*88 最後の閑話(esq.21)

タイトルを見て、驚いた人もいるかもしれません。

ほぼ半年にわたって、ほぼ一週間に一回更新してきた〈小説のためのエスキス〉と題した試みは中断させていただきます。

「させていただきます」などという珍妙な丁寧語を使うのは、書いてきたのは本人だとしても、読む人と書く人の関係は表裏一体というか、持ちつ持たれつの関係であるということが今回の試みで痛いほどよくわかったので、一方的に中断してしまうのは申し訳ないという気持ちが先立つからです。

単純明快な理由から申し上げると、一週間に一回更新するのがしんどくなってきたということがあります。ならば隔週とか、一ヵ月に一回とか、いくらでもやり方はあるだろうと言われそうですが、この試みは規則的に連載するからこそ意味があり、続けられてきたように思います。

どだい、はじめて小説というものを試みるにあたって、専業の小説家でさえ、体力と精神力を削られるという連載形式(これは日刊紙の連載について、多くの作家たちが言っていることです)を採用したこと自体、身の程知らずであったのでしょう。

正確を期すれば、創作ノートの公開という形式そのものが破天荒でもあり、不遜でもあったわけですが、それにしても、こんなにしんどいものだとは思ってもみませんでした。年寄りの冷や水と言うべきかもしれません。

物語の軸となる人物の名を「猫さん」と呼ぶことで、この小説の試みはスタートしたわけですが、途中から、一人称と三人称の関係が不分明になってきて、小説というものは難しいものだなぁとしばしば考え込むようになった。

それに加えて、構想がどんどん膨らみ、変化していったということがあります(とりわけ*84のあたりから)。

どんなふうに構想が膨らんでいったかというと、そろそろ猫柳泉の父親の亮氏(*73で名前まで考案した)がO市を離れなければならなくなった事情を書かなければならないのですが、下手をするとそれだけでも一篇の小説になりそうな気配になってきたのです。

彼は同じ高等学校に勤めていた若い女性教師と親密な関係になり(つまり不倫関係)、それがために妻(=猫さんの母)は精神を病み、若い女性教師は自殺を図るという、まさにどろどろの三角関係に陥る。この構想——現時点ではむしろ妄想と言うべきもの——が肥大してきて、われながら、これを書き抜くだけの力が自分にあるか、心許なくなった。

これじゃまるで島尾敏雄の『死の棘』じゃないか……。

戦中派の猫柳亮氏は、独学でデカルトに関する学位論文を書いて東京の大学に送り、学位を取得している。不倫相手の女性が自殺を図るに至って、O市にはいられなくなり、妻と子を引き連れて東京に転居するという、まあ、途方もない構図です。

息子の泉は、狂乱する母の姿を直視できずに、同級生の幼なじみである多子(さわこ)さんの家に入り浸り、彼女の優しさに癒される。多子さんは猫さんの初恋の人であると同時に、狂乱し〈不在〉となった実の母親の代わりをつとめていたということになります。その絆が東京に引っ越すことで絶たれてしまう。そして、還暦を過ぎて生まれ育った町に帰ってきた猫さんは、精神科の医師になった同級生の北島晋一宅に招かれ、その妻、多子(さわこ)さんと再会する。そして凍結されていた忌まわしい記憶が一気に溶け出し、猫さんもまた錯乱に陥る。

さて、猫さんは多子さんを奪い取って、O市を終の棲家とするのか。それとも宿痾(?)の記憶喪失から立ち直って、結局は東京に帰っていくのか。

もう、おわかりでしょう。

休まないと体も頭も持たない。妄想はとてつもないエネルギーを消費する。小説家が尊敬される所以でもあり、身を滅ぼす原因でもあるのだろうなと思うに至ったしだいです。

早い話が、この種の長編小説を書く準備はまだ自分にはできていないということです。

 

今抱えている五百ページの翻訳がようやく三分の二あたりまで来たところです。

まずはこれを仕上げなければなりません。

さて、仕上げたのち、膨れあがりすぎた妄想を小説という器に盛る作業に再度立ち向かう気力が戻ってくるかどうか。

ここにネタバレのような、これからの物語の展開を記したのは、ただたんに中絶してしまうのではあまりにも芸がないし、読者の方々に失礼でもあるだろうと思うと同時に、もしこの小説の試みに何か必然性のような、定めのようなものがあるとすれば、きっとまたここに戻ってくるだろうとも思っているからです。そういうものがなければ、ここで途絶えてしまっても仕方がない。

よみがえってくる場所が、このブログになるのか、あるいはすでに本になっているのか、それは書いている自分にもわからない。

いずれにせよ、半年間続いたこの〈小説のためのエスキス〉は書いている本人にとっては、計り知れない収穫がありました。小説とは何かと上から目線で論じることはさほど難しいことではありません。みずから書いてみて、初めて気づくことがたくさんありました。

ですから、ここまでお付き合いいただいた方々には感謝しかないのです。物申したいという読者の方がいれば、コメント欄にどしどしお書きください。コメント欄に公表されるのは抵抗があるという方で、私のメールアドレスをご存じの方は、そちらに一筆お願いします。

ただし、扉の写真だけは頑張って更新します。こっちのほうは週に一度の更新がすっかり習慣になり、楽しくもなってきました。ブログ本文の更新はたまにしかできなくなるでしょうが、せめて写真で一息ついていただけば幸いです。

「*88 最後の閑話(esq.21)」への2件のフィードバック

  1. 高橋啓さま

    〈小説のためのエスキス〉中断とのこと寂しく思います。今後の展開についてこんなに構想もおありだったのにと惜しまれます。いつの時か再開、もしくは完成なされると願っておりますが、いまはご自身を大切になさって心の負担なくお仕事に励まれるのが何よりと思います。
    つい先日、同僚が「今日はジャンプの日だ!」(週刊マンガです)といかにも嬉しそうだったので、「いいねえ、楽しみがあって」と言ったら「阿部さんは楽しみ無いんですか?」と返されました。わたしはすぐ高橋先生のブログのことが思い浮かんで「ひとつだけあるよ」と答えたのですが、ほんとうに週末が待ち遠しくていつも楽しませていただきました。ご苦労されて書いているようには思いませんでした。どんどん引き込まれる内容でした。半年間ありがとうございます。

    さて、別件で恐縮なのですがお尋ねしたいことがあるのです。ニコラ・ブーヴィエの『外と内』という詩集は未邦訳なのでしょうか。高橋先生の訳された『ブーヴィエの世界』と『日本の原像を求めて』を手に入れて読みました。インドア派のわたしがこういう旅行記を楽しめるとは予想しなかったのですが、ブーヴィエの言葉つきとユーモアに度々笑わされながらすごく面白く読みました。実は『ブーヴィエの世界』にもっと詩が載っているものと思って求めたのですが、一編だけでしたので、するってえと(江戸っ子弁)日本語で読むことのできるブーヴィエの詩は、『日本の原像を求めて』中の四編と、高橋先生がこのブログで一足先にと原稿を掲載なされていた、伽鹿舎の文芸誌「片隅」4号のエッセイの分だけってことになりますか。もちろんそれだけでもわたしにとってはたいへんしあわせな邂逅なのですが。詩集ごと読みたいと思ったのです。ないんですか…?みつかりません。ないんですね…。

    9月になりました。ドライブにサイクリングに好い気候ですね。写真たくさん撮れますね。ギャラリーは更新していただけるとのことでうれしいです。
    先生はブーヴィエの本のあとがきに「私たちは彼の見た日本を見つめながら、ついにはブーヴィエその人の顔をみている印象を覚える」と書いておられて共感しましたが、先生の写真もそんな感じ、似たような感じがあります。
    でも写真だけでなくできればたまに何か書いてください。フランス文学関係のめんどくさいことでも構いませんから(笑)
    思い溢れて長々となってしまいました。お読みいただきありがとうございます。
    どうかお健やかでありますことをお祈りします。

                               阿部久美

    1. 阿部久美さま

      心温まるコメントありがとうございます。
      感謝の気持ちに、情けないような、申し訳ないような気持ちが同伴します。
      最初に質問にお答えします。
      残念ながら、ブーヴィエ唯一の詩集「内と外」は未邦訳です。
      この詩集には、前半の「内」に22篇、後半の「外」に22篇が収められているだけです。*39の記事で、10篇翻訳しました。残るは34篇です。
      このブログで、ブーヴィエ詩の紹介をするのも、ひとつの方法かもしれません。
      実は先日、ひょんなことから東京で知り合いになった明治大学の先生(すでに退官されてますが)から、『ニコラ・ブーヴィエの世界』の感想をいただいたりしているのです。
      阿部さんへの感謝とお詫びの意味も込めて、仕事が少し落ち着いたら、ブーヴィエの詩の翻訳に取り組んでみたいと思います。

      「小説のためのエスキス」を中断した最大の理由は、やはり創作過程を公開するというのは無謀だということに尽きます。
      インターネットというのは不思議な仮想空間です。下書きと活字の世界のあいだにあるような、書き言葉と話し言葉の中間点にあるような、少し落ち着かないところがあります。
      自分の場合、書くときは、自分の内側から汲み出すというよりも、空中を飛んでいる電波をつかまえる作業に似ています。うまくつかまえたと思ったら逃げ去ったり、こちらがぼうっとしていたら、飛んで火に入る夏の虫のように忽然と脳内に侵入してきたり。そういう作業は、やはり、ちゃんとした形になるまで伏せておくべきだと考え直したのです。
      それと、阿部さんの新歌集はいつ出るのですか。そちらのほうが大切じゃないですか。
      ブーヴィエの詩は、少々お待ちください。

      高橋 啓

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