*18 贈与

なにか異様なものが喉につかえていて、ほとんど苦しい感じになっている。

机の端にはM・モースの『贈与論』とB・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』が置いてある。

思い出すのは妻の葬儀にまつわることである。葬儀は自宅で、と言い残して妻はこの世を去った。しかし、自宅といっても集合住宅である。いくら限られた親戚知人だけの小さな葬儀といってもかなり無理がある。棺の出し入れさえ難儀した。

九月はじめのその日、天気は大荒れだった。雷雲から稲光が落ち、神鳴りが轟いた。棺を持つ人はずぶ濡れになった。

葬式など、出したくなかった。誰も家に呼びたくなかった。しばらくひとりでいたかった。先に逝った女房と向き合っていたかった。しかし、遺体を腐らせるわけにはいかない。考え得るかぎり小さな葬儀を出すことにした。それが妻の願いでもあったから。

それでもなすべきことはたくさんあった。まずは葬儀屋に電話した。営業がやってきた。高い。葬式ってこんなに金がかかるものなのか。あきれ果てて、別の葬儀屋を呼んだ。まあまあ妥当な見積もりだったので、そこに頼むことにした。

葬儀の段取りから、その後の法要のすべてを通じて動いていたのは金だった。通帳の預金残高を確認し、香典の総額を計算し、香典返しを何にするか娘と相談し・・・・・・。

そもそも、香典とは何のためにあるのか。悲しみに沈み、喪に服する者への慰めのためなら、なぜそれにお返しなど存在するのか。いつから始まった習慣なのか。儒教的なもの? それならば西欧にはない習慣なのか?

そもそも、なぜ自分はしたくもないことをしているのか。そう、問いつめていくとき、わたしは「社会」という大きな岩盤に突き当たっているのを感じる。

人はなぜしたくもない「戦争」をするのか? 先の戦争で、軍人も政治家も知識人も市民も庶民も含めて、「戦争」がしたくて賛成し、関与した人ははたしていたか。あれだけの軍備を持っていれば、軍人はむずむずしていただろう、「戦争」をしたくてしたくてたまらなかっただろう、とは想像できる。しかし、大義名分はそうはならない。「戦争」をしたいからする、では通らない。日本にはない資源を大陸に求めることは死活問題である。アジアを列強の歯牙から解放しなければならない。日本がアジアの盟主になることが世界の恒久平和を開く道である。八紘一宇。大東亜共栄圏。

したくもない葬式をあげることと、したくもない「戦争」をすることには通じるものがある。頭のなかで短絡させてみると火花が散る。

どちらも大きな金がいっぺんに動く。個人の資金と国家の資金のレベルの差こそあれ。

人がいちばんしたくないことは、命を失うことである。しかし、「戦争」では自分より大きなものに人は自分の命を捧げる。「自分より大きなもの」を神と呼ぶか、国家と呼ぶかはともかく、これは割の合う「交換」であるか? 民俗学者あるいは文化人類学者、経済学者や社会学者たちは「互酬」という言葉を使う。互酬のなかの一部として「等価交換」もあるという説明をする。

ここに「犠牲」という言葉を持ってきほうが、たぶん、わかりやすくなる。社会は個々人の奉仕、犠牲のうえに成り立っている。そこに「相互的報酬」があると社会学者は説明するだろう。

しかし、そもそも、社会とは理不尽なもの、なのではないか? 人間を是として考え、その人間が共同で営む社会を是と考える。いわゆる性善説と呼ばれるもの。しかし、人間の欲望を野放しにすると地球が危ないと人間みずから考えざるをえなくなった、この「現代」という時代にあって、そんな単純な「性善説」に与することのできる人がいたらお目にかかりたい。しかし、それと同じ程度に単純な「性悪説」によっては出口が見つからないことも、現代人は痛いほどよく知っている。

結論は出ない。しかし、考えることこそもっとも大切なことであると、わたしは考える。少なくとも、進歩だの進化だのをたやすく信じ、自惚れないために。長くなるが引用する。

 

ある首長の個人的な威信やその首長のクラン〔氏族〕の威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチ〔北米大陸北西部先住民の使うチヌーク語で「贈り物」を意味する〕の場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残しておいてはいけない。みんなが競い合ってもっとも富裕になろうとし、同時にまたもっとも激烈な消費家であろうとするのだ。すべての根底にあるのは敵対と競合の原理である。個人が儀礼結社やクランのなかで占める政治的な地位や、あらゆる類の位階は「財の戦争」によって獲得される。それは、地位や位階が実際の戦争や偶然や相続や姻戚関係・婚姻関係によって獲得されるのと同じことである。だが、あたかもそれが「富の合戦」であるかのように、すべてのことが構想されているのだ。子供たちの結婚相手にせよ、儀礼結社による席次にせよ、ポトラッチを取り交わし、ポトラッチでお返しをする、そうしたポトラッチのさなかで獲得されるのである。そしてまたそれらは、ポトラッチにおいて失われもする。それは、それらが実際の戦争や賭け事やレース競技や格闘競技において失われるのと同じである。いくつかの場合においては、与えること、お返しすることはもはやどうでもよく、破壊することが大事となる。お返しがもらえるのを期待していると思われたくないがために、である。ユーラカン(ロウソクウオ)の脂肪やクジラの脂肪を入れた箱を丸ごと全部燃やしたり、家屋を燃やしたり、何千枚にも登る毛布を燃やしたりするのである。一番大切にしている銅製品を破壊し、水に投げ捨てるのであるが、それも自分の競合相手を打ち負かし、競合相手を「ぺしゃんこにする」ためなのだ。(『贈与論』マルセル・モース著、森山工訳)

*17 UFOについて

2月の初めに叔父が亡くなった。

母と同年齢で享年86歳。めまいがするというので、世話をしていた娘——つまり、わが従妹——が念のために入院させたところ、食事をうまく嚥下できずに咳き込み、それが原因で亡くなったという。死因は肺炎ということになるが、病の苦しみはなかったらしいから、一昔前なら老衰で済んだだろう。わたしの父のきょうだいは7人いて、父は上から3番目の長男、そのすぐ下の妹が叔父のもとに嫁いだわけだが、すでに数年前に病を得て他界している。

身内だけの小さな通夜の席にいたのは、故人の実弟、長女と次女、その従兄弟(わたしを含めて3人)だけ。4つ年上の従兄はわが親族の菩提寺の住職なのだが、体調が思わしくなく、実質的に住職を務めている息子が読経した。

通夜振る舞いの寿司を食べたあと、従兄弟同士で飲みに出た。思い出話に花を咲かせるためには、年上の従兄が欠かせないのだが、その代わりに読経をつとめた息子が酒席にも同行することになった。自分がまだ生まれていないころの昔話はためになるという。殊勝なことだ。

この叔父叔母に、わたしたち従兄弟はとても可愛がってもらった。家に男の子がいなかったせいもあるだろう。昭和30年代の北海道、十勝は、市内ですら未舗装の道路がほとんどだった。そんな時代に、この叔父は自家用車(ライトバン)とオートバイを所有し、ライフルで狩りをし、豪快に海釣りを楽しんだりしていた。つまり、男子の憧れるものすべてを持っている人だった。

わたしたちが幼かったころ、叔父の一家は十勝平野の奥まったところにある集落に住んでいた。人口は数百といったところではなかったか。この集落の名は糠内(ぬかない)、もちろんアイヌ名に無理やり漢字を当てた地名だ。ここで従兄は空気銃を撃ったり、バイクを乗り回して遊んでいた。彼が撃ち落とした山鳥の剥製が今もわが家に飾ってある(お寺に動物の剥製を置くのはさすがにまずかったのだろう)。

わたしが泳ぎを覚えたのは、叔父の家の裏手を流れる浅い川だった。流れの淀んだところがあって、夏に裸になって水遊びをしているうちに自然に泳げるようになったのだ。石灰岩が剥き出しになっているからか、住民はそのあたりの岸辺を「磨き粉」と呼んでいた。畑を荒らす害獣である野兎を「駆除」すると称する「鉄砲撃ち」に連れて行ってもらったこともあった。ずっしりとした錘ついた釣り糸を遠くまで投げ込むと、浜にどっかりと座りこんで あたり を待つ叔父の傍らで戯れているうちに波に攫われそうになったこともあった。

そんなことを思いつくままに話しているうちに夜も更け、酔いも回ってきた。幼いころの思い出話を肴に酒を飲んでいれば、誰もが自然に少年時代に回帰していく。

同い年で学年はひとつ上の従兄がUFOの話をしだした。ああ、また始まったと思った。この人は酔うと必ずUFOだとか、魂の不滅だとか、そういう話をするのだ。多感な少年時代には、彼と会えば夢中になってそういう話題に興じたものだ。

だが、哲学だの思想だのに深入りしていくうちに、そういう主題からどんどん興味が失せていった。星空に向けられた人類の自意識の投影。それで打ち止めになってしまった。

おもしろいことに、われわれよりもはるかに若い——といっても40代にはなっているのだが——菩提寺の住職は徹底的な現実主義者なのだった。肉体は死んでも魂は生き残る、必ず生まれ変わるのだと主張する従兄に対して、「その生まれ変わった自分とはいつの時点での自分なのですか?」と鋭く反論すると、従兄はややうろたえつつ「死んだ時点での自分かなぁ」と答える。

「それじゃつまらないな。よぼよぼの爺さんがそのまま生まれ変わったって、何にもできないもの」

同感したついでに、わたしも口をはさむ。

「ところでUFOがはるか遠くの惑星からやってきた高度な知的生命体のものだとして、なんの目的があって地球にやってくるんだろう?それだけの知性と科学技術を持っているのなら、さっさと征服してしまえばいいじゃないか」

「いや、彼らは征服することが目的なんじゃない。ただ観察しに来ているんだよ」

「え、観察?」

「うん、おれたち人間も、たとえばさ、蟻の生態を観察したりするじゃない。見ているだけでもおもしろいわけだよ。蟻なんか征服したって仕方ないだろ」

それを聞いて、カウンターに並んだバーの客がどっと笑った。女性バーテンダーも笑った。話が受けたので、従兄はご満悦だった。わたしは何も反論しなかった。そもそもこの種の話題には、基本的には口を出さないと決めているから。

宗教の話をすると友を失うという格言がある。政治の話もダメ、スポーツの話もダメ。巨人が勝っておもしろくない阪神ファンが試合終了と同時にチャンネルを変えようとして流血騒ぎになった居酒屋の話を聞いたことがある。

じつは心密かに、この広い——あるいは無限の——宇宙に生命の宿った星は、この地球だけと思っているのだ。信念というべきか、信条というべきか。UFO信者たちは確率論を持ち出してきて、これだけの星雲、これだけの銀河系があれば、当然のごとく、この太陽系とほぼ同じ条件の恒星とその周囲を回る惑星があるはずだ。そのなかにはとてつもなく高度な文明を持つ生命体が住む惑星があって、かれらの宇宙船は軽々と宇宙の磁場と空間の歪みを超えて、自在に飛び回っているのだ、云々。

そういう話は死ぬほどつまらない。中学生や高校生じゃあるまいし、還暦を過ぎてそういう話を持ち出されると、そんなに人生辛かったのですか、と言いたくなる。

この世にひとりで生まれて、ひとりきりで死んでいく。地球もこの広大な宇宙のなかで孤独に誕生し、孤独に死んでいく。それでいいじゃないかと思う。

朝日に向かって立ち上がり腹をさらすミーアキャット。じっと空を見上げるモアイ像。天空からの眼がなければ見えないナスカの地上絵。それらは言葉がないから美しい。

叔父の住んでいた糠内は今でも真冬には氷点下30度を下ることがある。

そのむかし、帯広でも真冬には氷点下20度以下の朝が1週間以上続いた。−30度も珍しくなかった。

むかし、人に飼われていた猫たちは、死期が近づくとこっそり人目につかないところで死んだ。

死期が近づいたら——そしてまだかろうじて足腰が立つならば——ピート臭のきついウィスキーのボトルなんか片手に凍てついた川岸まで歩いていって、満天の星を見ながら死ねたらいいとは、ときどき思うけれど。

まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を満たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、透明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。

重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして座ったまま、自分の記憶の底深く下りていこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中につっこんだ手、天井の木目のなかに現れる奇怪な顔、それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄し飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向かっていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。(三島由紀夫『美しい星』)