*50 洪水のあと

札内川(ISO/400, F/8, 1/1300)

カメラをfuji film X100Tから、同じくX-T20に替えてみた。その最初の作例。

X100Tは単焦点のコンパクトデジカメとしてとても優れたカメラなのだが、最近このスタイリッシュで禁欲的な(?)カメラに疲れてしまった。単焦点なので写真の精度は高い。とはいえ、やっぱり融通が利かない。ズームがないので、寄ったり遠ざかったり、人間の足を使わなければならない。つまりカメラのほうに自分を合わせていく必要がある。これは写真を修行と考えるならば、きわめてストイックだし、そのこと自体が健気で粋だとも言える。

しかし、それが徐々に窮屈に感じられてきたのである。

帯広に帰ってきた当初、朝の散歩が退屈で寂しく感じらることがままあったので、犬でも飼おうかと思った。しかし、すでに猫を飼っているし、出張も多いから、それはむずかしい。ならば犬代わりにカメラをというわけで、地元の家電量販店(百万ボルト)で安売りしていたニコンのデジタル一眼を買ってきて、写真の出来栄えなど考えず、ほとんどオートでバチバチ写真を撮っていた。

そのうち写真に欲が出てきた。もう少し上手に撮れないかな、と。

で、長女の婿さん(カメラマン)に相談したら、最近富士フィルムが頑張ってますよ、とのこと。迷った末にX100Tを選んだ。小形で見た目がクラシック(レンジファインダー)で格好がいい。パンケーキ形の単焦点レンズというのも、かえって新鮮だった。

ところが二年ほどこのカメラを使ってきて、どうも自分には馴染めないものがある、という気分になってきた。つまり、趣味人にはなれないということ。道楽にどっぷりはまれない。写真でもいいし、料理でもいいし、音楽でもいい。この世には途方もない凝り性の人がいる。そういう人のことを玄人はだしと言ったりする(玄人が裸足で逃げ出すほどの素人という意味で、素人高下駄というのもあるらしい)。

どうも、そういうのが好きになれないらしい。道楽にはまることのできる人は、ようするに自分のことが好きな人なのだろう(必ずしもナルシストということではなくて)。

自分は、自分のことが好きになれないタイプであるという結論に達したのである。目が悪いとは思っていない。舌が鈍いとも思っていない。耳が悪いとも思っていない。でも、その目と舌と耳を持っている自分が好きになれない。

そんなわけで原点(?)に戻ることにしたのである。ズームで距離を測り、あまり考えずにオートでバチバチ撮る。犬代わりとしてのカメラ。

たぶんもうカメラを新たに買うことはないだろう。画素数は今後さらに増えつづけ、新たな発明や工夫も出てくるだろう。でも、もう十分である。切りがない。

ちなみに今使っているオーディオは四十年近い昔に製造されたアナログ全盛時代の機器である(プリメインアンプはラックスマン、スピーカーはB&W)。これにCDプレイヤーやパソコン+DACをつないで聴いているけれど、何の不都合もない(修理やアクセサリーにかけた費用はばかにならないけれど)。

思えば、結婚したときにあこがれのニコンの一眼レフを買った(露出はオートで、あとはすべてマニュアルだった)。娘たちが大きくなり、家族揃って外出する機会も少なくなり、仕事が忙しくなったせいもあって、カメラに触る機会も少なくなった。本棚の隅で眠っていたそのカメラに最初に興味を持ったのが、長女だった。自分の娘がやがて写真の道に進むことになるとは、その時点では想像だにしなかった。

趣味人にはなれない。道楽にはまることもできない。でも、仕事だけは生涯をかけて全うしたい。写真を選んだ長女、編集者になった次女に望むことも、やはりそういうことになるだろう。