*50 持ち重りのする言葉


学生時代に夢中になって読んだ本のひとつに、ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という本がある。

この本を開いたとたん、文字どおり、目を奪われた記憶がある。奇妙な二段組みになっていたからだ。「奇妙な」というのは、ページの中央で均等に分かれている二段組みではなく、一対三くらいの割合の二段組みなのである。よく見ると、ただの二段組みではなかった。本文があって、上三分の一(原著の場合は横組みなので、左ページは左三分の一、右ページは右三分の一)がその本文にたいする自註なのだった。自註のほうが活字も少し小さい。

最初からそんな版面の本だったわけではない。本文は一八九五年に『新評論』(La Nouvelle Revue)に発表された。著者、若干二十四歳のときのことだ。単行本になったのは、それから二十四年が経過した一九一九年、この時点では自註はなく、当然、ふつうの版組だった。

欄外自註は一九二九年から三〇年のあいだに書かれ、一九三一年に刊行された Sagitaire 版と呼ばれる複写版の刊本で初めて読者の目に触れることになったという(筑摩書房版ヴァレリー全集、一九七三年新装版第五巻の書誌より)。

夢中になって読んだと冒頭に書いたけれど、よく理解できなかったので悪戦苦闘したというべきかもしれない。悪戦苦闘のまま卒論にまとめて出したら、論文主査の室淳介先生に「おれにはこれしかわからんよということがよくわかる」と言われて、変に感動した記憶がある。「あ、ちゃんと読んでくれたんだ」

室先生はサント=ブーヴが専門で、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を本邦初訳した人でもある。といっても、当時はサント=ブーヴにもレヴィ=ストロースにも興味がなかった。

「きみ、うちに遊びにおいでよ」と言われて、のこのこ国立のお宅にお邪魔したことが一度あった。「駅から歩いていくと、大きな欅の木が見えるからすぐわかるよ」。浮世離れした先生だった。授業中に黙りこくってしまう。一分や二分ではない。五分くらい。教室がざわめく。お会いしたとき、「先生、あの沈黙はとても不安です」と言ったら、「いや、授業中に考え事するのは気持ちがよくてね」だと。

世が世なら、大学院に残って、この先生の指導を受けていたかもしれない。

この本の欄外自註に、こんな文章がある。

 

思考における、とりわけ現実的なものとは、感覚でとらえられる現実の素朴な似姿{イマージュ}ではないもの、とでも言おうか。ところが、われわれの内部で生じるものを観察すると、そもそもこの観察自体が不確かで、往々にして疑わしいものなのだが、ついわれわれは、この〔思考と感覚の〕二つの世界は比較可能なものと信じてしまう。その結果、いわゆる心的世界を感性的世界の隠喩、とりわけ身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現することになる。
 たとえば、思考[pensée]と計量[pesée]、把握[saisir]、理解[comprendre]、仮説[hypothèse]、総合[synthèse]、など。

 

最後の一段落を補足すると、フランス語における「考える」という動詞penser はラテン語の pensare に由来し、元来は重さを量るという意味だった。peser という動詞も、諸説あるが、同語源らしい。saisir はもともと「握る」という意味。comprendre は、com という接頭辞とprendre という動詞に分解できる。すなわち「まとめて掴む」という意味。hypothèse (仮説)は「下に置く」という意味。synthèse(総合)は「一緒に置く」という意味。

ちなみに日本語の「考える」はカムカフ、すなわち二つのものを向き合わせるという意味(岩波古語辞典、補訂版一九九〇年、古くてスイマセン)。加えて、オモヒ(思ひ)とオモシ(重し)はどこか似ているが、語源は違うらしい。

言語が、われわれ人間が外部世界と触れるときの感覚に依拠していることは、それはもう言語の宿命というほかないだろう。だが、認識——とりわけ科学的認識——は、素朴な感覚的イメージから身を切り離すところにその本質がある、あるいはそのとき初めて精神はおのれにふさわしい固有の現実性を獲得すると、ヴァレリーはここで言っている。

これはガストン・バシュラールが『科学的精神の形成』(La formation de l’esprit scientifique, 1938)で展開している「認識論的障害物」に関する主張とほぼ同じことを言っているように思える。

 

科学的精神は〈自然〉に抗して形成されなければならないのである。われわれの内部においても、われわれの外部においても存在する〈自然〉からの衝迫や教唆に抗して、自然の牽引力に抗して、彩色された多様な事象に抗して形成されなければならない。科学的精神は、おのれを作り直すことを通じて形づくられていくものなのである。

 

だから、現代の科学は数式の体系と表現を必要とする。言語はそれ自体のうちに認識論的障害物を含むから。科学的精神が〈自然〉に抗して形づくられるべきものならば、それはある意味で〈非人間的〉なものでもある。

言い換えるなら、ガストン・バシュラールのいう「科学的認識」とは、身体的イメージに依存する呪術的な実体論{レアリスム}を思考から切り離そうとする不断の努力をさす。しかし、彼はその一方で呪術的イメージにあふれる文学論を展開したのである。『蝋燭の炎』『水と夢』『空と夢』・・・・・・、いずれもタルコフスキーの映像世界を言葉と論理に置き換えたような著作ばかりだ。ベクトルが真逆を向いている科学認識に関する論文と文学論の二つを併せ読まないと、バシュラールを読んだことにはならない。

先日の塾の例会で、「持ち重りのする言葉」という表現を使った。もしかりに、自分が頭のなかで行っている翻訳作業を、ヴァレリーの言うように「身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現する」ならば、両腕を左右に開き、それぞれの手のひらを天に向け、左にフランス語の単語を、右に日本語の単語を置いて、あたかも自分の身体を天秤にするがごとくに、いつも左右の重さを量り比べているような感覚に近い。もちろん、左右の天秤皿に載っているのは単語ばかりではなく、複数の単語からなる熟語の場合もあるし、文全体のこともあるし、段落丸ごと載せることもある。

こうして翻訳全体が一冊の本となってできあがったとき、左に載せたフランス語の原本と翻訳本が釣り合っていれば、それは完璧な仕事ということになる。

が、そんなことはありえない。単語でさえ、釣り合うことはない。まったく違う言語なのだから。できることは、できるだけその誤差を小さくすることだけ、というわけだ。

翻訳は、基本的には意味(signifié)しか置き換えることができない。そのような限定——あるいは断念——のもとでは、意味さえ釣り合っていればよいということになる。しかし、言語(langue)は意味だけで成り立っているわけではない。言語は音韻の体系でもある。日本語と印欧語の場合、文法と統辞以上にこの音韻体系がまったく違う。これは翻訳不可能である。詩が翻訳不可能と言われる所以もここにある。

しかし、詩の翻訳はある。元の詩が豊かな詩情を湛えていればいるほど、そしてその詩が書かれている言語にたいする理解が進めば進むほど、それを母語に置き換えてみたいという意欲なり野心なりは抑えがたいものになる。なぜか、とは問わない。むしろ、翻訳の本質と困難は、詩の翻訳に象徴されていて、人はその対象が困難であればあるほど、それを乗り越えたいという衝動を刺激されるものだと言うに留めておこう。アルチュール・ランボーの詩に「母音」と題された有名な作品がある。中原中也の訳で引用してみよう。

 

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
 おまへたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう。

 

ランボーはこう語り出して、A、E、I、U、Oの五つの母音それぞれのイメージを二行ずつに分けて、いかにも象徴詩{サンボリスム}風に歌い上げている。さすがの中也もここでは律儀に一語ずつ丁寧に拾い上げて、どちらかと言えば「直訳」っぽく訳している。それはたぶん、この詩が他国語の理解を拒んでいるからだ(たとえば英語、ドイツ語、イタリア語を母語にする人にとってはどうかわからないけれど)。

むしろ、フランス語を母語にする読者にとっても、ただちに共感できるというようなものではないと言ったほうがいいだろう。「アー」と発音する母音から、

 

A、眩ゆいやうな蝿たちの毛むくぢゃらの黒い胸衣{むなぎ}は
 むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

 

というようなイメージをそのままのかたちで共有できる人はほとんどいないだろう。いるとしたら、その人は特異体質か何かだ。事実、この詩を精神病理学の一症例として読み解く論文をどこかで読んだ記憶がある(どの本だったか、どうしても思い出せない)。

それはともかく、母音に色があるというのなら、言葉(単語)には、重さがあると言ってみたらどうか。もちろん、匂いのようなものもあれば、手触りのようなものもあると言ってみてもいいのだけれども、いちばん肝心なのは、重さ、重みではないか。

重さというのは、端的に言って、時間の重みをさす。

その単語に降り積もった時間の重さ。語源的に古ければ重いということではなく、太古の昔から今の今まで使いつづけられてきた言葉。

とくに動詞。なぜなら、どんなに時代と文明が変転しようと、人間の肉体はそれほど変化していないから。少なくとも、人間が言語を得て、文字を得てからの数千年単位ではほとんど変化していないだろう。たとえば「見る voir」「聞く entendre」「触る toucher」など、五感に関係する動詞、あるいは「立つ se lever」「歩く marcher」「走る courir」などの基本的動作にかかわる動詞など。その土地に自生する植物のような言葉、そういう言葉を「持ち重りのする言葉」と呼びたいのである。

こういう動詞が出てきたときに、漢熟語は当てたくない。漢字そのものも、できるだけ開きたくなる。漢字は見た目は重そうに見えるが、日本人の感覚にとっては音であるよりもほとんど視覚的概念なので——だから、やたらに同音異義語が多い——、じつは軽い。日本人にとっては、漢語よりも和語のほうが重い。漢字の多用は、見た目を煩雑にし、思考に負担をかけるので重く感じられるが、じつはその反対なのだ。天秤は左に傾く。

翻訳家は天秤が傾くことを嫌う。

話の角度を変えてみよう。聖書から引用する。

 

太初{はじめ}に言{ことば}あり、言は神と偕{とも}にあり、言は神なりき。

 

これは新約聖書中四番目に置かれている「ヨハネ福音書」冒頭の文語訳である。岩波文庫の一冊として復刊された『改訳 新約聖書』(米国聖書会社、一九一七年)からの引用である。たぶん、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。口語訳ではどうなっているか、新共同訳(日本聖書教会、一九八七年)から引用してみる。

 

初めに言{ことば}があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 

この二つの訳を比べたとき、日本人ならば誰もが、文語訳のほうが格調が高く、重々しいと感じるのではないか。ここに引用した新共同訳(カトリックとプロテスタント双方の聖書学者、神学者の共同作業による翻訳という意味)は一九五四年に成立した初めての口語訳聖書を母胎にしていて、このヨハネ福音書の冒頭訳は、この戦後初の口語訳聖書をそのまま踏襲している。この口語訳の評価は、とりわけ文語訳に馴染んだキリスト教信仰者、あるいは作家たちには、必ずしも高いものではなかった。聖なる書物の言葉らしからぬ、と。

しかしここには、聖書の翻訳のみならず、翻訳一般にとっての重大な問題が潜んでいる。新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。もちろん、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書もギリシア語で書かれている。なぜか。

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

ギリシア語で書かれていると言ったが、正確にはコイネーのギリシア語といって、ギリシア本土のアッチカを中心にして語られていたギリシア語とは区別されている。専門的なことはよくわからないし、ここで深く立ち入る必要もないので、イギリス本土で語られている本来の意味での英語と、国際標準語と化した感のある米語の違い程度におさえておけば、ここでは足りるだろう。

四つの福音書のうち、最初に書かれた福音書の作者マルコは原始キリスト教団のなかで、ヘレニストと呼ばれるグループに属していたと推定されている。ギリシア語を話す人という意味である。イエスの教えは、彼が十字架の上で処刑されたのち、瞬く間に地中海沿岸各地に住む、いわゆる離散ユダヤ人のあいだに広まっていった。迫害されて離散していったのではなく、商人として各地に根付いていった人々である。彼らは商人である以上、当時の地中海世界の共通語であるギリシア語を話す人々であった。ユダヤ人であっても割礼の習慣を失った人もいた(パウロの手紙参照)。

マルコは、そういう人々に向けて、ギリシア語で風変わりなイエスの伝記を書いたのである。ふたたび、なぜか。イエス亡きあと、最初期のキリスト教団は、当然のごとく「十二使徒」と呼ばれる人々によって立ち上げられた。ペテロ(今はペトロと呼ぶのが主流)を初めとするイエスの召命を受けた最初の使徒たちは「ヘレニスト」ではない。イエスもまた、ギリシア語を語った形跡は、少なくとも福音書のなかには見いだせない。あろうことか、最初期の教団の中心には、この使徒たちだけではなく、イエスの母と兄弟のも含まれていた。

なぜ「あろうことか」、なのか。マルコ福音書の第三章には、次のような記述がある。

 

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(新共同訳)

 

つまり、肉親、血縁の延長上に信仰はないと明言しているのである。それなのに現実には、イエスによって否定された肉親たちが初期の教団の中枢にいて、ヘレニストたちを抑圧とは言わないまでも、ないがしろに扱う(「使徒言行録」参照)。これはイエスの教えに背くのではないか。

そう、マルコはのちに「福音書」(Evangile)と呼ばれるイエスの伝記を書くことで、当時の教団のあり方にノーを突きつけたのだ(田川健三)。

さて、これが前提である。そして、問題はマルコが書いたギリシア語による福音書はどんなものであるか、ということだ。

ひとつの言語の歴史を背負う文語ではなく、当時の地中海世界で日常的に流通していた口語なのである。しかも、マルコのギリシア語は、マタイ、ルカ、ヨハネと比べて、下手だったというのである。イエスが肉親を否定するこの場面、格調高い日本の文語ではどのように訳されているか。

 

爰{ここ}にイエスの母と兄弟と来りて外に立ち、人を遣わしてイエスを呼ばしむ。群衆イエスを環{めぐ}りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんぢの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ』イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰{たれ}ぞ』斯{かく}て周囲{まはり}に坐する人々を見回して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても神の御心を行ふ者は、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』(仮名遣いは原文のママ。総ルビだが一部だけ残した)

 

たしかに格調高い日本語である。だが、「格調高い」と感じるのは、そもそも文語だからではないのか。そして、原文が口語で書かれているとき、文語でなされた翻訳は正しいのか。

そもそもの問題は、ギリシア語で書かれた新約聖書をヒエロニムスがラテン語に訳した時点にさかのぼる。そもそもこのラテン語訳聖書(ウルガタ聖書と呼ばれる)が文語であり、信仰の主体である一般信徒には読めないものだった。だから、ラテン語の読める神父さんが教会で嚙んで含めるように信者に伝えていった。やがて教会組織の肥大化と中央集権化にともなって堕落と腐敗が進行し、あの血気盛んなマルチン・ルターの登場となるわけだが、それはまた別の話だ。

要は、ここにギリシア語原文を引用して、解説できるだけの教養と語学力があればいいのだが、無い物ねだりをしてもはじまらない。苦肉の策として、フランス語訳をここに挙げてみよう。フランス語訳ならなんでもいいというわけにはいかない。ここに引用するのは、フランスのカトリック、プロテスタント双方の共同作業による「共同訳」(Traduction Oecuménique de la Bible. 1995. 略してTOB——トープと発音するらしい)である。最新の聖書学の知見をもとに、ギリシア語原文にできるだけ「忠実な」翻訳を試みたといわれる労作である。

 

Arrivent sa mère et ses frères. Restant dehors, ils le firent appeler.

La foule était assise autour de lui. On lui dit : “Voici que ta mère et tes frères sont dehors ; ils te cherchent.” Il leur répond : “Qui sont ma mère et mes frères ?” Et parcourant du regard ceux qui étaient assis autour du lui, il dit : “Voici ma mère et mes frères. Quiconque fait la volonté de Dieu, voilà mon frère, ma soeur, ma mère”.

 

その母と兄弟がやってくる。外に立ち、彼を呼んできてくれとたのむ。
 群衆が彼を取り巻いて座っていた。「あなたの母親と兄弟が外に来ている。あなたを迎えに来たのです」と言われて、「わたしの兄弟、わたしの母とは誰のことか」と彼は答える。そして、自分の周囲に座っている人々を見回し、こう言った。「ここにいるのがわたしの母とわたしの兄弟である。神の意志をおこなうものこそ、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母なのである」(高橋訳)

解説はしない(できない?)

ランボーの詩に戻ろう。同じ「母音」の第一連。でも、鈴木信太郎訳である。

 

A{アー}は黒、E{ウー}白、I赤、U緑、O{オー}は藍色、
 母音よ、汝が潜在の誕生をいつか、我は語らむ。
 A{アー}、無慙なる悪臭の周囲に唸りを立てて飛ぶ
 燦めく蠅の 毳斑{けまだら}の 黒き胸當{コルセエ}、

(人文書院版『ランボー全集』第一巻、一九七六年)

 

いかにも古いという印象を与える翻訳だ。まるでラテン語から訳したような感じさえする。学生のころは、こんなのが名訳としてもてはやされる時代は終わったと思っていた。何が気にくわなかったか。やたらに画数の多い、強迫(脅迫?)めいた漢字の使い方。文学といえば漢文学をさし、詩といえば漢詩をさしていた時代の残滓のようなものを感じたのである。

でも、最近は考え方が変わってきた。ランボーの原詩のなかにすでに衒学趣味が潜んでいると思うようになった。中原中也はそれを vanité、すなわち虚栄と呼んでいる。

アルチュール少年はことばの天才だった。中学生ですでにラテン語の詩を書いていた。すげぇな、と若いころは思ったが、よく考えてみれば、多少早熟であれば、日本人だって中学生で平安朝風の短歌を詠む子はいるだろう。優れた作品になるかならないかは別として。

言語{ラング}は規範{コード}であるから、それなりの才覚とセンスさえあれば、たちまちのうちにこれを習得することはそんなに難しいことではない——と凡才の自分が断言するのも憚れるけれど。

そういうことよりも、最近は時代と個人が交錯するときの、宿命とか運命とか呼ばれるもののほうに関心が向くようになってきた。年をとってきたというべきなのか、それなりに成熟してきたというべきなのかは、自分ではもちろんわからない。

ランボーの詩的世界のまばゆさは、電流がショートしたときの火花に似ている。ランボーという一個の肉体の現在時が、ひとつの言語のなかに蓄えられた幾重にもかさなる時間と時代の層を突き破っていくときの快感をまざまざと見せつけてくれる。

でも、こんなたとえでは、ランボーの詩的秘密を暴いたことにはならない。詩そのものがそういう芸術かもしれないし、音楽もまたそうであるかもしれないのだから。

ランボーは一八五四年に北仏のシャルルヴィルという町に生まれた。そして、パリに出て詩人たちと交わり、アフリカに渡って武器商人となり、骨肉腫を得てフランスに舞い戻り、一八九一年に三十七歳の若さで死んだ。十九世紀のど真ん中を疾走したわけだ。生まれたのは第二共和制が崩壊して、ルイ・ナポレオンが帝位に就いた一八五二年の直後、そして彼の青春は普仏戦争の勃発、そしてフランスの敗北、そしてパリコミューンの成立と崩壊という時代の激流に翻弄されている。この間、フランスは未曾有の政治的混乱を経験しているが、その一方で産業革命は、イギリスに遅れを取っているとはいえ、着実に進み、その象徴は鉄道敷設の全国展開だろう。シャルルヴィルとパリのあいだに鉄道が敷かれていなければ、アルチュール少年が何度も家出を繰り返すこともなかったし、一九七一年のパリ・コミューンのときにパリにいることもなかった。

おそらくランボーの詩は、この激動の時代の叫びなのだ。激動の時代とは、時間の流れがどんどん加速していって、古いものが振り切られ、新しいものには手が届きそうで届かない、そんな時代のことだ。

だからランボーの詩には古いものと新しいものが同居している。いや、同居しているのではなく、葛藤し、衝突し、あるいは爆発している。あるいは太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜りこもうとしているというべきか。

もうランボーの詩について書くのはよそう。それが本意ではないから。何が本意か。つまり、翻訳とは何かということ。

一つの文学作品は時代とともにある。あるいは天才的な文学作品は時代の声そのものであって、天才と呼ばれる芸術家、思想家、あるいはリーダーたちは、この時代の要請に応えようとして、ときに神のように崇められ、ときに犠牲{いけにえ}として天に召されるのだ。あるいは、この声の要請に応えられたものだけが、天才の名をほしいままにするというべきか。

もし、翻訳がこの声をよみがえらせることを使命とするものであるならば、翻訳はそもそも可能な行為なのか。なぜならば、言葉はいつも時代に拘束されているから・・・・・・。

さあ、こういったことを踏まえたうえで、あなたならランボーの詩をどう翻訳するか。「母音」冒頭のスタンザの原文を最後に挙げて、この稿を締めくくることにしよう(べつに宿題ではありませんので、誤解なきよう!)

 

A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
 Je dirai quelque jour vos naissances latentes :
 A, noir corset velu des mouches éclatantes
 Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,

*49 モーツァルト、弦楽五重奏曲ニ長調


表紙(*77)の写真に添えた文はこの曲(K. 593)で終わっている。

昔からこの曲を親愛してきたわけでもないし、そもそもモーツァルトを素直に聴くようになったのは、ここ数年のことだ。

初めてモーツァルトのレコードを買ったのは、大学に入ったばかりのころだったと思う。手許に残っているレコードは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(セレナード十三番ト長調、K. 525)、演奏しているのはスロヴァキア室内合奏団。

どうしてこの曲を選んだのか、どうしてこの合奏団の演奏するレコードを選んだのか、もう思い出すことができない。でも、わが家にあったコンソールタイプの古いステレオのターンテーブルにこのレコードを置いて、そっと針を落としたときの感動は忘れることができない。

感動と書いたけれど、じつは驚愕とか、茫然とか、そっちに近かったように思う。アレグロの冒頭が鳴り響くのを聞いているうちに、星が降ってくるような気配に襲われた。

夏の夜、窓は開け放たれていた。星を見ていたわけではない。窓を背にして、視線はステレオのほうに向いていた。でも、音は背後からやってきた。窓から星の光が飛びこんでくる・・・・・・。

こんな経験は書けば書くほど嘘っぽくなる。

いずれにせよ、これを機にモーツァルトにはまるということはなかった。むしろ敬遠するようになった。大学に入ったばかりのころといえば、まだ若かったマウリッツォ・ポリーニがショパンの練習曲全曲をアルバムに収めて、世界をあっと驚かせたころだった。ポリーニを初めて聴いたときも度肝を抜かれた。ショパンってこんなに男性的だったのか。

このショパンも敬遠するようになった。

時代のせいだろう。貴族世界の寵児だったモーツァルト、パリのサロン、社交界の華だったショパン、そんなもの、おれと関係ないじゃないか。

ねぇ、ぼく、美しいでしょ、ねぇ、聴いて聴いて、と言っているみたいで、吐き気がしてきた。

大学の終わりころにはもう音楽は聴かなくなっていたと思う。クラシックもジャズもフォークもみんな鬱陶しかった。もちろん、鬱陶しかったのは自分自身だった。

小林秀雄の「モオツァルト」も読まなかった。ページを繰っても入っていけなかった。

大学を出てからしばらくして、高橋悠治の本を読んだ。たまたま彼の弾くサティを聴く機会があったからだ。サティという音楽家もユニークだが、高橋悠治という音楽家のほうがよっぽど刺激的、衝撃的だった。彼の演奏については語る資格がない。文章がすごかった。『音楽の教え』(晶文社、一九七六年初版、手許にあるのは八六年10刷)というエッセイ集のなかに〈小林秀雄「モオツァルト」読書ノート〉と題された文が収められている。

衝撃を受けたなんてものではなかった。小林秀雄がここで木っ端微塵に打ち砕かれていると思った。爽快だった。もう忘れていいのだと思った。

敬遠して、そのまま遠くに置き去りにしてしまうものもある。逆に、もう半世紀近くも経つのに、ぶり返してくる記憶、思い出、体験もある。

数年前に、小林秀雄の伝説と化した「感想」を読んだ。ああ、そうだったのか。感慨深いものがあった。この人は骨の髄まで翻訳者なのだと思った。なぜそう思ったのか、ここではくどくど書かない。どうせうまく書けないだろうから。この作品は、とてもシンプルな一文から始まっている。

 

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。

 

なぜ「非常に」こたえたのか。実の母が死んだのだから、当たり前だろうと人は言うかもしれない。たしかに。でも、当たり前のことを書くのと、書かないのでは雲泥の差がある。これもまた当たり前の話ではあるけれど。

周知のように、というか、この「感想」の初段にも書かれているように、戦後最初に小林秀雄が発表した「モオツァルト」には、「母上の霊に捧ぐ」という献辞が添えられている。そしてこのエッセイには、こんなことが書かれている。あまりに有名な一節だから、引用するのも憚られるのだけれど。

 

もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。

 

「もう二十年も昔のこと」というのは、漠然とした過去ではなく、著者自身の痛切な、痛恨の一事を指している。一九二五年(大正十四年)、小林秀雄は京都から上京してきた中原中也と出会う。中也は長谷川泰子という愛人を伴っていた。

 

中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎しみ合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気になれない。(「中原中也の思い出」昭和二十四年発表)

 

こんな「奇怪な三角関係」が長続きするわけがない。三年後、小林と泰子との同棲は破綻し、小林は大阪へと逃げる。そして、道頓堀で突如、「ト短調シンフォニイ」の主題が頭のなかで鳴り響くのである。

小林秀雄が悔いているのは、じつは中也との三角関係と泰子との同棲の無残な破綻だけではない。同棲生活から逃げて大阪に出奔したとき、それまで彼が支えてきた病弱の母も東京に置き去りにした。だから、小林秀雄の「モオツァルト」は二重の悔恨に苛まれている。そこを高橋悠治は痛烈に突く。

 

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。(「小林秀雄「モオツァルト」読書ノート」)

 

この一節を読んだとき、おお、と声を上げたか、思わず膝を打ったか、そんなことは忘れてしまったけれど、今これを読み返してみると、自分が以前よりは小林秀雄寄りの位置に立っていることがわかる。

彼の悔恨は深い。青春の得体の知れない情念に引きずられて母を置いて逃げ出したことへの悔恨ばかりではなく、批評家という道を選んだことにたいする悔恨、というよりは、罪悪感のような、負い目のような、ある種の心的外傷のようなもの。

彼は大阪から奈良へと移り、志賀直哉の家に足繁く出入りしたのち、東京に帰ってくる。そして翌年、「様々なる意匠」を書き、「改造」の懸賞評論に応募する。これが第二席に入り(第一席は宮本顕治の「敗北の文学」)、批評家としての出世作となる。彼は青春の深い傷と引き換えに、文芸評論家になった。

彼がどこかの対談だか座談会だかで発言した「僕は演奏家でいいんです」という言葉。そういう「名言」が一人歩きする。批評家は演奏家ではない。翻訳家こそが演奏家であり、小林秀雄の批評の本質は翻訳にある、と今は強く思う。

翻訳とは何か。それは分析でも解釈でも、置き換えでもない。共感と感情移入を、どのようにして原文のスタイルを維持・保存しながら表現するか。小林秀雄のドストエフスキー論もゴッホ論もベルクソン論も、彼だけの持つ特異な感情移入の力に貫かれている。

 

この前、「モオツァルト」について書いた時も、全く同じ窮境に立った。動機は、やはり言うに言われぬ感動が教えた一種の独断にあったのである。あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上がっていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って波立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやってくる白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向かって徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの精巧明晳な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。(「ゴッホの手紙」序。昭和二十三年発表)

 

圧倒的な文だと思う。モーツァルトの音楽に素手で触れていると思わせるような筆致だ。ならば「モオツァルト」は、ここから単刀直入に切り込めばよかったではないか。なぜエッカーマンの「ゲーテとの対話」の引用から始めるというまだるっこしい迂路をたどったのか。いや、それはそれでいい。高橋悠治が徹底的にやっつけていることを、ここで蒸し返す必要はない。このモーツァルト論のハイライト・シーンはずいぶんあとに出てくる。ト短調クインテット(K. 516)の主題を楽譜そのままの形で引用したのち、こう続けているところだ

 

ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っている「かなし」という言葉の様にかなしい。(第9段)

 

これはほとんど「実朝」の変奏のようだ。長くなるが引用する。

 

(箱根の山をうち出でて見れば浪のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしを聞きて)

 

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

 

この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈ってきた帰りなのか。僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。それにしても、歌には歌の独立した姿というものがある筈だ。この歌の姿は明るくも、大きくも、強くもない。〔中略〕「沖の小島に浪の寄るみゆ」という微妙な詞の動きには、芭蕉の所謂ほそみとはまでは言わなくても、何かそういう感じの含みがあり、耳に聞えぬ白波の砕ける音を、遥かに眼で追い心に聞くと言う様な感じが現れている様に思う、はっきりと澄んだ姿に、何とは言われぬ哀感がある。耳を病んだ音楽家は、こんな風な姿で音楽を聞くかも知れぬ。(「実朝」昭和十八年発表)

 

実朝という短命の権力者の孤独をここまで適確にとらえた表現はほかにあるだろうか。おのれの儚い宿命の予感がこの歌に宿っているというのである。モーツァルトのように。だが、これ以上の解説は僕のような無学の者には堪えられない。

「モオツァルト」と「実朝」が並んで収められている古い新潮社版全集の第八巻には「翻訳」と題されたエッセイも収録されている。著者の学生時代「一枚十五銭から二十五銭位で、ずい分沢山の代訳をしたものだ」と書かれている。この代訳とフランス語の家庭教師で得た、おそらくはささやかな収入で、彼は一家を支えていた。父の豊三が死去した大正十年(一九二一)に秀雄は第一高等学校文科に入学したが「母の喀血、自分の神経衰弱、家の物質的不如意」などのために休学している(新潮日本文学辞典)。豊三は御木本真珠店に勤務したのち、日本ダイヤモンド株式会社を設立して専務取締役に就任していた人である。そして、大正十二年(一九二三)には関東大震災が起こっている。翌年、灰燼に帰した東京で二高生だった富永太郎と出会い、ボードレール、ランボーを知り、この富永太郎を介して中原中也との交際も始まるのである。

この間、小林秀雄は「蛸の自殺」「一つの脳髄」「ポンキンの笑い」(後に「女とポンキン」と改題)などの小説を書いている。これらまるで自分の「神経衰弱」から生まれたような小説を、今読む人は——研究者を除けば——ほとんどいないだろう。でも、文学史にタイトルだけは残る。初期の段階では、彼が小説を書いていたという事実も残る。でも、彼が生活のために書いていた翻訳は残らない。本人が「私の劣悪な翻訳が、誰の名前でどこで出たか今以て知らない」と書いているくらいだから。しかし、彼は翻訳という作業の魅力、魔力を知り抜いている人だ。

彼は「ゴッホの手紙」を書くにあたって、マイエル・グレエフェの「ゴッホ評伝」を英訳で読んでいる。表紙には翻訳者の名前も書いていないが、序文を読むと翻訳の苦労がよくわかる。そこにはこんなことが書かれていたというのである。

 

原著者の真意は、その独特のスタイルの為に、普通の翻訳のやり方では英国の読者には伝え難い。そこで〔・・・〕、頭に原文が這入るまで幾度となく原著を読み、講義をする積りになってみて英語でノオトを作った。ノオトが完成すると、原著を閉じて、ただノオトを頼りに、大胆な自由訳をする心算で書いてみた。ところが、後で原著と照らし合わせて読んでみると、われ乍ら忠実に訳している事に驚いた〔・・・〕(「翻訳」昭和二十四年発表)

 

この短いエッセイは、「この本〔=ゴッホ評伝〕には、日本訳もある様である。読まないから知らないが、日本の訳者はそこまで苦心はしていまい」という皮肉で結ばれている。

まさか、こんな翻訳ノートは作らない。でも、頭のなかではいつもこの英訳者がやっているのと同じようなことを毎日繰り返している。もし機会があったら、小林秀雄の墓前でそう伝えたいと思う。

*48 小林秀雄とベルクソン


塾生のみなさんに、次回(1月9日)は小林秀雄とベルクソンの話をしようかと思ってますなどと予告したのはいいけれど、さて困った。何をどう話せばいいのか、どこから話せばいいのか、見当がつかない。

十年ほど前に——正確には平成十七年(二〇〇五年)——新潮社の新装版全集に「感想」と題された長編エッセイが収められたので、勇んで買い込み読んだときの記憶から書こうかと思って、ここ数日読み返しているのだが、どんどん泥沼にはまっていくような重苦しい気分が鬱積していく。

そもそもこのエッセイ自体、文字どおり伝説と化した作品なのである。手許にある本の帯には「雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルクソン論・・・・・・」とある。

雑誌とは『新潮』のこと、連載開始は昭和三十三年の五月、中断は三十八年の六月、その後著者は連載を再開することもなく、単行本として刊行することもなかっただけでなく、死後出版も禁じた曰く付きの書物なのである。それが禁を破って(?)日の目を見た。だから「勇んで」買い込んだわけである。

わたしが大学に入ったのは昭和四十八年のこと、小林秀雄が連載を中断してから、すでに十年の歳月が流れていた。そのころはまだ、文学部の学生といえば、同人誌を出したり、読書会を開いたりすることが特別なことでも、珍しいことでもなかった時代である。

そんな文学サークルのなかに、『新潮』に連載された小林秀雄のベルクソン論を全部コピーして(当時コピーは高かった!)回し読みしているところがあるという噂が流れてきたりもした。サークル間でけっこうお互いを意識したり、ライバル心を抱いていたりしたのである。

わたしは偏屈なところがあって、著者が失敗作だと思って刊行を禁じたものを、わざわざコピーして回し読みするなんて、おぞましいというか、卑しいというか、そういうサークルには惹かれるよりも反発を感じていた。しかも、有名な批評家を招いて、ご意見拝聴と来た日には、なんだか志が低いと思ったりもした。

それはともかく、当時の学生にとって小林秀雄は仰ぎ見る巨星のようなものだった。批評の神様とも呼ばれた。文芸評論の新たな世界を切り拓き、これを独立した文学ジャンルとして確立したという評価もあった。一介の文芸評論家が哲学を論ずるなんてこと自体が前代未聞だっただけでなく、書きつづけられなくなれば、みずからこれを失敗と断じ、封印してしまう。骨董屋で買った良寛の「地震後作」と題された書を得意げに自宅の床の間にかけていたら、専門家の吉野秀雄に越後地震の後の良寛はこんな字は書かないと言われて、その場にあった一文字助光で一刀両断にしてしまう。あるいは中原中也の恋人だった長谷川泰子を奪ったあげくに、これを捨てて奈良に逃亡するという若き日のエピソード・・・・・・。田舎からぽっと出てきたばかりの世間知らずの若い文学青年は、ただもう唖然とするか、あこがれるか、尊敬するか、あるいは敬して遠ざけるかしかなかった。当時のことを思い出すと、顔が赤らんでくる。

それだけでなかった。学生時代に深い親交を持った友人が二人いたが、そのどちらも小林秀雄に深く傾倒していたのである。

ひとりは大阪の男で、今わたしの書棚にある古い新潮社版全集は、彼のアパートで初めて見た。良寛の書のエピソードを語り聞かせてくれたのも彼だった。もうひとりは福島の男で、会って飲めば必ずドストエフスキーの話になり、ゴッホの話になり、小林秀雄の話になった。

そしてどちらも若死にした。二人のことは何度かブログに書いたのでここでは繰り返さない(* 1* 5*42)。

小林秀雄がいかに偉大とはいえ、われわれの世代にとっては過去の人だった。ベルクソン論を封印したのち、みずから入るべき墓としての本居宣長論に籠もった時点で、過去の人となっていた。だが、小林秀雄の偉大さは残した作品のなかだけにあるのではない。彼が独力で切り拓いた文学評論の沃野から、じつに多くの批評家、思想家が生まれ育った。吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人・・・・・・列挙するのはよそう、切りがないから。わたしたちの世代は、思想と評論の時代を生きた最後の世代だろう。

では、おまえにとっての小林秀雄とは何なのか、いちばん最初に挙げるべき作品は何かと問われるならならば、躊躇なく「近代絵画」と答えるだろう。この本(上に挙げた全集の第十一巻)を手にしたときの、喜びというか、驚愕というか、湧き上がる心の高揚は今も忘れることができない。のちにメルロ=ポンティの思索の世界——とりわけセザンヌを論じた「眼と精神」*6——にとっぷりと浸ることになるけれども、その下地はこの「近代絵画」の読書体験によってもたらされたものだ。

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソ、扱われた画家は七人、どの論も珠玉の名作であり、小林秀雄の代表作だと信じて疑わない。

この本によって、たんに絵の見方を教わったというだけでなく、ものの考え方、ないしは考えることそのものについて、教わったような気がする。

ところでこの絵画論には序文がついていて、「ボードレール」という章題がつけられている。短いけれども凡百のボードレール論よりもはるかに密度が濃く、大学の文学史で習う無味乾燥なボードレールについての解説など蹴ちらかしてしまうような迫力があった。文学と絵画と音楽をひとつの時代が見せるさまざまな顔のようなものとして論じることで、近代という時代と芸術の本質とを同時に教えてくれるものだった。小林秀雄はわたしの学校だった。ところで、「モネ」と題された章には、こんな分析的な文章がある。

 

要するに色とは壊れた光である。〔・・・・・・〕大洋の波は砂漠や岩に当たって砕け、飛沫をあげているが、もっと大きな太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を麗しく彩色している。太陽の光は、地上に達する前に無論、空気に衝突するから壊れる。空中に色素も顔料もあるわけではないが、空は澄めば澄ほど深い青になる。丁度、波の大きなうねりは、小さな岩を呑んで進むが、小さな波は小さな岩にも衝突して砕けるように、光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ。紺碧の海も、水の分子に関する同じ理由から紺碧に見える。日の出や落日が真紅に染まって見えるのも、その場合、太陽光線は、空気の中を、特に、空気分子より粒の大きい塵埃や水蒸気を含む下層の空気の中を長い間通らねばならず、その為に、小さい波の散乱現象が強くなり、割合から言えば大きな波のほうが沢山眼に這入って来ることになるから、太陽は地平線に近づくにつれて、黄から、橙から、赤と染まって行く、という風に普通説明される。

 

長い引用だが、小林秀雄節の特徴が典型的に表れているところなので、注意して読んでほしい。ここには二つの問題が潜んでいる。ひとつは揚げ足取りとも重箱の隅をつつくとも思われかねない、小さな問題——でも、じつは大きな問題だと思っているので——、まずはそれから取り上げる。

光は壊れて色になるのか? 文学的比喩だからいいじゃないか、と言う人もいるだろう。けれど小林秀雄という人は本来そういう曖昧な表現を嫌う人であったはずだ。でも、彼はときどき自分で設けた規矩を踏み外す。

空が「澄めば澄むほど深い青になる」のは「光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ」というのは科学的説明としてはおかしい。嚙んで砕いて消化しやすいようにした表現としてもおかしい。というのは、この引用した文のなかでさえ、自家撞着しているからだ。一方で、空が青いのは、光の波長のなかの青の波が空気分子に衝突して散乱しているからだと説明しておいて、後半の夕焼けの赤を説明するところでも、「小さい波(=青)の散乱現象が強くなり」、その結果「長い波」(=赤)が眼に這入ってくる割合が大きくなるからだ、と説明している。空が青く見える論拠に基づくならば、後半の理屈は逆にならなければならない。つまり、夕日が赤いのは青の散乱現象が抑えられるからだ、とならなければならない。

そもそも、空気が澄んでいるときに空がよけいに青く見えるのは、光のスペクトルのうち、人間の眼に青と感じられる波長をもつスペクトルが大気層に含まれている塵や水蒸気にあまり邪魔されず、たっぷりと地上まで到達するからだ。空気分子のひとつひとつに衝突して散乱しているわけではない。

わたしは心密かに、小林秀雄がベルクソンについての論考を投げ出したのは、彼の思考のなかにバシュラールのいう「認識論的障害物」が色濃く残っていたためではないかと思っている。あるいは奇妙に啓蒙的に振る舞おうとするとき、彼の舌はもつれると言うべきか。

「色とは壊れた光である」とか「太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を彩色している」とか書かれているのを読んだときには、文字どおり、ほとんど目が眩みそうになった記憶がある。その一方で、おや?と首をひねった記憶もある。事実、わたしの持っている本の、この引用箇所に出てくる「小さい波の散乱現象が強くなり」のところには、鉛筆の薄い線が引かれている。

久しぶりでこのページを開き、この鉛筆書きを発見したときには、一瞬たじろいだ。変だと思った記憶の証拠がここにあると思ったからだ。

それはともかく、もうひとつの問題に移ろう。こちらのほうが大問題なのだ。

モネは光の画家と呼ばれる。モネは光について近代科学の分析的知識を得たから、あんなすばらしい絵を残せたのだろうか? そんなことはない。小林秀雄自身がこう書いている。

 

芸術は時代の子であるから、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない。

 

では、ある特定の時代における、科学と芸術の照応関係をどう考えればいいのだろうか。次のような箇所は、美しいだけでなく、まことに明晰で、説得力に富む、小林秀雄でなければ書けない一文だと思う。

 

色彩派{コロリスト}が外光派{リュミニスト}に転じたのは、理論によったのではなかった。屋外に溢れる光の美しさが、画家達を招き、アトリエでの仕事を放棄させたからだ。コローからラ・フォンテーヌを除き、ミレーから聖書を剥ぎ取り、もっと直接に風景を掴みたい、光を満身に浴びて、モネの言葉を借りれば鳥が歌う様に仕事をしたい、そういう画家の自然への愛情の新しい形式の目覚めが根本の事だったのである。

 

モネはこの光を画布の上に再現しようとした。たんに外光を浴びて仕事をするだけでなく、絵の具その物にも光を求めた。絵の具は混ぜれば混ぜるほど、彩度も明度も失う。その結果、色価{ヴァルール}も下がる。そこで彼は点描法と格闘することになる。つまり、基本色を直接画布の上に併置することによって、自然の持つ色の光を再現しようとしたのである。けれども「モネは、生涯、この分析的な手法のために苦しんだ」。その理由は、「理論は殆ど役に立たなかったからである」と。けれども、理論が役に立たなかったから、モネは苦しんだ、ということにはならないだろう。そんなことくらい、小林秀雄は先刻ご承知だ。もう少し我慢して、彼の論のあとを追ってみる。

 

芸術の形式が、時代の感覚と応和しなくなると、嘗ては生き生きとしていた形式も、重苦しい因襲と感じられ、芸術家は、これを脱ぎ捨てて、裸になって自然に還りたいという欲望を抱く。印象主義の運動も、画家達の、自然に還れという甲高い叫びだったのであるが、そういう場合、いつも同じことが起こる。自然は人間の鏡である。自然に還ろうという欲望は繰り返されるが、還るのは同じ自然へではない。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じている心の形にほかならない。

 

ここに小林秀雄独自の弁証法がある。その独自さは「無私」という言葉のなかに込められている。「自然に還れという甲高い叫び」とはロマン主義のことを指している。もっと端的には、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)の思想を集約している。大雑把に言うと、ルソーは印象派の画家たちが活躍する一世紀前の人である。フランス革命の思想的背景となった人ではあるけれど、その前の人である。フランス革命は大事件である。だが、大事件に過ぎない。小林秀雄の眼は、もっと本質的な、人間の生活の根本を変える内部の革命が進行していたことを見逃さない。

マルクス(あるいはエンゲルス?)の自然弁証法は「人間が自然を人間化すればするほど、人間は自然化する」という言葉に集約される。

この言葉は、長いこと、わたしにとっては謎だった。今も謎だと言ってもいい。マルクスの著作そのものを読んでも、すっきりしない。けれども今、二十代に読んで感銘受けた「近代絵画」を読み直しているうちに、靄が晴れてくるのを感じる。

今、試みにこの言葉を「人間が自然を人工化すればするほど、人間は自然に還ろうとする」というふうに少し通俗化してみる。十九世紀に端を発した産業革命は、革命と戦争に明け暮れた前世紀を経て、新たな次元に突入したと言われている。産業資本主義の時代から金融資本主義、あるいは高度資本主義への時代への移行とか言われる。情報と交通と経済のグローバリゼーションというような言葉も常識と化した。地球は確実に狭くなった。

道という道はアスファルトに覆われ、われわれの生活と生産活動から排出される二酸化炭素が太陽熱を吸収し、地球全体が温室と化し、北極の氷も南極の氷も溶け出し・・・・・・。

確実に自然の人間化が進み、たくさんの科学者が警鐘を鳴らしている。それを一言でいうなら、「自然に還れ」「自然を取り戻せ」ということになる。

われわれ自身も、ふだんは車に乗って二酸化炭素を振りまき、大量の「燃えないゴミ」「燃やせないゴミ」(大地に還すことのできないゴミ)を出す一方で、毎朝のジョギング、ウォーキングを欠かさず、週末になれば山に登り、川に釣りに出かけ、カメラで写真を撮ったり、絵筆と画布を持って写生したりしているではないか。

なぜわれわれは、わざわざ美術館に行って、美術作品を見ようとするのか。なぜわれわれは、わざわざコンサートホールに出かけて、音楽を鑑賞するのか?

小林秀雄に戻ろう。彼はモネについて、もっと謎めいた言葉を残している。

 

印象派の出現とともに強固な自然は光の中に動揺しはじめた。自然は、画家に模倣を求める自信を失って了った様な様子を見せはじめた。自然は画家のあまり細かく分析的になった不安な視覚を模倣するに至ったのである。画家は、そんな風にして、とどのつまりは、己れを語る様に誘われていく。自然に還ろうとして自己に還っていく。

 

この言葉を解説するのはよそう。解説の任に堪えないというのが本音だけれど、理解することよりも考えることのほうが大切だろうから。ただ確信を持って言えることは、これは逆説でも文学的修辞でもない。小林秀雄という思想家の放った言葉の矢がここで的に当たっているのである。飛躍とはそういうことである。ただ最低限、マルクス自身の言葉をここに置いておこう。

 

自然は人間の非有機的身体である。〔なぜ非有機的かと言えば、〕自然そのものは人間の肉体ではないからである。人間が自然に依存して生きるということは、自然は人間の身体であり、人間は死なないためには、たえずそれと交流しつづけなければならないということである。人間の肉体的・精神的生活が自然と連関しているということは、自然がおのれ自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも、人間は自然の一部だからである。

(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』村岡晋一訳。〔 〕内は翻訳者の補足)

 

(つづく)

*47 矢は的に当たらない(承前)

今日は少し趣向を変えてというか、角度を変えて、ゼノンの矢についての話を続けてみましょう。

たとえば人類はどこまで100メートルを最速で走れるだろうか、という思考実験のようなものをやってみます。現在の100メートル世界記録は2009年の世界選手権でウサイン・ボルトが出した9秒58ですね。この驚異的な世界記録は永遠に破られないのではないかとも言われています。

はたしてそうか。あらゆる記録はいつか破られるとも言います。でも、人間が永遠に何かの記録を更新しつづけることはできません。かりにとてつもない肉体改造が行われたとしても、100メートルを0秒で走るなんてことはできない。走るのが肉体であるかぎり、0秒ということはありえない。光でさえ、約30万km/sという速度を持っているのだから(これは速度というべきなのか、単位というべきなのか、別の問題がありますが)。

では、どこかに人類最速の限界値があるとしたら、オリンピックや世界選手権はいずれ新記録を期待することはできず、ひたすら着順だけを競う競技ということになります。

その場合も、トレーニング方法、食生活や栄養の管理、筋力や睡眠にかんする分析やコントロール方法がどんどん開発、洗練されていくと、選手間の能力の差異はどんどん縮まっていって、記録も限界値のあたりでほとんど横並びになってしまう。そうすると競技者にとっても観戦者にとっても、競い合うおもしろみは徐々に失われていくことになる。

でも、ここで考えてみたいのが、計測方法と計測装置の精度の問題です。

かつて、といってもそんなに昔のことではなく、1960年代くらいまでは——われわれの世代だと10代前半くらいまでは——、速さを競うあらゆる競技は手動計時で行われていました。複数の計測員がストップウォッチを持って時間を計り、たしか平均値を出すのではなく、上と下をカットするのではなかったかと記憶していますが、正しいことは知りません。

いずれにせよ、手動計時では誤差が大きかったので、いつしか——80年代以降?——ほとんどすべての競技会場で電動計時のシステムが導入され、写真判定システムも加わって、可能なかぎり誤差や誤審が排除されるようになった。

細かい話はともかく、手動計時の時代には10分の1秒単位の計測だったように憶えています。それが電動計時、電子計時と移り、今では100分の1秒単位の計測になった。だからボルトの世界記録も9秒58と表示される。近い将来、1000分の1秒計時の時代がくるかもしれないともいわれています。

これほど精密なデジタル化が進んだ今、そんなに難しいことではないように思いますが、それはともかく、走るのは人間の肉体ですから、当然どこかに限界値がある。その限界値に向けて、計測器がどんどん細分化、精密化していくという事態を想像してみてください。

そう、これはゼノンの矢なのです。計測器が分割と分析の精密化をどんどん加速、更新していくと、ついに矢は的に当たらない。つまり、人間の走る速度は限界値に無限に近づいていくが、限界値には達しない。

でも、矢は存在するし、的も存在するし、矢は的に当たる。人間の肉体も存在するし、スタートラインも、ゴールラインも存在するし、人間の肉体はそのラインを通過するし、その限界値も存在する。計測器だけが無限を刻んでいるわけです。

しかし、計測器も機械です。物質から成りたっているわけですから、分割の限界値もある。すなわち無限を刻むということはありえない。

無限を刻んでいるのは、あるいは無限を刻めると錯覚もしくは妄想できるのは人間の頭脳だけだということになります。

ベルクソンは、それ(科学的分析)にノーを突きつけた。直観(intuition)は分割しない、現実(le réel)を、持続(la durée)を生きるものである、空間を飛び越えるものである、飛躍(élan)するものである、それが哲学の領分であると。

今、ガストン・バシュラールの『近似的認識試論』(Essai sur la connaissance approchée)という著作を読み返しています。これは1927年にパリ大学ソルボンヌに提出された学位論文です(翻訳は国文社から昭和57年/1982年に、豊田彰・及川馥・片山洋之介訳で出ています)。

この論文を読み返していると、ベルクソンが生涯、ゼノンの背理と格闘したように、バシュラールはベルクソンの直感と持続という概念(concept)に生涯異を唱え——あるいは補正(rectification)を加え——つづけたようにも思えてきます。

バシュラールによれば、科学的認識とは先行する認識をたえず修正しながら、限りなく精密を極めていく、近似的な過程にほかならない。つまり、真理というターゲットには永遠に到達しない! 彼はこれを「不確実性の哲学」(une philosophie de l’inexact)と呼びます。この inexact は不正確という意味ではありません。「現実」とか「真理」と呼ばれる概念に、一挙に到達するのではなく、ひたすら接近(approcher=アプローチ)していく過程をさしている。

後年(1940)、バシュラールは La Philosophie du non という著作(邦訳『否定の哲学』中村雄二郎・遠山博雄訳、白水社、1978年)をあらわします。この non こそinexact なのです。たえず先行する思想(経験)にnonを突きつけ、「真理」という名の極点、もしくは限界点に接近していくこと。これがバシュラールにとっての「科学」もしくは「科学的認識」だった。

この non は、いわば「理性」(raison)の声です。ところがおもしろいことに、ベルクソンの場合、この 否定の声を発する主体が違う。あるいはその声が発せられる場面が違う。「形而上学的直観」から引用してみます。

 

この〔直観の〕イメージを特徴づけるもの、それはその内部に備わっている否定(négation)の力です。ちなみにここで、ソクラテスの神霊{ダイモン}がどんなふうな働きをしていたかを思い出してみてください。このダイモンは不意に現れて哲学者の意志を抑え、なすべきことを命じるというよりは、行動することを阻止するのです。私にとって直観とは、こと思弁に関するかぎり、現実生活におけるソクラテスのダイモンのような振る舞いをするものに思えます。〔中略〕つまり、直感は禁止するのです。世間一般に受け入れられてきた通念であるとか、明白と思われていた定説であるとか、それまでは科学的なものとして通ってきた主張であるとかを前にして、直観は哲学者の耳もとで「ありえない」(impossible)とささやくのです。

 

バシュラールの考えていることとベルクソンが考えていることは、ほんのわずかしか違わないようにも見えるし、まるで背を向け合っているようにも見える。違うとすれば何が違っているのか。前者はあくまでも理詰めで考え分析し、先行する認識に「補正」を加えることに科学的認識の本質ないしは進歩があると考えるのに対して、後者は直観的に全体をとらえ、理詰めの分析にある種の欺瞞を見出し、対象との合一に究極の認識を見ようとする、そういうことだろうか。

いや、そんな単純なものではないでしょう。バシュラールは『否定の哲学』のなかで、「科学的認識の哲学」とは「開かれた哲学」であり、「未知なるものに働きかけ、先行する認識と矛盾するものを現実の中に見出そうとすることで自らを立てる精神の自覚」であると定義しています。すなわち、哲学と科学が相反するものではなく、互いに補完し合うものでなければならないということなのです。そのうえで彼はこんなふうに言う。

 

とりわけ何よりも、新たな経験が古い経験に対して〈否 non〉を突きつけるということ、それなくしては、自明の理ではあるけれども、新しい経験たりえないという事実を自覚しなければならない。しかし、この否{ノン}はけっして決定的なものではない。みずからの様々な原理を弁証法的に照らし合わし、新たな数々の種類の確かな根拠を立ち上げ、自身の解釈体系を豊かにはするけれども、何もかもそれで説明できる自然な解釈体系に見えるようなものにはいかなる特権も与えない精神にとっては、決定的なものなどありえないから。(『否定の哲学』)

 

ここで言う「経験」(expérience)は、「体験」とも「実験」とも訳せますが、日常的にごく当たり前に使われるこの言葉にこそ、ベルクソンとバシュラールのあいだにある微妙ではあるけれども、決定的な、目も眩むような深淵があるように思えます。

しかし、ここではこの問題について深入りしないことにしましょう。深入りするだけの準備もないし、本題——ゼノンの矢の問題——から遠く逸れていってしまうでしょうから。

最初に、100メートル競走における人間の肉体の限界と計測器(ストップウォッチ、電子時計)の話をしました。

100メートルを10秒で走る場合、100分の1秒差を距離にあらわすと10センチです。この距離を「たった10センチの差」とみるか、「10センチもの差」とみるか、むしろこの受け止め方の差異のなかにこそ、大きな問題が潜んでいると思うのです。

100メートル競走の当事者——選手本人、トレーナー、あるいはスポーツジャーナリスト——にとっては、この10センチの差は相当大きいかもしれない。つい最近(2017年現在)、桐生祥秀くんが日本人スプリンターとして初めて10秒を切り、9秒98の記録を出しました。快挙です。でも、ボルトの9秒58とは、0.4秒もの差がある。距離にして4メートルです。これはもう絶望的な数字かもしれない。世界新記録を狙うとすればの話ですが。

しかし、日常生活においては、1秒以下の時間はほとんど無視できるような時間でしょう。100メートルをふつうに歩いた場合、4メートルの差は感じ取れないでしょう。ましてやセンチメートル単位の差なんか、ふつうの目視では違いがわからない。

でも、トップランナーや一流のアスリートの世界、あるいは超絶技巧の職人芸の世界においては、10分の1秒、10分の1ミリの違いが、とてつもない壁、許しがたい誤差として立ち現れてくる。

こういう微分的な世界をさらに超微分的に分割、あるいは拡大した世界こそが現代科学が見ている風景だということができるでしょう。そう、言うまでもなく、近代科学は顕微鏡、望遠鏡の発明と精緻化を抜きにして考えられない。しかも、ここで重要なことは、顕微鏡が分子構造を、原子の構造を発見したわけではないということです。顕微鏡の向こう側に現れた、われわれ人間の肉眼が知らなかった新たな微視的世界を前にして、新たに世界を書き直す必要に迫られたということなのです。バシュラールが『近似的認識試論』の冒頭で「認識とは再発見するために記述することである」と言い、ピアソンの『科学の文法』からの引用を通じて、「重力の法則とは、遊星の運動を定めている規則をニュートンが発見したということではなく、われわれが遊星の運動と呼ぶ諸印象の継起を簡潔に記述する方法をニュートンが案出したということを指す」と言っているのは、そういうことなのです。

分子の構造とか原子の構造とか呼ばれるものは、物質それ自体の構造であるよりは、人間が案出した関係式(記述)を視覚化したものと言い換えてもいいし、バシュラールは『科学的精神の形成』のなかでは、そもそも関係という抽象的な記述を目に見えるようなモデルに置き換えることを「認識論的障害物」とさえ呼んでいるのです。

けれども、顕微鏡や望遠鏡といった観測装置それ自体が精緻化され、オーダー(目盛り)そのものがどんどん微分化されていくと、分子のモデルも原子のモデルも形を失い、内実を失っていく。つまり、原子核のまわりを電子が周回しているといった「古典的な」図式は意味を失う。原子核は陽子と中性子から成り立つと教えられるそばから、中間子の存在が予言され、次から次へと「究極の粒子」(素粒子)が発見されていくと、われわれはついに「物質」の消滅といった事態に遭遇しているのか、と思えてきます。そこには形のないエネルギーの構造と流動だけしかないのか、と。

でも、同時にわれわれはふつうの生活を営んでいる。目に見える色と形があり、触れば固かったり柔らかかったり、持てば重かったり軽かったり、嗅げば心地よかったり不快だったり、舌に載せれば甘かったり苦かったり、そういう五感の世界に生きている。

そういう五感の立場からすれば、現代物理学の描き出す、非定形(不確定)の素粒子の世界は「ありえない」のです。

またベルクソンの直観の世界に戻ってきました。でも、ベルクソンとバシュラールを単純に同列に比較するのは公平ではない。

ベルクソン(1859〜1941)にポーランド系ユダヤ人を父に、イギリス人を母として、パリのど真ん中、ラマルチーヌ通りで生まれています。1881年に「意識に直接与えられたものについての試論」(『時間と自由』)をソルボンヌ大学に提出し、文学博士号を授与された。

かたやバシュラール(1884〜1962)はシャンパーニュ地方の小さな村で生まれています。地元の中学を出て復習教師(現在の助教師)を務めたのち、パリに出て郵便局に勤め、電信技師の資格を取ろうとするも失敗、第一次大戦に兵役として徴兵される。復員ののち復学して、数学や哲学の学士号を取得し、1927年に「近似的認識試論」をソルボンヌ大学に提出し、博士号を取得したときには40歳を越えていた。

生年を比べても25歳の年齢差があり、最初の学位論文の提出日を比べると半世紀もの開きがあるのです。この間世界は大きく変わった。

1870年、普仏戦争勃発。翌年、モルトケ元帥率いるプロシア軍がフランス軍に勝利。この戦争を題材にポール・ヴァレリーは「ドイツの制覇」(1987年)——のちに「方法的制覇」と改題——を書き、戦争と産業と思考法が劇的に変わったことを指摘します。ニーチェ「悲劇の誕生」発表。

1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」(原題:動いている物体の電気力学)を発表。セザンヌ、最後の大作「水浴図」を未完のまま残して、1906年に死去。

1914年、第一次大戦に勃発。戦闘機、戦車の登場。足かけ5年にわたって、900万以上の兵士が戦死したとされる。バシュラール、1915年に兵役で出兵し、戦争終結まで従軍。

1917年、ロシア革命(10月革命)勃発、ソビエト権力成立。

1933年、ヒトラーにたいする全権委任法の国会承認によるナチス・ドイツの誕生。

1941年、ベルクソン死去。ポール・ヴァレリーは「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であるとともに、偉大な人間の友であった」と弔意を表した。

この時代はよく「戦争と革命の世紀」と呼ばれますが、このことはよくよく考えてみる必要があります。たんなる過ぎ去った「前世紀」ですますことはできない。われわれは今も、科学技術{テクノロジー}の「暴発」、「大衆の勃興」、民主主義の「暴走」の時代を生きている。

ベルクソンとバシュラールの思想の差異を、個性や個人差に帰することはできないでしょう。かといって時代や世代の違いに帰することもできない。そこには何か、人間という得体の知れない種——自然の一部でありながら、自然から遊離し、自由になろうとする生物種——に起因する謎というのか、矛盾というのか、背理というのか、そういう問題が潜んでいるように思います。

それほどゼノンの矢の問題は深く、永遠の謎めいたところがあるわけですが、せっかくベルクソンの思想を読み解くヒントをバシュラールの思索の方法から探ろうとしたのですから、ここでひとつの解(solution)を——数学にならって——提出しておきましょう。

ゼノンの矢の背理(矛盾)は、古来から二分法と呼ばれるその分析法にあるのではなく、「それゆえ、矢は的に当たらない」(矢は動かない、アキレスは亀に追いつけない)と結論したことにある。分割を際限なく続けているのだから、終わりが永遠に来ないのは当たり前ではないか。だからこの問題は、矢が当たるか当たらないかの問題ではなく、人間にとって「無限」(際限がない)とは何かという問題なのである。以上、証明終わり。

*46 塾で話したこと

われながら奇妙なことを始めたものだと思うが、それはさておき、

先日、塾でこんな話をした。

ゼノンの矢の話である。

この話というか、この詭弁(背理、逆説とも呼ばれるけれど)の話をはじめて聞いたのは、たしか中学生のころだった。

東京の大学に入った四歳年上のいとこが、夏休みに意気揚々として帰郷し、年下のいとこ(わたしと、わたしより一学年上のいとこ)に語り聞かせてくれたのである。どういう流れで、詭弁についての話になったのか、それは憶えていない。たぶん、こんな感じだったのではないかと思う。

「おい、おまえたち、詭弁というなら、こういう話を知っているか。むかし、古代ギリシアにゼノンというソフィストがいた。ソフィストというのは詭弁を操る者という意味だ。もともとは知を愛する者という意味だったらしいが、そのうち空理空論をもてあそぶようになったということだ。で、ゼノンはこういう説を立てた。矢は的に当たらない。どういうことだかわかるか?」

われわれ年下のいとこ同士は目を丸くし、きょとんとして聞いている。年上のいとこが何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。彼は続けた。

「つまり、こういうことだ。矢と的のあいだの距離が10メートルだとする。放たれた矢はまずこの距離の半分にあたる5メートルの点を通り過ぎる。次には残り5メートルの半分にあたる2.5メートルの点を通過する。さらにはその半分の1.25メートルのところを通過する。こうして、さらに半分、さらに半分の距離を通過していくわけだが、どんなに分割してもゼロにはならない。ということは、矢は的に当たらない、ということになる。どうだ?」

一学年上のいとこが叫び出す。

「それヘンだよ。だって現実にはぜったい矢は的に当たるんだからさ。射損じたとしても、どこかには当たるはずだよね」

「だから詭弁というのさ。じゃあ、逆にきくけれども、この論法のどこがおかしいか、説明できるか?」

中学生の目は、こんどは点になった。矢は必ず当たる。けれど届かない。現実と頭のなかが完全に食い違ってしまって、茫然としているのである。

わたしの記憶が定かならば、それは一九六九年のことだった。わたしが中学の三年、一個年上のいとこが高校一年、四つ年上のいとこが大学一年、そして六九年といえば、それはもう唖然とするほどすごい年だった。

今、「戦後昭和史」と題されたウェブページを見ている。

一月十八日、東大に機動隊八五〇〇人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦。神田駿河台付近で東大闘争支援学生が解放区闘争。十九日、安田講堂封鎖解除。

大学生になったばかりのいとこは、この大学紛争の洗礼を浴びていたのである(東大生ではなかったけれど)。だから、話題は古代ギリシアの話ばかりではなかった。政治の話、文学の話、音楽の話、次から次へと話題が湯水のように湧いてきて、われわれ年下のいとこは、なにか冒険譚でも聞くような、夢物語の世界にでもいるような感じで、うっとりと耳を傾けていたのである。

「戦後昭和史」六九年のページをもう少し追ってみよう。

二月、毎土曜日、新宿西口広場のべ平連の集まりに反戦フォーク演奏会。

四月七日、四三年に東京・京都・函館、名古屋で四人を射殺した永山則夫、東京で逮捕。

六月十日、国民総生産(GNP)、世界第二位に。

七月二十日、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、人類初の月面着陸に成功。

十一月十六日、反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国一二〇カ所で七十二万人参加。

十一月十七日、佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で四七年沖縄返還を表明。

そして、翌七〇年十一月二十五日には、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に、縦の会のメンバーとともに乱入し、切腹してみずから果てた。

高校一年生になっていたわたしは、学校の帰り道、行きつけの本屋に立ち寄り、発売されたばかりの「毎日グラフ」を手にして、総監室の床の上に置かれた三島の首を見た記憶がある。

世界は東京を中心にして回っていた。

東京に行きたいと思った。ごく自然に。まるで当然のことのように。東京に行くということは東京の大学(どこでもいいから)に行くことを意味した。東京の大学を受験すると言ったら、父から問い返された。なぜ北海道の大学ではだめなのか? 北海道の大学で学ぶことなどないと答えた。なぜか父は納得したようだった。

だったらちゃんと勉強しろよという話だが、ギターをかき鳴らして歌ってみたり、女の子に夢中になって、ラブレターかなんか書きまくったりしていて受かるわけがない。案の定(本人は想定外)、受験に失敗して一年間浪人することになる。

翌年、晴れて東京の大学に合格し、文学部に入学するわけだが、ここから本題に戻る。父にはなぜ北海道の大学ではだめなのかと問い質されたが、今のわたしは、自分に向かって、なぜ文学部を選んだのか、と問うてみたいのである。

そんなに文学が好きだったわけでもないだろう。読書家だったわけでもないじゃないか。なぜ文学部を選んだ? 漠然とはしているが、何かものを書くことが好きだったから。なるほど。で、将来はどうするつもりだったのか? これもまた漠然としているが、新聞記者とか編集者とか、やっぱり文字を書く仕事に関係した職業につければいいと思っていた。

それがいつのまにか翻訳者、翻訳家になっていた?

ま、そういうわけだ。人生不可解とでもいうべきか。

いや、しかし、文字を書く仕事というのなら、翻訳こそひたすら文字を書く仕事ではないか。

たしかに。いや、きみの質問は逸れているぞ。誘導尋問だ。わたしがなるべくして翻訳家になったと誘導している。

いや、質問が逸れているわけではないだろう。こちらの頭が混乱しているのだ。問題を整理しよう。

はじめてゼノンの話を聞いたのは一九六九年だった。そこに話を戻そう。その話題を運んできたのは、当時東京の大学に入ったばかりの、四歳年上のいとこだった。そう、ゼノンの背理は六〇年代の終わりを迎え、混乱と崩壊と絶望と希望の入り混じる東京からやってきた。

そのころ中学生だったわたしは、北海道の片田舎でどんな暮らしをしていたのか。どんなことに関心を持ち、どんなことに若いエネルギーを注ぎこんでいたか。

夏はテニスをしていた。冬はアイスホッケーに明け暮れていた。本は?

ほとんど読まなかった。

当時読んだ本で記憶に残っている本はたった二冊。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」と太宰治の「人間失格」だけ。あまりに対照的。一方は十九世紀のアメリカ文学で、探偵小説の祖と呼ばれる作品。もう一方は、説明する必要もないだろう。

エドガー・アラン・ポーの短編集は、一歳年上のいとこから借りた。夢中になって読んだ。ただただうっとりしていた。「モルグ街の殺人」も「黒猫」も、もちろん強烈な印象を与えたが、一等好きなのは、やっぱり「黄金虫」だった。

暗号解読。それだけで短編小説ができあがっている! こんなに知的な、こんなに優雅な小説がほかにあるだろうか。今もそう思っている。これは世界文学史の奇蹟なのだ。

もう忘れてしまったが、ポーはどこかでこんなことを言っている。小説は二、三十分で読み切ることのできるものがよい、と。つまり、短編小説こそが小説という芸術の醍醐味なのだと。これを読んだときは、もう大学生になっていたと思うが——そう、ポーはずっと好きで、大学に入るとすぐに全集を買ったくらいだ——、その一文に触れて、そうか、シンフォニーもだいたいそのくらいだよな、LPレコード一枚聞くくらいの時間で読み切れるもの、それは人間の頭脳、あるいは感覚の集中が生理的に途切れない時間なのではあるまいか、と思ったことを今も憶えている。(*1)

さて、もう一方の太宰治。これは早熟だった同級生が読んでいるのを見て、刺激されて読んでみたのだ。「人間失格」、そもそもタイトルがおどろおどろしい。読んでみると気味が悪かった。誰もがそう思うらしいが、ここには自分のことが書かれている、自意識の芽生えた思春期真っ盛りの中学生には衝撃的だった。写真のなかの自分、笑みを浮かべているが、手もとを見ると拳を握りしめている。その手は自分のペニスを握る手でもあるだろう。

でも、その勢いで読み漁るというということはしなかった。テニスとアイスホッケーでくたくただった。

それにしてもポーと太宰治じゃ違いすぎるだろう、と思う人が多いかもしれない。べつにそのことに抗弁するつもりもないし、その必要もないだろうが、中学生なんて、そんなものじゃないだろうか。何もかも芽生えたばかり、趣味も思想も好き嫌いもポリシーもない。手当たりしだい。なにもかも偶然にさらされている。

しかし、この「偶然」と呼ばれるものの不思議、奥深さ、この年になると、そのことをしみじみと感じるのである。偶然にさらされているのは思春期だけではあるまい。全人生が偶然にさらされている。偶然はいつも雨のように、あるいは紫外線のように、われわれに降りそそいでいる。

わたしがこの日本列島の、北端に位置する島の、人口十万を超える程度の小都市に、二度目の世界戦争が終わった直後の一九五〇年代の前半に生まれたこと、これは偶然以外の何ものでもない。

だとしたら、必然とは何か。宿命とは何か。あるいは運命とは何か。意志とは何か。

わたしはそういうことを考えてみたいのである。

この塾で、このブログで。

それは哲学ということですか、と問われるなら、その言葉は嫌いだと答えておこう。文学という言葉も嫌いである。学問という言葉も、学校という言葉も好きになれない。

哲学は躓く。学問は躓く。

ゼノンの背理はそれを如実に物語っている。その背理は、じつは人間の、自然にたいする背理ではないのか。その問題をベルクソンは生涯考えつづけた。でも、矢は的に当たらない。人間の言葉で考えるかぎり。

でも、矢は的に当たる。

それが詩だ。少なくとも、喩が矢であるかぎり。それは飛躍する。分割しない。

ポーが長編を書かなかったのは、彼が詩人だったからだろう。言葉の力を飛躍に求めたからだろう。

これを書きながら、さっきから必死で思い出そうとしていることがある。太宰治の短編に数学者ガウスの名前が出てくる作品がある。それがどの短編集に収められていたか、本棚をさがし、太宰の短編集のいくつかをぱらぱらめくってみたのだけれど、肝心のタイトルが思い出せない。(*2)

そのうち、思い出すだろう。

太宰治の短編は高校時代によく読んだ。「富岳百景」が好きである。「走れメロス」が好きである。「駆け込み訴え」が好きである。「御伽草子」が好きである。短編なら、どれもこれも好きである。

二、三十分で読めるもの。

ほら、ポーとのつながりが見えてきた。

これを「必然」と呼ぶか、たんなる好き嫌いと見るか、なかなか奥深い「哲学」的問題なのである。

 

〔追記〕

*1)なにしろ40年以上前に読んだ本の記憶なので、たぶん印象と思い込みだけが残ってしまったのだろう。ポーはもっと違う書き方をしている。

「最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するとなると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである」(「構成の原理」篠田一士訳)

ポーはあくまでも詩について語っているのである。彼の考えからすると、ミルトンの『失楽園』のような長編詩は、その半分は本質的に散文だということになる。そして、こんなふうに結論づけている。

「かくして明らかなように、すべての文学作品には長さの点で明確な限度、一気に読みきれるという限度があり、また或る種の散文作品、例えば『ロビンソン・クルーソー』のような、統一を必要としない作品では、こうした限界を超えた方が有利かも知れないが、詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない」(同上)

 

*2)すぐに思い出せないというのは、明らかに加齢(老化)のせいだ。数学者のガウスが登場するのは「愛と美について」という短編である(新潮文庫『新樹の言葉』所収)。あるところに五人のロマンス好きの兄弟姉妹がいて、「退屈したときには、みなで物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである」。長男がまず「きょうは、ちょっと風変わりの主人公を出してみたいのだが」と切り出す。次女が、それなら「老人がいいな。」と応じる。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種族は老人である」というのがその根拠である。すると末弟が「ぼくはそのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです」とアイディアを出したのはいいのだが、「ことし一高の、理科甲類に入学したばかり」なので、物語の展開など考えもせずに、授業で習ったことを滔々と語り出す。

「数学の歴史も振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。(・・・・・・)十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる段階があります。すなわち、この時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば、例えば Gausse. G、a、u、ssです」

こんなふうにスペルを強調するあたり、ガウスは太宰治のお気に入りの数学者だったのだろう。どこか微笑ましい。太宰治は戦後矢継ぎ早に発表した「人間失格」「斜陽」などの長編小説のせいで、破滅型の私小説作家の典型と思われているかもしれないが、このひとは本質的に天才的短編作家であると思っている。そして、軽妙を装う文体とは裏腹に、古典を読み抜く小説家としての直感と洞察力は、芥川龍之介などより深いというのが、わたしの個人的見解である。

*45 野火

目の前に塚本晋也監督の撮った「野火」のポスターがある。娘がフォトストリームで送ってきてくれたのである。アマゾン・プライムでダウンロードして観たとコメントにある。「わたしにはおもしろかったけど、凄惨なシーンが多い上に話が淡々と進んでいくので人によっては嫌な印象を受けるかも」と続けて書いている。

ポスターには「なぜ大地を血で汚すのか」というコピーが左下に小さな活字で記されている。中央上部には大きな明朝体で「野火」の文字が、その真下に逆光の空を背景にして、銃を肩に掛け両手をわずかに広げた兵士の黒いシルエットが映し出されている。

大岡昇平の原作である。話題になっている。でも、映画のことには触れない。観ていないし、たぶん観ないと思うから。映画から「嫌な印象」を受けることを心配しているのではない。大岡昇平という「大作家」にあまりいい印象を持っていないのである。
『野火』という小説は学生時代に読んだ。読んで「嫌な感じ」がした記憶が今も残っている。

 

私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に広がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
 男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った。また射った。弾は出なかった。(十九・塩)

 

戦争という凄惨な現場でドストエフスキーを連想するのかよ。そう思ったのである。むろんこの『野火』という作品は事実を描いたものではない。

 

私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中庭の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病者をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者共を見下ろしている。(三十七・狂人日記)

 

つまり、戦争を経て精神病院に収監された狂人の書いている日記が『野火』という作品なのである。大岡昇平という作家は、みずからの戦争体験をも自分の文学的野心の肥やしにしたのか、と血気に逸る青二才のわたしは思ったのである。

ところで、戦争を題材にしたもうひとつの代表作に『俘虜記』と題された作品がある。というより、こちらが復員後最初に書いた作品だが、そこにも似たような場面がある。こちらの作品では、語り手の「私」は、射たない。最初から、射つまい、射つくらいなら射たれて死のうと、この兵士は思っている。そして、その前に無防備な若い米兵が現れる。すると意に反して「私」は思う。「こいつは射てる」と。

 

しかし、彼がむこうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見たとき、私の中で動いたものがあった。
 それはまず彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であって、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

 

こうして、この作品は、射つか射たないか、どうして射つのか、どうして射たないのか、えんえんと心理分析が続く。

違うだろう、と若いわたしは思った。戦争という現場にあって、いまだに上から目線を維持しているこの「知識人」はいったい何者か。

わたしは、戦争はおろか、六〇年安保闘争も、七〇年安保闘争も、全共闘運動も経験していない世代に属する。ただし、そういう政治青年、知識人候補生、そういった若者の末路、そして、傍観者としての上から目線の知識人の姿——ことあらばすぐに逃げ出す——なら、いやというほど見てきた。

ここで開高健がベトナム戦争で直面した、あの有名な場面の描写を読み比べてもらいたい。

 

ふたたびどこからか瞶{みつめ}られているのを感じる。いまはそれがあるだけとなった。生還できるだろうか。にぶい恐怖が喉をしめつける。だらだらと汗をにじみつづけるだけの永い午後と、蟻に貪られぱなしの永い夜から未明へと送ったり迎えたりしているうちに自身との密語に覆われてしまえば汚水にわたしは漬かる。徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。だとすれば私はすでに半ば死んでいるのではないか。(開高健『輝ける闇』)

 

そうだ、ここでは見ているのではない。瞶られているのだ。目は輝いてはいるが、盲いている。その物と同化し、犬のように死ぬ。

開高健はこの一作をもって、「文学」と刺し違えたのだと思う。そのあと、パリを舞台にエロスに溶けていく男女の姿を描く(『夏の闇』)。そして、満を持して「闇三部作」の最後を飾るはずの『花終わる闇』に取りかかるが、中断して未完のままになってしまう。これは小説を書きあぐむ作家の物語だが、ベトナム、パリ、東京と舞台を移して、なぜ挫折したのか。その疑問は、ここではそのままにしておこう。

ところで大岡昇平はもうひとつの「戦記物」を書いている。言うまでもなく『レイテ戦記』だ。これもまたジャンルとしては「小説」の枠に収められているが、この作品はジャンルの枠など易々と超えてしまう。

この大著を前にして、青二才のころに感じたわたしの「嫌な感じ」は消し飛んでしまう。献辞には、

 

死んだ兵士たちに

 

とある。

そして、わたしは『俘虜記』を読み返す。異様な作品であることに、今さらながら感じ入る。彼は俘虜になるまでの、心理の葛藤ではなく、生死の葛藤を書いている。彼は死のうとして死ねなかった。彼は生き延びた。虜囚の辱めを一身に背負いながら。日本という国家と同じように。

彼は芸術院会員への推薦を辞退する。かつて俘虜の身であったということを理由に。この辞退の真の理由を正しく見抜いたのは、批評家秋山駿ただひとりであった。

一兵卒の感情からすると、天皇の存在は有害であると断じた大岡昇平の言葉を、さっきから探しているのだが見当たらない。『レイテ戦記』も見当たらない。あるはずなのに。だから、図書館から借りてきて、この文を書いた。

*44 翻訳と文学をめぐる塾

〈私塾〉のようなものを立ち上げました。名前はまだありません。ずっと無名のままかもしれません。雲をつかむような塾です。

 

8月の19日に自宅で説明会を開き、翌週火曜の22日に第1回を開くことができました。毎週火曜の例会です。みなさん仕事がありますので、夜7時からの集まりです。今のところ5名の方に〈塾生〉としてご参加いだだき、この拙文を書いている段階(9月4日現在)ですでに2回の例会を数え、明日には3回目を迎えることになります。

 

雲をつかむような塾と言いましたが、有料でやっていますから(1回につき3000円)、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。この塾のコンセプトをあえて言葉にするなら、「翻訳と文学をめぐる塾」ということになるでしょうか。翻訳家・翻訳者を養成する塾なのか、と思われる方もおられるかもしれませんが、さにあらず、というか、そうなってくれればうれしいですが、翻訳家を養成することはそんなに簡単なことではありません。とりわけ北海道の地方都市である帯広でそれを試みるのはかなり困難を伴います。今回参加していただいた5人の〈塾生〉もそういうことを望んでいるわけではありません。

 

では、すでに2回を数えた塾の例会では、何をやっているのか?

塾の主宰者である私が出版社から依頼されて翻訳している作品を素材・材料として取り上げ、翻訳という作業がどういう工程を経て、一冊の本として世に送り出されるのかを、塾生の皆さんに身をもって体験していただくというものです。そんな塾の試みは、翻訳家を養成しようと試みること以上に無謀なのではないか? そのとおりです。発案・企画の私ですら、当初は危惧を覚えたほどです。

 

ところが、案ずるより産むが易しと言うべきか、最初の説明会のときにお集まりいただいた方々にそういうコンセプトを、あくまでも、たとえば、そういう内容の塾に関心はあるだろうかという形で提案してみたのです。すると、それはおもしろい! という反応が返ってきたではありませんか。それならば手をこまねいている理由はない。さっそく次の週から始めようということになったわけです。

 

ちなみに今回集まった5名の塾生のバックグラウンドはまったくまちまちです。いわゆる専業主婦と呼ばれる方もおられます(たぶん。詳しいことはお尋ねしませんので)。イタリア語や英語が専門という方もいます。精神科医の方もいます。共通するのはフランス語とフランス文学に興味があるということ。語学のレベルは問いません。文学や哲学、あるいは芸術、宗教など、文化一般に関心があるという方でもかまいません。重要なのは知的好奇心のようなものです。年齢も問いません。こういう多種多様な方々の関心をいつまで、どこまで惹きつけていられるか、講師役の私としてははなはだ心許ないところがありますが、今のところ手応えは十分です。

 

今のところは、目下翻訳中のローラン・ビネの第二作『コトバの七番目の機能』(La septième fonction du language)という作品を取り上げて、話を進めています。この作品は一九八〇年にパリ市内で交通事故で亡くなったロラン・バルトの死をめぐる小説です。あろうことか、著者はこれを交通事故ではなく、暗殺であるという仮説に立って一個の長編小説に仕立てあげたのです。この作品にはたくさんのテーマが含まれています。ロラン・バルトは文芸評論の世界に新たな地平を切り拓いた二十世紀を代表する知性とか呼ばれたりしますが、実際のところどういう作家、書き手だったのか。フランスの現代思想とはどういうものか。ひいてはフランス文学とはどんな文学であるか。フランス語とはどういう言語なのか。そして、文学とは何か・・・・・・。時と場合に応じて、積極的にどんどん脱線していく。出し惜しみはしない。というか、出し惜しみするほどのものは持っていないし、いつだって当たって砕けろの精神で生き延びてきたのだから、今回の場合もそれでやってみようじゃないか、それしかできないだろう。というわけです。

 

政治や経済の面でも、あるいは文化の面でも、先の見えない時代に突入した感があります。人間の築き上げてきた文明はどこに行こうとしているのかと問うこともできるかもしれません。でも、そんな大風呂敷を広げてみたところで解が見つかるわけがありません。小さな、具体的な手触りのある、人の顔が見える範囲で何かを立ち上げ、持続させること、そのなかでほのかな光が見え、手応えを感じられるならば、それを突き詰めてみること。この塾でやろうとしているのは、そういうことかもしれません。

 

参加をご希望の方、あるいは質問のある方は、下のコメント欄にその旨書きこんでください(メールアドレスを記入してください。これは公開されませんが、高橋には届くようになっていますから、コメントに対する返事だけでなく、メールでご返事することもできます)

*43 やまべ釣り

この前の日曜日、高校時代にバレーボール部で活躍していた伊藤博くんに誘われて、やまべ釣りに行ってきた。北海道では、山女魚{やまめ}のことを、やまべ、と呼ぶ。魚体の側面に楕円形の斑点が並ぶ小形の川魚。北海道では昔から、干して甘露煮にしたり、天ぷらや唐揚げにしたり、あるいは酢で締めて鮨にしたりと愛されてきた魚だが、最近は数が少なくなってなかなか捕れないと聞いていた。

だから、伊藤博くんから誘われたときも、まあ、ときには山の沢にでも分け入って気分転換するのもよかろうと思った程度なのである。あとで聞いたことだが、博くんも、二、三尾釣れれば上出来だろうと思っていたらしい。

ところがすべての予定、予想が覆った。

まずは釣り場。最初は、阿寒湖の北部にある阿幌岳を源流とする網走川がやまべの宝庫だというので、それならば日の出前から家を出るのだろうと思いこんでいた。

そのうち電話するからと博くんは言っていたのだが、なかなか連絡が来ないので、しびれを切らしてこちらから電話してみた。あのー、やまべ釣りの件、どうなったのかな?
「あー、こっちから電話しようと思ってたんだよ」

どうも最近、気が急いていけないな、とか思いつつ、
「あのさ、網走川の上流まで行くとしたら、朝早く出なければならないんでしょ。だとすると、こっちにも都合というか、心づもりみたいなものもあるわけで・・・・・・」と続けると、
「いやいや、そんな遠いところまでは行かないよ」と言う。
「じゃ、どこに行くの?」
「駒場。駒場、知ってるよね?」
「うん、でも、そんなところにやまべがいるの?」
「いや、穴場があるんだよ」
「駒場なんて、畑しかないだろ?」
「いやいや、小さな沢がたくさんあるんだよ」
「えー、そうなの?」

というわけで、その週の日曜日に駒場に行くことになった。車で三十分くらいのところである。

帯広市とその周辺の地理に冥い人のために、いちおう説明しておくと、帯広市の北側には十勝川が流れている。この川を渡ると音更町に出る。この音更町の広大な畑作・牧場地帯が駒場である。ちなみに音更は、おとふけ、と読む。「アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別{しかりべつ}川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています」(音更町の公式ウェブページより)

この駒場という場所、じつは何度も通ったことがある。でも、いつも通り過ぎるだけ。だって、畑しかないんだから、車を停めてみても、ただ十勝平野の広さと空の広さをあらためて感じること以外の感興はわいてこない。というわけで、いつもはここは素通りして、大雪山国立公園に属する然別湖とか糠平湖まで車を飛ばすことになる。

日曜の朝八時、博くんがわが家まで迎えに来てくれた。なにしろ、釣り竿から胴長まで、釣りに必要なものはすべて用意してくるから、身ひとつで待っていてくれという。ありがたすぎる話である。

でも、本当にありがたいと思ったのは釣りが終わってからである。どうせ釣れるわけがないと思っていたから、ドライブの行き先として、駒場じゃつまらんなぁ、と内心思っていたのである。

車は十勝川を越え、畑の真ん中を貫通する自動車道路を走っていく。話の途中で、博くんは、ちょっと待ってね、といって車を停めた。ナビの画面を呼び出し、探索している。なんと、目的地のリストにたくさんの釣り場のポイントが登録されているのだ。
「釣り仲間がいろいろ情報をくれるんだよ」

なるほど、といっても、ナビ画面の地図には農道らしき直線道路と小川みたいに細い筋しか記されていない。
「これ、川なの? 用水路じゃないの?」

車窓からときどき目に入る細い流れは、両脇に鬱蒼と草木が生い茂っている。こんな場所に分け入ったとしても、釣り糸を垂らすことができるのだろうか? なんだか狐につままれたような気分で助手席に座っているのである。

やがて、博くん、たしか、この辺だったかな、とか言いながら、アスファルト舗装の農道から畑の脇の土手道へと降りていった。左は刈り取られたばかりの麦畑が広がっている。右手は夏の日差しをあびて勢いよく生い茂る草木。しばらく車を進めると、
「ほら、分け入った跡が見えるだろ」と言って、運転席側の茂みを指さす。そう言われれば、雑草が踏みつけられた跡があり、土手が急勾配で下っているのがわかる。でも、流れは見えない。車が停まる。
「とりあえず、この辺でやってみるか」と言って、博くんは土手の右脇に寄り、背伸びして沢を覗きこんでいる。「ほら、見えるよ」

その言葉に惹かれて、土手の下を覗いてみると、幅二、三メートルの瀬が流れていて、段差があるために流れが白く泡立っているところがある。草木に覆われていてよくわからなかったが、思ったより水量がある。それでも、こんな畑のど真ん中にやまべがいるとはにわかには信じられない。

博くんはすでに車のハッチバックを開け、中から釣り竿、胴長、魚籠などを取り出している。
「こっちの胴長をはいてくれる?」

差し出された胴長は見た目も大きいし、持ってみるとかなり重量がある。こんなの履いて、はたして自在に動けるのか?
「靴底にはフェルトが貼ってあって、滑りにくくなっているんだよ」と言う。

両脚を突っこんでみると、下半身が潜水服を着たように重い(と言っても、潜水服を着たことはない)。靴にも重量があるし、転んでも怪我をしないようにということなのか、脛から膝にかけて、アイスホッケーの防具みたいに補強されている(アイスホッケーの防具なら付けたことがある)。

なんだか、すごいことになってきた。
「傾斜がけっこうきついから気をつけてね」

傾斜は三十度くらいだろうか。こんなごつい胴長を着て、降っていけるか心許ない。だが、この胴長、重さ、ごつさの割りには関節部は曲がりやすくなっている。

土手の下まで降りると、二、三人の男が並んで立てるくらいの水平のスペースがあった。その二メートル上手で流れが爽やかな音を立てて白く濁っている。

博くんは釣り糸の先の針に餌をつけている(イタドリ虫と言ったか、ブドウ虫と言ったか、この次会ったら、確かめておこう)。細長く、いかにも繊細そうなカーボンファイバーの釣り竿は大工の棟梁にプレゼントされたものだという(博くんは内装屋なのである)。
「今は売ってなくて、プレミア付いているんだよ」と言って、こちらに差し出すが、そんなすごい道具、初心者が使っていいのか?
「まずは白く泡立っているいるところに投げ込んで、それからすっと下に流していって、それからゆっくり戻していくんだ」

言われるがままに、白く濁っているところに糸を垂らし、そのまま下流に糸を流していくと、
「ほら、来てる、来てる!」と言う。

きょとんとしていると、
「一、二、三で合わせるんだよ!」

そんなこと言われても、意味がわからない。で、とにかく竿の先がしなっているので、引き上げてみると、銀色にきらきら輝く小魚がぴくぴく身をしならせながら、こちらに近づいてくる。
「すごい、いきなりじゃない!」

と、博くん、驚いている。小さなやまべをキャッチすると器用に針を外し、魚籠のなかに入れている。こちらは何がなんだかわからない。釣り上げたのが自分のような気がしない。で、次からは餌の付け方をならって、さっきと同じようなやり方で糸を流してみる。すると、また、ク、ク、と引きがある。小さな赤いプラスチックの浮きが水面の下に沈み、竿の先がわずかにしなる。あわてて引き上げるが、針の先には何もいない。
「ちょっとタイミングが早かったね。とにかく、一、二、三、だから」とまた言うが、やっぱりピンと来ない。

餌は取られていないので、そのまま糸を上流のほうに戻し、同じ動作を繰り返す。すると、また来た。こんどはあわてないように、しっかり食いつくまで我慢する。竿を揺らしても、手応えが外れない感じなので、そのまま引き上げてみる。ぴくぴく跳ねるやまべを今度は自分でキャッチして、針を外そうと試みるが、針は喉の奥まで入りこんでいる。
「ああ、呑みこまれちゃったね。今度はタイミングが遅かったんだ。初心者によくあるんだよ」

博くん、外科医の道具みたいな細長いペンチを取り出して、喉の奥に差し入れている。全長が人差し指くらいの、まだ子供の(?)やまべだから、見るも無惨というか、かわいそうである。
「あ、これ、ダメだね。針を取り替えよう」

博くんは、そう言うと針と錘をつなぐ小さな環のところから、魚に呑まれた針を外し、やまべはそのまま流れに返した。
「引きのタイミングを合わせるのが、やまべ釣りの醍醐味なんだよ」

なんだか悔しい。何回やってもうまくいかないのではないかという気になってくる。気を取り直し、新しい針にブドウ虫を付け、上手の白濁した部分に糸を放りこみ、そのまま流し、また上手に引き上げていく。

また来た。ツン、ツン。小さな魚影が見える。接近しては引き返し、また近づいてくる。白いブドウ虫の餌が一瞬消える。
「ほら、そのタイミング!」

竿を斜め上に引き上げる。まだ勢いよくは引けない、おそるおそる。でも、かかっている。細かい水しぶきを周囲に散らしながら、小さくしなやかな魚体を陽光にさらし、こちらに向かってくる。左手の中に収まったやまべはなおももがく。そのぬめり、艶、つぶらな目とあまりにも小さな口。
「うまい、うまい!」

針はちょうど口先の硬い骨のところにかかっている。
「名人の技だよ」と博くんが冷やかす。「ふつう、こんなにうまくはいかないんだよ」と言うが、当人はあいかわらず何がなんだかわからない、狐につままれたような感じなのである。

もう、あとは無我夢中だった。やまべは次から次へとかかった。まるで奇蹟のように。一、二、三の意味もわかってきた。やまべは慎重だから、いきなりは食いついてこない。最初は様子見のツン、次は確認のツン、で、最後に大きく口を開けて食らいついてくる。そのとき竿をひょいとしならせる。

気がつくと、一時間で二十尾くらい釣り上げていた。

もう一箇所、ポイントがあるんだというので、車で移動した。さっきよりも川幅が広く、竿も振りやすいが、なかなかかかってきてくれない。
「ここのやまべはすれてるね」という。

なるほど、そういうこともあるのか。それでも、一時間で三尾くらいは釣れた。二十尾つれたさっきの釣り場よりも、釣りをしている感じがあった。やまべとの駆け引きみたいなものがあるのだろう。これはやめられないな、と思った。

時計を見ると昼近くになっている。そろそろ引き上げようということになった。気温が上がり、水温が上がると、魚たちの動きも鈍くなるという。朝の八時に家を出て、ポイントをさがし当てたのが九時近く。移動の時間を除くと、二時間くらいは糸を垂らしていた計算になる。魚籠のなかはやまべがうようよしている。
「三十尾くらいはいるんじゃないの」

博くんはあきれたような口調で言うし、こちらのほうは唖然としている。
帰りの車中はむしろ口数が少なかった。疲れたでしょ、と労ってくれるが、疲れたというよりも、茫然としているのである。

釣りはたしかにおもしろい。しかし、ただおもしろいだけではすまされないものがある。

この感じはいったいなんだろうと思って、ずっと考えこんでいるのである。
「猫じゃらしの感じと似てるような気がするんだけどね」と、とりあえず口にしてみると、「あ、うまい」と博くんが応じる。

気の利いたことを言おうとしたのではない。猫の前で、たとえば猫じゃらしを振ってみる。細長い棒でもいいし、紐でもいい。猫は前足を繰り出して、その先を自分のほうに引き寄せようとする。ただひたすら棒の先だけを見て、その動きに反応している。その向こうには人間の手があって、その手を動かしている人間がいる。それも目に入っているはずなのだが、身体は棒の先だけに反応している。

竿と糸という、自分の手の延長ともいえる道具を使って、巧みに魚を招き寄せ、釣り上げる。さっきまで透明な流れのなかに見ていた魚影が脳裡に浮かび上がる。小さな黒い魚影が見えない糸の端の針先に引っかけられた虫めがけて寄ってきては離れ、沈み、また浮かび上がってくる。

そんなことばかり考えている。いや、考えようとして考えているわけではなく、ぼんやりと思念がさまよっているというべきか。

帰りの車中でも、昼過ぎに立ち寄ったそば屋のなかでも、そして、こうしてその日のことを思い出しながら、考えをまとめ、言葉を釣り上げようとしている、この今も、やはり茫漠とした感じがさまよい続けているのである。

帯広に帰って初めて釣りに誘ってくれた伊藤博くんへの感謝の思いを記しておこうと書きはじめたはずなのに、出口が見えなくなってしまった。この続きは次回の釣りの後になるのだろうか。

*42 二つの聖書

判型がまったく同じで、発行所もまったく同じ聖書が二冊、本棚に並んでいる。判型は文庫本に相当し、発行所は銀座四丁目の日本聖書教会、一九五五年に改訳され長く親しまれてきた「口語訳」の聖書である。

違いは二つある。一方は表紙が赤、もう一方は黒、赤いほうの発行年は一九六八年、黒いほうは一九七四年。赤いほうは妻のもの、黒いほうは私のものである。

妻はキリスト教系の女子大学に入った。信者の家に育ったわけではないから、おそらく聖書講読の授業のために購入したのだろう。ページを開いてみると、所々に傍線やらカギ括弧などの書き込みがある。

妻はこのいわゆるミッション系のお嬢さん学校を嫌っていた。そもそも東京の大学に行きたかったのである。兄がすでに東京の大学に通っていて、東京での生活にあこがれていたのである。しかし、両親に反対された。娘がひとり東京で暮らしていけるものか。仕送りできる余裕など家にはないと言われた。慕っている兄にも反対された。大学に行くならちゃんとしたところに行け、と。それが地元のお嬢さん大学だった。

四年間、違和感を噛みしめながら、ひたすら我慢した。卒業したら東京に出て自活すると心に決めていた。就職を決める最後の年、一念発起して、学長にかけあった。東京の出版社に就職したいので、どこでもいいから紹介状を書いてもらえませんか。

そして運良く、彼女は当時目黒にあった出版社で働くことになった。

そして私は六年遅れて、その出版社に入った。

 

私が聖書を買い求めた理由は、大学に入ってしばらくして、聖書の読書会に誘われたからである。

今思えば、個人的には五月病のようなものだったのかもしれないが、大学に入って半年も経たないうちに、大学の授業にも、憧れの自炊生活にも意欲を失い、学校に行ってもいつもキャンパスのベンチにごろりと横になっていた。

そこに声をかけてきた男がいた。大阪の男だった。聖書の読書会をやろうと思っているんだが、参加しないか、という。あとで聞いた話だが、いつも白けているんだかふて腐れているんだか、ベンチで寝ている姿を見て、おもしろいやつだと思ったらしい。

大阪の男はひょろりと背が高く、持病のせいで軽い跛行があった。

読書会は掛け値なしにおもしろかった。興奮し、夢中になった。われわれはマタイ福音書を読み、フォイエルバッハを読み、ルターを読み、内村鑑三を読み、太宰治を読んだ。

キリスト教には縁もゆかりもなく、福音書のなんたるかも知らない田舎者の青年は、まさに乾いた砂が水を吸い込むように無我夢中でそこに刻まれている活字を呑みこんでいった。

大阪の男はキリスト教系の高校を出ていた。愚直でロマン主義の塊のような男だった。中原中也を愛唱し(そう、酒が入ると諳んじて、文字どおり謳うのだ)、革命の夢を追い、思想家たらんとしていた。

この読書会は、テキストを読んできて、その感想を言い合うというようなものではなかった。一字一句、声に出して音読していくのである。これも大阪の男の発案だった。

われわれは大学の周辺をうろついた。喫茶店をはしごし、貸部屋のようなところで半日を過ごし、日が暮れれば飲み屋に繰り出して議論した。

ひょろりと背が高い座長とその賛同者たち。今思えば、イエスとその使徒たちのようであったかもしれない。

福音書の、いったい何に、どこに惹かれたというのか。私個人に限って言えば、それまで読んだどんな小説よりも劇的で、しかもリアリティがあると感じられた。そんな感受性が、自分のどこにあったのかと訝るほど、読んで感動した。むしろ、動揺し、惑乱したというべきかもしれない。

これが聖なる書? 福音って何だ? ここに書かれていることは、おどろおどろしい悪魔払いと荒唐無稽な癒しの場面、原始的な医療の現場、それに仲間内の不信と裏切りと、何か得体の知れないものに対する主人公の苛立ち、焦慮、そういったものの連続ではないか?

そう、繰り返すが私はここに苛烈な人間ドラマを読んだのである。信仰に近づいたことは一度もないし、洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしたこともない。

私はいつも文化果つる土地からやってきた野蛮人でありたいと願っていた。そういう思いと福音書のテクストは波長が合った。

そして、福音書と同じく、やがてわれわれの読書会にも別れの季節がやってくる。誰しも永遠に学生のままでいるわけにはいかない。社会との接点を見つけ、その一員にならなければ生きてはいけない。

ある者は予備校の、高校の教師となり、ある者は大学院に残った。私は出版社に勤めることになった。

 

私は妻とキリスト教の話も聖書の話もしたことがない。彼女は単位を取るために聖書を読んだのだろうし、私のほうも妻とそんな話をする必要はなかった。

しかし、十数年前に先立たれ、彼女が遺していった本を自分の書棚に入れ、判型の同じ赤と黒の聖書が並んでいるのを見ていると、本同士が会話を交わしているような気がしてくる。それは最近のことである。それだけ妻の死が遠くなったということなのかもしれない。

私に聖書の世界を開いてくれた大阪の男は三十代半ばで他界し、妻も五十代半ばで旅立っていった。自分だけ生き延びているという感覚よりも、取り残されたという感覚のほうが強い。人は死んでも書物は残る。書物が失われても記憶は残る。人が死んでも記憶は残る。私が聖書を読みつづけるかぎり、死者の記憶も失われることがないだろう。

*39 ニコラ・ブーヴィエの詩

熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。

 

ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)