*95 わたしたちは考える——その2

子供のころに書いた作文を掲載して、そのままほったらかしにしておくわけにもいかないので、こんなものを公開した意図を記しておきます。

一読してあきれた、と前回の記事に書きましたが、あきれた理由はいくつかあります。わかりやすいところから挙げていくと、

1.改行しても、次の行の頭が一字下げになっていない。原稿用紙に書かれたままを掲載したのだとしたら、ちゃんと指導しなかった教師とそのまま掲載した新聞社は何を考えているのか。

2.無駄な繰り返しが多すぎる。これだってちゃんと指導すべきだ。

3.最後の一行、「これからも、こういうためになる本を読んで、頭をよくしたいと思います」だと! そもそも、こんな本を探してきて読む小学三年生などいるはずもないから、おそらくは担任の先生に薦められて読んだのだろう。こんな本を読んだところで、頭がよくなるはずがないではないか。

とまあ、あきれた理由をまとめるとこんな具合になる。

すべてネガティヴな理由である。それだけなら人目につくところに出さないほうがいいに決まっている。

たったひとつポジティヴな理由がある。それは、小学校の三年生から基本的に考え方が変わっていないという点である。

つまり、頭がいいという基準を成績の良し悪しに置いていないということ。なければそれなりに工夫すればいいと考えていること。

帯広に帰ってきてから、地元の短大と専門学校で講師を勤めているが、毎年のように学生たちに言ってきた言葉がある。

知性は偏差値では測れない、サバイバルする能力のことだよ、と。

すると目を輝かせる学生もいれば、きょとんとしていたり、ぽかんと口を開けたままの学生もいる。

でも、毎年同じことを繰り返すのである。

まるで自分に言い聞かせるかのように。

そうやって自分は生きてきたではないか。

なければないなりに工夫してきた。

無い物ねだりはしたことがない。

欲しいものがあれば、なんとしてでも手に入れてきた。

それはたぶん死ぬまで続くだろう。