*21 資本論

東京では午前中は自宅で仕事をし、午後からはファミレスで本読みをして、夕方に帰ってくるという習慣が根付いていた。
『365日のベッドタイムストーリー』という本が十万部を突破してくれたので、仕事に余裕が出てきた。ふつうは午後にファミレスに行っても仕事がらみの本を読むことが多かったのだが、この機会だから、時間を忘れて没頭できるような本、読むのに時間がかかる本を読んでみようと、途中まで読んで本棚でそのまま眠っていた『資本論』に挑戦してみることにした。

学生時代に戻ったような感じで、毎日うきうきとファミレスに出かけていった。ものを考えさせてくれる本というのは、気分がいい。小説を読むよりおもしろい。そこに自分の地金があるような、ある新鮮な自己発見があった。

それが遅すぎるかどうかは別にして、『資本論』はとにかくおもしろい。けれども、マルクス先生みずから「なにごとも最初がむずかしい」と言っているように、第一章の商品分析の部分がとりわけむずかしい。

それでもなんとか、この本を読み解くための「へそ」のようなものは見つけた。すべてのすぐれた書物がそうであるように、それは第一行目にある。

 

資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。」(資本論第1巻、筑摩書房「マルクス・コレクション」)

 

この文の発端はすでに『経済学批判』の冒頭に記されている。

 

一見するところブルジョワ的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はその富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。」(岩波文庫『経済学批判』)

 

マルクスは、一個の商品が「使用価値」と「交換価値」という二重の要素の組み合わせによって、プラスとマイナスのイオンの結合形態のようなものとして成り立っていることを発見した。

その発見の根はアリストテレスにある。

 

なぜなら、どの物にも二通りの用途があるからである。ひとつは物としての物に固有の用途であり、もうひとつはそうではない。たとえばサンダルは履物として役立ち、同時に交換可能でもある。どちらもサンダルの使用価値である。なぜなら、自分にはないもの、たとえば食物とひきかえにサンダルを交換する人は、自分自身でもサンダルをサンダルとして使用するからである。しかしそれ〔交換〕はサンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」(アリストテレス『政治学』第一巻、第九章——前掲「マルクス・コレクション」から引用)

 

アリストテレスは「〔交換は〕サンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」という。

これを人間に当てはめたらどうなるか。

どの人にも二通りの価値がある。ひとつは人としての人に固有の価値であり、もうひとつはそうではない。他の誰とも交換可能な労働力としての価値である。しかしそれは人の自然な使い方ではない。なぜなら人は交換のために存在するのではないからである・・・・・・。
『資本論』を読んでいると、ホモサピエンスという種の特徴は、意識だとか、言語だとかにあるのではなく——それなら他の動物にも意識や言語はあるだろう——、交換を目的とした「商品」にあるのではないか、とさえ思えてくる。

人間社会の富の要素である「商品」は、社会を循環・流通する品物であるだけでなく、その内部にすでに社会を宿している。人間の今に至るまでの時間が宿っている。あたかも原子の構造のなかに宇宙の構造が宿っているかのように。

そのことが見えてくると、めまいのようなものを覚える。
『資本論』に夢中になったことと、今回自分の生まれた場所に帰ろうと決断したことのあいだには関係があるのか、ないのか。そのことはこれから少しずつ見えてくるのだろう。いずれまた『資本論』を読み直すこともあるだろう。そのときにどんな感想を持つか、自分でも楽しみにしている。

(2009年5月に書いた旧ブログの記事を改稿)