*6 サント=ヴィクトワール山

二〇一三年六月二日、快晴の午後、わたしはサント=ヴィクトワール山の中腹に立ち、蒼穹に屹立する白くまばゆい山巓を見上げていた。岩石の隆起。上腕筋の力こぶのような、怒りでもあるような、圧倒的な白い禿げ山。

神秘の山という人もいるらしい。だが、そんな曖昧なものではなかった。神々しいというのならわかる。今立ち上がろうとして片膝をついている巨人のようでもあり、ロダンの彫刻のようでもあり、言葉で形容しようとすると、いずれも大仰で陳腐なものになって、この目で見て、この肉体で感じた実際の山は逃げていく。

サント=ヴィクトワール山は、もっとも高いムシュ峰で一〇一一メートル、全体の規模としても縦一八キロ、幅五キロほど。それほど大きくはない。

しかし、山は高ければ高いほど、大きければ大きいほど存在感が増すというようなものではないのだろう。少なくともサント=ヴィクトワールと対面すれば、そう思えてくる。

エクスの町の中心部からは、この山はよく見えない。駅近くのバスターミナルから山頂に向かうバスが出ていると聞いた。小さなバスに乗り、しばらく住宅街を走ったあと林のなかに入った。山は依然として見えてこない。ところが突如として、木立の隙間から、白い石灰質の山肌が目に飛びこんできた。首をねじって、車窓からむりやり見上げると、陽光に燦然と輝く岩の頂が見えた。すでに麓の林のなかを走っていたのだ。

中腹で降りると、小さなバスはさらに頂上を目ざして登っていった。バス停の周囲には草地もあり、灌木の茂みもあり、山小屋風のレストランもあり、人家もあった。老人がせっせと庭の手入れをしていた。

その人間の風景を、サント=ヴィクトワールの裸の岩山は見下ろしていた。

わたしはその場に立ちつくし、その頂を見上げていた。日常から離れた観光客の感じるエキセントリックな、エキゾチックな感動とは明らかに違う、衝撃に近い、はっきりとした身体感覚を確かめながら。

 

 

還暦の年に、まさか南仏に行けるとは思ってもみなかった。

招いてくれたのは、アルルにある CITL(Collège International des Traducteurs Littéraires)という機関。あえて訳せば、文学翻訳者国際カレッジとなるが、学校や大学のようなものとは違う。世界各国のフランス語翻訳者が長期滞在できる宿泊施設が常備されていて、その傍らで、毎年プロの翻訳家を養成するための実践的プログラムが用意されている。今回は翻訳家を目指す受講生として、日本人三名、フランス人三名が選ばれ、また講師のほうも、日本人三名、フランス人三名が選ばれた。若い受講生とベテラン翻訳家がほとんどマンツーマンのような形で対峙し、受講生は個々具体的な質問を講師にぶつけ、講師は長年培ってきた翻訳スキルを伝授するというユニークで野心的なプログラムである。

終わってしまったから、こんな澄ました書き方をしているけれども、最初、アルルから電子メールが飛びこんできたときには、なにかの間違いではないかと思った。三十年近く翻訳を仕事として、職業としてやってきたとはいえ、人に教える自信はなかった。翻訳とは基本的に職人仕事であり、日々の積み重ねの果てに、その仕事の輪郭がうっすらと見えてくるもの、という自覚はあるものの、それは自分でつかみ取るものであって、教えるものでも教わるものでもないだろうと思っていた。

それならば、なぜ講師を引き受けたのか。理由は簡単、南仏をひと目見たかったからだ。仕事柄、パリには何度も足を運んだ。でも南仏は遠かった。近くて遠かった。

二十代の終わりに地中海の向こう側、アルジェリアで一年を過ごしたことがあった。首都アルジェの、海沿いのホテルのダイニングルームから、毎日のように夕焼けに染まる海——まさにホメロスのいう「葡萄酒色の海」——を見ながら、この仕事が終わったら地中海を渡るフェリーに乗って、マルセイユに行こう、エクス(アン=プロヴァンス)に行こう、ヴァレリーが眠るセートにも行こうと思っていた。

でも、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬がやってきて、海も空も鈍色に沈み、冷たい風が吹き、一年の契約も終わるころには、すっかりくたびれていた。一刻も早く、この仕事から解放され、パリに渡り、東京に帰りたいと願うようになっていた。

その結果、フェリーではなく、飛行機で地中海と南仏を跨ぎこしてしまった。一度素通りすると、なぜか果てしなく遠ざかってしまったような気がした。アルジェリアもすっかり物騒な国になってしまった。後悔だけが残った。あのときフェリーに乗っていれば・・・・・・。

だから、今回の南仏行きは、まだ見ぬ恋人に会いに行くような、かつて激しく焦がれたひとと再会するような、あまりにロマンチックすぎて人には言えない思いを抱いてアルルに入ったのである。

ありとあらゆる時代、多様な人種と古い街並みと遺跡と自然が入り混じるアルル、プロヴァンスそのもの、フランスの、ヨーロッパの縮図のような町、ゴッホというオランダ生まれの奇矯な画家が、初夏にいっせいに花を咲かせるコクリコのように、短い画業の頂点をなした町アルル。よくぞ招いてくれたと、何度この町と CITL のスタッフに感謝したことか。

かつてアルジェで願ったものすべてを見たいと思った。二度めぐってきた週末はすべて近隣の町を訪れることに費やした。ときには受講生と連れ立って、ときにはひとりで。年に一度のお祭りが開かれているロマ(ジプシー)の聖地サント=マリー=ド=ラ=メールにも行った、教皇庁の町アヴィニョンにも、「海辺の墓地」のセートにも行った。ただパスティスを飲み、熱々のスープ・ド・ポワソンの香りをかぎたい一心で、黄金の夕日にけむるマルセイユの旧港も訪れた。

だが、今はサント=ヴィクトワール山とセザンヌについて語るときだ。

 

 

モーリス・メルロー=ポンティはこう言っている。

 

セザンヌが描きたかった「世界の瞬間」、それは久しい以前に過ぎ去ってしまったものだが、彼の作品はなおもわれわれにその瞬間を投げかけ、彼の描いたサント=ヴィクトワール山は、もちろん、エクスを見下ろす堅固な岩山とは別のものだが、それに劣らず力強く、世界の至るところに姿を現し、再現するだろう。本質と実存、想像と現実、見えるものと見えないもの、絵画はわれわれの設けるカテゴリーのすべてを攪拌し、肉をともなう本質、無言の意味のもつ確かな類似性からなる夢の世界を繰り広げるのだ。(L’Oeil et l’Esprit, Gallimard 1964, reproduction 1983)

 

セザンヌの絵を見るたびに思い出すのは、この言葉だ。『眼と精神』という比較的短いエッセイのなかで、メルロー=ポンティは、デカルトは視覚の本質を触覚に求めていたこと、セザンヌは生涯「奥行き」を追究していたということ、そういった論拠を積み重ねながら、次のような美しい描写にたどり着く。

 

水の厚みを通して、プールの底のタイルを見るとき、そこに水や反射があるにもかかわらずタイルを見るのではなく、まさに水や反射を通して、それによって私はタイルを見ているのだ。かりにこれらの歪みがなく、陽光の縞模様もなく、これらの肉付けなしにタイルの幾何学模様を見ているのだとしたら、そのときはそこにある、あるがままのタイルを見ているのではなく、つまり、特定の場など無視したところにあるものを見ていることになるだろう。水そのもの、水の力、とろりとしてまばゆい水という自然の要素、それが空間のなかにあるとは、わたしには言えない。どこか別のところにあるわけではないが、プールのなかにあるわけでもない。水はそこに住みつき、具体的な物となっているが、そこに含まれているわけではない。目を上げて、糸杉のスクリーンのうえで反射光が網の目をなして戯れているのを見るとき、そこにも水が訪れていることを、わたしは疑うことができない。(ibid)

 

メルロー=ポンティの言う「水」とは何か。

わたしたちは真空のなかに生きているわけではない。つねに何かに包まれて生きている。たとえばそれは空気であったり、光であったり、あるいは水(水蒸気、湿気)であったりする。それが「特定の場」を満たし、その配分——空気と光と水の——によって、風景の様相も、人の風貌も、物のたたずまいも変化する。わたしたちはデカルト座標軸のような抽象的な場に生きているわけではない。画家はそこにあるものの色と形をとらえるだけではなく、それが存在する固有の場をとらえようとするのだろう。

だが、それだけだろうか?

この引用のなかでは、とりわけ「水の力」という言葉が気になる。

帰りのバスがサント=ヴィクトワールの山頂から降りてくるのを待っているあいだ、わたしが見ていたものは、真っ青な空に突き刺さる真っ白な岩のやじりのようなもの、だけだったろうか。わたしは空を見ていたのでも、岩を見ていたのでも、色を見ていたのでも、風を感じていたのでもなかった——いや、たしかに見ていたし、感じていたのだけれど、それと同時に、それとは別の何かも感じていたように思う。

「山の力」、あそこでは、それがむき出しになっていた。あえて言葉で言うなら、場所の力、重力場、磁場のようなもの。

そもそも伝統的に「五感」と呼ばれているもの——由来はアリストテレスにあるらしいが——には何かとても大切なものが欠けているのではないか?

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を五感と言うが、たとえば、物を持ったときに重いと感じる筋肉の抵抗感、あるいは一日中歩き通して足が棒になったと感じる鈍い痛覚、疲労感、そういうものをまさか触覚のなかに含めるわけにはいかないだろう。

この六番目の感覚を、かりに「重覚」とでも名づけるならば、この感覚こそが、われわれ人間がこの世に生きるうえでの——地球に存在するうえでの——もっとも根底的な感覚であり、「重さ」こそが、人間の感じる実在の確かな証しなのではないか。

セザンヌが描こうとしたのは、まさにこの「重さ」ではなかったか。

林檎がそこにあることの「重み」、人がそこにあることの「重み」、物が、人が、山がたしかにそこに存在することの「重み」、セザンヌは終生それを追い求めた。

これは驚嘆すべき探求だった。なぜなら、それを絵画によって、視覚芸術によって追究するということは、物を持たずして重さを感じるということ、つまりは目で重さを量ることだったから。

テーブルのうえに載っている林檎は、画布のなかの空間を日常の延長として見るかぎり、今にも転げ落ちそうに見える。けれども画布に描かれた林檎や水差しやテーブルは、むしろ日常の空間に存在する林檎や水差しよりもはるかに安定し、どっしりと存在している。林檎の赤い色は林檎の属性でも形容でもない。その本質として描かれている。

画家は、林檎も女も山もそのように描いた。なべてこの世にあるものは、重みに——地球の引力に、重力に——耐え、互いに引き合っている。セザンヌとは、「芸術だけが表現しうる倫理」としか言いようのないものの重圧に耐え抜いた画家だった、とわたしには思える。

サント=ヴィクトワール山と一時間あまり対峙して思ったことは、この山はセザンヌの生ける自画像、永遠の自画像だということだった。

 

 

三十年前、エルゴレアというサハラのオアシスで一泊した。

日の暮れはじめた砂漠の白い空に、太陽と月が浮かんでいた。月のクレーターは手を伸ばせば触れるような気がした。太陽には熱がなかった。

太陽も、月も、地球も、みな灰色の岩石だった。それが引き合っていた。その見えない糸が天空に見えた。

エクスのサント=ヴィクトワールに見たものも、それと同じだったと、帰ってきてから気がついた。

 

(2013/10/23) *地元の同人誌「不羈」vol.39に掲載。

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