*26 ニュートリノの雨

学生時代——ああ、もう四十年以上も昔のことだ——、四畳半のアパートに住んでいた頃のこと。いつも夜更かしばかりして、目が覚めるのは昼近くだった。雨が降ろうが降るまいが、寝るときは雨戸を閉めた。カーテンだけでは外光がまぶしくて目が覚めてしまうから。

ある日、とてつもない大音響に驚いて目を覚ますと部屋のなかは真っ暗だった。まだ夜なのか? それにしてもこの音はなんだ?

雨だった。しかも、かなりの大雨、昼でもあたりが暗くなるほどの大雨が降っている。トタン屋根を打つ音はまるで雹のよう、ドラムの連打のようでもあり、地滑り、雪崩のようでもあり、それでいて雨の一滴一滴が粒立ち、際立っていた。

一粒一粒の雨音が聞き分けられるような気がした。文字どおり無数の、部屋の屋根に叩きつける雨粒から、はるか彼方の、人間の耳にはとうてい届きそうもない微細な雨音の振動まで、たとえ地面に衝突して他の雨滴と溶け合い、道を流れ、下水道を流れ、やがて川に、いつか海に合流することになろうとも、今、この瞬間に降る雨の、一滴一滴には固有の命があり、固有の音があり、固有の形状があるはずだ…。

古代ギリシアのソフィストみたいな詭弁を弄して、いたずらに時間を浪費し、気がつくと卒業しなければならない年になっていた。

いい大学生活だったと懐古することは今もできない。今も夢をみる。悪夢。試験が行われる教室がわからずに校舎をさまよっている。この試験が通らないと単位がもらえず、卒業ができない。何年も通った学校なのに、教室の番号がわからない。いったい自分はどこにいるのか…。

今年もノーベル賞の季節がやってきて、梶田隆章氏と大村智氏がそれぞれ物理学賞と生理学・医学賞を受賞した。梶田氏はニュートリノに質量があることを確認した功績が認められたという。師匠の小柴昌俊氏がその観測でノーベル賞を受賞したときと同じように、新聞やテレビにはニュートリノという言葉が踊った。

素粒子の一種。これだけでは何もわからない。素粒子そのものだって、ちゃんと説明しろと言われれば言葉に詰まる。

古代ギリシアにおいては、物質の究極の粒子をアトムと呼んだ。われわれはそれを原子と呼び習わしてきた。やがてその究極の粒子である原子には構造があることがわかった。原子核の周囲を、素粒子である電子が回っている。原子核は陽子と中性子からなり、それを束ねる力を媒介しているのが中間子、湯川秀樹が理論的にその存在を予言し、その功績が称えられて日本で最初のノーベル賞受賞者となった。その中間子はクォークと反クォークから構成され、云々……。

切りがない。言葉を並べているだけで、わかったという実感はどこにもない。なぜならば、素粒子は物質として実体のあるものなのか、それとも物質の究極の構造を説明するための物理学的(数学的)概念なのか、そのあたりが素人にはまったく手の届かない専門領域に属しているからだ。

梶田氏は素粒子の一種であるニュートリノに質量があることを証明したという。質量があるということは重さがあるということであり、物質であるということだ。しかし、それが物質であるならば、そこにも構造があるだろう。構造のないただの点(位置)であるならば、質量は存在しないだろうから。では、その構造を支えるさらに微細な粒子の存在を予想しなければならないのか。

やっぱり切りがない。

宇宙空間を飛来している宇宙線(放射線)が地球の大気に衝突すると、中性子がβ崩壊を起こして、ニュートリノを発生させるのだという。このニュートリノはつねに雨のように地上に降りそそいでいて、すべての物質を貫通しているのだと、テレビはわかりやすく映像で——CGかなんかで——説明しようとする。

視覚化するといっけんわかりやすいが、さっぱりわからないのはそのままだ。理解したのではなく、そこで考えるのをやめてしまうからだ。

質量とは何か? 物質とは何か? という言葉による素朴な問いかけが無効になったとは思わないし、哲学が時代遅れになったとも思わない。超絶技巧の演奏家に拍手喝采を送り、超人的な運動能力を誇るアスリートに興奮するのと同じように、何が何だかよくわからないけれど先端科学の業績をうっとりと眺めたりするのはまっぴらごめんだ。シンフォニーのコンサートにもオリンピックにもノーベル賞にも興味がなくなってしまったのは、年をとったせいだろうか。

そうは言いつつも、前回(?)物理学でノーベル賞をとった南部陽一郎氏の論文に食らいついてみたりはするのだ。その受賞理由は「対称性の自発的破れ」という理論。それを聞いたとき、すぐにエピクロスの、いわゆるclinamen(原子の運動方向に生じる偏り、逸脱。エピクロスの哲学においては原子の衝突と結合を導く自然の生成原理)を思い出した。師のデモクリトスの機械的原子論(自然は原子と空虚からなり、必然が支配している)を受け継ぎながら、自然の多様性は原子の自由意志=クリナメンによるとした。南部陽一郎はノーベル賞の授賞式には出席することができず、その代わりにシカゴ大学で受賞講演を行っている(2008年12月10日)。

「対称性の自発的破れは、いわば要素のあいだの群集心理からおこります。広場に大勢の人が集まったとします。どちらの向きにも特に面白いものはありません。一人ひとりは、勝手な向きを向いてよいのです。しかし、一人がある特別な向きに何かを見つけ、他の人々はそれぞれ隣の人の向いているほうに向くということも、起こりうるわけです。そんな場合には、特別な向きはないとは言えません。好奇心に充ちた人がいて、頭の向きを少し変えると、隣の人もつられて頭を回し、これは波となって広がるでしょう。物理では、あらゆる向きが平等であることを対称性と呼びます。実際の世界は対称性が自発的に破れた状態にあります。好奇心の波はNG波(南部—Goldstone波)とよばれます。原子よりももっと小さい世界でおこるときにはNG粒子とも呼ばれます」(南部陽一郎『素粒子論の発展』岩波書店、2009年)

いかなる理論であれ、それは理論である以上、あるいは人間の理論である以上、世界を静止させる。おそらく人間の理論は世界という流動状態を流動状態のままに把握することはできないのだ。カメラというテクノロジーが、ありのままの状態を捉えようとして、一瞬を切り取り、固定することしかできないように。南部陽一郎は次のようにも言う。

「素粒子とは物質を構成する究極の単位だと一般には考えられている。それが何であるかを解明するのは物理学の根本問題の一つであるが、物理学の歴史をたどってみると、本当に究極的な単位が存在するかどうか疑わしくなる。ギリシア時代の哲学的思索はさておいて、〔近代の〕科学的な意味での最初の素粒子は、19世紀の化学、物理学の発展に伴って確立された原子であろう。しかし、原子はやがて電子と原子核とに分解され、更に原子核は陽子と中性子の集合であるということになる。従って素粒子とは相対的な概念で、一つの段階で素粒子と考えられるものも、このような進歩のためには、しかし、ますます大きなエネルギーが必要である。粒子の構造をさぐる一般的方法は、ほかの粒子をこれにぶつけることだが、エネルギーが大きくなれば、不確定性原理によって波長が小さくなり、分解能が上がるばかりでなく、結合エネルギーの大きな複合体をも破壊して構成分子を取り出すことができる。実際、素粒子物理学発展の歴史が加速器エネルギーの増大と平行していることは第1表の示す如くである」(同上、「素粒子」日本物理学会誌1977年)

この引用の最後で「第1表」と言われているものは、「素粒子物理学の各段階」と題された表を指す(対象としている粒子の大きさとその実験方法とエネルギーの大きさ、その年代を表にしたもの)。

科学の発展が観測装置、実験装置の精緻化と巨大化に比例していることは、すでにガストン・バシュラールが、学位論文の「近似的認識試論」や「科学的精神の形成」で指摘しているところだ。観測機器は人間の身体の延長なのだ。ガリレオの地動説は望遠鏡の発明と不可分の関係にあるし、電子顕微鏡、X線装置の開発が現代科学の進展と切っては切れない関係にあることは言うに及ばず、現在の天文学の飛躍的発展は1990年に打ち上げに成功したハッブル宇宙望遠鏡の存在なしには考えられない…。

このことは核兵器、核エネルギー、地球温暖化、人口増大といった地球規模の問題とも無縁ではないはずだ。

オリンピックでは世界中のアスリートたちが一堂に会して、その速度、その力、その技を競い合う。肉体は有限なのに、記録は日々更新される。しかし、人類が100メートルを5秒で走ることはありえないだろう(根拠はないけれど、9秒を切ることもないだろう)。いつか記録の破られない日が来たら、スタジアムは空っぽになるのだろうか。オリンピックは冴えないイベントになって、廃止されるのだろうか。

いや、と思う。計器、計測器だけは無限に加速し、どこまでも緻密になりうることは、科学の分野の計測器が証明していることだから。

だとしたら、つまり、肉体がこれ以上の修練も鍛錬にも耐えられなくなっているのに、計器だけは無限に細かい差異を刻むことができるとしたら、それは喜劇であるのか、悲劇であるのか、絶望であるのか。科学と哲学に関して、マルクスは次のように書いた。

「デモクリトスは〔客観的な知を追い求めて〕世界のあらゆる地域を彷徨する。これとは対照的にエピクロスがアテナイの〈園〉を離れたのは、イオニアを二度か三度訪れたときだけであり、しかも訪問の目的は研究ではなく、友人を訪れることだった。そして最後にデモクリトスは、知に絶望してみずから盲になるが、エピクロスは死のときが近づいてきたことを感じると温かい風呂につかり、生の葡萄酒を所望し、友人たちに哲学に忠実であれと助言するのである」(カール・マルクス「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」中山元訳、筑摩書房〈マルクス・コレクションI〉」