*96 母の思い出話。

今年、母は九十三歳になる。当然のごとく年々足腰は衰えるし、少しボケたような振る舞いも多くなったが、朝ご飯の支度と洗濯はなんとかこなしているので助かっている。

夕食は私が作る。のたくら情けない手つきで一時間ほどかけて、二品か三品作る。ときどき自分が何をしているのかわからなくなる。九十を過ぎた母よりも早く認知症の徴候が出てきたのではあるまいか、ときどき心配になる。

それはさておき食事の段になると、母は小さなグラスに注いだビールで口がほぐれてくるにつれて昔話を語り出す。そのほとんどがすでに何度か耳にした話で、数年前までは「その話、聞いたよ」と半畳を入れていたが、もうそういうことはしない。相槌こそ打たないが、黙って聞いている。

弟子屈に住んでいたころの少女時代の話、釧路の女学校の寄宿舎生活、あるいは札幌で過ごした戦時中の話。ときには子供のころの私の話も出る——前回の作文の話もそれに連なる。

この前、初耳のエピソードを聞いた。私が小学生だったころの話だ。まだ低学年だったのか、すでに高学年になっていたのか、母の記憶は定かではない。

私が小学校から帰ると、母が熱を出して寝込んでいた。たぶん、ただの風邪だったと母は言う。私は友達とどこかで遊ぶ約束をしていたらしい。しかし、母親が寝込んでいるのに、そのまま放置して遊びに行くわけにはいかない、と幼い私は考えたのだろう。

その当時、町内——今、私が住んでいる町内のことである——に電話を備えている家は一軒しかなかった。所さんという家である。私はその名を忘れているが、母は憶えているのである。

私は所さんの家を訪れ、電話を借りた。そして、父が勤めている学校に電話をして、父を呼び出してもらい、「お母さんが大変なことになっているから、すぐに帰ってきてほしい」と伝えたというのである。

私自身は、このエピソードの詳細どころか、何もかも憶えていない。

「しかし学校の電話番号をどうして知っていたのだろうね」と母。

電話帳を貸してもらって調べたのかもしれないし、一〇四番に電話したのかもしれない。

「それにしても、お母さんが大変なことになっているって、あきれたもんだね」

たしかに。ほとんど詐欺師である。

小学生の私は父が大慌てで帰ってくるまで、待っていたのだろうか。それとも、父がただちに帰ってくることを確信して、さっさと遊びに行ってしまったのだろうか。そのあたりのことまでは記憶魔の母親も憶えていない。

おそらく、とすでに六十代の後半に突入している私は推察するのであるが、子供の私は友達との約束と母の容態を天秤にかけて、どちらを取るかではなく、どちらも取る方法はないかと考えたのだろう。

それにしても、勤務中の父に電話をかけて家に呼び戻すとは、まさしくあきれた子供である。フランス語でこういう子のことを、enfant terrible という。恐るべき子供とか、手に負えない子供とか、翻訳はさまざまあるが、途方もない子供とか、呆れた子供とか、そんなニュアンスもあるだろう。

そのうち余裕があれば、母と叔母の双方から聞いたエピソードもここに書き残しておこうかと思っている。これも呆れた話である。