*52 母音


 

黒いA{あ}、白いE{う}、赤いI{い}、緑のU{ゆ}、青いO{お}、母音たちよ、

いつの日か語ろう、おまえたちの隠された生い立ちを。

A、毛ぶかい黒の胸当て、無惨な腐臭をめぐり

ぶんぶん飛びまわる燦めく蠅たちの。

 

陰の入江、E、湯気と天幕の無垢、

気高き氷河の切っ先、白き列王、傘形の花のふるえ。

I、緋の衣、吐血、美しきくちびるの嗤い

怒りに、悔悛に酔いしれながら。

 

U、緑青の海の、聖なる回帰と揺らぎ、

家畜らの点在する牧場の安らぎ、錬金の

奥義を求める碩学の額に刻まれた皺の安らぎ。

 

O、至高の喇叭、奇怪な甲高き叫び声に充ち、

数しれぬ世と天界の経てきた沈黙。

——おお、終末{オメガ}よ、紫の光を放つ、その両の眼よ!

 


第十七回目(二月二十日)の例会で、アルチュール・ランボーの「母音」の翻訳を取り上げてみた。もちろん、ランボーにかぎらず、詩の翻訳はむずかしい。不可能と言いたくなるほどに。でも、不可能ではない。もし、詩の翻訳が不可能だというのなら、翻訳そのものが不可能な行為であると言わなければならない。それが、三十年あまり、翻訳という仕事を生業として生きてきた人間の思想である。

そこに鳴り響く音を置き換えることはできないか。そこで休止し、読点を打ち、句点を打った著者の息づかいを、自分の使う母語のなかに取り入れることはできないか。言葉をそこに書き入れることよりも、黙して行を改え、飛躍を選んだ著者の心意気をどうすれば伝えることができるか。

詩の翻訳も散文の翻訳も本質的に変わるところは何もない。ただ、詩は言葉で成り立っているというよりも、句読点と改行から成り立っていると言ったほうがいいほど、それは一般の通念に反して、沈黙の芸術なのである。

今回、あらためて——たぶん四十年ぶりくらいに——ランボーの詩を読み直し、翻訳を試みて、この沈黙を痛感させられることになった。

詩の翻訳——そして翻訳一般——は、言葉と言葉の連想ゲームではない。沈黙に耳を澄ますこと。森のなかに分け入って、梢で鳴く鳥の声に心奪われ、山頂に辿り着いて耳をかすめる風の音に同化し、打ち寄せる波を前にして、対岸の波打ち際に心運ばれ、流れる川の弾ける水の分子の昂揚に共振すること。

しかし、ランボーの詩を日本語に置き換えてみると、そんなことだけではすまされないことも見えてくる。

たとえば、第二連目の「白き列王」という訳語は、rois blancs に当てたものである。「列王」は耳慣れない日本語かもしれないが、旧約聖書の「列王記」から取った。「列王記」はフランス語では、Les livres des Rois という。古代イスラエルの歴代の王たちの書、くらいの意味だろう。

「列王」という言葉を採用した理由は、この連の最初の行にある。

湯気と天幕の無垢(candeurs des vapeurs et des tentes)。砂漠をわたる遊牧民の生活を彷彿とさせる行との対応を意識したのである。砂漠のイメージから極地の氷河へ飛躍し、そこに旧訳の文書を思わせる言葉をかぶせる。ランボーの目には、せめぎ合う氷河の切っ先の連なる光景が、居並ぶ歴代王の石像か何かに見えたのかもしれない。

そのような説明をすると、イタリア語のMさんが、最後の連も黙示録風ですしね、と指摘した。言われてみて、そう、そう、と膝を打った。甲高い喇叭の音にしても、この世の終末を告げる神の目から放たれる紫色の光線にしても。

そこまで話が進むと、ランボー詩の全体がいかに聖書の––旧約も新約も含めて––イメージと言葉に彩られていることが実感されてくる。

 

俺は『教会』の長女、フランスの歴史を想い起す。俺は賤民なりに聖地の旅をしたのかも知れない。俺の頭には、スワビヤの野を横切る諸街道、ビザンスの四方の眺めもジェルサレムの館もある。聖母への信心と救世主への感激とは、俗界百千の魔境を交えて、この身に目覚める。——太陽に蝕まれた石垣の下に、破れた壺、いらくさの上に、俺は癩を病み座っている。——降っては中世紀、騎卒となって、ドイツの夜々を、野営に明かしたかも知れない。(「地獄の季節」小林秀雄訳)

 

アルチュール少年は信心深い——あるいは、ほとんど狂信的と言っていいほどの——母親に育てられた。聖書の文言はすでに幼年期からこの異様な詩才に恵まれた脳髄に刻まれていた。彼は母の厳しい宗教的躾と聖書の文言の虜囚としての少年期を送った。彼の詩才はこの虜囚の身からの脱出を叶えてくれるものであると同時に、永遠に言葉の虜囚とならざるをえない宿命を担わされることになった。

だから、天才ランボーは二十歳にして詩を捨て、砂漠の地に冒険の旅に出たなどというロマンチックな伝説はほとんど意味をなさない。なぜならば、この種の伝説は詩の生まれ出る所以に目を向けないまま文芸を、芸術をあがめようとしているにすぎないから。

ランボーは詩に食われた。端的にそう言うべきである。

数年前に、パスカル・キニャールとパリの自宅でお会いしたとき、思い切ってこんな質問をぶつけてみた。

——詩は、捨てることができると思いますか?

——そうは思わない。

——ランボーは詩を捨てたと言われますが、あれは結局のところ、詩を捨てようとして詩に取り憑かれ、肉体で詩を演じるはめになって、最後には悲劇を演じることになったように思うんですけど。

——いや、あれは悲劇だとは思わないよ。たんに才能が去っていっただけだ。

身も蓋もないことを言う人である。そして、こんなふうに話を続けた。

——些細な個人的経験だけどね、文学を捨てようとして、精神分析を受けたことがあるんだ・・・・・・。

ふつうは文学を捨てることと精神分析は結びつかないはずだが、この人の場合はそうではないのだろう。話はやたらに厄介な方向に進んでいったので、半分も理解することができなかったけれど、衝撃的ではあった。

まずは、今やフランスを代表する作家のひとりとなったこの人も、文学を捨てようとしたことがあったのかという驚き。精神分析によって、心の奥が明るみに出れば文学を捨てられると思ったらしい。人はまず自分の心に嘘をつくから。というか、自分にとってもっとも大切なことは言葉にしたくないものである。自分にとっていちばん大切なことを言葉にするのが文学だと思っている人がいるかもしれないが、そうではない。もっとも大切なことは言葉にできない。言葉にすると嘘になる。パスカル・キニャールの翻訳を長いことやってきて、ほとんど座右の銘のように大切にしている言葉がある。

On ne sait pas ce qu’on fait, ce qu’on dit.
(人は自分のしていることがわからない、自分の言っていることがわからない)

だから、告白というものは容易には信じられない。

——言語的才能というものはどこから来るものなんでしょうね?

——・・・・・・。

——母から受け継がれるものでしょうか?

——・・・・・・。

かすかなほほ笑みを浮かべて、口をつぐんだこの沈黙を、わたしは生涯大切にするだろう。

アルチュール・ランボーは、過度に敬虔なカトリック信者の母親に育てられた。パスカル・キニャールの母親はパリ大学(ソルボンヌ)に籍を置く言語学者だった。その父親(パスカルの祖父)もまた著名な言語学の教授だった。

自分は母の愛情を受けることなく育ったと、彼は随所に書いている。幼年期に母親代わりをつとめたのはドイツ語を話す乳母だった。彼は大学を去ると、ロワール河のほとりにあるアンスニという小さな村の教会のオルガン弾きになろうとした。父方の家系は代々教会のオルガニストをつとめており、パスカルの姉が務めていたアンスニ教会の専属オルガニストのあとを継ごうとしたのだった。

しかし、人生は思いどおりには運ばない。アンスニでオルガンの練習のかたわらに書いた論文をガリマール社に送りつけたところ、当時この出版社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレの目に留まり、彼はパリに呼び戻される。こうして彼は一九九四年までガリマール社で、デ・フォレと同じように原稿審査委員の職に就くことになる。

この間の経緯は『世界のすべての朝は』と題した翻訳(伽鹿舎刊)のあとがきに詳しく記したので、そちらを参照してほしい(このブログでは *40 に転載)。

父と子の葛藤と同様、母と子のあいだの葛藤もまた大きな文学の主題と言っていいだろう。ある意味では、母子の葛藤のほうが根が深いとも言える。われわれはみな母の胎内から生まれ出るのだから。

少年アルチュールの母にとって、キリスト教はすべての価値の源だった。生活習慣の上でも、文化の上でも。それを息子に有無を言わせず叩きこんだ。

われわれは誰しも、まずは言語を母から学ぶ。母の胎内において、授乳の胸のなかで、日常のすべての局面で。時間の速度が緩やかな時代であれば、それでさほどの問題はないだろう。しかし、アルチュールが生まれた時代は産業革命が加速度的に進み、政治体制は共和政、王政復古、帝政と目まぐるしく変わり、短い期間ではあったがパリ・コミューンが誕生し、プロシアが破竹の勢いでフランスを脅かしているときだった。

彼は中学校でイザンバールという若く野心的な、そして文学的素養の豊かな教師と出会い、爆発的に才能を開花させる。それは母の価値観との衝突を生み、何度も家出を繰り返すことになる。

だが、彼の言語の根底にあるのは、つねに聖書の言葉であり、つねに母の言葉だった。そう、それが文字どおり彼の母語だった。彼はどこまでいっても「教会の長女」の息子だった。その軋轢から逃れようとするエネルギーが彼の詩作品には横溢し、われわれの目を眩ませることになる。

病弱な幼年期を送ったパスカル・キニャールにとって必要だったのは、何よりも母の胸の温もりだっただろう。その温もりを与えてくれたのは、しかしながら、実の母ではなく、ドイツ人の乳母だった。

父方の音楽と母方の知性。彼の「母語」もまた異様な軋轢と葛藤のなかにある。

あるときわたしは、あまりにも乱暴で不躾な質問を繰り出した。

——あなたにとって、ポール・ヴァレリーとは何なんですか?

パスカル・キニャールはこの質問に苛立つこともなく、むしろ、わずかに目を輝かせて、「ちょっと待て」と言い、隣の部屋に姿を消し、薄い本を手にして戻ってきた。『パスカル・キニャール、ル・アーヴルの幼年期』と題された本。その名のとおり、パスカル・キニャールの幼年期の足跡を追う、ほとんど写真集に近いアルバムだった。彼はあるページを開いて、わたしに差し出した。(Pascal Quignard, une enfance havraise : Editions l’écho des vagues, 2015)

そのページには、新聞の切り抜きの写真複製が掲載されていた。ル・アーヴルの高校の先生をしていたパスカルの父ジュリアンが企画したポール・ヴァレリーの長編詩「若きパルク」に関する展覧会と講演会の記事だった。絶句した。

——あなたのお父さんはヴァレリーの専門家だったのですか?

そう尋ね返すだけで精一杯だった。彼はその大きな目に笑みを湛えて、うなずいた。

——朝早く起きて、本を読み、ノートをつけるのも、ヴァレリーに感化されたのかもしれないな。

そして彼はわたしに、マラルメとヴァレリーの美しい師弟愛について語ってくれた。マラルメに愛されたヴァレリーと、師を誰よりも敬愛し、だが師のあとは継がなかったヴァレリー。それはおそらく、パスカル・キニャールの師エマニュエル・レヴィナスとの関係を暗示するものだったにちがいない。それに気づいたのはずっとあとになってからのことだったけれど。

彼はその日、エマニュエル・レヴィナス全集の一巻をプレゼントしてくれた。(Emanuel Levinas : Oeuvres 2, Parole et Silence; Bernard Grasset / Imec, 2011)

さて、いったいこのわたしは彼にどんな恩返しをしたらいいのだろう。

*51 思索するということ

 


――それでそのポール・ヴァレリーという人は、朝早く起きて、ノートを前にして何を追究していたんですかね?

Mさんにそう尋ねられた。とても大事な質問である。とても、とても。だからふつうは、というか、生半可な文学通は、この種の質問を回避する。つまり知った振りをする。答えるほうは、お茶を濁す。

一瞬、虚をつかれたけれども、逃げたり、ごまかしたりするのだけはやめようと思い——その@ノート{カイエ}とは一種の思索日記のようなものです、と答えればそれで済んだのかもしれないが——、ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」で何を書こうとしたか、そして、その延長上のことを生涯かけて追究したのだというような返事をした。

Mさんはいちおう頷いたものの、おそらく、その答えに満足しなかっただろうと思う。

Mさんは整体を生業としておられる。正確にはオステオパシー(Osteopathy)、骨法療法などと訳されることもあるらしいが、この訳語だとオステオパシーという医療哲学体系のほんの一部にしか対応しないので、日本語としては廃れてしまったらしい。アメリカで生まれた整体法であるが、フランスで独自の発達を遂げたという。Mさんは後者の免状を取得して、帯広で開業している。この療法を極めるためには、人間の肉体と心に関する認識を深めていく必要がある。それでこの塾に関心を持ったらしい。

フランス文学とはまったく関係のない専門を持った人がこの塾に参加してくれるのは大歓迎で、語学や文学だけを対象とする幅の狭い会にはしたくないのである。

ということは、どんな初歩的な質問にも答えなければならないということである。アスリートたちがよく言うように、もっとも大事なことは、つねに初歩、基本に戻ることなのである。野球であればキャッチボール、サッカーであればインサイドキックのように。

話は横道に逸れるが、猿から人間への進化の過程で、猿と人間を決定的に別つもののひとつに肩の関節の使い方があるという話を聞いたことがある。人間が槍や球を投擲するとき、腕全体を一度後ろに引いて(take back)、それから振りかぶって投げる(overhand pitch)ことができる。こういう動作ができるのは人間だけだという。おそらくサッカーのインサイドキックも同じだろう。猿もボールを蹴ることはできる。しかし、両足をハの字に開いて、足の内側で蹴るという動作はできないだろう。

つまり、人間のするスポーツにとって、基本となる運動は往々にして「不自然」なのである。だからいつも意識して練習していないと、「形」が崩れてしまう。そして、不自然な動きを過度に続けると、形が壊れるだけでなく、身体そのものも壊れてしまう。

思索とは、何か目標があって、それを追究するものではない、とおそらくヴァレリーなら答えたかもしれない。それは人間社会にとっては、異様な、不自然な、孤立した行為なのである。日々の鍛錬を怠れば、思索の形は崩れ、たちまち群に回収されてしまうような何かなのである。そして、過剰な知性の行使は発狂を招く。

それをヴァレリーは生涯にわたって継続した。夜明け前から起き出し、窓から徐々に差しこむ朝日がノートの白いページに差しこむのを目の当たりにしながら。

「文学とは何か?」という問いに話題を転じてみよう。個人的な答えなら、すぐに出すことができる。文学とは人間学である。人間とは何かを追究する技芸(arts)の一つである、と。

ヴァレリーは、哲学も文学の一形式であるというようなことを言った。言葉で表現する以上、哲学も特別なものではないと言いたかったのだろう。あるいは哲学が文学の上に君臨しているような自惚れを認めようとしなかった。

ヴァレリーはつねに自由であろうとした。それが彼にとっての思索の条件でもあった。だから若き日のヴァレリーにとって、おのれの思索の格好の対象であり、モデルであり、偶像であったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチであった。

このルネッサンスの芸術家は「万能の天才」と呼ばれる。しかし、この呼称が、たんに「何でも器用にやりこなす才人」という意味なら、ただの軽薄才子にすぎない。ヴァレリーはそこに首尾一貫した「方法」があると見たのである。あるいは見ようとしたというべきか。

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法は、言葉に還元することはできない。なるほどレオナルドは「手記」を残した。しかし、それはあくまでも手記であって、書物や出版を意識したものではなかった。たんなるメモや備忘録でもなかった。視覚型の天才であったレオナルドにしても、言葉を、あるいは書くこと(écriture)を必要としたのである。

しかしながら、ヴァレリーのレオナルドを主題にした論考においては、この手記の占める重要性は限りなく小さいと言わなければならない。なぜならば、ヴァレリーにとって、考えること(思索)の究極の姿は、言葉から解放されることだったからである。

人間と動物を別つものとして、意識と言語というようなことがよく言われる。でも、よく考えてみると、これはとてもおかしい。動物にも意識はあるだろうし――生命体である以上は――、言語もあるだろう――彼らなりのコミュニケーションがある以上は。

だから厳密に言えば、この意識は自意識と言い直さなければならないし――私とは何か、人間とは何かと自らを問い詰める、という意味で――、この言語は厳密には langage(言語機能)ではなく、制度・規範としてのlangue(言語)のことだと考えなければならない。

問題は、この langue なのである。これは人間にとって、たんに意識を拘束する規範や制度であるだけでなく、第二の自然のように作用する。つまり、雨を降らせ、風を吹かせる存在だということである。

われわれは言語を介して雨乞いする。人間にしか属さない言語{ラング}が、あたかも天に届くかのように。これが詩の発生の第一歩である。

しかし、これは「認識」にとってはまことに都合が悪い。少なくとも対象を「客観的に」「科学的に」認識しようとするときには。なぜならば、第一の自然――本当の自然――は人間の都合のいいようにはできていないからだ。というか、人間は自然の一部であって、自然に君臨することはできない。人間は自然に君臨していると自惚れれば自惚れるほど、人間は自然に支配されている。言い換えれば、自然に復讐されるのだ。

これが自然弁証法であり、二十世紀を跨ぎ越した今、人間が直面している現実なのだ。

ヴァレリーは「哲学」の自惚れのなかには住まいたくなかった。もともと、「哲学」から生まれてきた人ではなかった。哲学は文学の一部門に過ぎないという言い方を少し変えるならば、哲学は近代という時代の神学に過ぎない。そのことをヴァレリーは早い時期から知っていた。

ヴァレリーは詩人マラルメにもっとも愛された弟子だった。そして、この愛弟子は師にもっとも愛された弟子であるがゆえに、師のたどり着いた場所を知っていた。詩の終焉。象徴主義(サンボリスム)最後の詩人。アルチュール・ランボーが詩と心中してからは――大方の意見に反して、ランボーは詩を捨てたのではなく心中したのだとわたしは思っている――、その後の詩人にできることは、言語との心中、もしくは言語の破壊以外に道はなかった。この道をさらに歩みつづけることはできない。ヴァレリーは深い精神的危機に見舞われる。

その体験は「ジェノバの一夜」という名の伝説として残っている。

この伝説の内実に分け入ることはよそう。それだけの知識と能力が自分に欠けているだけではなく、不毛な努力だと思うから。それよりもヴァレリー自身が残した言葉を再録しておくことが、この不世出の詩人・思索家への最大の敬意となることを信じよう。

 

・・・・・・当時の私は、文学を為すことと、一定の厳密さをもって、誠心誠意思索に打ち込むことのあいだには、一種対照的なものがあるのではないかと思っていたのである。問題はこのうえなく微妙である。これをマラルメに知らしめるべきだろうか。私は彼を愛し、誰よりも上位に置いていたが、彼が終生こよなく愛し、そのためにすべてを捧げたものを、私はすでに放棄していたのである。そんなことを彼に聞かせる気にはとてもなれなかった。

――「最後のマラルメ訪問」(一九二三年)

 

これはマラルメが死ぬ一八九八年にヴァルヴァンで最後に師と昼食をとったときの思い出を綴ったものである。弟子のヴァレリーはすでに六年前の一八九二年に詩を放棄するきっかけとなった〈ジェノバの一夜〉を経験していたし、一八九四年には「悟性神話上の怪物」たるテスト氏の物語を書きはじめると同時に、生涯にわたって思索の伴侶となる「カイエ(ノート)」をつけはじめた。そして九五年には、満を持して「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」を発表している。

一八九八年のこの日、ヴァレリーはマラルメの最後の詩集となる『骰子一擲』の校正刷りを見せられ、師がどれほどこの長編詩の推敲とレイアウトに苦しんだかを目の当たりにしたが、弟子の心はすでにそこになく、師がその年の秋に突然この世を去ってしまうという予感もなかった。

おそらくはこのこと自体がヴァレリーにとっては〈ジェノバの一夜〉以上に痛恨の一事であったろうし、晩年になって詩作に多くの時間を割くようになったのは、この師マラルメへの敬意と悔いと、詩にたいする贖罪の入り混じった感情があったからにちがいない。

だが、若きヴァレリーを襲い、彼を〈ヴァレリー神話〉のなかに沈め、長い沈黙を強いることになった、おそらくは人生最大の危機がもうひとつあったのである。

それは〈ロンドンの一夜〉とでも称されるべき、正真正銘の精神の危機であった。その危機は、一八九六年、四月のある夜、襲ってきた。

当時二十六歳のヴァレリーは、ロンドンのグレンヴィル通りに寝泊まりし、近くのオフィスに通って機密文書の翻訳を任せられていた。誰ともまったく言葉を交わすこともなく、異国の街で孤立した生活を送っていた青年は夜ごと芯まで体が冷え込むような精神状態に追いこまれ、ついに自殺を思い立つ。

 

私は首吊りをすることにきめていた。ぶらさがるつもりだった押し入れ〔クローゼット〕のなかにすでに入りこみ、いよいよ首をかけるつもりで紐に輪をこさえにかかった。そのとき、踏み台にするつもりで積み上げていた本のほうに、ふと目を落とした。上には、表紙の黄色っぽい、仮綴じの本が開いていた。なぜその本が開いていたのか。またその本に、なぜ目が向いたのか。虚脱状態のまま、私はいよいよさいごの行為にとりかかろうとしていたのに、やっぱり私の目は知らぬ間にその本の数行を読んでいた。急に、じつに狂気じみた、じつにけたたましい笑いが、勝手にこみ上げてきたのだ。ああ、いまもあのときの笑い声は耳に残っている。そして不意に解放され、救出され、悪夢からさめた思いがした。呪いは解けていた。目のまえの首くくりの道具一式がまったくあほらしくなり、私は部屋を飛び出した。ころがるように階段をかけ降りた。気がつくと、表の歩道のガス燈の下に突っ立っていたが、あのけたたましい笑い、私を救ってくれた笑いは、まだとまらなかった。

 

この引用は、筑摩書房版のヴァレリー全集(新装版一九七三年)の月報2に収録されている杉本秀太郎氏の文からそのまま引いたものである。原書の著者はアンリ・マシス、本のタイトルはずばり『ポール・ヴァレリーの自殺』(一九六〇年)。本文わずか三ページ、五十一部限定の稀少本だという。たった三ページの本がこの世に存在するとは、この目で見てみないとにわかには信じられないような本である。杉本氏は、この薄っぺらな本を「ヴァレリー論のうちで最もすぐれた一冊に数えていた」というが、まったく同感だ。

アンリ・マシスなる人がどういう人物なのか、杉本氏の文章を読んでもわからないし、どういう経緯でこの人がヴァレリーにインタビューし、どうしてこの人にヴァレリーがこんな際どい打ち明け話をしたのか、そして、どうしてたったこれだけの分量のインタビューが活字になり、本の体裁をとることができたのか、何もわからない。

ただ、学生時代に邦訳のヴァレリー全集を購入し、大切な宝石箱の蓋でも開けるように全巻箱から取りだし、パラパラとページをめくり、さて、どの巻から読んでいこうかと思案しているとき、この月報の記事がふと目に留まったのだ。

そして、この本を発見した杉本氏と同じように、ポール・ヴァレリーの大切な秘密を垣間見たような気がした。

人は死を恐れない。恐ろしいのは群から逸脱することだ。人は死を賭して戦地へと向かう。死ぬことよりも、世間に背を向けることが恐ろしいからだ。というよりも、死への恐れは、肉体的な痛みへの恐れではなく(首を吊る痛み、ナイフを刺すときの痛み、毒を喫するときの苦しみよりも痛く苦しい思いなら、人生にいくらでもある)、ひとりこの世から去っていくときの不安に起因するのだ。

むかし東京で、冬の澄みきった空を旋回する百舌の大群を見上げたことがある。ああいう群を見ると戦争を連想するんだとつぶやくと、隣に立っていた長女は、わかるような気がすると言い、次女は、考え過ぎじゃないのと言った。

動物学者、あるいは鳥類学者は、あの群にもリーダーがいると言うかもしれないが、僕には群全体が命を形成しているように見える。そして、個体は死を回避するための本能を持っているが、群はときとして、みずから意味もなく死地へと赴くことがある。それを死の本能と呼ぶべきかどうかはわからないけれど。

話が逸れた。

ヴァレリーを死から救ったものが、狂気じみた笑いであったことはとても興味深い。ベルクソンは笑いをとても底意地の悪いものととらえたが、ロンドンで途方に暮れた青年が経験した一夜にかぎっては、死に傾く心の弱りを一蹴してくれた。

 

Le vent se lève!… il faut tenter de vivre!
(風立ちぬ、いざ生きめやも。)

 

ロンドンでの自殺未遂の記事を読んで以来、「海辺の墓地」の最終連の冒頭に記されたこの詩句を、堀辰雄が訳したような叙情的な息づかいのものとしてはとても受け止められなくなってしまった。

ヴァレリーはこのロンドンの一室で死んでいたかもしれない。彼に自殺を思いとどまらせたのは、一八八〇年頃に大衆紙で当たりをとっていたオレリアン・ショルというユーモア作家の一文だった。その一文がどういうタイトルで、どういう内容のものであったか、ヴァレリー本人も憶えていない。オレリアン・ショルという作家もおそらく歴史の闇に埋もれてしまっているだろう。

若きヴァレリーがどれほど思い詰めていたかは、本人でさえわからないことに属する。事実は、彼が死のうとしたこと、死ぬ寸前にショルという作家の滑稽話を読んで、首を吊るのをやめたということだけだ。

けれども、このほとんど忘れられたようなエピソードのほうが、〈ジェノバの一夜〉と命名された、いかにも大げさな、もったいぶった伝説よりも、はるかに現実味を帯びていると感じられるのは、おそらく自分が六十余年も生きて、すれっからしになってしまったからだろう。

さて、とりあえずはもうこの稿を閉じたほうがよさそうだ。ベルクソンとゼノンの矢の話から始まった、この一連のエッセイの試みを締めくくる詩句として、「海辺の墓地」の二十一連目を挙げておこう。

 

ゼノン、酷薄なゼノン、エレアのゼノンよ、

おれはおまえに射貫かれた、

唸り、飛び、そして飛ばない翼ある矢よ。

その音がおれを産み、その矢がおれを殺す。

ああ、太陽よ・・・・・・ 魂にとっていかなるものか、

亀の影、大股で疾ける不動のアキレスとは。