*17 UFOについて

2月の初めに叔父が亡くなった。

母と同年齢で享年86歳。めまいがするというので、世話をしていた娘——つまり、わが従妹——が念のために入院させたところ、食事をうまく嚥下できずに咳き込み、それが原因で亡くなったという。死因は肺炎ということになるが、病の苦しみはなかったらしいから、一昔前なら老衰で済んだだろう。わたしの父のきょうだいは7人いて、父は上から3番目の長男、そのすぐ下の妹が叔父のもとに嫁いだわけだが、すでに数年前に病を得て他界している。

身内だけの小さな通夜の席にいたのは、故人の実弟、長女と次女、その従兄弟(わたしを含めて3人)だけ。4つ年上の従兄はわが親族の菩提寺の住職なのだが、体調が思わしくなく、実質的に住職を務めている息子が読経した。

通夜振る舞いの寿司を食べたあと、従兄弟同士で飲みに出た。思い出話に花を咲かせるためには、年上の従兄が欠かせないのだが、その代わりに読経をつとめた息子が酒席にも同行することになった。自分がまだ生まれていないころの昔話はためになるという。殊勝なことだ。

この叔父叔母に、わたしたち従兄弟はとても可愛がってもらった。家に男の子がいなかったせいもあるだろう。昭和30年代の北海道、十勝は、市内ですら未舗装の道路がほとんどだった。そんな時代に、この叔父は自家用車(ライトバン)とオートバイを所有し、ライフルで狩りをし、豪快に海釣りを楽しんだりしていた。つまり、男子の憧れるものすべてを持っている人だった。

わたしたちが幼かったころ、叔父の一家は十勝平野の奥まったところにある集落に住んでいた。人口は数百といったところではなかったか。この集落の名は糠内(ぬかない)、もちろんアイヌ名に無理やり漢字を当てた地名だ。ここで従兄は空気銃を撃ったり、バイクを乗り回して遊んでいた。彼が撃ち落とした山鳥の剥製が今もわが家に飾ってある(お寺に動物の剥製を置くのはさすがにまずかったのだろう)。

わたしが泳ぎを覚えたのは、叔父の家の裏手を流れる浅い川だった。流れの淀んだところがあって、夏に裸になって水遊びをしているうちに自然に泳げるようになったのだ。石灰岩が剥き出しになっているからか、住民はそのあたりの岸辺を「磨き粉」と呼んでいた。畑を荒らす害獣である野兎を「駆除」すると称する「鉄砲撃ち」に連れて行ってもらったこともあった。ずっしりとした錘ついた釣り糸を遠くまで投げ込むと、浜にどっかりと座りこんで あたり を待つ叔父の傍らで戯れているうちに波に攫われそうになったこともあった。

そんなことを思いつくままに話しているうちに夜も更け、酔いも回ってきた。幼いころの思い出話を肴に酒を飲んでいれば、誰もが自然に少年時代に回帰していく。

同い年で学年はひとつ上の従兄がUFOの話をしだした。ああ、また始まったと思った。この人は酔うと必ずUFOだとか、魂の不滅だとか、そういう話をするのだ。多感な少年時代には、彼と会えば夢中になってそういう話題に興じたものだ。

だが、哲学だの思想だのに深入りしていくうちに、そういう主題からどんどん興味が失せていった。星空に向けられた人類の自意識の投影。それで打ち止めになってしまった。

おもしろいことに、われわれよりもはるかに若い——といっても40代にはなっているのだが——菩提寺の住職は徹底的な現実主義者なのだった。肉体は死んでも魂は生き残る、必ず生まれ変わるのだと主張する従兄に対して、「その生まれ変わった自分とはいつの時点での自分なのですか?」と鋭く反論すると、従兄はややうろたえつつ「死んだ時点での自分かなぁ」と答える。

「それじゃつまらないな。よぼよぼの爺さんがそのまま生まれ変わったって、何にもできないもの」

同感したついでに、わたしも口をはさむ。

「ところでUFOがはるか遠くの惑星からやってきた高度な知的生命体のものだとして、なんの目的があって地球にやってくるんだろう?それだけの知性と科学技術を持っているのなら、さっさと征服してしまえばいいじゃないか」

「いや、彼らは征服することが目的なんじゃない。ただ観察しに来ているんだよ」

「え、観察?」

「うん、おれたち人間も、たとえばさ、蟻の生態を観察したりするじゃない。見ているだけでもおもしろいわけだよ。蟻なんか征服したって仕方ないだろ」

それを聞いて、カウンターに並んだバーの客がどっと笑った。女性バーテンダーも笑った。話が受けたので、従兄はご満悦だった。わたしは何も反論しなかった。そもそもこの種の話題には、基本的には口を出さないと決めているから。

宗教の話をすると友を失うという格言がある。政治の話もダメ、スポーツの話もダメ。巨人が勝っておもしろくない阪神ファンが試合終了と同時にチャンネルを変えようとして流血騒ぎになった居酒屋の話を聞いたことがある。

じつは心密かに、この広い——あるいは無限の——宇宙に生命の宿った星は、この地球だけと思っているのだ。信念というべきか、信条というべきか。UFO信者たちは確率論を持ち出してきて、これだけの星雲、これだけの銀河系があれば、当然のごとく、この太陽系とほぼ同じ条件の恒星とその周囲を回る惑星があるはずだ。そのなかにはとてつもなく高度な文明を持つ生命体が住む惑星があって、かれらの宇宙船は軽々と宇宙の磁場と空間の歪みを超えて、自在に飛び回っているのだ、云々。

そういう話は死ぬほどつまらない。中学生や高校生じゃあるまいし、還暦を過ぎてそういう話を持ち出されると、そんなに人生辛かったのですか、と言いたくなる。

この世にひとりで生まれて、ひとりきりで死んでいく。地球もこの広大な宇宙のなかで孤独に誕生し、孤独に死んでいく。それでいいじゃないかと思う。

朝日に向かって立ち上がり腹をさらすミーアキャット。じっと空を見上げるモアイ像。天空からの眼がなければ見えないナスカの地上絵。それらは言葉がないから美しい。

叔父の住んでいた糠内は今でも真冬には氷点下30度を下ることがある。

そのむかし、帯広でも真冬には氷点下20度以下の朝が1週間以上続いた。−30度も珍しくなかった。

むかし、人に飼われていた猫たちは、死期が近づくとこっそり人目につかないところで死んだ。

死期が近づいたら——そしてまだかろうじて足腰が立つならば——ピート臭のきついウィスキーのボトルなんか片手に凍てついた川岸まで歩いていって、満天の星を見ながら死ねたらいいとは、ときどき思うけれど。

まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を満たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、透明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。

重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして座ったまま、自分の記憶の底深く下りていこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中につっこんだ手、天井の木目のなかに現れる奇怪な顔、それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄し飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向かっていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。(三島由紀夫『美しい星』)