*16 コーランを読もうと思って、

コーランを読もうと思って、日本語訳を買い込んだものの、本棚のなかでずっと眠ったままになっていた。

買ったのはいつだったか。東京で買ったのだったか、帯広に来てからだったか。アルカイダがニューヨークのツインタワーに突っこんだあたりから気になっていたのだったか。

いや、それよりずっと前から気になっていたことは、ローマによるエルサレム神殿の破壊(後70年)ののちユダヤ人のほとんどが離散し、新興のキリスト教が西へ西へと(ローマへ、そしてヨーロッパ全域へと)向かっていくなか、パレスチナの地に、あるいは旧約聖書の大いなる舞台であるチグリス・ユーフラテスの流域に残されたものは何であったか、ということだった。

しかし、こういう考え方は「歴史」のお勉強に毒された考え方だ。文明の主役が「オリエント」から「ローマ」へ移っていったとしても、人の生活は続いていくだろう。たとえ王家の血筋が途絶え、「神」が死んだとしても、人の生活は続く。ただ黙々と、羊を追い、麦を育て、オリーブの実を摘み、乳を搾り、酸っぱいビールを醸造していただろう。

悠久の暮らしが続く。

そこにムハンマドという男が現れる。彼は商人だった。25歳で、大富豪の女商人と結婚し、2男4女をもうけるが、男子は二人とも夭折した。彼はヒラー山にこもり、瞑想の日々をおくる。そこに大天使ガブリエルの啓示が下る。遊牧と隊商の行き交うその大地に眠る、偉大な聖典の伝統に彼は目覚めたのだ(西暦610年)。

・・・・・・しかし、いきなりコーランは重い。そこで同じときに買った『イスラーム文化』(井筒俊彦、岩波文庫)から読むことにした。

つい1週間ほど前に読み終えたのだが、衝撃を受けた。

その衝撃を書き残しておこうと思うのだが、どう書けばいいのかわからない。1週間悶々としていたのだが、とにかく書いてみないと、書き出してみないと、どう書けばいいのかさえわからないだろう。というわけで書き出してみたのだ。こういうときは、まっすぐ本題に入っていくのがよろしい。衝撃を受けたのはこの箇所だ。

 

イスラーム教徒が聖典『コーラン』を読み、それをさまざまに理解し、解釈する。その解釈が文化形態として具体化していく。これはイスラーム文化史一般にあてはまる原則でありますが、シーア派はとくに 意識的 に解釈学的です。意識的に解釈学的にならざるをえない事情があるのです。と申しますのは、シーア派では『コーラン』を読む場合に、顕教としてのイスラームを代表する正統派〔=スンニー派〕のウラマーたち、つまり「外面への道」を行く人たちのように、『コーラン』のテクストをふつうのアラビア語の文章や語句として、アラビア語の語義や文法が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するだけにとどめておきませんで、必ずそのもう一段奥に「内的意味」を探ろうとするからであります。しかしここで内的意味といいますのは「秘密の意味」、つまり秘教的(エソテリック)な意味のことでありまして、こういう解釈をほどこされますと、『コーラン』のテクストが、しばしば、通常のアラビア語の知識ではとても考えることのできないような異常な意味をもってきます。無論、顕教のウラマーたちにしましても『コーラン』をただ文字どおり外面的、表面的意味に理解して満足しているわけではない。彼らも聖典をできるだけ 深く 理解しようとはします。つまり彼らにも彼らなりの内面的解釈がある。しかしその内面的解釈はシーア派が問題とするような「秘密の意味」にまでは至らないのであります。

 

井筒氏の講演(昭和56年春、国際文化教育交流財団の主催する「石坂記念講演シリーズ第4回目)は、このあたりから締めくくりに向けて異様な密度、深度を伴って熱を帯びていく。引用を続ける。

 

暗号はもちろん解読されなければなりません。この暗号解読、つまり外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作を、シーア派の独特の述語で ta’wil(タアウィール)と申します。というのは、一般的にアラビア語では「原初に引き戻す」こと、つまり一番はじめの状態に還帰させるということです。ですから、シーア派の解釈学的述語としてましては、ふつうの人間の言葉で表現され、外面化された神の意志を、もとの神の意志そのもの、いわば啓示の原点に引き戻すということでありまして、要するに顕教的に解釈されたコーランの言葉の意味を、もう一度密教的、エソテリックな意味に解釈し直して、表面的意味を内面化しつつ、それを原初のイデーにまで引き戻すということであります。例えば『コーラン』にはその当時、預言者ムハンマドのまわりに起こったいろいろな事件が具体的に記述されております。戦争とか、和解とか、ムハンマドの家庭に起こった私的事件とか。そういう外的事柄を空間的、時間的に次元を移して、内的空間、内的時間での事柄として解釈する。そしてこのような内的解釈の結果、そこに立ち現れてくる根源的イメージの世界、それこそが神の世界、純粋に精神的な聖なる世界の姿であると考えるのであります。

 

なぜこの箇所に衝撃を受けたか。それは私が翻訳者であるからだ。翻訳者は原文を読み、解釈し、解読するからだ。しかし、読むこと、解釈すること、解読すること、いずれをとっても一筋縄ではいかない。この職業を長年やってきて、場数と時間をかければかけるほど、読むことは何か、解釈すること、解読することとは何か、わからなくなってくる。

翻訳者はまず原文を読む。初めて読むときには、基本的には辞書を引かない、メモも取らない(付箋を貼ったり、アンダーラインを引くくらいのことは、ときにはするけれど)。それなりにわかったつもりでいる。そうでなければ、編集者の要望(梗概を書き、感想を記す)に応えられない。

いざ翻訳をはじめると、徹底的に辞書を引く。何種類もの辞書を引く。いや、辞書を引くというより、辞書を読むといったほうが正しい。なぜならば正解を求めて辞書を引くのではないから。辞書を「読む」ことによって、その単語がもつ「原初の姿」を見ようとする、「原初の音」を聴こうとする、そういう作業だから。

辞書を読む作業を通じて、原文を解釈する。それが読むことにほかならない。人の表情を読み、人の心を読むように。人が表に出さないようにしているものを読み取ること。つまり暗号解読。

徹底的に解釈、解読することによって、原文はどろどろのマグマのようなものと化す。冷えて固まった表面的な外皮(地殻)が融けて、熱い内部が露出するのだ。

けれども翻訳者はスーフィーの隠者とは違う。どろどろに融けたものを、また冷やして固めるのだ。著者が考え、表現した形にできるだけ近く、言葉の形を整えていくのだ。このときの作業がもっとも悩ましい。なぜならば、言語が違う。文法が違う。単語のひとつひとつが違う形をしているから。音韻のひとつひとつの響きが違うから。だから、翻訳は基本的に不可能だというのは正しい。

詩の翻訳は不可能だとよくいわれる。『コーラン』の翻訳も不可能だという。そのとおりだろう。しかし、翻訳は必要だ。なぜなら、われわれは意味の世界に生きているから。意味の世界は、そもそも「外面的」であるほかないのだ。その意味では「内面的意味」「秘密の意味」などありえない。自家撞着するほかない。なぜなら、意味として取り出せば、つまり言葉として取り出せば、それは内面的でも秘密でもなくなるから。

著者はおそらくこう考えて、このような文を書いたのだろうと想像し、推理し、納得し、こちらの言語に移し換える。もちろん、想像するだけでは話にならない。推理するのもだめ。手前勝手に納得するのもだめ。理詰めで原文を分析した果てに、一体感のようなものが得られる。それが心の、頭の奥底から湧き上がってくるのを待つこと。もっと単純な比喩を使うなら、手動のカメラのピントがぴたっと一分の隙もなく合い、対象の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのを待つ。

意味の解釈のことを言っているのではない、形態(文の形、リズム、流れ)のことを言っているのだ。それが鮮明に見えてきたとき、日本語で書くべき文の形も鮮明に見えてくる。そのとき大切なのは、名詞や動詞や形容詞など意味を担っている単語ではなく、「てにをは」のような機能語、あるいは句読点のような、意味の剥奪された、かぎりなく記号に近いもの(これを国語学者の時枝誠記は「辞」と呼んで「詞」と区別した)。

翻訳家の快楽とは、あくまでも理詰めで、しかし、体感としては「啓示」のような「法悦」のような快感なのだ。ワタシハ作家自身ヨリ作家ノ心ガ見エテイル・・・・・・。

ムハンマドは瞑想の果てに、心の、無意識の奥底から、熱いマグマのようなものが噴出してくるのを感じたことだろう。しかし、その前には「読む」という行為があったはずだ。離散(ディアスポラ)から取り残された少数のユダヤ教徒たち、原始キリスト教の信者たちが大切に守ってきた聖典を読み、衝撃を受けたはずだ。かつてはこの地はこんなに肥沃な文化と文明の咲き誇る土地だったのに・・・・・・。

この「啓示」と呼ばれる転身、転回、転向は、ブラックボックスのような、ブラックホールのような、時間の凝縮した闇のなかで、一瞬の爆発として感知されるのだろう。

その闇はわれわれには見えない。ナザレのイエスは40日間荒野に留まり、サタンの誘惑を受け、野獣とともに過ごし、天使たちに見守られていた(マルコ福音書)。シャカ族の王子はなにゆえ家を出たのか、たくさんの伝説が残っているが、真実はもう確かめようもない。いや、そもそもきらびやかな栄華を捨て、「出家」の道を選んだ心の闇は、深ければ深いほど、われわれの目には隠されているといったほうがいいだろう。

魯の国の人、孔丘は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女。その人生の大半は亡命の旅に明け暮れた。『論語』に穿たれた闇も深い。

翻訳をやってきてよかったと思えるときは、この闇が見えたと感じるときだ。もちろん、その奥は見えない。正しくは、そこに闇があると感じられるとき、と言ったほうがいいだろう。

イスラム学の井筒俊彦、原始キリスト教の田川健三、原始仏教の中村元、古代中国の白川静。こういう恐るべき専門家の著作に導かれるようにして、古典中の古典をひもといていると、太古の闇が近しく感じられてくる。

この闇は解析すべき闇ではない。エネルギーの源としての闇だ。そして、宗教や思想の誕生する場所はその闇であり、もとより闇は反社会的なものである。なぜならば、人間の社会(文明)は闇を恐れることから出発しているから。

*15 音楽建築家、チェリビダッケ

このところチャイコフスキーを立てつづけに聴いた。といっても、シンフォニーの5番と6番だけ。指揮者は全部で5人。カラヤン、ベーム、ザンデルリンク、オフチニコフ、チェリビダッケ。

チャイコフスキーは長いこと素直に聴けなかった。高校時代にブラスバンド部員の友人が二人いて、一緒になれば必ずクラシック談義になった。部長をやっていたほうは、いつもいっぱしのことを言った。若いときは誰もがいっぱしのことを言いたがるものだ。チャイコフスキーって、自分の情念に溺れちゃうんだよね、とかなんとか。

それ以来、チャイコフスキーにのめり込むのが恥ずかしくなったのかもしれない。そもそも、評論家たちが口を揃えて、ロシア的情念だの、苦悩だの、絶望だのという「用語」を使いたがるし、標題音楽だかなんだか知らないけれど、音楽の題名に「悲愴」ってことはないだろうと・・・・・・。そんなことを言えば、英雄、運命、田園ってなんだってことになるけれど。

というわけで、この音楽家を少し敬遠しておりました。

ところが、つい最近、ひょんなことから(きっかけは忘れてしまった)ヴィヤチェスラフ・オフチニコフという人が指揮する「悲愴」を聴いて、おおっ!と声を上げてしまったのだ。ええっ?でもいいかもしれない。

演奏はモスクワ放送交響楽団、録音は1982年。うちにあったレコードで、今まで針を乗せたことがなかった。ジャケットの帯には錚々たる賛辞が並んでいる。

「暗いスラブの憂うつと情熱にみち、楽曲の内部に秘められた表題性や悲劇性を鋭く追求したスケールの大きい演奏」(音楽評論家・小石忠男)

「汚れなき天使の純粋さと悪魔の笑い。・・・・・・彼こそ天才だ」(ヴァイオリニスト・佐藤陽子)

「オフチニコフの才能と実力は大変なもので、この「悲愴」も実にすばらしい演奏である」(音楽評論家・志鳥栄八郎)

「作曲家でもある彼の音楽的発想を、豊かな想像力をもって展開した「新しい悲愴」」(音楽評論家・藤田由之)

作曲家でもあり、指揮者でもあるこのオフチニコフという人が、その後どういう活躍をしているのか、文字どおり寡聞にして知らない。

なぜ、この演奏と指揮を聴いて、おおっ!(あるいは、ええっ?)となるのか自分でもわからない。帯のコメントがそれを言い当てているとも思えない。

スピード? テンポ?

というわけで、わが家にある数少ないチャイコフスキーのレコード、CDをかき集めて聴き比べてみたのである。音楽、あるいは演奏を言葉で再現することは不可能なので(少なくとも、わが貧寒な筆力では)、数値に表しうるデータだけ並べてみる(第6番のみ)。

1.ヴィヤチェスラフ・オフチニコフ指揮、モスクワ放送交響楽団

(1982年、モスクワ)

第1楽章:アダージョ〜アレグロ・ノン・トロッポ(20:29)

第2楽章:アレグロ・コン・グラチア(7:24)

第3楽章:アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(9:04)

第4楽章:フィナーレ、アダージョ・ラメントーソ(11:18)
2.カール・ベーム指揮、ロンドン交響楽団

(1978年、ロンドン、ウォルサムストウ・タウンホール)

第1楽章:(19:06)

第2楽章:(9:02)

第3楽章:(9:16)

第4楽章:(10:02)
3.ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1964年、ベルリン、イエス・キリスト教会)

第1楽章:(18:45)

第2楽章:(7:53)

第3楽章:(8:35)

第4楽章:(9:55)
4.セルジュ・チェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

(1992年、ミュンヘン、ガスタイク)

第1楽章:(25:12)

第2楽章:(8:38)

第3楽章:(10:39)

第4楽章:(13:10)

一目瞭然だろう。とくにカラヤンとチェリビダッケを比べてみると同じ曲かと思うほど、演奏時間に開きがある。もちろん聴いた印象もまるで違う。このなかで、チェリビダッケの「遅さ」にもっとも近いのがオフチニコフだということもよくわかる。
生前、自分の演奏をレコードにすることを拒みつづけたチェリビダッケは、その理由を問われて、こんなふうに答えている(どの本、どの雑誌、どこの解説で読んだのだったか忘れてしまったので、筆者の個人的記憶に過ぎない)。

自分はコンサートホールの音響状態に合わせてオーケストラを指揮している。たとえば残響の長いところでは速めに、残響の短いところでは遅めに。なぜなら、残響の長いところで遅めに演奏すると、音が重なって濁ってしまうからだ。楽器の響きは季節によっても違う。そんなふうにして、きわめてデリケートにホールの状態を考慮しながら一回一回の演奏をつくりあげているのに、レコードにしてしまうと、録音技術者のレベル、録音装置のレベル、再生装置のレベルと再生環境しだいで、その都度、もとの演奏の微細な響きが勝手に変更されてしまう。そんなことは耐えがたい・・・・・・。

このチェリビダッケの述懐を考慮に入れて、演奏時間のデータを比べてみると、また違うことが見えてくる。スタジオ録音に並々ならぬ意欲を示したと言われるカラヤンの演奏が、このレコードで「異様に」速く棒を振っているのは、ひょっとしたら、演奏・録音された場所がベルリンのイエス・キリスト教会だったからかもしれないと。この教会は残響が長いので有名な建築で、ここで録音された演奏で忘れられないのが、カール・ベーム指揮、ベートーヴェン交響曲第7番(ベルリン・フィル、1958年)だ。このレコードは何度ターンテーブルの上に乗せたことか。この演奏もめっぽう速い(ベームにしては)。

それはともかく、このレコードで聴くかぎり、カラヤンの「悲愴」は速くて軽い。まさに「疾走する悲しみ tristesse allante」、モーツァルトみたいに一目散に駆け抜けていって、あっというまに後ろ姿も見えなくなる(べつにモーツァルトの悪口を言っているわけではありません)。華やかではあるだろう。久しぶりにカラヤンの指揮を聴くと、オーケストラという楽器を美事に鳴らす名ソリストという感じがする。

しかし、チェリビダッケが鳴らしているのはオーケストラではない。ホールそのものだ。この人の演奏は、パイプオルガンによる教会音楽の伝統なしには考えられない。

数年前、僕はパリのサン=シュルピス教会の大聖堂に鳴り響くオルガンを聴いたことがある(たしか荘厳ミサか何かの特別な催しだったように思う)。圧倒された。これはもはや音楽ではない、地響きだと思った。事実、サン=シュルピスのオルガンはあまりに古く、音が濁っているらしい。そのため、改修派と存続派のあいだで議論が対立しているとも聞いた。

この種の経験はこれにかぎらない。フルトベングラーが一九四三年(だったと思う)に指揮したという伝説の名盤——もちろんベートーヴェンの第5番だ——を聴いたときもそう思ったのだ。こんなふうに演奏されたら、猫だって感動するだろうと。

この名盤を聴かせてくれたのは、大樹という町で曹洞宗の寺の住職をやっている従兄だった。坊主、医者の例に漏れず、彼もオーディオマニアで、そのころ使っていたのは——僕が学生だったころだから、四〇年くらい前——、巨大なタンノイのスピーカーだった。じつはチェリビダッケという指揮者の存在を教えてくれたのも、この従兄なのだ。かれこれ二〇年くらい前のことだろうか。彼のオーディオルームで、チェリビダッケの演奏を記録したビデオを見せてもらった(そのころは、遺産相続人の息子が認めた正規版のCDがまだ出ていなかった)。曲はラヴェルの「ボレロ」。一発でKOされた。後にも先にもこんなすばらしいボレロを聴いたことはない。

地響きと言えば、もうひとつ思い出がある。ワーグナーの「リング」。これはうちにあるレコード。サー・ゲオルグ・ショルティー指揮、ウィーン・フィルハーモニー、「ニーベルングの指輪」。細かい録音データは省く。なぜなら、全曲聴いたことは一度もないから。というか、冒頭の「地響き」のところで大笑いして、聴くのをやめてしまったのだ。バイロイトで聴くのならともかく、録音された「リング」を自宅で聴くなんて、正気の沙汰とは思えない(買ったのはたぶん母親。地元の楽器店——当時はレコードも売っていた——で嘱託のような仕事をしていたから、店長にそそのかされたのだろう)。

話が逸れてしまった。

とにかく、オフチニコフの「悲愴」に驚いたせいで、あらためてチャイコフスキーを聴き直し、チェリビダッケの指揮法、演奏法についても考えさせられることになったわけだ。

わが家の慎ましいライブラリには、チェリビダッケのCDが2箱ある(つまり24枚)。でも、このうちチャイコフスキーの5番と6番は一度も聴いたことがなかった。そう、敬遠していたのだ。今回、初めて聴いてみて、チャイコフスキーがチェリビダッケの大切なレパートリーであることを確認できたのはよかった。

チャイコフスキーがすばらしい作曲家であるということを素直に感じられたこともよかった。

さっきカラヤンのことを、オーケストラという楽器を鳴らすソリストだと言ったが、それに平衡させるなら、チェリビダッケはホールという建物を鳴らす建築家だと言えるだろう。

パイドロスはある建築家について、こんなふうに回想している。

 

彼は光のために無類の装置をつくりあげたのでした。光に明瞭な形と、ほとんど音楽的ともいえる特性を与えて、それを死すべき人間たちの動き回る空間へとまき散らしたのです。ソクラテスよ、あなたが先ほど念頭に置いて語っていた雄弁家や詩人たちと同じように、彼は微妙な抑揚のもたらす神秘的な効果に通暁していました。一見すると簡素で軽やかに仕上げられた建築を前にして、じつは無数のかすかな屈曲と、建築家がそこに目立たぬように忍ばせた整合と不整合の深い組み合わせによって、いつしか幸福のようなものに導かれているとは誰ひとり気づかないのでした。その結果、建築を見る人は不可視の存在の意のままになるがごとく、前に進み出ては引き返し、また近づいていくといった動きを繰り返し、建築作品それ自体に突き動かされ、ただ賛嘆の虜となるがごとくに光の場をさまようにつれて、幻影(ヴィジョン)から幻影へ、大いなる沈黙から喜悦のささやきへと移っていくのでした。そう、このメガラの男はこう言っていたのです。「わが寺院は、愛する対象がそうするように人を動かさなければならない」と。

 

もちろん、このパイドロスはプラトンの対話篇には出てこない。ポール・ヴァレリーの「エウパリノス、すなわち建築家」と題された対話篇のなかで、ソクラテスと語り合うパイドロスであり、メガラの人エウパリノスは、じつは建築家というより技師であったと覚書には記されているが、すべての芸術家は何よりもまず職人であり、技師であるだろう。