*38 理性(その3)

この作品の種本(大セネカ)の裏表紙。著者が序文を書いている。パリで直接手渡された。

第七章

 

ラトロは軟弱とギリシア文化と音楽と神々と砂糖が嫌いだった。酸味の強い葡萄酒を好み、これに蜂蜜や固めた雪を混ぜたりせず、そのまま土のなかに埋めて保存した。彼は訪問者を受けつけなくなっていた。口数はだんだん少なくなった。岸辺にたたずみ、雲と藺草と砂埃と花々にかこまれて暮らした。手を前に差しだし、沈黙を聴衆とすることを好んだ。沈黙はとりわけ静かな岸辺の一角に宿ったようだ。一千歩{マイル}先からも、女が機を織る音が聞こえてきた。二千歩先からも、犬がローマの門で吠えたてているのが聞こえた。石斑魚{うぐい}や川梭魚{かわかます}が川面を尾鰭でたたいたり、獲物に襲いかかる音がまるで大音響のように伝わってきた。鴎の鳴き声、蛙の喉を鳴らす声、黄昏の大気にほのかに広がる血、それらすべてがあいまって、野のはずれに、ポルキウスの土手に、尋常ならざる緊迫感をもたらすのだった。井戸はなかった。彼は川に近づいていく。ぬかるんだ土にひざまずくと、川の水を手で掬い、ティベリスの恵みをいただくのだった。彼は一本のポプラを誇りにし、それを大切にした。川辺にのびる木陰は淡く、かぼそかったが、夕暮れどきの焼けつく残照を男一人さえぎるには十分だった。ポルキウスはその影に滑りこみ、夜が降りてくるのを待つのが好きだった。彼はこう言っている。「流れるこの黄色い水、このポプラ、飛び跳ねる蛙、獲物をねらう石斑魚、遠くで犬の吠える声、葉むらのつくる陰に金色のしずくを飛ばしながら水浴びする子供の歓声、川に浸している私の足。幸福がやってくると、言葉は際限がなくなる。意味もなくなり、終わりもなくなる。」

セネカによると、彼は日に二回は黄色と緑の葦の原に分けいって裸になり、水に浸かるとまるで子供のようにはしゃいだという。ティベリスの川面で性器をこすり、そそりたった男根を暗い水面に映して遊んだ。彼は言う、思い出に浴みすると、風景は変わらないのに、皮膚だけが勃起させた後で縮こまった男の性器のように皺寄る、と。そして「思い出は真実ではない。贈り物なのだ」と語った。さらには「男の想いは太陽に見られると、そこで止まる」とも語った。セネカはこう伝えている。「精神の業績にポルキウス・ラトロは大きな尊敬の念を抱いていた。だが彼は、書物や建築やフレスコ画にもまして、理にかなった論述こそ市民の賞賛を得るにもっともふさわしものだと考えていた。」彼は、合理性はつねにその起源の影を引きずっていると言い、その起源を狩人の戦術と比較していた。精神にしろ、その業績にしろ、彼にとってはたんなる自然のかけらでしかなく、それをその他たくさんの枝や葉にまぎれて見えない一本の枝にたとえた。理性など、樹木全体から見れば複雑に入り組んだ血なまぐさい若芽にすぎなかった。思考や都市の秩序にしろ、その都市の住人の風俗にしろ、それ自体がすでに理屈であり、かりそめのものにすぎなかった。ポルキウスいわく、幼年期に頭脳のなかで芽生えたものは自立していないちっぽけなものだ。成熟すると、それはもつれた髪の結び目のようなものとなり、やがてあらゆる種類のより糸や布地をつぎあわせた絨毯となる。たとえば、季節や眠りや消化や家庭や都市や時代など、絨毯はそこから大いにその力ないしは図柄を引き出しているのだ。彼は言う。「理性など、歯や舌や唾が果たすさまざまな役割に比べれば、何の利点も何の豊かさもない。」さらには「竪琴や幾何学のコンパスや、もしaであるならばbであるというような公式をから成り立つ弁証を見ていると、ああ、これらの物はなんと切ないのだろうと思い、感動で涙が出てくる」とも。彼はまたこう考えた。数々の街から成り立つ帝国は、ときおり大気のなかに無用の蜃気楼となってわきあがる蒸気を土台にしている。時間に流れがあり、空間に方向があり、人間の命に必然があり、宇宙に定めがあり、流れる血に大義があるというのなら、無限には顎があろう! 彼は言う、影が集まってできた反映にすぎないこの帝国で、思想が無私の認識であると信じている人々にはどれだけ自分がその無私にこだわっているかがわからないのだ、と。彼は言う。「すべては子供や鵞鳥や木々や女たちの足もとを歩む影なのだ、船乗りの行く酒場を通り過ぎる影なのだ。私は人々を見ているのでも色を見ているのでもなく、それにつきそう茶色に揺らめく斑点を見ているのだ。私は道の石や砂の上を、その道に沿って生い茂る草や麦穂の上を静かに歩んでゆく影の足音を聞いているのだ。毎日、太陽が強い光から淡い光へと移ろってゆくにしたがって影が長く伸びてゆくさまは、目のうえを移動する角膜の斑痕のようだ。かつて私はティベリスのほとりをよく歩いたものだった。ティベリスはローマを流れる川だった。ローマは街だった。君は憶えているか、岸辺で揺れる昆虫のように小さい漁師の網を。小指よりも小さい八人から十人くらいの漁師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぼんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私のすぐ目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身がほとんど黄色に染まり、赤く縁どられた鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。」

 

 

第八章

 

妻が死んだとき、彼はエジプトの商人から小さな皮張りの太鼓を買った。それをたたき、鬨の声をあげた。その後から子供たちが続き、笑い、踊った。アウグストゥスは彼を含めた十人ほどの雄弁家を自宅に招いた。そのとき彼の頭はすでにがたついていたようだ。がたつく deglinguer の語源である declinquer は北海の船乗りが使っていた古い言葉である。船の外板 clin をはずすということで、沈没しそうになることも意味した。さて、この面接と弁論コンクールがどのような次第になったのかは定かでない。アンナエウス・セネカもこの点については何も伝えていない。いずれにせよ、皇帝が帝都からただちに立ち去るように命じたことだけは事実である。
前九年、勅命を受けたアンナエウス・セネカはスペインから友人を迎えにやってきた。ポルキウス・ラトロは自分の小屋もポプラも川原も石斑魚{うぐい}も捨てようとしなかった。縄で縛るしかなかった。愛馬に彼を乗せると、手を荷物に縛りつけた。彼は赤土の故郷に連れ戻された。コルドバの街とグアダルキビル川をふたたび目にすることになった。一行を乗せたガレー船はナルボンヌの港からマジョルカ島のパルマを経て、マラガの港に入った。航海の途中、彼は魚の空揚げと水に浸した小量の乾パンしか食べなかった。スペインの土を踏みしめたとき、彼は川辺か海辺に住まわせてくれと請うた。

 

 

第九章

 

晩年の五年間、コルドバから八マイル離れたセネカの領地のはずれの森でひとり暮らした。片目を失ったにもかかわらず、なお狩りをし、魚を釣った。彼はせきこむようになったが、それは日に二回は水浴びをしたいという欲求に勝てなかったからだった。山から流れてくる川の水は身を切るほど冷たかった。ある冬の朝、鹿を追って丘陵をくだる早瀬を渡ろうとして、ふとしたはずみに胸もとまで水に浸かった。だが、服も羊毛の肩掛けも乾かさず、水がしたたり落ちるままにした。山あいの切り立った道に入ったとき、彼は切り株につながれた山羊にでくわした。山羊はじっとあたりを見まわしていた。そして不気味な鳴き声をあげた。彼はその鳴き声に聞き入り、戦慄した。彼はこのときひいた風邪から快復することはなかった。少なくとも息子のセネカ(哲学者)がポルキウス・ラトロの死にまつわる事情を語るに際しては、そのように言っている。

裏の畑には菰{まこも}を植えていた。菰は大量の水を必要とする植物で、彼はこの実を挽いて粉にしていた。彼は言う、「せめてわが言葉の生き延びんことを!」と。家の前を通りかかる牛飼いたち、あるいはひと碗の乳や藁束を求めて訪れる猟師たちにはこう言った。「箪笥を欲しがり、相手を説き伏せるための理論{システム}を欲しがり、女を、箒を欲しがる男には用心しろ!」

ときおり、領地内の酒場に姿をあらわすこともあった。青い李を食べながら賽子遊びに興じた。ある夜、床についた彼は恐ろしい夢を見た。手足を震わせながらセネカの館の使用人にその夢を語った。戦場で死んだ息子が夢にあらわれたと。汗と涙にまみれ、叫び声をあげて彼は目覚めた。だが彼には息子などいなかった。それは前四年のことだった。キリスト紀元前四年、イエス・キリストは飼葉桶の中で生まれ、母親は股を血まみれにして藁にうずくまっていた。その場に居合わせたのは、優しい声で鳴く牛と低くいななく驢馬だけだった。場所はヨルダン川西域、エルサレムの南に位置するベツレヘム。ローマ暦では七四九年のことだった。マルクス・ポルキウス・ラトロは言う。「この世に人間らしい感情はめったにない。この私でさえ、年に三度か四度しか感じない。だが身の回りにこの気持ちをわかちあえる人はいない。」私はラトロの名のもとに残されている他のどの言葉よりも、これが好きだ。

 

 

第十章

 

アンナエウス・セネカ(ラトロがアウグストゥスの寵を失ったとき、彼をスペインに戻すべく、すべてを託されたのがこの腹心の友だった)が伝える死の経緯は、ことのほか暗い。それは小春日和の暖かい冬の日のことだった。彼は馬で草原に出ると、小さな木立に囲まれた泉に向かった。乗ってきた牝馬から降りると、泉に流れこむ清流で手を、腕を、髭を、刈りあげた頭を洗った。面をあげると、二十歩ほど先でひとりの女がひざまずき、威勢よく石に洗濯ものを打ちつけているのを見かけた。女の口からは生めかしい吐息がもれていた。彼はその隻眼をもっと遠いところ、丘の頂あたりにそらそうとしたが、どうしても視線は若い女のほうに向いてしまうのだった。女は大きな尻をつきだして、トゥニカやトガを掌でたたいていた。女は彼の誘いに応じ、小屋までついてきた。小屋には、かつてそこに詰めこまれていた科木の匂いがし、部屋は三つあった。灰の匂いも満ちていた。彼は土間にじかに炉を掘り、その上を板一枚でおおっていた。彼は女に鼻を寄せ、その匂いに満足した。女は向かい合って彼の膝に座り、男根の上で腰を上下させて快を得ようとした。彼は八回も九回も長く射精し、それまで経験したことのない悦びを味わった。彼は少年期を過ぎたころ、ある年増女とこんなふうにして性を交わしたことがあったが、その名前を思い出すことができなかった。彼は女に金を払い、家族のことを尋ねた。彼女はオスク人だった。彼は女にしばらく一緒に暮らさないかと持ちかけ、その代価として馬を与えることで二人は合意した。女は二人が寝る部屋でほとんどの時を過ごした。部屋の戸口からはそれまで染みついていた匂いとは別の匂いが漂いはじめた。それは重くて甘く粘っこい匂いで、それを嗅ぐと彼はたちまち勃起した。女の汗が発散する酸っぱい匂いも気に入っていた。女はもの静かだった。女はヒヤシンスが好きだった。ヒヤシンスの小さな釣り鐘の形をした花が好きだった。二日目の夜、彼は女の背中をかかえるようにして眠りにつくと、女は彼の性器を尻の間にはさみこんだ。彼は孤独が自分から立ち去ったと感じた。これは夢にちがいないと思った。そして、このオスク女と同じように振る舞ったあの年増女の名前が思い出せなかったことで、自分の人並はずれた記憶力も去っていったのだと思った。女が眠ってしまうと、彼はランプのほの明かりのなかで、女の乳房を見つめ、それに触れ、指先で柔らかな感触を味わった。セネカは、まだあと二つラトロの言葉を伝えている。彼は快楽の後には必ず、大きな炉部屋の壁にかけてある鏡に向かう習慣があった。彼は顔の傷痕とつぶれた目と白い眉を見つめながら、こうつぶやく。「なぜに裏切る、不意の涙よ」〔原註4〕彼が「涙」という言葉で何を言おうとしたのか、よくわからない。だが、誰に聞いてもそれはわからないだろう。彼は死が近づいた最晩年の日々、セネカにこう語ったという。「なぜしゃべる。唇を開けば歯が寒いではないか。」彼は前四年の冬に死んだ。性器はまだ湿っていたが、先端はすでにしぼんでいた。彼は銅鏡に己の姿を映した。その隻眼に幸福のきらめきが見えた。彼は喉をすっぱりと切り裂いた。血がごぼごぼと音をたてて噴き出した。オスクの女はもらった馬に乗って逃げ、その行方は知れなかった。(了)

 

*4)ミュレル(Mueller)の校訂したテクストは意味をなさない。むしろ《Quid me intempestivae proditis lacrimae?》(Pourquoi me trahissez-vous, larmes inopportunes? なぜに裏切る、不意の涙よ)と読みたい。

*37 理性(その2)

原書表紙(本文わずか50ページ)

第四章

 

ウァロ〔古代ローマを代表する碩学〕はおびただしい著作を残しているが、そのなかに登場する古代ローマ人はギリシア人の風俗や哲学、空虚な思想、弁証の手続き、理論の便法などの発明を痛快にこきおろしている。ウァロはその小説のある登場人物にこう言わせている。「哲学者などというものは口論ばかりしている人魚{シレーヌ}のようなもので、そのあいだにオデュッセウスは通り過ぎてしまう。」ラトロによれば、このウァロさえも、またルクレティウスでさえも、ギリシアの思想におびえているとみなしていた。アカイア人たちとその子孫の作品には、神々はギリシア語で語っていたという思いが染みこんでいる。ギリシア人が「ロゴス」と呼び、また同時に彼らにとっての道理をも意味したその言語は、むろんオリンポス宮殿で語られ尊ばれた言葉だったが、ポセイドンをまつるタイナロンの岬の傾斜地や入り江に生きる漁師たちも使っていた言葉だった。古代ローマ人は自分たちが使っている言葉の持つ猥雑な起源の記憶を失うことはなかった。彼らは恥じらいもなく、自分たちの言語が街と同じように木の端切れと石の塊と人間と、そして雨に対する恐れからできあがっていることを認めていた。

ラトロは理{ラティオ}と情{アフェクトゥス}はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると in ratione habere aliquem locum affectus〔理にはその一部に情が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。

彼は言う、われわれはこの人生において、いつも些細なことで不安を呼び起こす、それは小さな騾馬の悲鳴であり、思考は山のなかの板張りの避難小屋であり、書物は今を流れる時から逃れるためにあり、寝台は眠りと羽毛のなかで縮こまるためにある。

ようするにこれもまた、「マルケルス〔「ローマの剣」と称された古代ローマの武将〕の衝突」のひとつであり、ラトロはそれをさかんに振りまいたのである。

私は、ラトロを駆り立てたこの思考の動きを他にあまり知らない。ときにはこれに似たエピソードもある。アルキメデスにとって、パスカルにとって、ヴィトゲンシュタインにとって、数学は火事からの、肉体的苦痛からの、そして同性愛の欲望からの逃避だった。アルキメデスは幾何学の問題を解くことに没頭するあまり、シラクサ劫掠の際に街が燃えていることにも、熱い白い灰が自分の手に降りかかっていることにも気づかなかった。この地上に大英帝国を築きつつあったディズレーリは“Never explain.”〔いっさい釈明するな〕と語った。このディズレーリことビーコンズフィールド伯爵は次のようにつけ加えることもできたかもしれない。すなわち、その根拠を問われれば主権は揺らぐ、と。権力というものはそもそも野蛮なものでありながら、その根拠や起源を隠しうるかぎり、神に似ている。人それぞれが今ここにあることをさかのぼれば、快楽の野卑なうめき声があり、そのイメージはふだんあまり脳裏に浮かんでくることはない。ノルマンディーのモルターニュにエミール=オーギュスト・シャルティエとして生まれた哲学者のアランは、何かを断るとき、けっしてその理由を言ってはならないと主張した。なぜなら、ひとたび正当化をはじめれば、断るのをやめるはめになるから。最後に私は、ポルトガルのブラガンス大公の軍事的才能について語ったリーニュ公爵の言葉を喜んでここに書き写しておこう。ドン・ジュアン・デ・ブラガンスは七年戦争のとき将軍としてオーストリア軍に加わった。リーニュ公爵はこう言っている。彼の言うことはいつも理にかなっていた。というのも、彼は敵にも理があることを想定していなかったから。

 

 

第五章

 

トゥリウス・キケロはめったに演説することがなく、したとしても小数の聴衆の前で、しかも室内でおこなったが、ポルキウス・ラトロは好んで公衆の前で演説した。戸外で演説した。呼び出しを受けると、自宅のそばにあるオリーブの林の陰をその場所に選んだ。ラトロはあまり仕事をしなかったが、ふと思い立つと延々と仕事をした。五十時間ぶっ続けに働き、すべてを片づけた。

ポルキウスの妻はウンブリア地方の出身だった。娘は容姿も表情もまさにローマ女だった。その瞳は青く、ちぢれたブロンドの髪をシニョンにまとめ、豊満な胸は両わきに広がり、肌はあくまでも白く、太陽にはけっしてさらさず、口数は少なく、気性は激しく、唇は赤かった。ウィミナリスの丘にある邸宅からはティブルティーナ街道に響く馬の鉄具といななきが遠くから聞こえてきた。前二四年、インドからの皇族の使節がローマを訪れた。ちょうどこのころ、彼は毎朝夜明けととも古い唄をうたい、しつこいルフランを繰り返すようになった。「Semper! Semper!」(いつまでも!いつまでも!)。このあたりから彼の頭はおかしくなっていた。

狩りは彼のお気に入りの道楽で、書物や賽子遊びの趣味を凌駕していた。山に入るときには、その前日の黄昏どき、槍の手入れや馬の世話をする前に、彼は森の中に分け入り、雄鹿の鳴き声に耳を澄ました。性欲にさいなまれた長い叫び、喉の奥からしぼりだすその荒々しい鳴き声、いきなり甲高く響いたかと思うと、ぴたりと止まり、丘を下り、谷を渡るその声に、彼は嵐が迫っているときと同じ胸騒ぎをおぼえるのだった。

ほぼこの時期、彼はウィミナリスの丘を、街なかの丘を離れたいと思った。彼はティベリス〔テヴェレ川〕の近くに住まうことにした。ピンキウス山の向こう、フラミニア門の北に居を移した。平石を積みあげただけで漆喰も塗らず、窓もないたった二部屋だけの小屋で彼は満足した。妻と娘はすでの彼のもとから去っていた。彼は二年かけてこのあばら屋を新しい黄色の瓦でふいた。ここを訪れてきた者(彼にはたくさんの弟子がいた)にはつぶした葡萄と黒パンを与えた。床は土間だった。そこに羊毛の敷物をしいて座った。彼は礼服{トガ}を捨て、白い略衣{トゥニカ}をまとい、肩には灰色の羊毛の生地(十九世紀になってショールと呼ばれたもの)をかけた。朝は髭を焦がすのをやめた。その顔はたちまち白く短い髭でおおわれた。小屋の戸口に立っても、岸辺に乾いた藺草が密生しているために川の景色は見えなかったが、途絶えることのない水の流れる音だけは聞こえた。みずから愛着を抱き、また他人も喜ばせたあの挑発的な名言が生まれたのはこのころのことだった。いわく「真理の探求とは、つまるところ花弁の奥を探らんとして馬に乗ることに帰する。そもそも正義とは、ローマの乳母である雌狼が吠えるとき、その唇を押し広げる飢え以外のどこにあるだろう。」古いフランス語では狼にしか吠える[hurler]という言葉を使わなかった。猫にはミャオ[miauler]、人がわめくときにはバヴェ[baver]と言った。若者はポルキウスの言葉を聞きたがった。哲学者については「知恵につける薬を自分は知らない」と語った。ポルキウス・ラトロ特有の言い回しにはいくつかのヴァージョンが残っている。たとえば「おおやけ{パブリック}とは、いちもつ{メンツーラ}にひっかける亜麻の下ばきのことである」とか「われわれは糞をする。われわれは小便をする。われわれは雌どもの陰門のぬくもりを欲する。私は生涯で二度、万人の利益について考えたことがあったが、いずれのときもまぼろしだった。」ローマに商館が建てられたとき、インダス川のほとりからやってきた賢人が彼に慈善と人間の尊厳について説いたことがあったが、そのとき彼はこう言った。「あなたはじつに正しいから、私にはあなたが夢を見ているとしか思えない。」そしてこんな言葉も残っている。「みずから進んですることに良いことはない。」

 

 

第六章

 

友のルキウス・ユニウス・ガリオは元老院議員になった。ポルキウス・ラトロは何にもならなかった。川のほとり、乾いた石を積みあげた小屋の前には、洪水と雨でむきだしになった大きな石がごろごろしていた。小屋の裏手にはオリーブの森と麦畑があり、刈り入れが終わって地面に干してある麦はサンダルの革と皮膚の隙間に入りこんでちくちく刺した。さらに遠くには、葡萄畑と野原が広がっていた。

彼の講義料は高かった。たびたび馬を買った。その生涯の盛りの時を狩りに費やした。よくまだらの小さな馬に乗り、クピエンニウスとともに出歩いた。前一九年のある日、槍を八回投げて、五回しとめた。しとめた獲物の一頭は枝角が退化した鹿だった。切り落とした角の根元に、彼はそれをギリシア文字で記した。その枝角は左右が非対称だった。片側がその反対側と三対一の割合で縮まっていた。剥製にした頭部はいびつで弱々しく、シグマの文字に似た形をしていると記した。前一九年の九月二十一日、汗にまみれてギリシアから帰り、ブリンディジの港に上陸した五十一歳のウェルギリウスは咳をしているときに息を詰まらせて死んだ。

クピエンニウスは、性交の前、女が体を洗うのを好み、あの部分を白いうすぎぬで覆うよう求めた〔原註3〕。全裸になった女を見るのは忍びなかった。ローマ中がこのクピエンニウスの奇癖を嗤った。彼は股に小さな白い布をつけた女でないと勃起しないのだと言った。これはいわゆる宮廷風恋愛のはしりである。このようなクピエンニウスの性的奇癖の起源はホラチウスのなかに見られる(『風刺詩』一巻第二歌)。ポルキウスは、クピエンニウスがこんなふうに振る舞うのは仰向けの女を抱くからだと言った。また、雄牛に仰向けの雌牛と交尾させるようにしむけることなどできないとも語った。ポルキウス・ラトロは、昔ながらの風習、つまり more ferarum(後背位のことだが、直訳すれば「野生の動物の習慣に従って」となる)で女を抱き、目が悪いので女の性器を鼻でたしかめる必要があるのだと言った。

彼の妻が離婚を求め、裁判を起こしたとき、娘も家を出た。彼は匙で食器をたたくのが好きだった。重々しい声に乗せて発せられるその不躾な言葉が弟子を夢中にさせればさせるほど、近所の顰蹙をかった。娘が家を出てしまうと、彼は元老院議員のご機嫌をうかがいに回った。施しの時間になると、クピエンニウスを伴って@貴族{パトロン}から貴族へと渡り歩いた。彼らは言った。「なぜ女たちは顔に下着をつけないのか。」ひとつの季節が過ぎるあいだ、クピエンニウスとポルキウスは毎朝のようにローマでもっとも勢力を誇っていた貴族の戸口に立ち、元老院を召集して、女の顔を覆わせる法律を採択すべきだと主張した。彼らの言動に憤慨した四人のご婦人連が彼らをそれぞれ帝国の正反対の辺境へ追放しようと働いた。ポルキウス追放運動をなんとかとどめたのは、皇帝の老いた妻リウィアとアウグストゥスそのひとだった。アウグストゥスはポルキウスの言葉をよく引き合いに出した。「私の身体は淀んだ泥の川だ。私の住まいはかろうじて立っている石の山だ。今朝私が柘植の木片に書きつけた言葉は、蝸牛が萵苣{レタス}の葉に残したきらきら輝くよだれにも及ばない戯言だ。」皇帝は胡瓜の薄切りやサラダ菜など新鮮な野菜の涼味を好んだ。食事することを前もって告げると、毒を盛られる恐れがあったので、人の手がかからない即席の料理が好きだった。アウグストゥスが金本位制を定めたのは前一五年のことである。
前一三年、セネカはローマを離れ、スペインに帰った。ポルキウス・ラトロはその送別会に出席している。二人は厩舎で馬が足踏みしている音を聞いていた。彼らはほとんどしゃべらなかった。黙って腕を取りあった。(続く)

 

*3)直訳すると「白い布でおおわれた性器しか愛でないクピエンニウス」(…mirator cunni Cupiennius albi)となる。

*36 理性(その1)

自分が訳したもののなかでもっとも愛着のある作品。ここに「理性」と題された短編が収録されている(今は亡き青土社の編集者津田新吾の装幀)

第一章

 

たがいに友情を誓いあった四人のスペイン人がいた。クローディウス・トゥリヌス(父)、アンナエウス・セネカ、L・ユニウス・ガリオ、そしてポルキウス・ラトロである。このうちローマに旅したのは後者三人だけである。人生の大半をローマで過ごしたのは後者二人だけである。そして、スペインの赤土にふたたび戻ろうとしなかったのは最後の一人だけだった。

マルクス・ポルキウス・ラトロは、ローマ暦六九六年(紀元前五七)、コルドバの騎士階級の家に生まれた。その生涯の終わりころ、彼はしばしば自分は四つのもの、あるいは三つのものを愛したと語った。その三つとは声と性交と森だった。ときにはこれに書物を加えることもあったが、ごく小数しか味わっていないと言っている。彼は九十七の論判演説{コントロウェルシア}〔帝政初期に流行した仮想の訴訟パフォーマンス〕を書いた。アンナエウス・セネカは、百十は書いたはずだと主張している。彼が仮想演説{ロマン}で評価したのは精力だった。望んだのは、声がみなぎり、筋立ては一気加勢に進み、作者がもはや統御できなくなるところまで達することだった。セネカはこう書いている。「彼の声は野太く不明瞭で、徹夜と不摂生のためにかすれていた。だが、語り始めの部分では力なく思えたその声は肺の力のおかげで徐々に高まり、いつしか独自の語り口のなかで声量を増していった。彼はけっして声の訓練をしようとしなかった。スペインの粗野で武骨な習慣を捨てることはできなかった。いつも成り行きまかせに生きていた。自分の声に対して特別なことはいっさいしなかったし、最低音から最高音へと段階を踏んで声を上げたり、その逆に最高音から同じようにゆっくりと下降させるという配慮もしなかった。マッサージで汗を流すこともしなかった。散歩という手段によって呼吸をよみがえらせるということもしなかった〔原註1〕。」働き盛りのとき、度重なる徹夜のせいで彼の右目は少しずつ視力を失っていった。書付板の近くに燭台を置いているせいで炎が板に塗ってある蝋に反射し、それに近いほうの右目が焼けたのだという。彼は鉄鏝でカールさせた髪を嫌っていた。いつも猛烈な勢いで書き、自分が書いたものについては、鹿や山猫が茂みを飛び越えて魂のなかに入ってくるようなものだと言うのだった。彼には、当時のローマのあらゆる弁士や仮想弁論家がうらやむような記憶力があった。だがじつは子供のころ、彼はいっさいの記憶を失ったことがあった。この記憶喪失はちょうど、カエサルがラヴェンナの城門を出るにあたって、ルビコン――ラテン語で「赤く染める」という意味――と呼ばれる小さな川の前で命がけの決断を下した時期に当たっている。ポルキウス九歳のときだった、雌牛の蹄が顔面にあたり、六日間にわたって気絶したのである。セネカが伝えるところによれば、この事故で記憶を失ったために、忘れ去られた一時期の生活の細部をあらためてそらで憶える必要に迫られたのだという。彼の顔には、耳の上から眉の上にまで達する傷痕が残った。雄牛や雌牛の鳴き声には生涯おびえさせられた。十五の歳を数えてなお、牛が草をはんでいる野原は避けて通ったという。

前四三年、彼はアンナエウス・セネカとともにローマに赴いた(この人は四十年後にスペインに戻り、ヘルウィアという女性と結婚して、三人の息子をもうけた。アカイア総督で聖パウロとも面識のあったセネカ、皇帝ネロと命運をともにした哲学者のセネカ、そして銀行家のセネカの三人である。この末弟の息子がルカヌス〔カエサルとポンペイウスの抗争を描いた『内乱賦』の著者〕である)。この二人のコルドバ出身の青年はマルルスに師事した。マルルスは命じた、素っ気ないこと、荒いこと、唐突であること、短いこと。彼が要求したのは、声においては素っ気ないほど明確に区切って発音されること、言葉遣いにおいては荒々しいほど的確であること、文の構成においては唐突なほど意表をつくこと、持続においてはぶつ切れでほとんど短すぎると思われるほどに迅速であることだった。耳を捕らえるための素っ気なさ。心に触れるための荒々しさ。注意を引き留め、心のリズムを乱すための唐突さ。退屈に流れるよりは飢えに留まらせるための短さ。

 

*1) H・ボルネックが校訂したテクスト(H. Bornecque, Paris, Garnier, 1932)には異文がある。
《Vox robusta sed surda, lucubrationibus et neglegentia, non natura infuscata; beneficio tamen laterum extollebatur et quambis inter initia parum attulisse virium videretur ipsa actione acrescebat. Nullam umquam ili cura vocis execendae fuit; illum fortem et agrestem et Hispanae consuetudinis morem non poterat dedisceres: utcumque res tulerat, ita vivere; nihil vocis causa facere, non illam per gradus paulatim ab imo ad summum perducere, non rursus a summa contentione paribus intervallis descendere, non sudorem unctione discutere, non latus ambulatione reparare》.

*訳註――参考までにこのラテン語テクストに該当するアンリ・ボルネック自身の仏語訳をここに翻訳しておく(Seneque le Pere, Sentences, divisions et couleurs des orateurs et des rheteurs, Traduction du latin par Henri Borneque, Revue par Jacques-Henri Borneque, Preface de Pascal Quignard, Aubier, 1992)
「その野太い声は徹夜と不摂生のためにかすれていたが、生来不明瞭なわけではなかった。だが、ひとたび肺の力のおかげで声が高まると、当初力なく思えたその声が演説の途中から力強くなっていくのだった。彼はけっして声を鍛えようとはしなかった。スペインの粗野で無骨な習慣を捨てることはできなかった。成り行きまかせに生き、自分の声のために特別なことは何もせず、最低音から最高音まで段階を踏んで声を上げ、その逆に最高音から同じようにゆっくり下降させるなどということはしなかったし、マッサージで汗を流したり、散歩で肺を鍛えるようなこともしなかった。」

 

 

第二章

 

ポルキウスは齢を重ね、大いに書いた。前四三年十二月七日、キケロが輿の垂れ幕から頭を出したとき、アントニヌスの命を受けたポピリウスによってその頭を切り落とされた。若きラトロはギリシア人たちが「ロゴス」と呼び、古代ローマ人たちが「ラティオ」と名づけたものに食ってかかった。すなわち理性のことである。彼は次のような論法でパラドックスを展開した。「相手を議論でうち負かす者に無理があり、議論が下手なものに道理があることもありうる。」もっとも年長の部類に入る弁論家たちは、いちいち自分たちの弁論術に難癖をつけるこの挑発に苛立った。ラトロはあまりに熱っぽく喉の奥から声を放ってはならぬと言った。彼の声は不明瞭だったが、確信から生まれる精気があった。この精気はその隻眼にも読みとることができた。徹夜明けに起きて活動するのも厭わなかった。馬に乗って狩をするのが好きだった。彼は生{き}と素{す}の味わいを知っていた。彼の教えについた者たちの記憶には、次のような言葉がもっとも鮮烈に残った。「いつも不満をかかえている者にとっては、理屈の通った思想はフードのついたガリア人の外套である。」

この言葉を発したとき、彼はすでに四十の歳を数え、すっかり奇矯の人となっていた。たしかにこの言葉にはあまり関連性のない二つのイメージが結び合わされている。このような抽象的な言葉と外套のフードとの衝突を賞賛したのはマルルスの教えだった。彼は、論判{コントロウェルシア}などと言わず、申し立て{カウザ}と言うべきだと主張した。また、雄弁{スコラスティカ}とか弁論{デクラマティオ}などという言葉は使わず、発言{ディクティオ}と言うべきだとも主張した。彼が仮想演説{ロマン}を読むと、その朗読を聞こうとしていつも聴衆が押し寄せてきた。アンナエウス・セネカはこう書いている。「これから発表しようとする演説を暗記するにあたって、彼は原稿を読み返すことはしなかった。書いて憶えた。この現象は注目するに値する。というのも、そもそも彼が原稿を書くとき、ひとつひとつの言葉を選び、数十もの方法で文章を絞りあげながらゆっくりと書くようなことはせず、いわば彼が話すときと同じ猛烈な勢いで書き飛ばしたからである。いったん暇が与えられると、彼はありとあらゆる遊びに、ありとあらゆる気晴らしに没頭した。いったん森や山のなかに入ると、その疲労に耐える力といい、狩の巧みさといい、山で育ち、森で育った農民にもひけをとらなかった。幼年期の教育によって培われた天分は彼にたぐいまれな記憶力を与えた。それに加えて彼は忘れてはならないことを頭におさめ、とどめておく比類ない技術も獲得した。そのため、彼の記憶のなかにはそれまでに発表したすべての演説がしまいこまれていた。こうして備忘録は彼にとって不要のものとなった。彼は心に直接書き付けるのだと言っていた」(父セネカ『論判演説集』第一巻十七節 Controversiarum liber primus, XVII)〔原註2〕

 

*2)ここはエルネスト・マレシャル(Ernest Marechal)の翻訳に従っている。(Histoire romaine depuis la fondation de Rome jusqu’a l’invasion des Barbares redigee conformement aux programmes officiels, Paris, Delalain, 1881, p. 414)

 

 

第三章

 

ポルキウス・ラトロは森と山と渓流、牛の匂いと温かみ、さかりのついた雄鹿の鳴き声を好んだ。彼は理性が@合理的{ラシオネル}であることを疑う一方で、それが@理性的{レゾナブル}であることにさえ異議を申し立てた。セネカは次のような対話の断片を残している。

――知性はどこから出てくると思うかね?

――知性は闘争への欲望から出てくるものだ。

――その場合、知性が他人を打ち負かす手段を与えてくれるものであるならば、その目的は真理ではなく、勝利であるわけだ。

――いや、論争が目指すのは勝利ではなく、勝鬨なのだ。さてこの勝鬨だが、これは勝利において満たされるわけでも、相手を死に至らしめたときに満たされるわけでもない。その要件とは、民衆の叫びであり、行進であり、祭典であり、流された血の光景であり、赦しの可能性なのだ。

――叫び、それはわかる。血、それも見える。だが赦しとは?

――赦すということは、「命を助けてやる」ということだが、「自分は死を宣することも、とりやめることもできるほどに強い」ということでもあるのだ。

ポルキウス・ラトロのこの身も蓋もない思想は、他の誰よりも――ルクレチウスよりもタキトゥスよりも――ローマの現実を物語っている。

一九一四年と一九四〇年の戦争は文明と非文明の区別を説得力のないものにしてしまったといえるだろう。いずれにせよ、この二つの戦争は合理性を殺戮の無秩序に対峙させることができるかどうかが問われた戦いだった。理性と文明がじつは野蛮な力からそれほど遠いものではなく、むしろ理性と文明はその仮面の役目をはたすことで増長してゆくものだということを認める思想は歴史にほとんど見られない。人受けのする多くの思想の面目を失わせるこの不愉快な思想を愛するまでに至った文明もほとんどない。古代中国があり、古代ローマがあり、そのローマにおいてはキンナ、カエサル、そしてラトロがいた。彼は古代ローマにふさわしいごくまれな思想のひとつを打ち立て――それはアテネやアレクサンドリアで生まれたギリシア的理論の著作に対してローマの特徴を際だたせるものでもあった――、しかもその思想をこのうえなく不快な結論にまで導いていったのだった。近代の大学教授たちは、古代都市の雄弁術教師のように、誰もがギリシア的教養で育まれているから、みずから好んでこのような思想を引き立てようとはしなかった。だがラトロの思想は、たしかに酔狂で、晩年に彼を襲った錯乱のあとがいくらか見られるものの、学校でまともに批判されたこともなかった。彼は、ローマ追放後も含めて、民衆から愛され続けた。(続く)