*81 惜しみなく奪え(esq.14)

今から半世紀近くにもなんなんとする年の夏休み、東京から帰省した学生の私は、今年の夏こそ、プルーストの『失われた時を求めて』全巻を読破しようと、図書館通いを続けた。

例年にない猛暑の夏だった。今ではしゃれたデザインの建物となって駅前に移った図書館も、当時は繁華街から少し外れた市役所の隣にあって、なんの愛想もないただの箱のような、古ぼけた鉄筋コンクリート二階建ての建物だった。もちろん空調システムなどあるわけがなく、扇風機すら付いていなかったように記憶している。

午後になると、自転車をこいで、この図書館に行き、ほとんど誰もいない二階の閲覧室で、プルーストのページを文字どおり黙々と繰った。

読点はところどころあるものの、句点はまばらにしか打たれていないページがえんえんと続く、著者自身の意図的な「悪文」を、しかも途方もない誤訳に満ちた翻訳で毎日読みつづける作業は苦行であり、拷問ですらあった。

フランス文学専攻の学生なのだから、プルーストくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったか、義務だと思ったか、理解できようとできまいと、とにかく読み進めた。

開け放たれた閲覧室の窓から、ときおり熱風が吹きこんできた。こめかみからも首筋からも汗が噴き出し、滴り落ちた。暑いのだからしかたがない。でも、本人は暑いと思わず、どうしてこんなに汗が出るのだろう、夏風邪でもひいたかと思っていた。それほど読書に集中していたというよりも、あまりの悪文、難文なので、少しでも意識がそれると読みつづけられないのだ。

毎日、二、三時間、一週間か二週間かかけて読み通した結果、この作品のページを開くことはもう二度とあるまいという断念なのか失望なのか怒りなのか、よくわからない印象だけが残った。そして、新潮社版の箱入り全巻セットは、親しい友人に進呈してしまった。

でも、こんな本、読まなきゃよかったとか、時間の浪費だったとか、そういうことは思わなかった。むしろ、これは失われた時を求めて、それを見出す物語ではなく、失われた時を追い求めて、ついに時間に食いつぶされる男の話ではないかと思い、その徒労にも似た著者の、語り手の「私」の情熱に感銘さえ覚えた。今かりに、フランス語の原書を頼りに、若い人の新訳を読み進めれば——あるいはその逆——、別の印象を持つかもしれない。でも、第一印象がかき消されるほどの感動がやってくるとも思えない。

私にとっての『失われた時を求めて』は、あの夏の暑さと、失われた旧図書館の思い出とともにある。

われらが「猫さん」も、失われた時を求める。だが、失われた時を見出して、そこで満足し、追跡の円環が閉じるわけではない(プルーストの作品がそうだという意味ではない)。

彼は「見出された時」を奪還しようとするのだ。芸術や文学の表現手段を介することなく、まさしく実力行使によって、直接、好きなもの、ほしいものを強奪しようとする。

作品のタイトルのことなど、まったく念頭になく書きはじめたスケッチ=エスキスだが、二、三週間前に、どういうわけだか、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を思い出して、あらためてページを繰ってみた。

読み出してはみたが、読み通そうという気力は湧いてこなかった(有島先生、すいません)。本は持っているものの、たぶん若いときから、この手の思い詰めたような、やたらに生真面目で自意識過剰の文学が嫌いだったことを思い出した。

でも、タイトルはかっこいい。意味はよくわからないけれど、わからないのがいい。かっこよさのなかには、わからなさも含まれているのだろう。

言うまでもなく、有島武郎の場合、惜しみなく奪うのは愛であり、愛が主語である。

でも、猫さんの場合、違う。惜しみなく、愛を奪うのである。愛は目的語である。

記憶を取り戻したとき、彼の脳、彼の意識、彼の肉体のなかに嵐のようなものが吹き荒れ、いったん死んで、よみがえる。

そして、自分に命ずる、惜しみなく奪え、自分の人生を奪還せよ、と。

*9

猫さん自身は、小学校の卒業文集に「鉄砲撃ちの思い出」という題の作文を書いたことを憶えていなかった。蓮見の叔父さんに連れられて行った兎狩りそのものは憶えている。忘れられない思い出として、記憶にしっかり保存されている。しかし、そのことを作文に書いたことは忘れている。忘れているのか、消されているのか、そのへんのところが不分明なのである。

猫さんがこの文集の存在を知ったのは、奥さんが亡くなったあとのことだった。遺品のなかに猫さんの母親から彼女が譲り受けたものがいくつかあって、そのうちの一つが、猫さんの小学生時代の思い出の品が詰まった段ボール箱だった。通信簿だとか賞状だとか、あるいは作文、写生、習字のたぐい——本人にとっては「記憶の遺品」とでも呼ぶべきもの——が整理されて中に収められていた。

もっとも、こういう段ボールがあること自体は、猫さんの母親が亡くなったとき、遺品を整理していた奥さんから聞かされて知っていたのである。

——ねぇ、あなた。

猫さんの奥さん——庸子さん——は、自分の夫を呼ぶとき二とおりの呼称を使い分けていた。「いずみさん」と「あなた」。「いずみさん」と呼ぶときは、話題が比較的軽く、明るいときである。声も必然的に高くなり、語尾のイントネーションも上がり気味になる。「あなた」と呼ぶときは、どちらかと言えば大切な——ときには深刻な——用件を伝えるときである。声も低くなり、イントネーションも語尾がいくぶん下がる。

——ねぇ、ちょっと、こっちに来てくれる?

開けっぱなしになっている寝室の戸口からリビングのほうに顔を出した庸子さんにそう言われて、猫さんは軽く緊張した。中に入っていくと、庸子さんは小ぶりの段ボール箱を指さした。

——これ、知ってる?

見ると、黒のフェルトペンで「泉・小学校」と書いてある。

——いや、知らない。母親の持ち物については何も知らない。

——あなたの小学校時代の成績だとか文集だとか、ぎっしり入ってるのよ。

虚を衝かれて、猫さんの顔が強ばった。

——どうする?

——どうするって?

——見る?

——冗談じゃない。

——じゃ、どうするの?

——捨ててくれ。

猫さんは迷いなく答えた。それ以来、この段ボール箱ことが二人の話題に持ち出されることはなかった。猫さんは捨ててくれたものと思っていた。なんの未練もなかった。

ところが庸子さんは捨てていなかったのである。

亡き妻の遺品を整理していたとき、猫さんはこの段ボール箱をふたたび目にしたのである。

思い切り遠くに投げてどこか遠くに飛んでいってしまったはずのブーメランが、忘れたころに戻ってきて後頭部を直撃したような感じだった。

そのまま捨てようか、それとも開けてみようか。彼は迷った。

猫さんは迷うことが生理的に嫌いな人だった。気質的にそうだというよりは、小学校と中学校の時期のあいだにある深い亀裂——人はそれをトラウマと言ったりする——のなせるわざだろうというのが本人の自覚である。

あまりにも突然、生活と学校の環境が激変したために、猫さんは中学校の一年目を棒に振ってしまったのである。登校拒否などという言葉がまだ存在しない時代だった。

その暗い穴のような一年を乗り切るために、彼は別人になる必要があった。別人になるためには大切なものを捨てる必要があった。大切なものとは思い出であり、記憶であった。なぜならば、東京に移り住んだ彼の周囲には、生まれ育った土地の風景も親しかった人々の顔も声も存在しないのに、記憶だけは、むしろ鮮明に残っている。

もう存在しないのに、記憶だけは残っている。でも、記憶は映像でもないし、言葉でもない。匂いでもないし、触ることもできない。にもかかわらず、こんなに生々しいのはどうしたことなのか。

猫さんは十二歳にして、そうとは知らずに深い哲学的難問に直面していたのである。

それに加えて、いじめもあった。@いじめ{傍点}などという概念も当時は存在していなかった。転校生がいじめられるのは当たり前のことだった。発する言葉の訛りをからかわれた。何よりも、小学校時代の優等生が平均以下の生徒になってしまった。教師に当てられると答えられなかった。緊張のあまり失禁した。教室内でも、家でもほとんど失語症のような状態になった。どのように手を動かせばいいのか、足を動かせばいいのかさえわからなくなった。学校に行くことができずに、自分の部屋に引きこもった。

そして、彼は自分の幼年期の、もっとも幸福を感じたときの記憶を抹消しようと努力した。なぜなら、その記憶が残っているかぎり、自分は永遠に不幸のままだという結論に達したから。

猫さんの頭に迷いが生じると、そのときの不安、緊張がぶりかえしてくる。その気配を感じると、彼は目をつぶって一歩踏み出す。経験の分析から何かを引き出すのではなく、瞬時の本能的判断を信じるようになったのである。とまどうこと、躊躇することは、彼にとって死を意味した。

結局、彼は段ボールを開けてみることにした。そして、「光が丘小学校卒業文集」に出会ったのである。

*80 兎追いし(esq.13)

*8

 

小学校生活で最も印象的な出来事をずっと考えていて、やはりこれしかないと思うことがあります。それは蓮見のおじさんに鉄砲撃ちに連れていってもらったときのことです。叔父さんは兎狩りとは言わず、「鉄砲撃ち」と言うのです。

蓮見の叔父さんというのは、父の妹の夫のことです。いとこが二人います。姉のほうのほうはもう中学生ですが、妹のほうは同じ光が丘小学校に通っています。同じO市内に住んでいるので、僕はときどき泊まりに行きます。向こうからは泊まりに来ません。うちは父が厳しいので、息が詰まるというのです。僕も息が詰まります。

僕が叔父のうちに遊びに行くのは、小さいときには家が近くて、いとこたちと本当の姉妹のようにいつもいっしょに遊んで育ったということもありますが、叔父のところには釣り竿とか空気銃とか猟銃とか、そういう道具がたくさんあって、本当に楽しいからです。

海釣りで使う太い竿もあれば、渓流釣りで使う細い竿もあります。忍者が使うような三本か四本の太い針を束ねた仕掛けもあれば、注射針の先よりも細い細い針もあります。テグスも何種類もあります。うどん粉を丸めた餌もあるし、ミミズもブドウ虫もいます。イクラもあります。

この前は空気銃を撃たせてもらいました。家の前の畑を取り巻いている柵の上に空き缶をのせて、それを狙うのです。緊張しました。一メートルくらい離れたところからだと当たりますが、二メートル、三メートル離れると、なかなか当たりません。引き金を引くときに緊張して、銃口がぶれてしまうのです。

叔父さんはときどき、家の前に米粒をまいて、それをついばみに来た雀を撃つことがあります。家の中に隠れていて、窓の隙間から空気銃の先だけ出して狙うのです。でも、そんなにたくさんは捕れません。雀が警戒して来なくなるからです。叔父さんがそう言っていました。雀は賢いんだなと思いました。

でも、一番緊張するのは、猟銃です。叔父さんの持っているのは、水平二連の散弾銃です。銃身が二本水平に並んでいるのでこう呼ばれます。直径が二センチくらい、長さが五センチくらいの筒に小さな弾がぎっしり詰まっているのが散弾です。ライフルの弾のように一点を撃ち抜くのではなく、小さな弾がいっぺんに発射されて、徐々に半径が広がっていくんだそうです。だから、空を飛ぶ鳥とか地上を素速く動く小動物を撃つのに使われます。

猟銃は見ているだけで、緊張します。長さ一メートルほどの銃身は黒光りしています。見るからに重そうです。実際に持たせてもらったことがありますが、子供の力では銃をちゃんと水平に保つことさえ難しいと思いました。それに恐ろしいです。弾は入っていないから大丈夫だと言われても、引き金を引いたら爆発して弾が飛び出すんじゃないかと思ってしまうのです。銃口を向けられると足がすくみます。

釣り竿は生け捕りにするための道具です。空気銃は軽いし、弾は小さなアルミ玉です。至近距離から撃たれて心臓に当たれば死ぬかもしれませんが、そんなに恐怖感はありません。

でも、猟銃は相手を殺すための道具です。見ているだけでそれが伝わってきて、足が震えるのだと思います。叔父のところではありませんが、日本刀を見せてもらったことがありますが、そのときも同じことを考えました。

この蓮見の叔父さんに「鉄砲撃ち」に連れていってもらったのは、去年の春のことです。叔父さんが家まで迎えに来てくれて、車三台連ねて、目的地に向かうのです。行き先は鹿追というところだと聞きました。初めて聞く地名で、町なのか村なのかもわかりません。兎を撃つのに変だなとも思いました。

市内から一時間以上砂利道に揺られて、畑と落葉松の防風林だけしか見えないところに着きました。道は除雪されていて、雪もほとんど融けていて、ところどころ水たまりができているほど暖かい日でしたが、畑は一面雪におおわれていて、表面はかちかちに固まっていますが、踏み抜くと三十センチか四十センチは深さがあって、子供だと足が抜けなくなります。

春が近づいてきて、暖かくなると兎の活動が活発になって、でも食べ物はろくにないので、防風林の根本を食い荒らすのだそうです。害獣指定になっている動物なので、仕留めた兎の耳二本そろえて市役所に持っていくと百円もらえるのだそうです。奨励金だと叔父は言っていました。

車は二手に分かれて停まりました。先頭を走っていた車が百メートル先のほうに停まったかと思うと、少し腰の曲がったおじいさんが猟銃を斜めに背負って、雪をかぶった畑のなかをどんどん歩いていきます。
「村田のおやじ、また勝手なことをしやがって。兎が逃げてしまう……」と、叔父はぶつぶつ言っています。「さて、こっちも行くぞ」とみんなに号令をかけています。

どうやら、向こうの防風林から兎を追い出して、こちらから迎え撃つ作戦のようです。車の中にいたときから、心臓がどきどきして、あくびばかりしていたのですが、いよいよ狩が始まるのかと思うと、緊張のあまり、声も出ず、息もできなくなりました。

快晴の日で、太陽は真上にあって、半分凍りついた雪の表面がぎらぎら輝いています。

遠くから銃声が響きました。さっきの腰の曲がった老人が撃ったのかもしれません。

一瞬の間をおいて、銃声が何発か続けざまに響きました。

あちらの防風林から、なにか黒っぽい点のようなものが、道のほうにむかって、まるでこわれた玩具のようにぎくしゃく、駆け出しました。

こちらからも銃声が何発も響きました。鼓膜が破れるかと思いました。頭がキーンとなりました。白い煙がふわっと漂い、火薬の臭いが立ちこめました。

兎です。茶色くなりかけた兎。後肢で思い切り蹴ろうとすると、畑の真ん中の柔らかい雪に埋もれて、ちゃんと走れないのです。そして動かなくなりました。

あたりはまた静かになりました。

男たちはしばらく銃を構えていましたが、やがて銃を降ろし、銃床と銃身が別れるところで銃を二つに折って、空になった薬包を取り出している。

え、たった一匹?

僕が叔父さんのほうに目を向けると、なんだかがっかりしたような、怖そうな目をして、倒れた兎のほうを見てから、無言で銃の後始末をしています。そして、
「おい、センちゃん、あれ取ってこれるか?」と言うではありませんか。

え、どうして? 一瞬、意味がわかりませんでした。でも、なぜか反射的にこっくりうなずいていました。試されているんだと思いました。

叔父さんは僕のことを「センちゃん」と呼ぶのです。イズミと呼び捨てにするのでもなく、叔母さんや従姉妹のようにイズミちゃんとも呼ばずに、泉を音読みするのです。物心ついたときには、もうこんなふうに呼ばれていました。僕にとっては第二の名前で、なぜかこう呼ばれるほうが男らしい気持ちになります。

叔父さんは僕を一人前の男として扱おうとしているように思いました。さすがに弾の入った銃を持たせるわけにはいかない。でも、少なくとも獲物を拾ってくるくらいのことはさせたい。叔父さんの心意気が伝わってくるような気がしました。

五十メートルほど先の兎のほうに向かって、歩き出すと、背後から叔父が呼び止めました。

「いいか、耳を持つんだぞ。腹に手を回すな。がぶりとやられるからな」

緊張しました。心臓がばくばくしました。ときどき床が抜けるように、雪に足を取られました。畑の真ん中のほうにいくと雪は浅くなりました。風が通り抜けるので、あまり積もらないのです。

兎はまだ生きていました。生きているというより、左の後ろ肢に弾が当たっただけで、右の後ろ肢にも、前肢にも怪我はないから、ものすごい勢いで前に進もうとしているのです。でも、左後ろ肢に怪我をして、雪は浅くなっているとはいえ、深さ二十センチくらいはあるので、前に進めないのです。ただ足掻いているのです。

一メートルほどのところまで近づくと、兎はものすごい顔で僕を睨みました。口の中は真っ赤でした。血の赤さなのか、兎の口の中はもともとこんなに赤いのか、僕にはわかりません。ただ、長い前歯が狼の牙のように真っ白に光っていました。

猫よりも小さな兎が、僕をおどかしているのです。命がけで僕に闘いを挑もうとしていると思いました。

僕は自分が子供だと思いました。兎は大自然のなかで懸命に生きてきた大人ですが、僕は大人に守られて生きている子供なのです。真っ赤な口を開けて、僕に噛みつこうとしている兎を前にして気後れしました。自分が恥ずかしいと思いました。でも、怖がって叔父さんのところに戻ったら、もっと恥ずかしい。

どうすればいいのか。

僕は暴れる兎の背後に回ることにしました。真正面からではなく、後頭部から耳を捕まえました。でも、野兎の耳は短くて、すぐにすり抜けてしまうのです。白い飼い兎の半分もないから、握ることさえできない。僕は手袋を脱いで、ジャンパーのポケットにしまいました。そして、ありったけの力を込めて、両耳を束にして握りしめました。素手だとなんとか握れます。でも、持ち上げることはできません。兎は二キロか三キロはあったと思います。持ち上げたとしても、後ろ肢をばたばたさせる野兎をそのまま五十メートルの距離を持って歩いて帰ることはできません。

僕は後ろ肢をつかまえてみました。でも、兎の後ろ肢は思ったよりもずっと強く、かえって右手で持った耳を振りほどかれてしまいました。兎はまた雪のなかに落ちて足掻きましたが、前には進めません。

僕はまた同じことを繰り返し、今度は腹を持ってみようと思いました。「がぶりとやられる」かもしれませんが、ほかに方法がないのです。僕は右手で両耳をしっかりと握り、小さな兎の下腹部に左手を回し、そのまま自分の腹に押しつけて、どんなに後ろ肢を激しくバタバタさせても落ちないように、そしてあの長く鋭い前歯が腹を押さえている左の甲に届かないよう、しっかりと上に吊り上げました。そう、両手で兎の体を上下に引き伸ばすようにしたのです。

そうして、焦らずゆっくりと叔父の待っているところに戻っていきました。

叔父はにこにこ笑顔で迎えてくれました。その笑顔が誇らしく思えました。

でも、誇らしさはそこまででした。

兎を受け取った叔父は、小さな体を思い切り地面に叩きつけると、銃床で何度も何度も側頭部を打ちつけたのです。でも、兎は死にません。声にならない声を絞り出し、口も裂けよとばかりに歯を剥き出しにするのです。ほかの大人たちも来て、銃床で叩くわ、ぶ厚い革の長靴の踵で踏みつけにするわ、もうリンチです。

僕は見ていることができませんでした。でも、おまえが持ってきたんだろう。最後まで見届けろという声がします。

さすがに兎はぐったりしてしまいました。でも、まだ息は残っているように思えました。

「どんな動物でも、仕留めた獲物を生殺しにしちゃいけない」

叔父は、そう言いました。でも、僕の膝は震えていました。叔父は、命絶えた兎から、二本の耳をナイフで切り離しました。百円です。

僕が帰りの車の中で何を考えたか、もう覚えていません。たぶん疲れ果てて寝てしまったのだろうと思います。

僕はこの光が丘小学校を卒業すると、東京に行きます。父の仕事の関係で東京に引っ越すことになったのです。

東京のどこに住むのか、どこの中学校に入るのか、僕にはわかりません。名前がわかったところで、どうせ知らない土地です。

ときどき不安な気持ちになりますが、この光が丘小学校で過ごした六年間がきっと支えてくれると思います。そして、何年かしたらまたここに戻ってきて、みんなに会いたいです。

大人になって、叔父さんといっしょにまた釣りに行ったり、山登りに行ったりしたいです。でも、今のところ「鉄砲撃ち」に行きたいとは思いません。一生忘れられない思い出として、ずっとこの胸に刻んでいきたいと思います。

(猫柳香「鉄砲撃ちの思い出」光が丘小学校卒業文集より)

*79 兎追いし(esq.12)

じつは「兎追いし」というタイトルで、昨日一日、ああでもない、こうでもないと考えあぐね、書きあぐね、ついに活路が見いだせないまま、寝てしまった。このブログの更新は、原則的に土曜日にすることにしている。週日は翻訳や授業の準備に当てるというリズムを崩さないようにしている。そうしないと持続できないから。そして、日曜日はできるだけ仕事をしない。具体的には、コンピュータに電源を入れない。本を読むか音楽を聴くか、車を転がして写真を撮りに行くか。

ところが今朝は日曜日なのに、起きてからずっとぐずぐずとその原因を考えつづけている。反省は不毛だと思っている。自分のやっていることを見直し、反芻しているうちに、始めた動機さえも疑うようになり、いつしか弱気になって、最後には、やめた、やめた、と結論しかねない危険な代物である。だが、やめたら終わりである。そうやって翻訳を三十年やってきた。やめたら終わりだと言い聞かせて。この「小説」の試みも同じである。

以下、書けない原因を列挙してみる。密かに(?)、この連載をフォローしていただいている少数の——スタンダールみたいに「ハッピーな」という言葉は付け足しませんが——読者のみなさん、退屈でしょうが、ご海容ねがいます。

 

1.やたらに疲れている。

このところずっと、朝五時か六時には起きて活動をはじめていたのだが——歳をとると朝早く目が覚めるだけのこと——、今週木曜日の夜に大谷短期大学で生涯学習講座を務めてから、朝が眠くて眠くてしかたがない。金曜日の朝は習慣から、六時くらいから、なんとなく動きはじめたが、脳も身体もしゃきっとしない。昨日土曜の朝は目は覚めても起きることができず、気がつくと七時過ぎまで寝ていた。今朝も同じ、七時過ぎにようやく起き出して、髭を剃り、部屋の掃除をして、朝食を食べ、ソファに横になって、見るともなくテレビに目を向けていたら、そのまままた眠ってしまった。目が覚めたは九時半頃である。帯広に帰ってきた直後、「鬱病」の診断を下されて以来のことである。また、あの「メランコリー」? ではないとおもう。たぶん。

 

2.脳みそが思うように反応してくれない。

上記1.と関係することだが、脳の反応が鈍いのである。手を動かしていても、脳が乗ってこない。あるいは脳の動きが鈍いので、手は勝手に動き言葉を並べていくが、その言葉を見ている眼が、なんかちがうなぁ、おもしろくないなぁ、とぼやいている。文章を書いているとき、いちばん大事なのは、この脳と手と眼の一致なのだが——そこからリズムのようなものが生まれ、思いがけない言葉や言い回しが生まれて、それが喜びにつながり、喜びは書くエネルギー源となる——、いつまでたっても、それがちぐはぐなのである。

 

3.妄想を持続させるためにはエネルギーがいる。

近代という時代に入って以来——近代はいつから始まったのかという問いは、とりあえず棚上げにしておこう——「小説とはなんぞや」という自問自答を小説家も批評家も繰り返してきた。さすがに最近はあまり見かけなくなったけれども——たぶん、「近代」という時代が終わってしまったせいだろう。難しい議論はさておき、小説は所詮、妄想である、というのが個人的考えである。その作品が「私小説」を自称しようと、「歴史小説」であると言い張ろうと、すべては妄想である。夢と言い換えてもいいし、幻想と言い換えてもいい。想像力という言葉は美化に美化を重ねて、ついには厚化粧の老婆みたいになってしまったが、所詮は妄想であると考えるとかなりの部分がすっきりする。この妄想はかんたんに掻き消せるものではないというところが曲者であり、かつ恐ろしいところであって、たぶん人間の本質のもっとも奥深い部分を形づくっている。この妄想は、人間の果てしない欲望に直結している。そんなものは存在しないとわかっていても、人間は造り出すのである。しかし、造り出すためには原料=資源とそれを加工するエネルギー源が必要になる。その資源が、もしかすると枯渇するかもしれない。地球を思うがままに搾取(=開発)してきた人類が初めて、ひょっとしてこれヤバイんじゃないのと思いはじめた。地下資源の限界、地球温暖化、環境汚染、生態系の危機、人口爆発……いくらでも列挙できる。小説はけっして平和なものではない。人が生存するためのエネルギーを食らい尽くすものである。読むにせよ、書くにせよ。文学の時代は終わったなどと、上から目線の素知らぬ顔の評論家には言ってやりたい。近代の終焉は人類の終焉であるかもしれないと、一度は考えてみるべきではないか。あなたの身の上だって危ないのだ。わかったわかった、大言壮語はわかったけれど、おまえの「小説」はそれとどう関係するんだい? という声が脳のなかで響く。そんな危ない妄想はやめたらいいんじゃないの? 正論である。かつてディープな鬱病に陥ったある作家——たしか吉行淳之介——が、鬱が疎ましいのは、鬱のなかで考えることは正しいからだ、と喝破していたことを思い出す。鬱が生のエネルギー状態の低下、沈滞であるのは論を俟たない。さあ、どうする?

 

4.できれば動物を主人公にした「小説」にしたい。

主人公——と言っていいのかどうかわからないけど——の名に猫の一字を含めただけでなく、その人の通称であるところの「猫さん」を小説中の呼称として採用し、なおかつ、この猫さんはネコという名の猫を飼っているというふうに設定したとき——というか、勝手にそんなふうに「手」が動き出してしまったのだけれど——、この小説の試みには決定的な方向性と枠組みが与えられてしまったのだろう。早い話が半分は自分の経験に基づくことなのだが、残りの半分は、この「手」の創作である。脳の妄想よりは、この「手」の暴走に委ねたい気分である。なぜならば脳の妄想には際限がないが、手の動きは経験に裏打ちされていて、おのずとブレーキが掛かり、自惚れとは一線を画した個性があるから。「猫の記憶」と題した *72は、書き手の経験を素材にしたものだが、書き出して一気に書き抜いたのは、この「手」である。書こうと思いついたのも、この「手」だと言っていい。脳が思いついたものはあまりいい結果にならない。*75の「モズ」もその延長線上に自然に出てきたものだし、今回の「兎」もやはり同じ延長線上にある。すらすらと流れていくはずだった。

 

5.作家たちはなぜあんなにも猫が好きなのか?

猫の好きな作家の名を挙げていくと切りがない。だから、よほど気をつけて書かないと、誰かの二番煎じになってしまう。だから——別に苦肉の策としてではなく——、われらが主人公(?)の猫さんは名前とは裏腹に、じつは犬が好きなのである(*71参照)。そして、ここが肝心なところであるけれど、けっして動物好きではなく、むしろ怖れを抱いているのである。愛玩動物であれ野生の動物であれ、単純に怖れを抱いている。もちろん、この怖れは畏れに通じるものであり、この畏怖こそが宗教の源泉であるばかりでなく、美の源泉でもあるはずだ。その源泉がいま涸れようとしている。漱石の『猫』はつまらない。どこまで行っても、どこまで読んでも、擬人化の域を出ないからだ。金太郎飴みたいに、どこを切っても同じ顔が出てくるだけ。日本の近代文学のなかでもっとも有名な作品の一つではあるけれど、全篇読み通した人は——研究者を除いて——ほとんどいないはずだ。そもそも、のっけからアンドレア・デル・サルトなんて、どこの馬の骨かわからないような画家——漱石によれば「伊太利の大家」ということになっているが、どこかの美術館が回顧展を催すほどの画家ではない——の名前を出してくるところが、悪趣味だ。でも、漱石が野性に対する畏怖とは無縁だったかといえば、そうではない。彼はこんな一文を残している。「木島櫻谷氏は去年澤山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても気持の悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於てはあの鹿に劣るまいと思ふ」(「文展と芸術」東京朝日新聞、大正元年/1912)これほど嫌みな美術評もそうあるものではない。木島櫻谷氏は名誉毀損で訴えてもよかったのではないか。ま、いつの時代もヒョーロンカというのはこんな文章を書く人種ということかもしれない。でも、漱石を援護するわけではないが、この人は見るべきものは見ていると感じられる。木島櫻谷氏は花鳥風月のなかの鹿や狐を描きたかったのではないだろう。正しく「野性」を表現したかった。それを漱石は「気持ちの悪くなる」とか「不愉快」だとか言っている。そして、この評を「兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と結んだ。彼は、西洋美術のリアリズムの影響を受けた日本画家の野心を「不愉快」と言っているのである。僕はできることなら、木島櫻谷の夜の狐のような眼をした野生の兎の姿を描いてみたい。

 

6.こんなにも疲れてしまった理由。

ここまで書いてきて、わかった! こんなにも疲れてしまったのは、死にかけた猫のケアにエネルギーを吸い取られたからだ。食欲がなくなって、すっかり痩せ細ってしまったわが家のシマを動物病院に連れていったのが六月六日、その日血液検査をしてもらって、肝臓機能の値も腎臓機能の値も非常に悪く、おおもとの原因は甲状腺ホルモンの過剰分泌だろうと診断された。排便もしなくなり、ぐったりと寝たきりになってしまったので、排便処置と点滴をしてもらいに行ったのが十二日——放っておいたら死んでましたよと、あとで医師に言われた——、ホルモン分泌の分析結果に基づいて、甲状腺の薬を処方してもらったのが二十一日、その間、胃薬やら肝臓の薬やらを含めて、朝と夕方に二回、二つ乃至は四つに分割した錠剤をスプーンの背で粉々にして投薬用のチュールに混ぜ、食欲が戻ってくるまで根気よく食餌を与えつづけたのだ。その努力の甲斐があって、六月十二日の時点で2.4㎏にまで激減した体重が、一昨日(六月二十八日)は2.9㎏まで回復した。食欲がないので睡眠も浅く——猫の話である——、不安がって朝早くから起こしにくる。こちらは為す術もなく、朝四時くらいから食餌を与えることになるが、そのときに毎回薬をすり潰してチュールに混ぜ、ウェットとドライの食餌の配合を考え、猫の食べっぷりを横でじっと見ている。その都度、一喜一憂するのである。あと100㌘で3㎏に戻る。少し希望が見えてきた時点で、どっと疲れが出たのだろう。現実の猫と虚構(妄想)の猫の双方をケアするというのは、なかなか疲れるものである。それにしても、なんだかなぁ、正しいことやっているのだろうか……。

*78 メランコリー、その二(esq.11)

閑話が続いたので、ここらで「小説」の本筋に戻ることにしよう。おかげさまで(?)、わが家の猫の体調も戻り、食餌をふつうに食べてくれるようになったことだし。体重が元どおりにならないのは、老齢の猫の体重が増えるのはなかなか難しいことなのだろうと静観することにした。

今回は「メランコリー」と題した*70の続きである。

*7

猫さんは、処方された一ヵ月の薬が切れる日に、精神科医の北島医師をまた訪れた。診察室のドアをノックすると「どうぞ」という声が返ってきて、ドアの向こうでは、すっかり太って、頭頂部の禿げあがった顔がにこやかにほほ笑んでいる。

——どうだい、調子は?

——まぁまぁかな。最近は寝付いてからすぐに目が覚めるということはなくなった、おかげさまで。

——それはよかった。じゃ、この抗鬱剤をもう少し続けてみようか。

——それって、ずっと飲みつづけることになるのかな。血圧の降下剤みたいに。

——それとこれとは別だよ。また依存の話か? ふつうに眠れるようになったら、自然と薬を飲むのを忘れるから、心配ないよ。

——この年齢でもかい?

——個人差もあるけど、睡眠薬や抗鬱剤は悪循環に陥った生活習慣を改善するきっかけを作るためのものだからね。

——毎日飲む薬の数が増えていくだけでも気が滅入るんでね。

——ま、それはわかるけど、もっと医学と医師を信用しろよ。

北島医師のその言葉で、二人はようやく笑った。

——ところで、そのうち、うちに来ないか? 外で飲むより、家のほうがゆっくりやれるだろ?

突然の申し出に、猫さんは一瞬言葉に詰まった。

——迷惑にならないのかな。

——迷惑ってことはないさ。子供たちも自立して出ていったし、今は夫婦水入らずだ、と言って、北島医師は笑った。

——子どもは何歳になった?

——どちらも三十代後半だよ。正確な歳は、女房に聞かないとわからないけど。

そう言ってまた笑い、少し間をおいてから、北島医師は真顔に戻った。

——サワコのこと、憶えてるだろ?

——え?

虚を衝かれて、猫さんは聞き取れなかった。

——サワコだよ、サワコ。

目の前がかすみ、意識が遠ざかっていくような気がした。

——ああ……、と答えるのが精一杯だった。

——おい、おい、忘れちゃったのか? あんなに仲良かったのに。タコだよ、タコ、みんなそう言って、冷やかしていたじゃないか。本人はそれでだいぶ傷ついていたようだけど、ま、子供のことだから、悪気はないんだけどさ。

——タコ……。

猫さんには、なんのことやらわからない。

——おい、おい、ほんとに忘れちゃったのか。多い子って書いて、サワコ、珍しい読みだから、みんなふざけてタコって呼んでた。まあ、仕方ないか、あれから半世紀以上たつんだものな。おまえはずっと東京にいたわけだし。

猫さんの首筋に気持ちの悪い汗が流れているのがわかった。思い出せないというより、ぽっかりと穴が空いていて、そこを覗きこむと、全身の血流が冷えていく。内臓に不快感が広がり、視野も狭くなっていく。

——じつはさ、おれ、多子と結婚したんだよ。先月、おまえが診察を受けにひょっこりやってきたんで、猫柳が帰ってきたぞって言ったら、カミさん、目が飛び出るほど驚いていたよ。そりゃそうだよな、おまえが帰ってくるなんて、誰も思っていないから……。

猫さん、返事ができない。

——おいおい、顔色が悪いぞ。どうした、急に?

——いや、よくわからないんだけど、なんだか目眩がして……。

——昨日はちゃんと眠れたのか?

——うん、まぁ……。

——べつの薬にしたほうがいいのかな。

——いや、そういうことではないと思う。

北島医師は無言で猫さんの顔を見ている。

——この町で暮らした幼年期のことが、ときどき思い出せなくなるんだ。というか、記憶がまだらになっている。東京に移ってからの記憶には、そういう感じはないんだけど、幼年期の記憶に関しては、あちこち断線している。

——それは自然なことじゃないのか。おれは医学部時代を除いて、ずっとこの町で暮らしてきたから、記憶は地続きのようなものだけど、小学校を出ると同時に東京に行ってしまったりすると、そういうことはあるんじゃないの。そっちの方面の勉強はあまりしてないけど……。

たしかに大げさに考える必要はないのかもしれないが、猫さんにとっては、定年退職したのち、ほとんど誰も知り合いのいない故郷の町に帰る決断をうながすほど大問題なのである。というか、その問題が何なのか解き明かすために帰ってきたと言ってもいい。

自分の生まれ育った町に帰ってきて眠れなくなった。紹介された精神科医が小学校時代の同級生だった。その男がサワコという名の同級生と結婚していた。そのサワコが思い出せない。というよりも、その名を耳にしたとたん、不快感のような、悪寒のようなものが襲ってきた。

北島医師によれば、猫さんと多子さんは仲がよかったという。なのに猫さんは思い出せない。なにひとつ。そのあたりだけが停電していて真っ暗な感じである。北島晋一くんのことは憶えている。彼と遊んだり、勉強した場面の記憶は明るい。その場所に多子さんはいたのか? 三人で遊んだことはなかったのか?

北島晋一本人が口を開いた。

——おれさ、うらやましかったんだよ。多子と猫がね。放課後になると、いっつも二人きりで何か話してた。帰る方向も一緒だった。二人並んで、学校の裏手の踏切のほうに歩いていった。

猫さんの動悸が激しくなった。やめてくれと叫び出しそうになった。その話はやめてくれ。人に話してもらいたくない。自分で思い出したいのだ。この町に帰ってきたとき、もちろん、小学校の前も通ってみたし、自分が住んでいた所番地のあたりにも行ってみた。しかし、そこには三階建ての集合住宅が建っていて、周辺には駐車場やら公園やらが広がり、往時を思い出させるものは何ひとつ残っていなかった。

もちろん、同級生の顔も名前も、仲のよかった友だちの顔も名前も、多子という名前も、何ひとつ浮かび上がってこなかった。

偶然——そう、偶然——、精神科の専門病院を訪れることがなければ、北島晋一に会うこともなく、多子という女性の名を告げられることもなかっただろう。

偶然? これを偶然というのか? こういう出会いを求めて、自分の生まれ育った町に帰ってきたのではないか、と猫さんは思うのである。

なぜ思い出せないのか? 多子って誰だ? 親しかった? それなのに思い出せない? 顔色がどんどん青ざめていくのがわかる。

——おいおい、そんなに深刻になるなよ。だから、うちに来いってば。そうしたら途切れていた記憶がいろいろよみがえってくるかもしれないじゃないか。多子だって、会いたがっていたぞ。

そうか、それだけのことか。何を怖がっている? 会ってみればいいじゃないか。何か思い出すかもしれない。いや、何かというような漠然としたものじゃなく、ひょっとすると……。いや、今から妄想をたくましくしてもしかたがない。

——ああ、わかったよ。面倒かけてすまん……。

——面倒ってこと、あるか。で、猫の都合はどうなんだ?

——そんなものあるわけないじゃないか。夜はいつもネコといっしょにテレビを見ているか、音楽を聴いているか、本を読んでいるか、だ。

——猫を飼っているのか?

——うん、東京から連れてきた。

——猫が猫を飼っているのか?

——うん、よく言われる。

二人とも笑いかけて笑えないでいる。

——うちは犬を飼ってる。ゴールデン・レトリバーだ。おれが飼っているというより、もっぱら多子が世話してるんだけどな。

意識がまた暗くなった。そう、たしかに犬がいた。大きな犬。長い毛、たしか黒の。犬種はわからない。また、胸が苦しくなった。

——わかった、こうしよう。今日、帰ったら多子と相談して日取りを決める。で、メールする。メールアドレスくらいあるだろ?

猫さんはうなずく。北島医師は自分の名詞に携帯電話の番号を書いた。

——ショートメールでおまえのアドレスを送っておいてくれ。二、三日中に返事するから。

猫さんは首筋の汗をハンカチでぬぐいながら、北島医師に一礼し、診察室を出た。

*77 閑話、その三(esq.10)

また「閑話」です——それなりの理由があって。

六月半ばの日曜日、今朝は雨が降っている。

「内地」であれば、梅雨のまっただなか、雨が降っていても、なんの不思議もないが、北海道だとやはり地球温暖化の影響かと思ってしまう。そのむかし、北海道に梅雨はないと言われ、台風も津軽海峡を渡らないはずだった。

今日は雨。おそらく梅雨、もしくは本州にかかる梅雨前線の影響ということになるのだろう。

日曜日の早朝なので、通りを走り抜ける車の音もしない。たまに通る車があっても、雨のせいで速度も緩やかなうえに、雨が音を遮るカーテンの役割をはたしてくれる。

 

 

このブログをお読みいただいている方のなかには、前回書いた猫のことを心配してくれている人もいるかもしれない。

安心してください。だいじょうぶです。そう簡単には死にません。

血液検査に続いて、ホルモンの検査もしてもらったところ——「内地」の専門検査機関に血液サンプルを送るので、結果がわかるまでに一週間かかる——、予想どおり甲状腺ホルモンが過剰に分泌されていることがわかった。甲状腺ホルモンが過剰に出ると、まずは食欲が減退し、興奮状態が続いて攻撃的になったりするらしい。うちのシマの場合、変な具合に仔猫がえりして、家中をちょろちょろ動き回り、台所で食事の支度をしていると、俎板からこぼれ落ちる屑を待っていたり、テーブルの上の焼き魚を床に引きずり降ろそうとしたり、はたまた風呂掃除を始めると、排水口に吸い込まれる残り湯にやたらに興味を示したりする。

攻撃的にはならなかったけれど、壮年——十歳前後——のときには見せなかったこの落ち着きのない行動ぶりは、甲状腺ホルモンの作用だったのかもしれない。

それはともかく、先週の木曜日、動物病院から検査結果の報告があり、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してもらった。

この薬を食餌に混ぜて——糖衣錠を四分割したものが一回の投与量だが、これをスプーンの背で粉々に砕いてチュールに練りこむ——与えるようになって、今日で四日目、昨日の午後あたりから目に見えて食欲が出て来た。チュールと混ぜなくても、ウェットタイプの食餌なら食べるようになった。ドライのものも少量ならかりかり音を立てて食べるようになった。

これで一安心。といっても、十六歳の高齢なので、いつまで生きるかはわからない。いたずらに延命させようとは思わないが、食欲が戻ってきて、元気でいられるなら、それに越したことはない。

死を覚悟したのは、猫ではなく、たぶんこの私だったということなのだろう。お騒がせしました。

 

 

文字どおりの閑話休題。これからが本題です。

金曜日の夕方、一通のメールが届きました。以前、東京でお会いしたことのある方です。プライベートな内容を含む私信なので、そのままの引用は憚られますが、このブログを続けていくうえで、あるいは「小説のためのエスキス」という試みを続けていくうえでも、とても大切なこと、とても励みになることが書かれているので、この場を借りて、僕なりの感想を記しておきたい。

「猫の記憶」と題した*72には、犬のこと、キタキツネのことを書いた。

吹雪の原野をキタキツネの親子が歩いていく。遅れはじめた子狐が歩けなくなってその場にうずくまる。母狐が数歩戻って歩み寄り、二、三秒、わが子の顔に鼻を近づけ、何かを確認すると、また踵を返して、吹雪のなかを歩き去っていく場面を書いた。

それに続けて、猫さんの奥さんが絶命する場面を置いた。この世を去っていく奥さんに向かって、猫さんは「おーい、いっちゃうのか」と叫ぶ。

この「二、三秒」の場面を読んで、A・Iさん——取りあえず、そう呼ばせていただきます——は、ほろほろ涙が止まらなくなったんだそうである。そして、その勢い(?)でメールを送ってきた。ご主人が心房細動で心臓停止して、救急車で病院に運ばれ、心臓バイパスの緊急手術を受けて一命を取り留めたときのことがよみがえってきたのだそうだ。

A・Iさんは小説家志望の人である。ヘルニアの持病も持っている。小説を書きたい、書かねばならぬと思っても、人生の諸事情や病気のことが重なって、思うようにならない。「生まれて初めて底の知れない恐ろしい想い」をしたことや自分の感情の動きを、このブログを読んで、振り返る時間を持てた。そのことを感謝するといった内容のメールである。

A・Iさんと初めてお会いしたのは、今から六年前、パスカル・キニャールの国際学会が東京恵比寿の日仏会館で開かれたときのことだった。私もパネラーとして参加したのだが、そのときの聴衆のひとりにA・Iさんが含まれていた。その後、何かのきっかけで東京のどこかでもう一度お会いしたことがある。

仔細は忘れてしまった。そのとき彼女が小説家志望であることを知った。たしか相談のようなものを受けたように記憶しているが、徹頭徹尾個人的な営為である文学や小説に関して、何か有益なアドバイスだとか、忠告だとかを与えることなど、どんなキャリアのある作家でも不可能だろう。ましてこっちは一介の翻訳者、長く出版業界で生きてきたに過ぎない。

ただそのとき、小説家になりたいというのなら、藤沢周平の『半生の記』というエッセイを読んでみたら、と薦めた記憶がある。

その理由は——その場で口にしたか、説明しようとしたか、もう忘れてしまったけれど——、あらためてここに書くとすれば、あなたは小説が書きたいのか、小説家になりたいのか、という質問に尽きる。それを聞けば、大方の人は、それは二者択一の問題なのか、と怪訝な顔をするだろう。つまり、小説を書く人が小説家であるだろうし、小説家は小説を書くのが仕事の人だろうと。

でも、微妙に違う。なぜなら、趣味で小説を書いて、同人誌などを仲間で発行して、それに発表している人も存在するから。あるいは小説家の肩書きで世間に知られてはいるが、もう書かなくなった人、書けなくなった人もいるから。

A・Iさんに藤沢周平の自伝的エッセイを薦めたのは、彼は明らかに小説家になるべくしてなった人だと思っているからである。彼はたまたま「時代小説」——「歴史小説」でも「私小説」でもなく——というジャンルを選んだわけではない。

しかし、若いときから小説家を志したわけではけっしてなかった。山形の師範学校を出て、教員生活を送っていたが、結核にかかり、地元の病院で治療を続けたが、なかなか病状が好転せず、本格的な結核治療の場所として東京の東村山にある療養所に入ったのである。結核専門の病院で三度の手術を受け、療養中には何度か外出許可をもらって、地元での再就職の道を探したと『半生の記』には書いてある。しかし、その願いも叶わず、そのまま東京に住みつくことになる。最初に得た仕事は業界紙の記者だった。

繰り返すが、彼は野心を抱いて小説家になろうとしたわけでもないし、何かの野心があって上京したわけでもなかった。長期にわたっての結核治療、そのせいで地元に戻って再就職する道も絶たれ、気がつくと、都会の雑踏のなかで業界紙の記者として歩き回っている。人生、理不尽、その気持ちがときに東京の街角で湧き上がってくることもあっただろう。

こういうやるせない想いを救ってくれたのは、山形の教員時代の教え子で、たまたま同時期に上京してきた女性と結婚したことだったろう。彼は新橋にある「日本食品経済社」に通い、ときには妻の勤め先があった池袋で待ち合わせ、映画館に足を運んだり、公園を散歩したり、そういう平凡な生活がいっときつづき、やがて一女が誕生する。「展子と名づけた長女は健康に育ち、私たちはそういう生活がずっとつづくものだと思っていた」

しかし、妻の悦子は長女の出産後、体調を崩し、一年も経たないうちに、進行の早いガンでこの世を去ってしまうのである。

「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見届けるあいだには、人に語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである」(『半生の記』)

そして、彼は会社勤めをつづける傍ら「一番手近な懸賞小説」に応募をはじめる。

「小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。……しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成り行きとしか言えない」

彼は新人賞を取るまでに何度も落選を重ねている。それでも彼は懸賞小説への応募を続けた。そうすることが死に別れた先妻への供養であり、鎮魂でもあるというように。

しかし、ひとの人生に口を挟むようで、まことに僭越だが、これは理不尽な人生への「怨念」をバネとした、自分自身への鎮魂ではなかったか。

彼は妻の死とともに自分の人生も終わったと感じる。そのとき彼はすでに「この世」から「あの世」に渡っている。「怨念に凝り固まったままでは小説の体をなしにくいのではなかろうか」というのは、この時点ではじつは「あの世」に渡りきっていないということではないのか。そして、「あの世」はあの世にあるわけではなく、この世にあるということ、それが小説という器の不思議なところ、それはどんな芸術にも、どんな職業——プロフェッショナルとしての——にも通じるところではあるまいか。それに気づいたとき、ひとりの人間は自分のスタイルを発見し、小説家として、芸術家として、あるいは職人として再生するのではあるまいか。

藤沢周平は結果として——成り行きで——小説家になったわけではない。彼は小説家になるべくしてなった、それが彼の宿命であった。『半生の記』に書かれているのは、まさにそのことにほかならない。私はそう信じている。

*76 閑話、その二(esq.09)

どうやらうちの猫は死を覚悟したようである。「うちの猫」というのは、あくまでも現実の猫であって、猫さんが飼っているネコという名の猫のことではない。

東京に住んでいたとき、家の近くのクリニックで発行してくれた「動物の健康手帳」によれば、生年月日が二〇〇三年四月二十四日、このクリニックの初診日が六月六日、その翌月に初めて記載のある体重は一・三キロ、その半年後の冬に去勢手術をしたときの体重が四・六キロとなっている。まだ一歳をなっていない時点での体重である。いちばん大きかったときは七キロくらいはあったはずだ。

それが一昨日、こちらの掛かりつけの病院で診てもらったら、二・六キロにまで落ちている。三年前にこの病院で血液検査をしてもらったときには、獣医師さんを含めて四人がかかりで押さえつけなければならないほど元気——というよりは強暴——だったのに、今回はもう抵抗したり、シャーシャー威嚇したりする気力もない。

診察台の上で、優しそうな看護師さんに前脚と後ろ脚の付け根を握られておとなしくしている様は、まるで俎板の上の鯉——たとえが安直すぎるけれども——のようだった。

食餌も口にしようとしない。東京時代から下部尿路疾患用のダイエット食を与えてきたのだが、食べてもすぐに吐くようになり、今では手のひらの上に載せて食べさせようとしても、鼻先を背けてしまう。

ほぼ一日中、ソファで寝ている。それでも階段の上がり下がりとか、ベランダに出て外の空気にあたるくらいのことはできる。

血液検査をしてもらった結果、肝臓と腎臓の機能がかなり落ちていることがわかった。外部の検査機関にあらためてホルモン分泌の状態を調べてもらう必要があるが、おそらく甲状腺に問題があるのではないか、と獣医師は言う。

甲状腺という言葉を聞いて、ガンかもしれないと思った。

同時に、十六歳まで生きたのだ、人間であれば八十余、静かに逝かせてやってもいいのではないか、とも思う。

この猫の名前はシマという。この猫をもらってきた経緯は、*23にも書いたし、その変奏曲みたいなものを*71にも書いた。

幼いころ、わが家の二階のテラスまで上がってきた野良猫——近くの飼い猫かもしれないが——と大げんかして、首筋に深傷を負ったときも、彼はベッドの隅でじっとしていた。痛いからといって、人間のように泣き喚いたりしない。

今日は手のひらの上にマグロのチュール(流動食みたいなもの)に胃薬と肝臓の薬を混ぜたものを載せて、食べさせてやった。それだけ、ほかのものはいっさい口にしない。ただ寝ている。

その寝姿を見て、思い出すことがある。

*68に書いた父方の祖父のことだ。この祖父は晩年、心臓の調子が悪くなって、八十を過ぎてからは床に就いていることがおおくなった。そのころ私は東京で学生生活を送っていて、いっしょに暮らしていたわけでもないし、たびたび帰省していたわけでもないから、すべて母から聞いた話なのだが、米の飯はいっさい口にせず、夕飯はお猪口一杯の酒とマグロの刺身一切れだけで命をつないでいたという。

この祖父は私が大学を卒業する直前の年の暮れにこの世を去った。野辺送りの車の中で、どういうわけだか涙が止まらなくなった。人生ははかないものだと思ったか、ああ、なんという潔い死だと思ったか、大学に進学したものの、自分の将来を思い描けるようになるどころか、ただひたすら混乱をきわめ、自分が何をしたいのか、自分が何者なのかまったくわからなくなっている自分が情けなくなったか、とにかく、感情の嵐のようなものが押し寄せてきて、文字どおり滂沱の涙があふれた。

さっさと大学を出なければ、廃人になると思った。

そして、就職した出版社で妻となる女性と出会った。

その妻も十五年前に亡くなった。

彼女が死ぬ一年半ほど前に家に来たのが、シマと名づけられた猫である。

その猫が今、死を覚悟してソファに横たわっている。

おまえも覚悟せよ、ということなのだろう。

閑話という題にふさわしくない内容になってしまったが、「心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし」(日本国語大辞典)というほうの意味を強調しておいて、今日はここまで。

*75 モズ(esq.08)

*6

猫さんの就職した出版社は目黒にあった。初冬の空に初めてモズの大群を見かけた日のことを、彼は今も鮮明に憶えている。入社して半年ほどが経ち、会社勤めにも仕事にも少しは慣れてきたころ、横殴りの北風に吹きつけられながら、山手線沿いに目黒駅のほうに向かって歩いていると、白金台のほうから押し寄せてくる真っ黒な雨雲のようなものが目に入った。まるで駅ビルに襲いかかるように接近してきたかと思うと、駅ビルの壁に沿って急上昇し、寒風を突いて昇れるだけ昇り、今度は戦闘機のような形になって真っ逆さまに降下し、それを何度も繰り返す。駅ビルの前まで来たとき、ようやくそれがモズの大群だということがわかった。モズの群れはひとしきり駅の上空を旋回すると多摩川のほうに向かって飛び去っていった。

唖然としてその場に立ち尽くしていると、背後で女性の声がした。

——猫柳くん。

振り返ると、キャメルのコートの襟もとから暖色系のスカーフと薄い灰色のハイネックを覗かせた女性が立っていた。冷たい風に当たっているせいか、白い肌が紅潮し、目が涙ぐんで見える。虚を衝かれて動揺した猫さんは、言葉を返すことができなかった。それがどういう場面であれ、状況であれ、虚を衝かれるというのはあまり気持ちのいいものではない。彼は、声をかけてきたこの同僚の女性を意識していたし、それゆえ避けていたから、なおさらだった。

猫さんは大学を卒業すると目黒線——当時は目黒と蒲田を結んでいたので目蒲線と呼ばれていた——の沿線に引っ越したので、目黒駅の改札口を通り抜ける彼女の後ろ姿を何度か見かけることがあった。しかし、声をかけることはなかった。それどころか、彼女の後ろ姿に気づくと同じ電車に乗らないように、必要もないのに駅の売店——当時はまだキオスクという呼称は定着していなかったし、そもそもJRではなく、歴とした日本国有鉄道であった——でガムを買ったり、週刊誌を買ったりしていた。

二人の勤めている会社は、出版社としてはそんなに大規模な会社ではなかった。出版しているのは国語と英語と美術の教科書だけだったから、営業部を除いた編集部にかぎっていえば、そんなに大人数ではなかった。猫さんは国語のセクションに配属され、彼女は美術の担当だった。ただし、彼女は二年先輩だった。しかし、年齢は同じだった。彼女は四年制の美術大学を順当に卒業し、猫さんのほうは中学を卒業するのに四年かかり、高校は三年で卒業したが、大学は一年留年したのである。

会社は三階建ての社屋で、二階のフロア全体が編集部になっていた。部署は簡単なパーティションで区切られていた。当然のことながら、狭い給湯室のなかで顔を合わせることもあるし、コピー機の前で譲り合うこともある。当然のことながら礼儀として、頭を下げるし、精一杯の笑顔を作ることにもなる。

彼女の目は大きくもなく小さくもなく、二重でもなかった。しかし、日本人には珍しい薄い鳶色の目をしていた。そして一七〇センチ近い背丈があった。これは当時——七〇年代——の女性としては、大女の部類に入った。

男性社員の誰もが、まぁ美人なんだろうけど、と言葉を濁した。虹彩が薄いのも、背が高いのも、おそらく日本人の男の大半が敬遠したくなる身体的特徴なのだろう。しかも、本人に悪気はないのだろうが、彼女には相手の目をじっと見つめる癖があった。

彼女は背が高いから社のどこにいても目立った。すれ違いざまに目が合うと、彼女はかすかにほほ笑み、目を逸らさなかった。おそらく誰に対してもそうしていたのだろうが、猫さんは否応なく彼女を意識した。意識すればするほど、距離を保とうとした。

猫さんが懸命に彼女を避けようとしていた理由はもうひとつある。べつにもったいをつけるほどの理由ではなく、ようやく手に入れた独身生活——親から経済的にも精神的にも完全に独立した生活——をもっと楽しみたかったのである。ガールフレンドがほしいとは思わなかった。はっきり言えば、様々な理由が重なって女性を恐れていた。その理由をほじくり出して、あれこれ分析したり反省したりするのは、彼の性分には合わなかった。面倒だから遠ざける。それでいいではないかと思っていた。

彼が大学を卒業するのに五年かかったのは、いわゆる学業と生活の両立は、やはりたいへんだったのである。一年分余計にかかった学費は親に負担してもらうしかなかった。そういう親に対する負い目からようやく解放されたばかりだったのである。

それに加えて、学生時代の四畳半一間、トイレは共同、風呂は銭湯という暮らしからも自由になりたかった。目黒にある出版社に就職することが内定したとき、猫さんは目黒線沿線の不動産屋を小まめに歩いて回った。最低でも六畳間と台所、浴室とトイレもほしかった。駅まで多少遠くても、歩いて通えるのであればよしとした。新築でなくとも、しっかりとした造りのアパートを探していると不動産屋には告げた。

そして探しはじめて半月もしないうちに、その条件に適う物件が出てきた。目黒駅から二駅の武蔵小山、駅まで歩いて十分、背後には林業試験場の跡地を整備したばかりの広大な公園が広がる。部屋は八畳、もちろん台所もバス・トイレも付いている。想定していた上限よりもいくらか高かったが、初任給は学生時代にアルバイトで稼げる額の二倍ほどだったから、家賃が高くなっても、それなりにやっていけると計算できた。自炊には慣れていたし、もう学校には行かなくていいのだから、これはほとんど天国ではないかと、学生時代に生活のやり繰りで苦労した猫さんはその場で足踏みしたいほど喜んだのである。この幸福をたった半年、一年で放棄してなるものか。

彼女の名前は波多野庸子という。新入社員として、編集部のひとりひとりに挨拶して回ったときに渡された名刺に印刷されていたこの名前を、猫さんは容姿とともにすぐに記憶した。しかし、モズの大群を目黒の上空に初めて見た日、初対面とは言わないけれど、会社の外で二人きりで顔を合わせるのは初めてなのに、彼女は相手を「猫柳くん」と呼んだのである。後にも先にも、学校の女性教師以外から、くんづけで呼ばれたのは初めてだった。猫さんにしてみれば、相手から一気に距離を詰められ、主導権を奪われたということになる。そういう展開は——男としては——好ましくなかったし、できれば避けたかった。

——これから帰るの?

彼女はいきなりそう尋ねてきた。猫さんはいささか面食らった。先輩風を吹かせたいのか、とも思った。

——いや、ちょっと、本屋に寄ってから……。

嘘ではなかった。早めに帰れるときには本屋に寄るのが、彼のお決まりのコースだった。駅ビルのなかに小さな本屋が入っていて、月末の給料払いでツケにすることもできた。猫さんは当惑したまま歩き出し、そのまま改札口の前を通り、駅ビルの反対側に位置する本屋に向かった。彼女は無言で後ろからついてきた。猫さんは本屋に入ると、文芸誌や囲碁・将棋の月刊誌が並ぶ棚のほうに進んでいった。彼女はモードや映画の雑誌が並ぶ反対側の棚に回った。五分ほど雑誌のページをめくってみたものの気分が落ち着かないので、同年代の若い雇われ店主に会釈をすると店を出た。彼女もあとを追うように店を出て、そのまま二人は改札口を通り抜けた。

言うまでもなく目黒線は目黒駅が始発なので、同じプラットフォームに並ぶことになる。猫さんがいつもの位置に立つと、当然のように彼女も隣に立った。列車が入ってくると、同じ車両の同じドアから車内に入り、並んで吊革を握った。猫さんが避けたかった展開である。無言が続いた。二人ともまっすぐ前を見ていた。外はすでに暗くなりかけていた。並んで立っている二人の姿が窓に映っている。二駅はほんの一瞬である。このまま無言を押し通すわけにはかないと思っていると、彼女のほうが先に沈黙を破った。

——夕食はいつもどうしてるの?

彼女はまっすぐ前を見たまま、そう言った。猫さんは返事に詰まった。馴れ馴れしいというより、順序を一つか二つ飛ばしている。電車のなかで初めて隣り合わせた場合、どこで降りるのかとか、どこに住んでいるのかとか、ふつうそういうことを先に訊くものだろう。つまり、彼女もまた彼が目黒線で通勤し、二駅目で降りるということをすでに知っていたということだが、そんなふうに筋道を立てて考える余裕は彼のほうにはなかった。

——自分で適当なものを作って食べてるけど。

——自炊しているんだ。

そしてまた会話は途切れた。窓に映る彼女が猫さんを見ていた。電車はすでに不動前駅を過ぎて、武蔵小山に向かっていた。

——僕は次で降りますけど?

——次の洗足に行きつけのお店があるんだけど、どうかしら?

彼女が隣の駅から通勤しているということを、猫さんはそのとき初めて知った。まるで自分が誰かに監視されているような気持ちになった。彼女は、真横にいる猫さんの顔を覗きこんだ。ほほ笑んではいたが、真顔だった。

二人は結局、駅の近くの、おかみさんがひとりでやっている京都のおばんざい屋風の店に入ることになった。

ずっとあとになってから、猫さんがのちに奥さんとなる彼女の口から聞いた話であるが、彼が入社してきた第一日目に、わたしはこの人と結婚しようと思ったというのである。

男にとっては空恐ろしい話であるが、この話を聞かされたとき、自分の人生は自分ではどうにもならないものだということを彼は観念した。誰しもそうではないかという意見は正しい。しかし、正しい意見はにわかには信じられない。正しい意見はわかりやすいだけだから。そして、この世にわかりやすいものなど一つもないというのが、還暦を過ぎて生まれ育ったところへ帰ってきた猫さんの感慨でもあった。

*74 閑話(esq.08)

①心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし。閑談。
②内容に重きをおかない話。むだばなし。雑談。
 精選版・日本国語大辞典(小学館)

二十世紀の終わり頃——ということはつまり四半世紀まえの話、ついこないだ終わりを告げた平成が始まったばかりで、私が三十から四十の峠を越えようとしていた頃、次から次へとなりふり構わず引き受けた翻訳と血眼になって格闘していた当時のこと——、仕事の傍らで夢中になって読んでいた小説がある。

藤沢周平の時代小説だ。

まさにはまるとはこのことかと、みずからあきれるほどはまってしまって、たぶん文庫版のほとんどを読んだはずだ。きっかけは『蝉しぐれ』という題の長編小説だった。たしかこの作品の文庫版の書評が朝日の夕刊に載っていて——評者は秋山駿——、さっそく買い求めて読みはじめたら止まらなくなったのである。一作を読み終えたら、すでにそのときこの作家の紡ぎ出す物語の虜になっていた。

作品紹介をしようというわけではないので、細かいことは省く。牧文四郎という下級武士の家に生まれた青年が藩の政争にもみくちゃにされながら成長していく物語である。

ふくという名の幼なじみが登場する。文四郎の初恋の相手である。文四郎は切腹して果てた父の遺恨を背負い、ふくは藩主の側室となり、両者とも悲運に翻弄されて人生を歩むが、長い歳月が経過して、藩主亡き後、出家して尼僧となることを決意したふくは、文四郎と再会することを願う。

その再会の席で、ふくは文四郎に言う。

「ふくが文四郎様のお側で生きる道はなかったのでしょうか」

この言葉どおりだったか、文四郎がそれにどう応じたか、じつは心許ない。というのはさっき、原作を確かめなくてはと思い、本棚を調べてみたのだが、どういうわけだか『蝉しぐれ』だけ見つからないのである。これだけのロングセラーだから、図書館か最寄りの本屋にでも行けば、すぐに確認できるはずだが、あえてこのままにしておきたい気分なのである。

馬で帰路につく文四郎に降りそそぐ、耳を聾さんばかりの蝉しぐれ、それは読者の心に永遠に鳴り響いてやまない。

*69(esq.03)では、「これは猫さんが恋をする話である」と書いた。次の*70(esq.04)では「この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である」と書いた。

初めから、そんなことを想定していたわけではない。ほとんどやけくそのように、猫柳香という名前が頭に浮かんできたとき、物語は勝手に始まったのである。猫さんが医者に鬱病と診断される場面も突然降ってきた(原形は*20の「診察室」にある)。

この断片を書き終えたとき、はっきりと、初恋(ファーストラブ)が終の恋(ラストラブ)になり、核融合のようなエネルギーを爆発させる、そんな物語にしたいと思った。人生を歩むエネルギーは核分裂のようなものかもしれない。だから終わりくらいは融合させてみたい。それはおそらく小説のなかでしか実現できないだろう。

始まったばかりで、文字どおり海のものとも山のものともしれない物語をみずから解説する愚は避けたい。七〇年代を生きた文学青年のあいだで、ほとんど伝説と化した堀川正美の白鳥の歌、「新鮮で苦しみおおい日々」全篇をここに書き写しておくことにする。

 

時代は感受性に運命をもたらす。

むきだしの純粋さがふたつに裂けていくとき

腕のながさよりもとおくから運命は

芯を一撃して決意をうながす。けれども

自分をつかいはたせるとき何が残るだろう?

 

恐怖と愛はひとつのもの

だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。

精神と情事ははなればなれになる。

タブロオのなかに青空はひろがり

ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。

 

時の締切まぎわでさえ

自分にであえるのはしあわせなやつだ

さけべ。沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊

してきたことの総和がおそいかかるとき

おまえも少しぐらいは出血するか?

 

ちからをふるいおこしてエゴをささえ

おとろえてゆくことにあらがい

生きものの感受性をふかめていき

ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。

だがどんな海へむかっているのか。

 

きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。

円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて

わずかずつ円熟のへりを噛み切ってゆく。

死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき

かたくなな出発と帰還のちいさな天秤はしずまる。

*73 夫婦のこと、親子のこと(esq.07)

*5

 

猫さんの奥さんと、猫さんの母親は仲がよかった。まるで血のつながった親子のように。いや、その譬えは違うのかもしれない。実の親子というものは、そもそも仲がよくないものではないのか。自分自身が父親に対しても、母親に対しても、そしてその関係に対しても齟齬と葛藤を抱えて成長してきた猫さんはそう思うのである。

でも、それもわからない。誰しも余所の親子の愛のかたちなど窺い知れるはずもないし、自分の家族については距離が近すぎて、誰しもよく見えないものであるだろうから。仲のよい親子というのもあるだろうし、仲のよい嫁と姑というのも世間にはごくふつうに存在するのかもしれない。

とにかく、猫さんの奥さんと母親は仲がよかった。最初から気が合ったというのではなく、年を追うごとに、歳月を重ねるにつれて、親密さの度が増していき、最後には共犯関係のような壁さえ築かれて、夫であり息子であるはずの猫さんさえ容易に立ち入ることのできない二人だけの世界が醸成されていったのである。

猫さんは、それに違和感を覚えながらも、妻と親が仲良くしてくれるのは基本的にはありがたいことだったし、妻からも母親からも鬱陶しい干渉がないのはむしろ救いであった。

猫さんは高等学校を卒業して大学に入ったとき、両親の家を出た。学費は親が出してくれたが、生活費は自分で働いて稼いだ。アルバイトと学業の両立はたいへんだったでしょうと人によく言われるのであるが、猫さん本人はそんなにたいへんだと思ったことはなかった。それよりも親の家を出て、自立した生活を送ることのできる喜び、解放感のほうが圧倒的に大きかった。

猫さんは一人っ子であった。だから、その分だけ親の干渉、とくに母親の干渉が大きかったのだろうと誰もが想像するだろうけれど、猫さんが家を出た理由はそこにはなかった。奇妙な言い方になるけれども、父と母の絆が強すぎて、水入らずの家族であるはずの空間に自分の居場所が見つからなかったのである。

しかし、奇妙なのは自分のほうかもしれない、と猫さんは最近思うのである。両親と死に別れ、妻とも死に別れ、半世紀以上暮らしてきた東京を離れ、幼少期を過ごした土地に戻ってきて、あらゆるものと距離を置いて振り返ってみたとき、自分の感受性のなかに、いつのまにか自分自身を群れや集団から孤立させてしまう何かが潜んでいるのかもしれないと思うようになったのである。

猫さんの父は哲学者であった。朝から晩まで考えている顔をしていた。文字どおり無口であった。ほとんど何もしゃべらなかった。生活に関する一切合切、すべて妻に任せっきりであった。衣食住にまつわる好き嫌い、趣味、嗜好、そういうものにいっさい関知しなかった。すべて妻が選択し、それに異を唱えることはなかった。もしかすると、自分が今何を食べていて、何を着ているのか、それさえわかっていなかったかもしれない。生活に関しては、すべてが上の空であった。妻が肉体で、彼は頭脳であった。頭脳は肉体の一部にすぎず、肉体に依存しているくせに、肉体の中心にいて、肉体に指令していると勘違いしている奇妙な細胞集団である。

猫さんには、父と会話したという記憶がない。そのあるかないかの父と子の会話さえ、妻であり母である存在が代行していた。猫さんの母親は自分の夫の世話で精一杯であった。息子のことにまで気も手も回らなかった。

だから、すべてにわたって猫さんの父親は息子の反面教師であった。物心ついてからは——正確に言えば、中学生になって東京に出て来てからは——身の回りのことはすべて自分でやった。着るものは小遣いのなかから自分で買い、自分で洗濯し、アイロンが必要であれば自分でかけた。気むずかしい父の世話で神経をすり減らしている母の手を煩わせたくなかった。いや、母の世話になりたくなかった。高校生になって、生活のリズムが両親のそれと合わなくなり、ずれるようになると、食事も自分で作るようになった。母が台所に立っていない隙をぬって、弁当を作り、夜食を作った。

だから、大学に入り、自活するようになったとき不便はいっさい感じなかった。夜のアルバイト——居酒屋の店員であるとか、夜間の土木工事であるとか——で疲れた身体を引きずって学校に通うのはなかなか辛いものがあったが、睡眠不足はキャンパスのベンチで補うことができたし、勉強や読書は講義のない教室や図書館ですませた。四畳半のアパートはただ寝るだけの場所だった。

自分は自由だと感じられるとき、人は思いがけない力を出せる。逆に人に強いられて何かをするとき、そこには計り知れないエネルギーロスが生じるというのが、猫さんの生活信条であった。

大学を卒業して就職した先は教科書の出版社だった。文学部を出て就職できる先は限られていた。教職の免状を取得して教員になるか、新聞社か出版社に勤めるか、猫さんが思い描ける就職先はそれくらいしかなかった。教員にはなりたくなかった。理由は単純明快、父親が教員だったからだ。北海道では高校教師、東京に出て来てからは某女子大学の教授。教師にだけはなりたくなかった。新聞社も自分には向いていないと思った。誰かに会って取材したりインタビューしたりしている自分が想像できなかった。残るは出版社しかなかった。

父親が大学教授だったから、家の中は本で溢れかえっていた。書斎はもちろんのこと。玄関にも廊下にも本が積んであった。猫さんが家を嫌い、教師を嫌う理由は、この山のような本のせいかもしれなかった。しかし、血筋は争えないというべきか、猫さんも読書家であった。ただし、哲学書は読まない。読んだのはもっぱら小説であり、詩であった。猫さんの寝室もまた、本で溢れかえっていた。

一人暮らしをはじめたとき、これらの本を全部、四畳半のアパートの一室に運びこむことは不可能だった。けれども、実家の自分の部屋に本を残して出たくなかったので、古本屋を呼んで大半を処分した。四畳半の部屋に持っていくべき本を本棚一つに限定し、選別する作業はことのほか辛かったし、時間もかかった。迷ったら捨てるという原則を貫いても、本棚一つには収まりきらなかった。

出版社は何社か回った。猫柳という名前が珍しいので、まずそれが面接担当者の目を惹いた。父の名を知っている編集者もいた。「ひょっとして、あの哲学者の猫柳亮先生の息子さん?」父の名が出ると、猫さんの気持ちは萎えた。できれば父の重力圏の及ばないところに行きたかった。

そうして数社回り、最後にたどり着いたのが教科書の出版社だった。そこの面接担当者もまた猫柳亮の名を知っていた。しかし、哲学者としての父ではなく、高校教師だったころの父を知っている人だった。

——高校の先生にしてはとてつもない学識を持った人だと思っていたけど、やっぱり収まりきらなかったんだね、と言って、その人は遠くを見るような目つきになった。若いときは、北海道を回る営業マンだったと懐古した。教科書というのは地区で一括採用される出版物なので、採用されると大きな数字になる。だから、各社の営業合戦が激しい業界でもある。

——それとね、やっぱり色男だったよな。研究者気質なんだけど、色気があった。

この「やっぱり」は何を意味するのか、と猫さんは訝った。しかし、高校教師だった頃の父を知っている人に初めて出会ったことが、猫さんの心を揺すぶった。もう少しこの人の話を聞きたいと思った。

——父とはどういうお付き合いだったんでしょうか? と尋ねてみた。

——ごくふつうの教科書会社の営業マンと教科の担当の先生との、年に一度か二度のお付き合いにすぎないけれどね。猫柳先生は絶対に接待を受けない人だったから、そのお付き合いも難しいのだけれど、見識は抜群だから、編集部からも教科書の出来栄えについてよく話を聞いてきてくれと言われたし、教育委員会の教科書選定会議でも鶴の一声じゃないけど、影響力があったからね。

猫さんはそんな話には惹かれなかった。堅物の親父のことなら自分が一番よく知っている。気になるのは、さっきのあの「やっぱり」だ。しかし、新入社員を採用するための面接の席で、これ以上突っこんだ質問を繰り出せるわけがなかった。ここに入社すれば、話の続きが聞けるかもしれないと期待したわけではないが、何か因縁じみたものは感じた。そうしたら後日、出版社から猫さんのアパート宛てに採用通知が送られてきた。別にいいじゃないか、ここで。猫さんに迷いはなかった。

そして、この会社で猫さんは、のちに奥さんとなる女性と出会ったのである。

*72 猫の記憶(esq.06)

文字は石にきざまれて、そこに残る。

声は風にのって、空に消える。

石は風にけずられて砂となり、

砂をはこぶ風の行方は風にもわからない。

 

*4

 

猫さんはテレビを見ている。チャンネルはBSのどこか。景色はスコットランドのどこか。青々とした牧草地がどこまでも広がっている。たくさんの犬たちが草原を走り回り、跳ね回っている。大型犬もいれば小型犬もいる。微風に乗って滑空するフリスビーを追ってジャンプし、空中でキャッチするシェトランド・シープドック。遠くに放り投げたテニスボールを追って疾走するディアハウンド。燦々と降りそそぐ日の光を浴びて草むらに横たわるゴードン・セッター。近景にも遠景にもまだまだたくさんの犬たちが走り、じゃれ、跳躍している。

スコットランドのトップブリーダーと称される女性が画面に大写しになっている。赤みがかった金髪をポニーテールにしている。化粧っ気はなく睫が長い。肌は小麦色、見るからに健康そうだ。中背で細身だが、鍛えられた身体であることは、ワークシャツの肩を盛り上げている筋肉の張り具合からもわかる。ゲール訛りの英語のせいか、画面の下に字幕が出ている。日本語吹き替えの合間から聞こえてくる本人の肉声はアルトだ。

——犬というのは、人間が狩猟生活を集団で行うようになったころから人間とともに生活してきました。虚弱で野性の生活には不向きで親から見捨てられた狼の仔を拾ってきて、人間の群れのなかで育てたのがはじまりだと言われています。だから犬はとても依存性が強いんです。人間にとてもよく似ています。犬が躾けやすいのはそもそも人間に似ているからです。似た者同士なんです。猟犬、牧羊犬にはじまり、近代に入ってからは盲導犬、警察犬、麻薬犬など、様々な分野で彼らは人間とともに働いてきました。それは今も変わりません。でも、圧倒的に増えたのが愛玩犬です。それとともに圧倒的に悲劇も増えました。事故、病気、そして虐待です。犬もときとして牙を剥きます。人間だって暴力をふるいます。彼らは動物です。人間も動物です。でも、動物だから暴力をふるうのではありません。人間だから暴力をふるうのです。犬が突然人間に噛みつく。その理由はさまざまです。言えることはひとつだけです。適切な距離を保つこと。スキンシップは大切です。でも、だらだらと節度なくいつまでもくっついているのはよくありません。人間にとっても犬にとっても。私たち人間が成熟しなければいけません。犬を依存性の強い生き物にしてしまったのは、私たち人間です。人間にはその責任があります。人間とともに生きてきた犬たちは、まさに人間の鏡です。彼らは幸福なんだろうかと私はときどき思います。同時に、私たち人間は幸福なのだろうかとも思います。

カメラが女性の顔から逸れて、遠くで草を食んでいる羊の群れをパーンしていく。その手前には元気に飛び跳ねている犬たちがいる。空の雲が画面の左から右に向かって流れていく。

猫さんがこの番組を見たのは、ずいぶん昔のことだ。たしかBS放送がはじまって間もなくのころではなかったかと見た本人は思っているが、ビデオに録画したわけでもないので証拠はない。記憶だけはくっきりしている。そのころのBSでは、海外の放送局が制作した番組がよく流れていた。スコットランドの女性ブリーダーが登場した番組はBBCの制作ではなかったか。これもまた猫さんの記憶に属することで、確証はない。

猫さんが見るテレビ番組は、ニュースを除けば、野生の動物たちの生態を特集したドキュメンタリーが多い。ドラマや音楽番組はあまり見ない。いわゆるバラエティのたぐいはまったく見ない——と本人は言っている。録画することはないので、そのための装置もない。猫さんが鮮明に憶えているもう一つの映像がある。これも野生の動物を映したものだが、どんな番組だったか、地上波だったか、BSだったか、それさえも忘れて、映像の断片だけが残っている。

登場するのは犬でも猫でもなく、キタキツネの親子だ。キタキツネが登場するのだから北海道の風景であるが、猫さんがこの映像を見たのはこちらに帰ってきてからではなく、東京である。例によって、いつごろ見たのか、どこで見たのか——自宅か、どこかの店内か——、まったく記憶にない。映像だけが残っているのである。

真っ向から吹きつける猛烈な地吹雪のなかを、キタキツネの親子が歩いていく。画面はほぼ真っ白である。中央にぽつんと二つ黒っぽい点が見えるだけ。遠景にはカラマツの防風林らしきものがぼんやりと映っている。北海道のどこかの畑だろう。あたり一面雪に覆われ、なおかつ吹雪のせいで地形も何もわからない。これでは地方を特定することなどできない——いや、番組ではたしかナレーションが入っていたはずだが、猫さんの記憶からはすっぽり抜け落ちている。

カメラが中央の二つの黒い点をズームアップする。尻尾が長く太いからキツネであることがわかる。顔面をまともに襲う吹雪をさけるために前屈みになり、前脚を踏み出すたびに少し埋まり、引き抜いてはまた前に差し出し、また埋まる。それを四本の脚で繰り返す。見るからに重労働だ。どこから来て、どこに向かうつもりなのか。画面に映し出だされているのは、荒れ狂うホワイトアウトの世界だ。

餌を求めて? いや、こんな吹雪のなかを移動するくらいなら、どこかの林のなかでじっと息を潜めていたほうがいい。移動しているうちに猛吹雪に遭遇した? そうかもしれない。

後ろの一匹が埋もれて立ち止まる。やや小柄に見えるから、子狐かもしれない。それに気づいた母狐——たぶん——が立ち止まり、振り返り、そして二、三歩戻り、鼻先を相手の鼻先に近づける。子狐は力を振り絞り、前脚を踏み出し、後ろ脚を抜き、また前に歩きはじめる。

後ろの子狐は徐々に遅れていく。そしてまた雪に埋もれる。母親がまた戻っていく。自分の鼻を子の鼻に近づける。何度も何度も。そして顔を上げる。その間、二秒か三秒。母親は吹きつける地吹雪のほうに顔を向け、子供から立ち去っていく。

画面は固定されている。母親は画面の中央から左に向かって歩きつづけ、やがて画面から消える。カメラはそのあとを追わない。ホワイトアウトのなかに、ぽつんと小さく黒い点が残る。

その映像を見終わったあと、猫さんはあれこれ想像した。母親は子供のところに戻ると、二、三秒、鼻を近づけた。あれはまだ歩けるかどうか確認していたのだろうか。それとも死んだわが子を弔ったのだろうか。でも、むしろ猫さんが気になったのは、その二、三秒のあいだに母親が何を考えたか、何をしていたかではなく、そのときたしかに時間が止まっていたように感じられたことだった。

時間が止まっていた? いや、その間も吹雪は舞い、母狐は鼻先を動かしていたではないか。時間が止まっているように感じられたのは、おまえが息を詰めてその場面を見ていたからではないのか。猫さんは自問自答する。

いやいや、そうではない。

どっちも、違う。

時間は同じように動いていたのでも、止まっていたのでもない。

あの瞬間——二、三秒のあいだ——、時間は加速して、重みを増したのだ。

自分はそれを経験したと、猫さんは思っている。奥さんが病院のベッドで絶命する寸前の、二、三秒間、時間は止まったのではなかった。時間は急激に加速して、ブラックホールに吸い込まれていくように、死の井戸に落下していったのだ。猫さんもまた、その死の井戸に吸い込まれるようにして——キタキツネの母親がわが子の鼻先に鼻を近づけたように——奥さんの顔を覗きこみ、叫んだのだ。

——おーい、いっちゃうのか、と。

その声もまた井戸に吸い込まれていった。

彼女の意識も消えた。記憶も消えた。肉体も焼かれて消えた。

けれども、猫さんの記憶のなかに、彼女の姿、彼女のしたこと、語ったこと、書き残した言葉のいくつかも残っている。

でも、それは脳のある一部分——海馬とか呼ばれているところ——に刻まれたものだろうか。

長椅子の横で丸くなって寝ているネコの眉間を撫でながら、猫さんは思うのだ。

彼女が今ここに現れたら、ネコはきっと驚き、二、三秒とまどい、そして彼女に擦り寄っていくだろう、と。たとえ匂いもなく、声もなく、姿さえ見えなくても。