
これは今朝、散歩の途中で足を止めて撮った写真(トリミングと補正あり)。何の変哲もない平凡な朝の光景ですが、じっと見つめているうちに、なんだかあやしい気持ちになってきた。あやしいとは、つまり美しいという意味です。さっきから、どうしてこれを美しいと感じるのだろう、そう感じるのは自分だけではないのか、と自問自答しているところです。そして、遠い昔に処分した油絵具と道具一式を買いに行きたいという衝動に駆られるのです。
枯れた葉を残したまま越冬した桜です。これからこの枯葉が落ちて、蕾が淡い桜色に染まり、ひとつふたつとほころびて花となり、みずみずしい若葉をまとうようになる。それまで束の間の、冬の名残り。ああ、こういうのも綺麗だなと思い、まだ水曜日ですが表紙を変えることにしました。
今朝、同じ道を散歩していて気づいたのですが、この木は枝ぶりといい、縮こまった枯葉の形状といい、そのしぶとい残り具合といい、桜の木ではないですね。楓でしょう。去年のことを思い浮かべると、春、ここに桜はなくて、秋に真っ赤な紅葉を茂らせていた景色を思い出しました。急に暖かくなって桜の開花を期待するあまりの勇み足(?)といったところか。ま、とにかく、これから新緑の季節を迎えて、この木がどのように変貌していくか、観察するのがたのしみです。
今日は朝から牛すじを煮込んでカレーの下拵えをしたりしていたので、お昼ご飯を食べて少し昼寝をしていたら2時を回ってしまい、これだと遠くまで行けないなと思い、久しぶりに〈帯広の森〉——帯広の西郊にある植林によって造成された人工の森——へ足を伸ばしてみました。まだ自転車では走り回れないだろうと思ってきてみたら、案の定、雪があちらこちらに残っていました。ファインダーをときどき覗きながら歩いていくと、散歩している親子連れに出会いました。向こうから歩いてきたのですが、たぶん兄弟の下の方が——靴の中に雪が入ったのか——「ねぇ、待ってよ、お母さん!」と呼び止めたので、その隙をねらってパチリ。さすがに真正面から写すのは憚られました。ここに掲載するのも少し躊躇しましたが、少なくともお母さんは後ろ姿だし、早春は風景のなかだけにあるわけではないということで、ご勘弁いただきたい。
〈春の雪〉シリーズ、最後の一枚です。これは、できるものなら絵にしたいと思った写真です。たぶん、木立がまとった湿った春の雪が油絵具の鉛白(ジンク・ホワイト)の感触をよみがえらせたからでしょう。高校時代は選択科目に美術があって、毎週一時間は美術室でキャンバスに向かっていました。大方の常識に反して、絵画は時間芸術だと思っています(ということは、音楽は空間芸術だということになります)。絵を描くのにこめられた時間が、それを見る人のなかでその人固有の時間として紡ぎ出されていくものだと考えているのです。では、写真はどういう芸術なのか? それがいまだによくわからない。もちろん、自分の撮る写真が芸術だと思ったことはないし、芸術を目指しているわけでもない。ただ、心洗われたいと思って風景を見つめ、シャッターを押しているだけです。
日曜日に写真を更新して、その翌々日にまた同じ日に撮った写真を掲載することはほとんどないのですが——あるいは初めて?——、前回のコメントがあまりに舌足らずで、なんともじれったく、かといって言葉に言葉を重ねるとかえっておかしなことになるので、実物の写真で言いたかったことを補足します。これは雪景色ですが、冬の景色ではない。春の景色でもない。それが淡い光の色にあらわれている。この写真はけっこう気に入っているのですが右端の木立に電線がかかっているのが気に食わない。トリミングしてかろうじてなんとか「絵」にしました。もう一枚気に入っているのがあるのですが、それはまた明後日にでも。
春の雪がばさばさ降るなか、今日もなぜか海へと向かいました。でも、今日にかぎっては行きも帰りもその途上で、今まで味わったことのない感興に包まれ、何度も何度も車を停めました。そしてその度に、停車するタイミングが遅れた、もっと早く停めるべきだったと思うのですが、それは今日の雪が光を大地に封じ込めるようにして世界を覆い尽くしていたからだったのでしょう。低い山々も木々も、雪を溶かして黒々と輝く舗装路も、太陽の光を反射しているのではなく、自分の固有色を内部から発光させているような、独特の気配に包まれていたのです。だから写真に切り取ることができない。そんななかでかろうじて撮った道端の一枚です。