*14 絵に描いたような夢

どうも、東京の娘の住まいから帯広へ帰ろうとしているようである。しかし、いつもと何か勝手が違う。そそくさと荷物をまとめ、家を出るのだが、ここがどこだかわからない。つまり、実際に娘(次女)が住んでいる場所とは違うようなのである。

空港(といっても、羽田かどうかもわからない)へ向かう電車に乗ろうとするのだが、プラットフォームがおかしい。土手のようなところにある。電車がやってくる。それに乗るには土手の傾斜を登っていかなければいけない。そんなバカなと夢のなかのは思っている。

たくさんの乗客が列車に乗りこんでいくのを、は土手の下から見上げている。あれはひょっとしたら空港行きではないのか? でも、今から土手を登っていっても間に合いそうもない。そうこうしているうちに電車は出ていってしまう。

は大きめのショルダーバッグのような、頭陀袋のようなものを引きずりながら土手を登り、プラットフォームに上がる。そこで気づく。しまった。もう一つのバッグを忘れてきた。むしろあっちのほうにたくさん荷物が詰まっているのに。どうりでバッグが軽いと思った。今さら引き返せない。それどころか、飛行機にも間に合いそうにない。そうか、さっきの電車がそうだったのだ。あれに乗れば間に合ったのだ。しかたない。今さら戻るわけにもいかない。とにかく空港には行こう。行けばなんとかなるだろう。

しかし、電車は来ない。あーあ、これじゃ、いつ空港に着くことやら、と溜息をついているうちに、一両編成の電車がやってくる。なんだこれは? と思いつつ、乗りこむと、間もなく次の停車駅に到着する。

今度の駅は、土手の上の駅とはうって変わって、コンクリートで密閉されたようなプラットフォームである。とりあえず降りたはいいが、出口がない。つまり改札口に通じる開口部がどこにもないのである。はプラットフォームに立っている他の乗客にきいてみる。
「この線路はどこに通じているのですか?」
「さあ」

さあってことはあるか。みんなどこに行くのかわからないまま、次の電車が来るのを待っているということか。「私」は駅員らしき制服姿の男にきいてみる。
「次に来る電車はどこに行くのですか?」
「さあ、来てみないとわからないね」

そんなバカな。これじゃ埒が明かない。は閉ざされたプラットフォームのなかをうろうろしはじめる。どこにも出入口はない。ただ湿っぽいコンクリートの壁があるだけ。対面も上部もコンクリートで塞がれている。線路の通り道だけが空いている。はさっき乗ってきた電車の進行方向へ歩き、その向こうに広がっている風景を覗きこむ。

川が見える。かなり大きな川だ。線路はその川に沿って続いているようだ。川の向こうには大きな湖が見える。その大きな湖の奥に白いものが見える。

波だ。風による波ではなく、湖底から湧き上がってくるような波。波はしだいに大きくなって湖面全体を覆い、ついには津波のように膨れあがり、こちらに押し寄せてくる。線路はすでに水没している。

これでは逃げようがないではないか。コンクリートで固められたプラットフォームにまで壁のような波が押し寄せてきたら、もう一巻の終わりだ。

目を覚まさないと、溺れ死ぬぞ。
「絵に描いたような夢」というのは、日本語としておかしいのはわかっているが、昨夜こんな夢を見て、自分で笑ってしまった。まるで、絵に描いたような夢だな、と。

睡眠障害が深刻になりそうである。布団を敷いても、その布団に入りたくない。眠るのが怖いというわけではないし、寝てはいけないと思っているわけでもない。寝ることに対する嫌悪感のようなものがある。しかし、12時を過ぎれば寝たほうがいいと思う。次の朝、どうせ6時には目が覚めるのだから。

で、とりあえず、布団をかぶる。寝付きは悪くない。しかし、2時、3時に目が覚めてしまう。あまりに冴え冴えとすると、頭に来て仕事を始めることもある。そのまま布団のなかにいて、また眠れることもある。しかし、5時、6時になれば、飼い猫のシマが餌をくれと起こしにくる。

一日中、熟眠感のないまま過ごすことになる。昼寝も妙に深いので、目覚めると疲労感が残っている。

原因はわかっている。今、やっている翻訳が「病気」なのだ。これが終わるまではこの睡眠障害に悩まされることになるだろう。しかし、数ヵ月で終わる仕事ではないのだ。2年、いや3年はかかるだろう。

やれやれ、先が思いやられる。

*13 パスカル・キニャールとマニエリスム(3)

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって(承前)

 

シュノーニュの故郷ベルクハイムはヴュルテンベルク地方の片田舎にある。この町の丘の上にはプロテスタント教会があり、ふもとにはカトリック教会がある。アウグスブルグの宗教和議の妥協がそのまま町の構造をなしているというわけである。だがじつは、このベルクハイムは架空の町である。作者は小説のなかで、ベルクハイムという町が三つあり、一つはフランスのアルザス地方、あとの二つはドイツの、エルフト川とヤクスト川のほとりにあると書いているが、ヤクスト川のほとりにベルクハイムという町は存在していない(これについては著者に直接確かめた)。さて、その架空の町のカトリック教会はどのように描写されているか。

 

町の下のほうにある教会は——そこにわが家の寄進したオルガンがあったわけだが——、とても美しいと同時にとても醜く、ちぐはぐな建物だった。外陣は13世紀のポワトゥー様式で、これに——たぶんパリの工房が施工したものだろうが——20メートルほどの小さな周歩廊がくっついていた。正面は19世紀のもの——つまりルイ16世様式だった。  入ってすぐ左手には、陰惨で見るからにサディスティックな大きな画布——辱めを受けたキリスト、子供の私はこの絵におびえたものだった——がかけられていた。実を言うと、この絵の前にはイグナーツ・ギュンターの、あのとほうもなく美しくみだらなマニエリスム調のバテシバ像が置いてある。

 

ベルクハイムが架空の町である以上、その教会も架空であり、その教会にある「マニエリスム調のバテシバ像」も架空である。あるいは、作者がどこか別の町の教会か美術館で見たギュンターの作品を遊び心で拝借したのかもしれない。だが、ここで重要なのは、この「とても美しいと同時にとても醜く、ちぐはぐな」教会が、主人公の幼年期の分裂した心象風景そのものであり、ある意味ではデフォルメされ、ミニチュア化されたヨーロッパの自画像だということである。この教会にはロマネスク的、ゴシック的なものと19世紀的なものが混在している。しかも、町にはカトリック教会とプロテスタント教会が同時に存在している。それはヨーロッパの町にあって珍しい光景ではない。いまだにヨーロッパはかつての宗教対立の遺制を生きている。戦後のイデオロギー対立の構図もまた、おそらくその「繰り返し」なのだ。この作品でキニャールはたびたび「繰り返し」という言葉を使っているが、歴史は繰り返すなどという呑気なことを言っているのではない。ヨーロッパの政治支配とその心理的抑圧のパターンを「繰り返し」と呼んでいるのである。彼は昨年3月に刊行された『性と畏怖』(註12)のなかで、そのパターンの出発点が共和政ローマから帝政ローマへの転換とそのイデオロギーとしてのキリスト教の成立にあることをローマ人の性意識から解きほぐし、次のように言っている。

 

ローマ世界を帝政に改造した56年間のアウグストゥスの治世に、ギリシア人の嬉々として精緻なエロティシズムは畏怖をともなう憂愁に変化した。この移行はたった30年ほどで成し遂げられたにもかかわらず(前18−後14年)、今もなお私たちを包みこみ、私たちのパッションを支配している。キリスト教はこの変容のひとつの帰結でしかない。

 

フリートレンダーと並んでマニエリスム研究に大きく貢献したドボルシャックの師アイロス・リーグルは、それまでギリシア美術の衰退あるいは野蛮化として省みられなかった後期ローマ美術に固有の美的価値を認め、近代の主観主義的な無限空間の把握の端緒が、キリスト教の影響を受けたローマ末期の美術にあることを指摘している(註13)。キニャールもまた、帝政ローマのポルノグラフィックな壁画と静物画を集めた『性と畏怖』というこの作品のなかで、人間存在の死角を見つめているかのようなローマ人の「平行の視線」に注目し、「ギリシア人の嬉々として精緻なエロティシズム」から「ローマ人の畏怖をともなう憂愁」への変化を見つめている。キニャールの方法論からすれば、その移行はルネサンスからマニエリスム・バロックへの移行とパラレルであり、その底にも性意識の変質が流れているということになろう。それは言うまでもなく、プロテスタンティズムの屈折した性意識の問題である。そしてこの性意識のパターンは——ここでは詳しく論拠を展開することはできないが——コミュニズムあるいはマルキシズムにも受け継がれているはずである。その抑圧された感情は『ヴュルテンベルクのサロン』では徹底的な故意の言い落とし(レチサンス)によってあぶりだされているというのが、私の個人的解釈である。

この小説は、1963年3月の「私」とセヌセの出会いから始まり、作品刊行と同じ年の1986年に終わる。物語は、その二人の友人とイザベルの三角関係、そしてその関係が破綻した後の「私」の女性遍歴に終始する。「私」は「濃い赤の隆起なめし革で装丁された、まるで司教の祭服のような小さな手帳」に日記をつけているという想定になっているが、政治的事件のことはまったく記されていない。たとえば68年5月についてもナデイダ・レフという歌手との出会いのことしか書かれておらず、「思い起こせば、70年代は猛勉強と試験で明け暮れた日のようだった。私は心の底で、68年の5月と6月を惜しみ、ナデイダのほっと一息つける肉体に出会ったこと」を懐かしむだけである。小説の終結部では、「私」が古い友人と再会するシーンが唐突に挿入されている。

 

「憶えているだろ」と彼は言った。「豚箱での十日間をさ!」  私は投獄されたことなど一度もなかった。鉄格子の向こう側に入ったこともない。吹聴できるような苦労話はいっさいない。

 

 

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図4.ヴァン・デル・ウェイデン「婦人像」

パスカル・キニャールの作品の特徴は、ユダヤ・キリスト教的倫理観のしがらみを断ち切り、エロスの全面的な解放を求めながらも、禁欲的な姿勢を崩さないところにある。これはもっぱら彼の資質によるものなのだろうが、同時に、心理的抑圧装置としての役割を果たしながらも、その内部および周辺におびただしいエロスと美を取りこんできたキリスト教文化の豊かさを抜きにしては語ることはできないだろう。だがこの豊かさはそもそも矛盾に満ちている。ユダヤ教および初期キリスト教の理念に従うならば、あらゆる偶像は否定されるべきである。だが、偶像崇拝を禁じるビザンチン教会においてさえ、あの美しいイコンまでは否定できなかった。あるいは、神の子イエスの死があれほどまでに官能的に、ときにはグロテスクなまでリアルに描かれるのはなぜなのか。あるいは教会に響く暗闇の朝課(ルソン・ド・テネブル)がときに異様なほど蠱惑的なのはなぜなのか。素朴な目と耳でキリスト教芸術に接するとき、私たち「異教徒」が受ける不思議な感動は、じつはパスカル・キニャールの作品を読むときの感動にそのままつながると言っていい。

最後に、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーに所蔵されているヴァン・デル・ウェイデンの〈婦人像〉を掲げておこう(図4)。小説の話者シュノーニュは、1978年5月のある夜、音楽学校を出たところで、8年前にともにレコーディングしたことのあるジャンヌという女性ヴァイオリニストに出会い、夜をともにする。

 

彼女はみごとに老けていた。ウールの長いコートを着て、手にはレッスン用の小型ヴァイオリンを持っていた。クラーナハの肖像画のようでもあったが、むしろ——顔は苦しげで——、しかめた目がヴァン・デル・ウェイデンの描いたマリー=マドレーヌの目そっくりで、ウェストは細く、胸は豊かで引き締まり、悲劇的で青い目をしていた。

 

ヴァン・デル・ウェイデンのこの肖像画のモデルは、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの庶子マリー・ド・ヴァランジャンではないかと推測されているらしいが、ここでは考証的事実はどうでもいい。この女性が内部に湛えている静謐な官能性を形容する言葉を私は知らない。「私」は、ジャンヌの肉体について次のように言う。

 

クラーナハ、ヴァン・デル・ウェイデン、これらの名前を通じて私が示したかったのは顔の表情ではなく、ある色だった。年齢によっておそらく肌は衰え、首筋や胸もゆるやかに生気を失っていたことはたしかだが、同時に年齢に洗われることによって、あの軽いバラ色、とても稠密で、とても透明な磁器のような色が強調されているかのようだった——あるいはむしろ、私はいつもそれらの肉体に、たぶんすでに失われた官能性を、きわめて鮮烈だが、ピューリタン的に抑えられたままの荒々しさ、みだらなものを想像してきたとも言える。

 

このプルースト的な、あからさまにマニエリスティックな文体はこの小説の基調をなすものである。だが、この小説はけっして饒舌ではない。形容と比喩を何重にも重ねる言葉の底につねに重い沈黙の通奏低音が流れている。それは作家がこの作品をみずからに課した責務のようなものとして、あるいは見えない敵に対する戦いのようなものとして書いていることに由来しているように思える。そして、作者がその作品にさりげなく忍ばせた絵画——たとえば、ここにあげたヴァン・デル・ウェイデンの作品——をじっと見つめていると、彼が本当に愛しているのは、歴史の僥倖から生まれたかのような盛期ルネッサンスの作品でもなければ、歴史のはざまで叫び声をあげているマニエリストのエキセントリックな作品でもなく、むしろ15世紀のフランドル絵画やバロック時代の小さな静謐な作品であることが実感されてくる。

いかにもひやりとした広い額とぽってりと厚く柔らかい唇の対比、きわめて知的だが熱い情念を奥に秘めている瞳、頭を覆う透けた白布と胸元の簡素な装飾。このヴァン・デル・ウェイデンの婦人像は、フォンテーヌブロー派の装飾過多のエロティシズムよりもじつははるかに官能的で豪奢な要素を内部に湛えているように思われる。それは冒頭にあげたボージャンの静物画がそうであるように、人間がこの世に存在することの根本的な矛盾が、自信にあふれた画家の手(マニエラ)とそれを抑制する意志力との均衡からごく自然ににじみでているからだろう。

『ヴュルテンベルクのサロン』は官能小説である。人間にとって官能とは何かを問うという意味で官能小説である。

 

ジャンヌとともに暮らした数年を振り返るとき、私には、愛よりはむしろ欲望がもたらす感覚だけがたしかな価値を持っているように思えてくる。たとえそれがあまり長続きせず、あまり失望が大きく、忘れ去られやすいように見えたとしても。快楽(ヴオリユプテ)は宇宙のはるかかなたで光を放つ星のようなものだが、その輝きは、天空全体の広がりのなかでほんのわずかの面積しか占めていないくせに、全人生をしびれさせ、導く。

 

宗教=思想は永遠の生を希うが、芸術は一瞬の官能の炎に永遠を見る。ヨーロッパのすぐれた芸術の魅力はこの相容れない二つのベクトルの交錯にある。パスカル・キニャールがこの「文化的な伝統に首までつかった」作家であることだけは否定しがたい。(了)

 


(12)Le sexe et l’effroi, Gallimard,1994 (前出『ユリイカ』1994年11月号の『理性』の解題を参照されたい)
(13)前出『マニエリスムとバロックの成立』の「訳者あとがき」およびマクス・ドヴォルシャック『精神史としての美術史」(中村茂夫訳、 岩崎美術社)の「解説」に基づく。

*12 パスカル・キニャールとマニエリスム(2)

 

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって(承前)

 

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図3. バルドゥンク・グリーン「ノイブルク伯フィリップ」

しかし、フリートレンダーとハウザーの著作は対照的だが、それらを読み進めていくうちにおのずと浮かび上がってくるマニエリスムについてのイメージはたしかにある。それは一方向への突出というイメージである。

マニエリスムの典型的な画家として、たとえばポントルモ、ティントレット、エル・グレコ、あるいはフォンテーヌブロー派の作品がよく引き合いに出されるが、一見するとこれらの画家・画派の作品はひとつの様式には当てはめられないのではないかと思えるほど個性的である。それがわずかな時代差によるものなのか、それとも地域差、あるいは画家の個性に帰されるべきものなのかはともかくとして、これらの画家たちは様式上の共通項でくくるよりは、それぞれがある方向へべクトルを突出させているという、その突出感に共通性があるとしたほうがわかりやすいのではなかろうか。たとえば、精神性の、宗教性の、エロスの、アレゴリーの、色彩の突出といったように。それは少なくとも盛期ルネサンスの古典主義的な作品にも、バロック期の自然主義的な作品にも見られない性質であると思える。だが、このような突出はなぜ生じるのか。

ハウザーのマニエリスム論は、マニエリスムがルネサンスとバロックの間の過渡期の様式であるよりも、マニエリスムとバロックが決定的に対立する様式であり、概念であることを強調している。そしてマニエリスムとバロックがじつは同時発生したものであり、盛期ルネサンスにおいてほんのしばらく均衡を保っていたが、やがて「知的な国際的エリートたちの芸術上の表現」であり「より複雑で、繊細で、排他的な」マニエリスムが支配的傾向となり、最終的には「民衆的で、主情的で、どの民族にも迎えられるような」バロックがこれに取って代わったと説く。この一見独断的な論法は、しかし、形式上の純粋な美しさを体現する古典主義様式が本来はかないものであり、「はじめから、ひとつの夢であり、望みであり、ユートピア」にすぎないというハウザーの前提をよく吟味してみるとき、説得力をもつ。

たとえば、素朴な目でイタリア盛期ルネサンスの傑作と呼ばれるレオナルドの〈最後の晩餐〉、ラファエロの一連の〈聖母子像〉、ミケランジェロの初期の〈ピエタ〉を見るとき、私たちはこれらの作品のあまりに完璧に均衡のとれた美しさに、人間の大地から生まれた作品であるというよりも、どこか別の星から降ってきたのではあるまいかという印象さえ受ける。あるいは社会的な束縛をいっさい知らない理想的な青春というイメージ。事実、これらの作品はすべてキリスト教的主題に基づきながら、完璧に異教徒的=ギリシア的であり、福音書の倫理性からはこのような理想的に調和のとれた作品が生まれないことは歴然としている。聖書のテクストから生まれる画像としては、ジオットの祭壇画やティントレットの劇的な〈最後の晩餐〉のほうがはるかに自然だろう。レオナルドの〈最後の晩餐〉はあまりに静的で、二次元の平面に無限の奥行をつくりだす画家の圧倒的な技量と知性だけが光っている。ラファエロや初期のミケランジェロが描く女性にしても、心身の成熟の絶頂にあって、いつでも母となれる条件を備えながら、母であることの重みから解放されている、女性がもっとも美しく輝くつかのまの一時期を「処女懐胎」という聖書の主題を自由に飛躍させて描いているという印象を受ける。

このイタリア・ルネサンスのどこにも属さない、いわば無臭の美的世界はおそらく歴史のエアポケットからしか生まれないだろう。すなわち、ヨーロッパ中世がローマ帝国の遺制から抜け出し、いゆる絶対王政を確立する過渡期と、勃興する民衆のエネルギーがローマ・カトリックの枠からはみだし、各国のプロテスタンティズムに吸収されていく二重の過渡期にあって、メディチ家を初めとする世俗の金融資本家によって保護されていたのがイタリア・ルネサンスの芸術だとすれば、マニエリスムの突出性は、ヨーロッパが歴史の幸福な空白期のようなルネサンスを経て、真にヨーロッパ的な肉体を備えていく過程でのきしみのように思われる。1510年、マルチン・ルターはローマを訪れ、「キリスト教的主題と異教的主題が奇怪千万な調和をなして混在しているラファエロ」が聖書研究と等価に見られているのに慣概してドイツに帰るが、結局、彼は教皇レオによって破門される。これが、1527年に多くのルター派の兵士を含む神聖ローマ皇帝軍によってカトリックの総本山であるローマが蹂躪される「ローマ略奪(サッコ・デイ・ローマ)」につながってゆくのはじつに象徴的である(註9)。

パスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』もまた、このような危機ときしみの構造を内部に備えている。キニャールの本来的な文体の特徴はジャンセニスト的な禁欲と簡素さにあるが、この作品ではそういった抑圧をあえて解除し、レトリックの遊び、アレゴリーの過剰、細部の誇張、倫理的分裂をいたるところで噴出させている。彼はこの小説を書くことで「羊水のようなものを獲得し」、小説に対する恐れを払拭したと述べている(註10)。これは、彼が小説家としての肉体を獲得したということと同義だろう。この作品の全体的基調がバロックであるか、マニエリスムであるかについては読者の判断にまかせることにするが、少なくともその細部にはマニエリスティックな要素がふんだんに含まれている。

この小説の主人公の親友フロラン・セヌセは、国立古文書学校の卒業生で、ギリシア・ローマの古典語に通暁し、美術館の学芸員のポストを求めている人物として登場する。彼の「生涯唯一の情熱はボンボン」であり、童歌の蒐集家でもある。彼の容姿は決のように描写されている。

 

彼はひょろっと背の高い男だった。フィリップ辺境伯——少なくともミュンヘンにあるバルドゥンク・グリーンが描いた肖像——に似ていたが、それよりずっと美しく、髪は栗色、顔は同じようにいびつで、目は大きく熱っぽく、きらきら輝いていた。

 

ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあるこの肖像画(図3)は〈ノイブルク伯フィリップ〉と呼ばれ、画家のフライブルク滞在中(1512−17)に同市の大学に遊学していた14歳の公子を描いたものだというが、クラーナハがそうであるように、きわめてマニエリスティックな雰囲気をもつ作品である。陶器のなめらかな釉{うわぐすり}ような肌合い、赤い帽子と瀟洒なアクセサリー、肩にまいた毛皮のショール。このフィリップに似ているというセヌセは、この小説のなかでもっともマニエリスティックで危うい人物として描かれている。この作品の冒頭を飾るセメセの部屋の描写は異常なまでに人工的である。その広い部屋の壁は薔薇色で、英国製の銅のレールから垂れ下がる青いカーテンは「大時代がかったドレープ」をつくり、その中央には黒っぽい大きなテーブルが置かれている。その上にセヌセは辞書を開いたままにしたり、何冊もの本を積み重ね、色とりどりの吸取紙や色鉛筆を並べている。しかも、それをでたらめに散らかしているのではなく、入念に演出していた……。彼は話者のシュノーニュに向かってこう言う。

 

「儀式にほんの小さな傷が入っただけで、星が落ちてくる」。そこで私が、そもそもきみの生きている世界は確固としたものではなさそうだね、と指摘すると、「人間は宇宙ほど確固としたものではない」と答えた。そして、しどろもどろになってこう言った。「文明は人間ほど確固としたものではない。ぼくの人生は小さな文明さ。そして文明は脆いものなんだ」

 

ここで私たちは、マニエリスムが「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であるというハウザーの定義に「脆さ」の要素を付け加えてもよいかもしれない。

バルドゥンク・グリーンはデューラー、クラーナハなどと並んで16世紀ドイツを代表する画家とされるが、ここでキニャールがこの画家を持ち出しているのは、たんに登場人物の外形描写を補強するためだけでなく、バルドゥンクがシュヴァーベン地方の出身であり、そこが主人公のシュノーニュの故郷であることも関係している。事実、この作品にはシュヴァーベン地方やアルザス・ロレーヌ地方、すなわち独仏国境沿いの地方に関係した作家・画家がおびただしく登場する。その端的な例は、小説の冒頭に引用されているグリンメルスハウゼンであり、本文中に何度も登場するヴィーラントであり、ヴュルテンベルクで活躍したフランスの二人の建築家フィリップ・ド・ラ・ゲピエールおよびニコラ・ド・ピガージュであり、エミール・ガレのガラス器である。キニャールの父方の家系はアルザス地方の出身であり、ドイツとフランスにはキニャールという名のオルガン奏者が百人以上存在するという(註11)。彼はその「存在証明」をしたかったのかもしれないと語っているが、おそらくその「存在証明」とはフランスとドイツという近代国家成立の過程で分裂した自我の存在証明でもあっただろう。それは古文書研究家のセヌセと音楽家の主人公シュノーニュという、明らかに作者自身を投影させた二人の分身の描き方に端的に表れている。(つづく

 



(9)クリストファー・ヒバート『ローマ——ある都市の伝記」(横山徳爾訳、朝日選書)
(10)Le Monde des livres, le 3 août 1986.
(11)前出『中央公論文芸特集』

*11 パスカル・キニャールとマニエリスム(1)

 

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって

 

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図1.ボージャンのゴーフレット

図1にあげたのは、『世界のすべての朝』(註1)に登場するボージャンの〈ゴーフレット〉である。ボージャンという画家については、この小説の主人公のガンバ奏者サント・コロンブと同じように、17世紀中葉に活躍した画家ということ以外、伝記的詳細がつかめず、A・ボージャンとL・ボージャンという二人の画家がいたのか、それともこの二人が同一人物だったのかもはっきりしていない。パスカル・キニャールはこの小説のなかで、伝記的事実のはっきりしないこの画家に「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」と語らせている。キニャールはこの小説の刊行と同じ年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールについてのエッセイ(註2)も書いているから、ほぼ同時代を生きたこの二人の画家のイメージを小説の肉付けのために重ね合わせたものと思われる。

ラ・トゥールの〈マグダラのマリア〉(図2)は、この世の「はかなさ(ウァニタス)」を寓意とするフランス初期バロックの代表作と言われているが、ボージャンの〈ゴーフレット〉もまた、ウァニタスを寓意として描いた同時代の典型的な作品であり、双方ともその静寂の奥に潜む異様な緊迫感によって観る者を画布の前に釘付けにしてしまう作品である。

触れただけで壊れてしまいそうな華著なグラスと、それに注がれているいかにも糖度の高そうな茶色がかった赤ワイン。冷たく鈍い光をはなつ錫の盆と、その上に載せられた鋭利な剃刀のようなゴーフレット。死の底のイメージを喚起する青いテープルクロス。こもかぶりのどっしりとしたワインの瓶。ここには安定と不安定、日常と非日常、自然さと不自然的さが同居し、いかにも単純な遠近法で画面が構成されているかのように見えて、細部をよく注視すると遠近法がわずかに歪んでいて(たとえばグラス、錫の盆)、鑑賞者に軽い目眩を感じさせる。この緊張感はバロック絵画に特有の性質なのだろうか。それともマニエリスムから受け継がれた特徴なのだろうか。あるいは優れた作品に普遍的に内在する特徴と言うべきなのだろうか。

 

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図2 ラ・トゥール「マグダラのマリア」

アーノルド・ハウザーの『マニエリスム』(註3)を読むと、これまで私が漠然と「バロック的」と考えてきた要素・性質の大半が「マニエリスム的」なものに取り込まれているので、正直言って、頭が混乱してくる。とりわけマニエリスムの概念を文学にも応用し、モンテーニュもパスカルもシェークスピアもマニエリスムであるとなると、ほとんどついていけない。だが、ハウザーのきわめて拡張されたマニエリスムの概念は一方で魅力的であることも事実である。彼は、バロックの本質的性格を「主観主義、過剰と豊饒」にのみ求めることは片手落ちであり、「より広範な階層の公衆に訴えるための感情的に決定された一つの芸術傾向」であるという根本的要因を見落としてはならないと説く。これに対してマニエリスムは「本質的にある排他的な知的及び社会的基盤の上に成立つ精神的運動」であると言い、「バロックが比較的自発的で簡素であるのに対して」、マニエリスムは「より文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であると述べている。

かりにハウザーの見解に従うとするならば、ここでその魅力の一端を紹介しようとするパスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』(註4)は完全にマニエリスティックな作品だと言える。この小説が「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした」作品であることは歴然としているからである。彼がこれほどマニエリスティックな傾向を突出させたのはこの小説だけである。89年に上梓された『シャンボールの階段』(註5)はがらりと傾向を変えて軽快な文体を用いているし、他の多くの作品——たとえば『世界のすべての朝』や『理性』(註6)——においては「自発的で簡素」な美しさにあふれているからである。ハウザーが言うように、バロックとマニエリスムがある局面で対立するものであるならば、本質的にバロッキストである作家——彼自身が『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』のなかで使っている表現を借りれば、ジャンセニスト的バロックの作家——がなぜマニエリスティックな作品を書いたのかという疑問が当然起こってくる。キニャールはあるインタヴューで次のように語っている。


(『ヴュルテンベルクのサロン』を書いたひとつの理由には)ガリマール社の出版選考委員の仕事もかなり関係あると思います。私を信頼して作品を託してくれた作家たちの作品を読み、彼らに、もう構造主義だとか何だとか、そういう理論の時代は終わった、登場人物のない小説とか、何がない小説とか、制約をつけてものを書かなければならない時代は終わった[中略]、そう70年代は終わった。社会を縛っていた規範は消えた。だから、やりたいことをやらなくてはいけない。そういうアドバイスを与えていて、自分自身から実行に移さなくては、と感じていたのかもしれません(註7)。

 

ここで「登場人物のない小説とか、何がない小説」と言われているのはおそらく、かつてヌーヴォー・ロマンとかアンチ・ロマンなどと呼ばれた一群の作品、あるいはその亜流の作品のことだろう。なぜ70年代全般を通じてフランスの小説は痩せてしまったのか? この問いに対する答えのひとつとして、いわゆる東西の冷戦対立の構造が行きつくところまで行ったにもかかわらず、あいかわらずその遺制が作家の感受性を支配していたということがあげられるだろう。それは言うまでもなく全世界的なものだった。ベトナム戦争の泥沼化、68年のプラハの事件、パリにおける5月危機、そして東京では「全共闘」の騒乱と三島由紀夫の自決。アメリカ的な資本主義が理想だとは誰も思えず、既成の社会主義には絶望し、かといって単純なナショナリズムに回帰することもできない。もちろん作家たちはイデオロギーに依拠して作品をつくるわけではない。だが作家の感受性と政治的イデオロギーの関係はもつれた糸のようにどこかでつながっているし、少なくとも時代感情を反映していることはたしかだろう。そこで作家たちは、言葉の技法(マニエラ)とスタイルの洗練というきわめて知的に統御された作品を構築し、やがてその繰り返しは痩せ細っていく……。ヴァルター・フリートレンダーは『マニエリスムとバロックの成立』(註8)のなかで次のように言っている。

 

(本来的なマニエリスムの)精神主義は、原始主義(プリミティヴィズム)と空間的形体的抽象を通して、内容を深めることを求めていた。それは単なる文学上の、理論上の反対運動ではなかった。客観性の手段による、単純に実際的作品による反抗であった。このやり方は、もっともよく芸術的感情の変換を示すものだ。しかし、本当の敵はすでに述べたような習慣的手法に陥ったマニエリスムだった。その精神面にさえ及ぶ浅薄さに対して、1580年頃の変革の鋒先が向けられたのである。その新しい運動の攻撃目標は、形体の堕落を救い、同様に精神的なものが、単なる遊びやアレゴリーに堕落しているものを救うことにあった。(強調筆者)

 

この一節から、きわめてマニエリスティックな『ヴュルテンベルク』の真の敵がじつはヌーヴォー・ロマン風の無意識的なマニエリスムにあったことを指摘するのはいささか無理があるが、引用の目的はむしろ、マニエリスムという様式がルネサンスとバロックの狭間にあって、一筋縄ではとらえきれないものであることをここで再確認することにある。すなわち、この一節は美術史においてマニエリスムという概念を初めて侮蔑的な呼称の枠から解放し、バロックという概念からも自立させる契機をつくった記念碑的宣言なのだろうが、それと同時に、「精神主義的なマニエリスム」と「習慣的手法に陥ったマニエリスム(=マンネリズム)」を対立させることによって、反マニエリスム的な画家が真のマニエリストであるという同語反復的な矛盾をきたしているように思えるからである。事実、その同語反復的な矛盾は前述のハウザーにも受け継がれている。すなわち、バロックという概念の濫用を諫めるために、みずからマニエリスムという概念を濫用しているという矛盾である。ようするにバロックという概念がそうであるように、マニエリスムという概念もまた、それを使う人の数と同じだけの定義があるのかもしれない。(つづく

 


(1)Tous les matins du monde, Galimard, 1991 (邦題『めぐり逢う朝」、拙訳、早川書房)
(2)Georges de LaTour, Flohic, 1991
(3)アーノルド・ハウザー『マニエリスム』(若桑みどり訳、岩崎美術社)
(4)Le salon du Wurtemberg, Galimard,1986 (拙訳、早川書房)
(5)Les escaliers de Chambord, Galimard,1989 (拙訳、早川書房)
(6)Le Raison, Le Promeneur/Quai Voltaire,1990 (拙訳、青土社『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』に所収)
(7)『中央公論文芸特集』1994年春季号(インタビュー・訳/浅野素女)
(8)ヴァルター・フリートレンダー『マニエリスムとバロックの成立』 (斎藤稔訳、岩崎美術社)

*10 Pascal Quignard : la Littérature à son Orient

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Chères participantes et chers participants,

J’ai un peu gêné d’être invité à une telle réunion académique. Car je suis un simple traducteur, non pas universitaire, ni chercheur littéraire. Le traducteur travaille à trop de proximité de l’auteur pour en parler à correcte distance. J’ai donc choisi de faire la lecture d’un texte de l’auteur que j’ai traduit. J’aimerais par ailleurs que l’auteur puisse ainsi avoir l’occasion d’entendre comment résonner son propre texte dans la langue japonaise. Ce texte est un très court roman intitulé “La Raison” paru en 1990 chez le Promeneur/Quai Voltaire. Avant la lecture, permettez-moi d’expliquer un peu la raison pour laquelle j’ai choisi cet ouvrage. Le plus simple raison en est que j’aime le mieux ce roman parmi les chef-d’ouvres quignardiens, mais en même temps je pense personnellement que c’est une oeuvre qu’on pourrait qualifier de “cinquième évangile selon Pascal Quignard”. Vous pourriez en trouver un bon argument dans le neuvième chapitre du roman. Je ne le lirai pas aujourd’hui, au lieu de cela je voudrais vous confier un souvenir qui m’est très cher.

Il s’agit de la deuxième rencontre avec l’auteur, ça fait déjà une quinzaine d’anneés. Je lui ai rendu visite dans son appartement parisien, plein de questions concernant “La haine de la musique” que j’étais en train de traduire. Si je me souviens bien, on est arrivé par hasard au christianisme, et j’ai osé lui demander: “Dans un sens, la Légende dorée de Jacques de Voragine est-elle plus riche que le Nouveau Testament?” Il m’a répondu immédiatement: “Dans un sens oui, mais je pense que la Bible est le plus beau livre du monde”. Je me suis tu. Je me taisais parce que j’avais honte de mon impertinence, mais aussi parce que j’étais et je suis tout à fait d’accord avec ce qu’il m’a dit. Moi, n’étant pas capable de dire la même chose, je peux cependant affirmer sans hésitation que c’est le livre qui a changé ma vie, mon destin. Je ne suis pas chrétien, mais si je n’aurais pas rencontré à la fin de mon adolescence un ami qui m’avais introduit dans le monde bibilique, il n’y aurait ni ce que je suis à présent, ni mon métier de traduction, je n’aurais donc pas traduit d’aussi nombreux livres de Pascal Quignard.

J’ai vu pour la première fois le nom de l’auteur, lors de la traduction d’un livre dit “L’écriture, mémoire des hommes” contenu dans la collection “Découvertes Gallimard”. J’y ai littéralement découvert un petit mais merveilleux texte intitulé “Jésus baissé pour écrire”. Comme tout le monde le sait, c’est un des essais recueillis dans les huit tômes des “Petits traités”, qui apporte une nouvelle lumière dans la célèbre scène se déroulant au huitième chapitre de l’Evangile selon Saint Jean, c’est à dire cette scène où Jésus dit envers les scribes et les pharisients qui mênent la femme adultère auprès de lui, ”Que celui de vous qui est sans pêché lui jette la première pierre”. Pascal Quignard n’interplète jamais comme théologien ce qu’il dit Jésus-Christ, mais ce qu’il fait. Il parle d’un geste de Jésus qui, ayant dit cela, se baisse de nouveau pour écrire l’on ne sait quoi. Il dit:

“Ecrire est ici noté comme un acte qui isole du monde ambiant, une sorte de fissure et d’anfractuisité dans le monde oral. Plus psycologiquement: un retrait un peu arrogant et très affecté. Celui qui écrit se tait, et son silence met en évidence son désintérêt, à la limite de la désapprobation ou du mépris.”

Cette phrase nous évoque non seulement l’image de l’auteur lui-même qui est devenu un nouveau solitaire contemporain en se retaitant dans un monde de lecture et d’écriture, mais aussi la particuralité de l’Evangile de Jean, dont la source est différente des autres Evangiles synoptiques, tout en soulignant un simple geste de Jésus. J’étais profondément touché, mais très loin d’imaginer que je traduiserais un jour un auteur tellement littéraire et intellectuel.

Voilà, je n’ai plus rien à dire, je commence à lire “La Raison”.

(A la Maison franco-japonaise de Tokyo, le 17 novembre 2013)

*9 パスカル・キニャール国際シンポジウムでの挨拶

tokyo  ©  B Gorrillot 314

参加者のみなさん、

このようなアカデミックな場所に招かれて、多少場違いな思いをしております。というのも私はたんなる翻訳家であって、大学人でも文学研究者でもないからです。翻訳者は著者にとても近い位置で仕事をしますので、著者に対して距離を置き、客観的に語ることがむずかしい立場にあります。そこで私は自分が日本語に翻訳したテクストをこの場で読み上げることにしました。日本語になった自分の作品がどんな響きを持っているのか、著者にその耳で確かめていただければという思いもあります。選んだ作品は『理性』と題された短い小説です。朗読に入る前に、なぜこの作品を選んだのか、少し説明させていただきます。そのごく単純な理由は、パスカル・キニャール全作品のなかで、この小説がいちばん好きだからということになりますが、同時に、個人的に、この作品は「パスカル・キニャールによる(第五の)福音書」と呼んでいいのではないかと思っているからです。その根拠は、この本の第九章に求めることができますが、今日その箇所は読みません。その代わり、ある思い出をお話ししたいと思います。

著者とパリのアパルトマンでお会いしたときのことです。お会いするのはそれが二回目で、もう十五年も前のことです。そのとき私は『音楽への憎しみ』という本を訳しており、山ほどの質問を抱えて彼の自宅を訪れたのでした。たまたま話題が聖書のことに及びました。私の記憶が確かなら、そのとき私は「ある意味では、新約聖書よりもヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』のほうが豊かなのではないですか?」と著者に問いかけたのです。すると彼は即座に「ある意味ではそうだ。しかし、私は聖書を世界でもっとも美しい書物だと思っている」と答えたのです。私は絶句しました。自分の軽率を恥じたということもありますが、彼の発言にまったく同感だったからです。今もその思いは変わりません。私には、聖書を「世界でもっとも美しい本」と言うことはできません。しかし「私の運命を変えた本」と言うことはできます。私はキリスト教徒ではありません。しかし、十代の終わりに聖書の世界に引き入れてくれたひとりの友と出会わなければ、今の私も、翻訳という職業もなく、この著者の作品をかくも多く翻訳することもなかったであろうと思われます。

パスカル・キニャールという作家の名前を初めて目にしたのは、日本版では「知の再発見叢書」と題された叢書に含まれている『文字の歴史』という巻を翻訳したときでした。その本のなかで「身をかがめて文字を書くイエス」というテクストを私は文字どおり発見したのです。ご存じのように、このテクストは『プチ・トレテ』という全八巻の大作のなかに含まれている一篇で、ヨハネ福音書の第八章に描かれている、あの有名な場面に新たな光を当てるエッセイです。あの有名な場面というのは、すなわち、姦淫の罪を犯した女を引き連れてきたパリサイ派の人々や律法学者に向かって、イエス・キリストが「あなたがたのうち罪を犯したことのない者が最初にこの女に石を投げつけるがいい」と言い放つ場面です。パスカル・キニャールは神学者のようにはイエスの言葉を解釈しようとはしません。そうではなく、語り終えたあとに、また身をかがめて文字を書くイエスの行為について語るのです。

「ここでは、書くことは周囲の世界から孤立した行為として描かれている。それはあたかも話し言葉の世界の亀裂であり、くぼみのようである。心理学的に言うなら、どこか傲慢でわざとらしい拒絶の姿勢でもある。ものを書く人は黙っている。この沈黙はあきらかに無関心を示す。極端な場合には否認と軽蔑のしるしでもある」。

この部分を読むと、読むことと書くことの世界に引きこもり、現代の隠者となった著者自身の姿を彷彿とさせるだけでなく、ヨハネ福音書の、他の三つの共感福音書とは由来の異なる特徴をイエスの身振りを強調するだけで言い当てているように思えます。私はこの文章を読んで深く心揺り動かされましたが、この時点ではまさかこういう知的で文学的な作家の作品を多数翻訳することになるだろうとは思いもしなかったのです。

もうこれ以上申し上げることはありません。『理性』の朗読を始めます。

(2013年11月17日に日仏会館で催された国際シンポジウムでの挨拶。このあと、著者はフランス語原文、翻訳者は日本語訳で交互に『理性』の朗読をおこなった)