を踏んだ。この津波に呑まれてお義兄さんが帰らぬ人となっていた。町はまだ復興のめどが立たず、ただ漠とした土地が海に面しているだけ。かろうじて家の土台だけが残った実家の跡地まで案内された。ここが玄関、ここが勝手口・・・・・・。妻を二度失ったような気がした、とブログには書いた。しかし、本当にそうだったか。あまりに深い感情は、言葉の届かないところにある。地震がそうであるように、津波がそうであるように。

結局、五月の二十七日から三十日まで、また熊本を訪れることになった。今度はあくまでもお見舞いなのだから、できるだけ地味に(?)、地震で書庫がめちゃくちゃになったという天野屋さんのお手伝いでもできればと思っていた(もちろん、天野屋さんには柏原優一という立派な本名があるのだが、地震をきっかけにメールのやり取りをするようになり、いつのまにか屋号で呼ばせてもらうようになった。ここでもその習慣を踏襲させていただきますので、悪しからず)。

しかし、迎え入れるほうはそうもいかないのだろう。空港まで迎えに来た天野屋さんは「ついでだから」と言って、震源地である益城町を通るルートを選んでくれた。
益城町は、閖上と違って、すべてが破壊し尽くされているわけではなかった。ところどころ古い家屋が無残に押しつぶされている。いったいどうしてこんな壊れ方をするのだろう。

巨人が歩く、その足に踏まれた家だけがぺちゃんこになっている。活断層がずれて起こる直下型の地震であるから、まずは下から突き上げられ、そして叩きつけられる、そういうメカニズムだときいた。それにしても、この柱の折れ方はなんだ。生木が捻れ裂けるような。残骸の上に屋根だけ乗っかっている。あるいは一階だけ潰れている家。木造ゆえの傷の生々しさ。津波もなく、火災も発生しなかったがゆえの。

 

翌日は、熊本県立図書館の学芸員にして、伽鹿舎の創設メンバーのひとり青木さんにあちこち案内していただいた。青木さんは三月に電気館で催されたトークショーの際の司会役でもあったので、旧知の仲といった安心感があった。それに加えて、郷土史の専門家である。三月には、この次は熊本城をくまなくご案内しますという約束をもらって別れたのだが、こんなに早く再訪することになるとは思っていなかったし、テレビの映像で見た、あの無残な熊本城の姿を実際にこの目で見るのは忍びなかった。聞けば、青木さんも震災以来一度も訪れていない、とても見に来る勇気がなかった、と。

傘を差して少し前を歩いていく青木さんは、崩れ落ちた石垣を見上げながら、あー、あー、あーと声を上げていた。横に並ぶと、目には涙がにじんでいるようにも見えた。「片隅」にあれだけ情熱的に熊本城のリポートを書いている人である。満身創痍の城を見上げるその姿に、こちらもほだされた。

そこから水前寺公園に向かった。一時は干上がってしまった池の水が戻ってきていた。ぜひ食べてもらいたいものがあるということで、土産店の縁台で「望月」という銘菓をいただいた。ここは今も手作りでこの黄色い餡が特徴の饅頭を作り続けているが、店主が高齢で今年いっぱいでやめるとのこと。

その次は、一七〇年前に立てられた古民家に案内するという。じつは一七〇年前だったか、一七〇〇年代だったか、記憶があやふやなのである。説明をいい加減に聞いていたというわけではない。ふむふむとそのときはちゃんと聞いているはずなのだが、聞いているそばから抜けていく。なにしろ、青木さんの蘊蓄ときたら半端ではないのだ。受験勉強じゃあるまいし、全部覚えようとしたり、メモを取ったりしたら、せっかくのご案内がかえって苦しくなってしまう。というわけで、青木さんのご高説は音楽のように聞いていたのでありました。

古民家そのものは無事だったが、物置がぺちゃんこになっていた。住宅のほうからおかみさんが出てきて、どうやら青木さんとは親しいらしい。裏にみごとな肥後菖蒲の畑があって、希望する人にはその場で裁ちばさみで切り取ってわけてあげているという(たしか五百円?)。ありがたいことに、私には無料で菖蒲の花束をいただいたが、花屋だと一万円はするだろうとのこと。

それから、青木さんの勤め先の県立図書館の近くにある老舗の鰻屋さんで鰻重をいただいた。とても落ち着いた店で、むろん鰻もおいしく(東京のように蒸していないので香ばしい)、聞けば(もちろん青木さんに)、俳人の中村汀女との縁が深い店だとのこと(詳しい話はまた忘れてしまった、すいません)。

それから車はずいぶん遠くまで走った。田圃のあいだの道を走り、人家のあいだの細い道を通り抜け(ちょっと、ちょっと青木さん、いくらなんでも飛ばし過ぎじゃないですか、脇道から子供や猫が飛び出してきたら、どうするんですか・・・・・・)、たどり着いた先が、また古民家。今度は江戸時代ではなく、明治時代に建てられた農家。土間があり、竈があり、往時を忍ばせる大工道具だとか、農具だとかがまだぶらさがっている。

家主と青木さんが何やら話し込んでいる。どうやら被災した家屋に対する補償金の話らしい。古民家なので、一般の住宅とは条件が異なるようだ。ふむふむと聞くともなく聞いていると、青木さんがここの家主さんは、元日航のパイロットで生涯フライト時間の世界記録保持者なんですよ。え、なんでまた、そんな人がここに? 現在は横浜にお住まいだが、自分の地所の管理のためにときどき熊本に帰ってくるのだという。で、このフライト最長時間世界記録保持者の元パイロットさん、日本中をまわって、安全に飛行機の旅をする心構えを説く講演をしているのだという。飛行機の安全なんて、操縦士に任せるしかないんじゃないですか、と尋ねたのが正しかったのか、間違いだったのか、では、ご説明しましょうと、ボーイング7**のパネルまで奥から持ち出してきて、なんとその場で五分の即興講演をしてもらっちゃったのだ。話の肝は、座席に着いたらすぐに、非常口までの座席数を数えておくこと。こうしておけば、機内の視界が閉ざされてもあわてないですむという。なるほど・・・・・・。

無事、天野屋さんの店まで戻ってきて、今日回ったコースを青木さんが説明すると、天野屋さん、目を丸くして驚いていた。「え、そんなところまで行ったんですか、一日で?」

熊本は、ずっと雨だった。青木さんが案内してくれた日も、翌日加地さんが阿蘇の方面まで連れていってくれた日も。どちらの日も、お二人が迎えに来るまで、天野屋さんで待っていた。熊本市内にお住まいの方なら、並木通りの古本屋さんと言えば、だいたい見当がつくのではないだろうか。
「本が好きというより、古本屋という商売が好きなんでしょうね」

わかると思った。わかるというより、親近感を覚えた。逆を言うと、臆面もなく本が好きという人は敬遠したくなるのである。

私の場合、書くという商売が好きなのだろう。通りがいいから「翻訳家」を名乗っているが、どうもこの職業名は居心地が悪いというか着心地が悪いというか、むしろ、今は死語になりかけている売文業という言葉が好きである。

古本屋さんのなかには、時間が堆積している。この雰囲気は新刊書店にはないものだ。古本も商品には違いない。しかし、版元がつけた「定価」というものはもう意味がなくなっている。骨董屋に近いのかもしれない。

井伏鱒二の作に『珍品堂主人』というのがある。年は五十七歳、戦前には「ちゃんとした学校の先生」だったが、戦後、ふとしたきっかけで古美術の世界に目が開かれ、「爾来、骨董を取り扱う商売に転じた」という御仁を主人公にした小説である。
天野屋さんにはそういう風情がある。店主の柏原さんにも、店自体にも、である。三代続く古本屋さんなのだそうだ。

二代目のお父さんとは、店先でお会いした。天野屋さんが車を駐車場に置いて戻ってくるのを待っていると、老人がやってきて「あ、どうぞ、どうぞ、中にお入りください」と言いながら、すたすた店内に入っていった。それがお父さんだった。平積みの本の上に新聞をひろげて読んでいる。
「九十二です。ぼけちゃいましたが」

そうは見えなかった。新聞をひととおりめくり終えると、「では、ごゆっくり」とこちらに声をかけて、またすたすたと出ていった。外は雨、家にお帰りになるのだろうか、それとも傘をさして、ぶらぶら散歩なさるのだろうか。

それから二階に案内された。そこは文字どおり骨董品のフロアだった。書画を中心とした、曰くありげな品物たちが硝子戸のなかに眠っている。所狭しと言うにふさわしい。目を惹く墨蹟が一点あった。情けないことに、書家の名前も、書かれた文字がどういうものだったかも思い出せないのだが、以前は美術学校の生徒さんたちが、先生に言われて、毎年のようにこの作品を見学に来る習慣があったという。屏風に書かれていたような気もするし、衝立に書かれていたような気もする。いったい何を見ていたのか。お恥ずかしいかぎりだが、伸びやかで、気取らない墨痕の印象が残っているのは確かなのだ。

天野屋さんが、あ、と小さな声を上げた。「聞こえませんでしたか? 自転車の音・・・・・・」。こちらには聞こえなかったが、天野屋さんが小さなエレベーターに乗って、降りていくのでついていった。お客さんが来ていた。カウンター越しに二言三言ことばを交わすと、雨の中、傘も差さずに自転車は去っていった。
「弟です」

身の上話が少しあって、また本の話になった。
「若山牧水が好きなんですよ」

それを聞いて嬉しくなった。学生時代、牧水の歌集をジーパンのポケットにねじ込み、都電に乗って旧友の所まで飲みに出かけたりしていた。
「あの人、乞食みたいなもんですよね」

口は悪いが、親愛の情が滲んでいる。そう、自分の学生時代くらいまでは、牧水を受け入れ、その歌をくちずさんで放浪気分に浸る余裕のようなものが残っていた。でも、天野屋さんは私より年下のはずではないか。一回りまでは行かないにしても。

古本屋という仕事のせいだろうか、と思い、いやむしろ、この町のせいではないだろうか、と思い直した。熊本というよりも、上通りのアーケード、並木坂に並ぶ年期の入った店舗、そういう昔ながらの商店街に包まれて生活していることが、この天野屋さんの人柄を形成しているように思えた。

それは羨ましいことであった。

私には、町がない。もちろん、私の生まれた帯広は人口十万を超える町であり、私はそこに生活している。でも、愛着はないのである。いや、愛着のゆえに帰ってきたわけではなかった。

生まれ故郷に戻って、まっさきに訪れた場所は川であった。札内川——アイヌ語で、乾いた川。自分はそこで生まれたと思いたがっている節がある。セザンヌは生まれ故郷のエクスに帰ってきた。そして、父の残した資産を糧に絵を描きつづけた。絵の具をリュックに詰め、イーゼルとキャンバスと一緒に背負い、「モチーフ」を求めて彷徨い歩いた。そこに住む人々は、そういうセザンヌに石を投げつけた。
歴史を語りつづける青木さんには、こんなことを言った。
「僕はね、北海道に生まれたせいか、歴史のなかに自分の根拠を見つけようとするよりは、歴史というタマネギの皮を剥いていって、ついにそこには何もなかったと思いたがるところがあるんですよ」

すると、青木さんの目が少し輝いたような気がした。考え方は違う、でもわかる、とでも言いたげな目だった。

そういう意味では、天野屋さんは町の人だ。古書店という職業に育まれ、古い歴史の堆積した町の空気を吸ってきた人の、ちょっとやそっとでは揺るがぬ気概のようなものを持っている。それが彼の教養{カルチャー}の芯を形成しているのだろう。

そうこうしているうちに、ご婦人が傘を閉じ、水を切りながら入ってきた。奥さんであった。
「この度はご主人にいろいろとお世話いただきまして」と挨拶すると、
「あらあら、こちらこそよろしく申し上げます」とか丁重な言葉が返ってきた。
短い間に、入れ替わり立ち替わり現れる天野屋さんの家族と顔を合わせ、挨拶を交わしているうちに、店内に堆積した時間が流れ出していくような不思議な気持ちになった。

そうそう、お地蔵さんを忘れていた。店先にちょことんと立っているお地蔵さんのことである。前に店があった場所の裏手に立っていたのを運んできて、コンクリートで台座を作って倒れないようにしたんだそうな。で、最近は「ポケモンGO」のスポットになっているという。糖尿を抱えている天野屋さんは、毎日最低三十分は散歩する必要があって、店から城の坂路をめぐるコースを歩くのを日課にしている。でも、何か気晴らしがないと続かないので、最近はスマホでポケモンをゲットしながら歩いているんだそうだ。どうか交通事故に遭いませぬよう。

 

加地さんが今年の暮れあたりに、キニャールの本を新装版で再刊したいと言ってくれている。『幸福はどこにある』のときもそうだったが、フランス文学で、こんな再版企画はほとんど稀有、奇蹟に近い。だが、この場合の奇蹟は、加地さんが自分が最初のメールで書いた言葉を守ろうとしているというところにある。義侠心とでもいうべきものが加地葉にはある、と私は思っている。

天野屋さんは昨年暮れに、天草の樋島という小島の、元漁師が営む旅館で魚を食べたそうな。どうもそれが絶品らしい。「いつか伽鹿一派で行けたらいいと思います」と言っている。大賛成である。ついでにあの墨蹟も購入できたらいいのだが、それはキニャールの本の売れ行きしだい、加地さん、よろしく!

 

(九州限定の文芸誌「片隅」3号に掲載。発行は熊本を拠点とする出版社「伽鹿舎」。本稿は原稿なので、掲載されたものとは若干の異動がある)