*98 マドレーヌ——その2

思い直して、プルーストの話を続けることにしよう。

暑い夏の日が続いていた。ほぼ半世紀前のことである。夏休みに帰省した私は毎日のように図書館に通っていた。駅前にある今の新しい図書館ではない。今よりずっと西寄りの、市役所の裏手にあった小さな図書館である。木造モルタルだったような気もするし、小さいながらもコンクリート造りだったような気もする。二階建ての建物の玄関を入ると、たしか右手に階段があって、二階が閲覧室になっていたように思うのだが、これも定かではない。

ただし、この年の夏がとても暑い夏であったことはまちがいない。当時、エアコンの装備などあるわけもなく、開け放した窓からときおり暑気を含んだ風の吹き込む閲覧室で、こめかみからしたたり落ちる汗を拭いながら本を読んでいたことだけは鮮明に憶えている。

読んでいたのは、プルーストの『失われた時を求めて』。個人完訳はまだ出ていなかった。たしか十人くらいのフランス文学専門の先生方が手分けして訳した六巻本で、箱が印象派風の絵で飾られていたことまでは記憶に残っているが、それが誰の絵かはもうわからなくなっている。

今はもう手元にないのだから、確かめるすべもない。

読み終わって、しばらくたってから人にやってしまったのである。

すでに読み終わった時点で、もう二度とこの作品を読み返すことはあるまいと思っていた。読了するまでに二週間か二十日くらいはかかっていたはずである。それなのに感動もなければ満足感もなく、ただ徒労の感覚しか残らなかった。

失われた時を求めて、その時は見出されるどころか、ついに語り手(著者)は時間に捕縛され、囚われ、呑み込まれてしまったとしか思えなかったのである。

そして、フランス文学も、文学それ自体も、ずいぶん自分からは遠いものだなと思った。文学部に入ったことも、専攻にフランス文学を選んだことも、何か重大な過ちを犯したような気さえした。

それがどういうわけか、いつのまにかフランス語の翻訳者となり、数十冊もの現代フランス文学の小説を翻訳し、何の因果かまた生まれ育った町に舞い戻り、そして、半世紀ぶりにプルーストの畢生の大作を手にして読んでいるのである。みずみずしい日本語訳と、分厚いペーパーバックの原書を読み比べながら。

気がつくと、日本語は読まずに、プルーストのフランス語だけを追っている。そして、あたかも耳から音楽が入ってくるかのように気持ちよく文字を追いかけている。そこに記された語彙のすべてを理解しているわけではなく、日本語に変換せずに読んでいるのである。

遠い昔に放り投げたブーメランが、半世紀ののちに一巡りして、後頭部を直撃しているといえばいいのか。

これはひとつの成熟なのか。

だとすれば成熟とはこんなにも苦いものなのか。

もっと早く気がつけばよかったとも思い、ずいぶんと若い、未熟な後悔を引きずったものだとも思う。むかし読んだ詩人の言葉がよみがえる。

 

時の締切まぎわでさえ

自分にであえるのはしあわせなやつだ

 

マドレーヌは、当地では「大平原」という名で親しまれている。

マドレーヌは、福音書に登場するマグダラのマリアに由来する。

マドレーヌ・ペルーは、フランス人の母とニューオーリンズ出身のアメリカ人の父のあいだに生まれた。両親が離婚して、母と娘はフランスに戻り、マドレーヌは母からウクレレを教わり、ギターをおぼえ、ストリートミュージシャンとして歩み出した。

彼女の歌を耳にしていなければ、プルーストを読み返すことはなかっただろう。

ジャズのような、ブルースのような、あるいはアメリカン・カントリーのようでもあり、古いシャンソンのようにも聞こえる、どこか懐かしい歌と歌声に出会っていなければ。

 

*97 マドレーヌ

われわれの過去もそうしたものである。それを呼び戻そうとしても徒労であって、知性がどんなに努力してもどうにもならない。過去は知性の及ぶ領域や射程の外にあって、思いがけない具体的な事物の中に(その具体的事物がわれわれにもたらす感覚の中に)潜んでいる。そういった事物と死ぬまでに出会うか、出会わないかは偶然による。

コンブレーについて、私の就寝時の舞台やドラマを除いたあらゆるものが私にとって無に等しい存在になって久しい年月が経ったある冬の日のこと、家に帰った私が寒そうにしているのを見た母が、いつもの私の習慣に反して、少し紅茶を飲んでみたらと勧めてきた。最初は断ったのだが、どういうわけか思い直した。母は、溝のある帆立貝の殻でかたどられたように見える、あの小ぶりのふっくらとした〈プチット・マドレーヌ〉というお菓子をひとつ持ってこさせた。やがて私は、陰鬱なその日一日を思い、明日も悲しい日になるだろうという思いにうちひしがれつつ、マドレーヌのひとかけを浸しておいた紅茶をひと匙すくい、なんとはなしに口に運んでいった。ところが、お菓子のかけらの混じったひと口が口内の皮膚に触れたとたん身震いし、自分の内部に異様なことが起こっているのに気づいた。得体の知れない隔絶した甘美な快感が内部に浸透していたのである。そしてたちまちのうちに、自分がこの人生の艱難辛苦から無縁の存在であり、その厄災の数々も無害であり、その短さも錯覚だと思えてきた。恋愛の作用と同じく、なにかの貴重な@精油{エッセンス}で私は満たされていたのである。あるいはむしろ、このエッセンスは私の中にあったものではなく、私自身であったのかもしれない。私は自分自身を凡庸で、偶然にさらされた死すべき存在だとは感じられなくなっていた。これほど力強い喜びはいったいどこからやってきたのか。それは紅茶とお菓子の味に関係しているとしても、そんなものははるかに超え、もはや同じ性質のものではなくなっているのではないかと思えた。それはどこからやってきたのか。何を意味しているのか。その所在はどこか。二口目を飲んでみるが、一口目以上のものは感じられず、三口目にいたっては二口目よりも印象が薄くなっている。もうやめにしよう、飲み物自体の効力は減じているらしい。私の求めている真実はその中にはなく、私の中にあることははっきりしている。飲み物は真実を目覚めさせたかもしれないが、それを識ることはなく、ただ際限なく同じ証言を繰り返し、そのたびに力を失っていく。私にはその証言をどう解釈すればいいのかわからず、せめて何度も自分の意のままに問い返せるよう当初の状態のままに残して、いつか決定的な解明がやってくるのを待ち望むほかない。私はカップを置き、自分自身の精神に向き合う。真実を見出すのは精神の仕事だから。だが、どうすればいい? 精神が対象を前にして自分の手には負えないと感じるたびに襲ってくる、深刻な不安。探求者である精神そのものが不案内な土地と化してなお探究を続けなければならず、しかもそこではそれまでの知見は何の役にも立たない。探究? のみならず創造しなければならないのだ。そのとき精神はいまだ存在しないものを前にしている。それを現実のものにし、そこに自らの光を当てることができるのは精神だけなのだ。

 

(これはプルーストの『失われた時を求めて』のなかの、おそらくはいちばん有名な、冒頭数十ページほど読み進めていくと遭遇する一節です。先週か、先々週のある日、マドレーヌ・ペルーという歌手——日本の音楽業界ではマデリンと呼んでいるようですが——の歌をきいていて、ふとこの一節がよみがえったのです。読み返して愕然としました。その理由はここには書きません。いや、書けません。「記憶の真実」なるものを探し求めて、プルースト自身、あの膨大な本を書かなかければならなかったくらいなのですから)