もちろん時代小説家・藤沢周平の長編小説のことである。テレビドラマにもなったし、映画化もされたから、とくに時代小説のファンでなくとも、この作品と作者の名を知っている人は多いだろう。
『山形新聞』に一九八六年(昭和六十一年)七月から翌年四月まで連載された小説である。八八年に単行本となり(文藝春秋)、九一年に文庫化された(文春文庫)。
この小説を読んだのがいつ頃だったか、正確には思い出せない。文庫版で読んだことは憶えているから、その奥付でも見ればだいたいのところはわかるはずだが、その文庫本が手元にない。二人の娘のどちらかの本棚で眠っているのではないかと思う。
ただし、藤沢周平氏がお亡くなりになったのは一九九七年のことだから、それ以前に読んだことだけは確かである。
ここに書いておいておきたいと思ったのは、作品の中身のことではない。作者みずから述懐しているこの作品を執筆していたときの心境と単行本になってからの思いがけない反響についての感想である。藤沢氏は「新聞小説と私」というエッセイのなかで、この小説を新聞に連載しているあいだ、「書けどもかけども書けども小説がおもしろくならないので」苦痛だったと記し、「作者がおもしろくないのだから、読者もさぞ退屈しただろうと思った」とまで言っている。
ところが、である。一冊の本になってみると『蝉しぐれ』は人がそう言い、私自身もそう思うような少しは読みごたえのある小説になっていたのである。これは大変意外なことだった。ばかばかしい手前味噌めいた言い方までしてそう言うのは、新聞小説には書き終えてみなければわからないといった性格があることを言いたいためである。(『ふるさとへ廻る六部は』所収。新潮文庫)
私は『蝉しぐれ』を読んで涙した読者の一人である。海坂藩——たびたび藤沢周平作品の舞台として登場する架空の藩名——で郡奉行を務める家に生まれた牧文四郎の幼年期から晩年までの成長の過程を縦糸とする堂々たる長編小説である。この縦糸にそっと寄り添うように絡む綾糸が、隣家に住む幼馴染の娘、ふくの文四郎に寄せる恋心である。文四郎は、政争に巻き込まれて切腹を命じられた父の名誉を晴らす運命を担わされており、ふくのほうは藩主の屋敷に女中奉公に出たことをきっかけに大きく運命が変わっていくという設定になっている。ふくは藩主のお手つきとなり、やがては側女となって藩主の子を宿したことが、後継をめぐる藩の政治の大きな火種となる。そして文四郎もまた父と同じように、藩内の政争に巻き込まれていくのである。その政争の裏で暗躍しているのは、父に切腹を命じた家老その人であった。
それぞれの運命に翻弄されて、かけ離れた人生を歩むことになった文四郎とふくが最後に再会する場面がやってくる。血で血を洗う政争を持ち前の冷静沈着さと鋭い剣さばきによって切り抜け、勝利者側の閥に属していた文四郎は、名誉を回復した生前の父の功績と自らの功績によって、かつて父が務めていた郡奉行の職に就いている。政変から長い歳月が経過し、ふくを寵愛した藩主もこの世を去ったある日のこと、文四郎はふくから呼び出しを受ける。出家する前に一目会いたいというのである。
そのときのふくの言葉。
——わたくしが文四郎さんの妻で、文四郎さんの妻がわたくしであるような人生はなかったのでしょうか。
文四郎の答え。
——そのことをそれがし人生最大の悔いとしております。
手元に本がないので、あらすじも引用も正確でないかもしれない。そもそもこの会話の引用は、この一文を書き起こした動機から逸れている。
言いたかったことは、一冊の本を書き上げる作業は——たとえそれが翻訳であっても——ときに苦痛がつきまとい、こんな仕事を引き受けるのではなかったと後悔することもある。しかし、仕事を終え、その仕事が一冊の本となって書店に出回り、書評なども出たりして、一定の時間が経過すると、思いのほか「読みごたえのある」作品になっている場合があるということなのである。
そして、それは人生にも当てはまるのではないか、と最近思うのである。
翻訳家という人生は自分にはそぐわないとずっと思ってきた。ただの飯の種に過ぎなかった。ところが最近、こんな人生もまんざらではないなと思うようになってきたのである。
翻訳という仕事が思いのほか「手ごたえのある」仕事だと思えるようになってきた。尊敬する藤沢周平先生の言葉をもじって言うならば、人生と職業には生き抜いてみないとわからないといった性格があるのではないか。とまぁ、そういうことになるだろうか。