*83 閑話、その4(esq.16)

「小説のためのエスキス」と題した記事(*67)をアップしてから四ヵ月になる。ほぼ毎週に更新してきたので、今回で16回目。第1回目(esq.1)には、次のような威勢のいいことを書いた。

 

だから、これから書こうとしているのは小説ですらない。文学でもない。そんなものには収まりきらない何か、なのである。

 

しかし、いま実感しているのは、「小説」という器はじつに吸引力の強い、それでいて、ちょっとやそっとでは動かない、なにか岩か城のような手強い存在だということである。

この第1回目の記事には、小説の試みを始める理由として、「直近のきっかけ」と「古い怨恨」のような理由をあげた。前者は、隔週火曜に自宅で催している「私塾」で「無知の知」に至る認識というようなテーマで話をしたことに起因している。話した当人が、こんなことを澄ました顔(?)で解説したところで、なんの説得力も持たないだろう。そこで何か具体的な行動か、作品によって範を示すことはできないか。それがこの小説の試みの背景にあると、言い訳めいたことを書いた。

問題は、小説を書く試みの基盤となっている「古い怨恨」のほうである。それについては、こんなふうに書いた。

 

ごくごく単純化して言えば、小説を書きたいという欲望が、おそらく幼いころからずっと意識の底に潜んでいるからだろう。欲望という言葉が正しいかどうかわからない。むしろ書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為、作業だったので、翻訳というものを書く仕事を始めたとき(三十代の前半)、これは自分の天職であるとはっきりと自覚した。この仕事を失えば、おそらく自分の人生はないとも思った。

 

いま読み返すと、幼いころから「小説を書きたいという欲望」が意識の底に潜んでいたというのは、書いた本人も自覚しているようだけれど、少し不正確なのである。幼いころ(小学生のころ)に、小説を書くことや小説家になることを意識したことはなかった。漠然とした憧れはあったかもしれないが、それは小学生が将来なりたいものと訊かれて、バスの運転手とか消防士とか、あるいはお医者さんと答えるのと大差なかったと思う。

しかし、「書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為」だったということには訂正の必要を感じない。文章を書くことは好きだった。正確を期すれば、読書感想文のたぐいは苦手だったし、国語の評価もいつも5だったわけではなかったような気がする。中学校に上がっても、高校に進学しても、教科としての国語の成績にはむらがあったと記憶している。もっとはっきり言えば、国語の教科書にもテストにもずっと違和感を抱きつづけていた。国語に正解なんてあるのか?

好きだったのは、いわゆる自由作文の類である。大人のジャンルに当てはめれば、エッセイとか随筆になるのだろう。おそらくこれは、われわれの育ってきた時代と大きく関係している。

日本が戦争に負けて、仮名遣いは「新仮名遣い」に改められ、ほとんど無限ともいえる漢字の世界に箍をかけるようにして「当用漢字」が制定され、「話すように書く」こと、平易に身近なことを書き綴ること、無着成恭の「綴り方運動」に代表されるような「民主教育」の一環として作文教育が、たぶん全国津々浦々に広がっていったのだろう。

原稿用紙に文字を書き、それをガリ版の上に置いたパラフィン紙に鉄筆で書き写し、謄写版と言われる印刷機にかける。ほとんど江戸の瓦版のような、その原始的な印刷物に、私は子供のころから魅せられていた。

それが「文学」にのめり込んでいくにつれて、ものを書く喜びは変質し、濁っていく。

高校の終わりころから、いわゆる世界文学全集や日本文学全集に収まっている作品を濫読するようになってからは、もう何がなんだかわからなくなってしまった。書くことよりも読むことのほうがおもしろくなった。そして、理屈っぽくなり、評論家っぽくなっていった。そういう素質もあったのだろう。

けれどいつも意識の底では、「書くこと」を、「書くことの喜び」を、裏切っているという思いがうずいていた。「小説を書きたいという欲望」とは、正確に言えば、そういうことなのだろうと思う。

翻訳を生業とするようになり、書く道具は鉛筆や万年筆からワープロ、パソコンへと移り変わっていくにつれて、書く喜びと仕事との乖離はますます広がっていった。ワープロ専用機を使いはじめた当初、漢字変換の機能にとまどって、いつもキーボードの右隣に大きめのメモ用紙を置いていたことを思い出す。漢字で書くのかひらかなにするのか、送りがなはこれでいいのか、手で書いて確かめないと落ち着かなかったのである。

書く当てもないのに、原稿用紙だけは用意してあった——いまもクローゼットのなかで眠っている。

時代はあまりにも目まぐるしく通り過ぎていった。心のなかには時代に取り残された部分が息づいている——眠っているのか起きているのかはわからないが。

先日、次女から電話があった。スマートフォンはまさに年々進歩・進化しつづけて、ついに片手に端末を持ってテレビ電話ができるようになった。生まれたときに電話もテレビもなかった世代に属する人間にとっては、それはもう唖然とする出来事のはずだが、いつのまにかごく自然に生活のなかに溶けこんでいる。東京圏に住んでいる長女とも次女とも、月に一度か二度はこのテレビ電話をしているんじゃないだろうか。
「オトーさん、小説書きはじめたの?」

いきなりである。娘が親父のブログなど見るわけがないと思っていたら、「ときどき」覗いているのだそうな。虚を衝かれるのは気まずいものである。とはいえ、本来なら表に出さない創作過程をブログというかたちで公開しているわけだから、どこで誰が読んでいるかわからない。そこに娘が含まれていたとしても驚くほどのことはなく、想定していなかったこと自体が迂闊だというほかない。

次女はフリーランスの編集者として、父親と同じく出版業界に棲息している。二人の子を持つ母親でもあるので、父親のブログをまめにフォーローするほどの暇も必要もないし、ときどき覗いても、「フランス文学関係のめんどくさいこと」が書いてあるので、すぐ閉じるんだという。健全な親子関係である。

それがどういうわけだか、久しぶりにブログを覗いてみたら「小説」が連載されているのを発見した。おもしろい、と言ってくれるのだが、どうもこそばゆい。

それはともかく、ブログを覗いた娘から、主人公の名前を変えたのかと尋ねられた。え? 最初は「泉」さんだったのが、途中から「香」さんになっているという。これはこれは、まことに迂闊でした。さすがに、駆け出しとはいえ編集者を名乗っているだけのことはある。というか、たくさんの人が気づいていることで、知らないのは本人だけだとしたら、穴に入りたい気分である。さっそく直しました。

お詫びのしるしに(?)、なぜ「泉」という名前にしたかというと、そのとき館野泉のピアノを聴いていたからである。いずみ、っていい響きだな、と思ったのである。男性にも女性にも使うことのできる名にしたかったということもある。それがどうしてか、途中から香になってしまった。字形が似ていて、音も三つだから? 頭が混線したとしか思えない。

冒頭のほうで、小説は岩か城のように手強い存在だと書いたけれども、手強いというより、何か恐怖心のようなもの誘発すると言ったほうがいいのかもしれない。

子供のころには、当たり前のことだが、この種の恐怖心は感じたことがなかった。いまも、「閑話」と題した日常の延長線上にあるエッセイ風の記事を書く分には恐怖は感じない。

恐怖は、登場人物に名前を与え、それを動かすとき——あるいは、それが動いていくときである。小説とは所詮妄想だと、少し前のブログ(*79)に書いた。妄想にリアリティを与える作業は、まさしく力仕事だということを、いま痛感している。たとえばミラン・クンデラは、こんなふうに書いている。

 

私の計算では、毎秒この世で二ないし三人の虚構の人物が洗礼を受ける勘定になる。だから私は、そんな無数の洗礼者ヨハネの群れに加わることに、いつもためらいを覚えるのだ。しかし、どうしようもない。どうしても私は、人物たちに名前を与えなければならないのである。この場合、ヒロインがたしかに私のヒロインであり、(私が他のだれよりも彼女に愛着を覚えるのだから)私にしか所属していないことをはっきりと示すため、これまでどんな女性にも与えられたことのないタミナという名前で彼女を呼ぼう。(『笑いと忘却の書』西永良成訳)

 

著者自ら、こんなふうに告白してくれなければ、タミナという名前がチェコでは平凡な名前なのか、珍しい名前なのかさえ、読者にはわからなかっただろう——すくなくともチェコの読者以外は。

おそらく小説の登場人物の名前——とくに主人公(すなわちヒーロー、ヒロイン)の場合——を決めるという段階は、ただたんに気恥ずかしいだけでなく、小説全体を決定するものだから——あとから変えることは、作品全体のトーンを変えてしまうことになる——、やはり勇気がいることなのだろう。ミラン・クンデラのような天性の語り部でさえも。いや、だからこそ、というべきか。

ミラン・クンデラは、どこからタミナという名前を思いついたのか、そこのところは書いていない。天から降ってきたのかもしれないし、読者にそう思わせようとしているのかもしれない。

猫柳についても、そういうことにしておこうか。泉については、ばらしてしまったけれど。ついでにばらしてしまうなら、波多野庸子の姓は、メゾソプラノ歌手の波多野睦美さんから拝借した。声楽についてはよく知らないのだが、あまりにも美しい声なので、彼女の歌が入っているCDは三枚持っている。あとはストリーミングで聴き惚れている。庸子については、ヨウコという発音が好きで、庸の字がなんとなく好きだから、ということにしておこう。

今回も「閑話」ということで、本筋から逸れているわけだが、さっきからくどくど恐怖とか不安とか言い訳しているとおり、書き出せないでいるのだ。

波多野庸子は猫柳泉と結婚して、猫柳庸子となるわけだが、*69(esq.3)ですでに書いたように、この夫婦には子供がいない。この時点では、そんなに深くは考えずにそう書いた。この試みはあくまでも創作ノートのようなものであるから、とにかく書き出してみること、辻褄が合わなくなれば変更すればいい、それくらいの考えだった。

それに猫さんは書いている自分の分身であり、庸子さんが、五十代のなかばでこの世を去った私の妻の分身——モデルというのは多少憚れる——であることは、このブログをときどき覗いてくださっている方なら、程度の差こそあれ、気づいていることだろうと思う。

すでに書いたように、私たちには二人の娘がいる。現実の要素をそのまま小説に持ち込むと、小説としては書きづらくなる。よほどの自覚があるか、自虐精神に富んだ人でないかぎり、今どき私小説は書かないだろう。

私小説を書くつもりはなくても、「私」とか「僕」とか、一人称で書きはじめると、どうしても自分の延長線上のものになってしまう。自分の経てきた人生についての打ち明け話がしたいわけではない。

哲学は文学という世界のなかで王様のように君臨している。あるいは、哲学は自分が文学の世界に含まれることさえ認めたがらないかもしれない。哲学が死んだとは思っていないが、西洋文明(文化)が営々として積み重ねてきた無数の概念の構築物は、やはり閉ざされていると思う。大学で専門的に研究している人か、少数の知識人にしか読めない。ようするに難しい。だが、重要なことは難しいのは内容ではなく、言葉だということだ。ふだんは使わないような言葉ばかりが出てくる。

中原中也は、身の回りのものだけで無限を夢みると語り、独特の柔らかな音と言葉の世界を築き上げた。それを柔らかい認識と呼んでみたらどうだろう。詩とはそうしたものではないか。わかりやすい詩ばかりとはかぎらないけれど。

小説でその先鞭をつけたのは、やはり太宰治だったし、太宰は今でも読まれている。太宰に傾倒している又吉くんが『火花』で芥川賞をとったのも慶賀すべきことだ。

妙な言い方に聞こえるかもしれないが、太宰は終生「文学」と格闘した人だった。若いころに共産主義に傾倒したのもそうだし、晩年に志賀直哉に噛みついたのも、彼の「思想」の現れだった。「フローベールはおぼっちゃん、モーパッサンは苦労人」と言ったのも太宰治だ。

趣はだいぶ違うけれど、谷川俊太郎の詩も平易な言葉だけできている。みなさんご存じのように、御尊父は哲学者の谷川徹三だが、息子の俊太郎は親の反対を押して大学には進まず、詩人として食べていく道を選んだ。

このなかに村上春樹の名を加えておくと、何を言おうとしているのか、さらに明確になるだろう。最近、「文藝春秋」(六月号)に父との葛藤を綴ったエッセイが発表されたが、読んで驚いた。谷川俊太郎も村上春樹も一人っ子だが、それだけでなく父親がどちらも京都帝国大学を出た秀才なのだ。ちなみに猫柳泉もその生みの親の私も一人っ子ですが、うちの父は旧制中学どまりです。

われ万巻の書を読めり、と詠った詩人をまねるわけではないけれど、むずかしい哲学の本はもういい、と思う。

半世紀近い昔のことになるが、大学の文学部に入ったその年からずっと大学には違和感を感じてきた。大学をやめて、新聞配達でもしようかと思ったことさえあった。でも、その勇気も根性もなかった。とくにフランス文学は遠かった。だったらなぜフランス語なんか選んだんだと当然問われるだろうが、なんとなくである。みんなその程度だ。ただ問題は、この私だけ、えんえんとその違和感にこだわりつづけて、半世紀が経ってしまったということだ。そして、落ち着いた先が、この違和感は日本人だから発生するものではなくて、フランスの作家たち、詩人たちが一様に抱えている違和感だということ。古代ギリシア・ローマ文化の正当なる嫡子にして、カトリックの長女フランス、ああ、そんなものは幻想なのだ。そして作家たちや芸術家たちは、この幻想と闘ってきたのだ。

話題はさらに遠くに逸れてしまった。もとい。

猫さんと庸子さんのことだ。なぜ彼らには子供がいないのか? できなかったのか、それとも、子をつくろうとしなかったのか?

それ、おかしいだろう、とみなさん思うだろう。なぜなら、そういう設定にしたのは、書き手の私なのだから。勝手にしてよ、と言われてもしかたがない。

この設定は思いつきにすぎないけれど、それを突き詰めていけば、ある「認識」に至るのではないかと思っているのだ。あるいは、たんなる思いつきだと思っていることが、もしかすると根の深い問題だったと気づくこともあるかもしれない。

それが本当の哲学なのではないか。誰かが書いた難しいテクストを解読することが哲学ではないだろう。それは訓詁学だ。

現段階では、つくろうとしなかったのではなく、できなかったという設定のほうが自然ではないかと思っている。その根拠はない。ないというよりも、やはり自分がそうだったから。結婚した以上は、それが自然の流れだと思っていた。あえて妊娠を拒む理由はなかった。

だとすれば不妊の理由を考えなければならない。そしてこの問題については、庸子さんの視点に立って書くべきだとも思っている。もちろん、男性の側が不妊因子を抱えていることもあるわけだが、重要なことは女性の側に立って書くということ、そのこと自体にある。

男が男中心の考え方から脱却できなければ、それは本当の「認識」にはならないだろう。人間が人間中心主義の考え方から脱却できなければ、あらゆる科学はむなしいだろう。地球はぼろぼろになっていくだろう。われわれ人類はそういう段階——たぶん最後の段階——に突入したのだと思う。

今度は話が大きくなりすぎた。そうならないために「小説」——君子の説く「大説」ではなく、小人が小さな声で説くもの——を書こうとしているのに。

去年から看護専門学校で講師を務めているので、不妊と不妊治療に関して、専門家の先生にいろいろ教えを請うているところである。

そして、驚いたことがある。古い資料でも最新の資料でも、男女ともに原因を特定することのできない不妊が10%あるということ。その事実に驚き、書き出せないでいる。

勇気をもって書き出すべきだが、もうこの段階に入ると、とりあえず書いてみましたではすまされなくなる。妄想とはいえ、子をなすかなさないかは、軽々しくは書けないものだから。

多くの小説の読者は、そこに描かれたドラマの展開と行方を追って読むだろう。もちろん、それが小説を読む醍醐味であることに半畳は入れない。でも、その小説が何百ページあろうと、それはたったひとつの、作者にとってはかけがえのない、実人生における生死の交換にも近い「認識」の暗喩であるということも、頭の片隅に置いてほしい。

さらには、その「暗喩」は——あえて言葉に置き換えるならば——、私の愛した人、愛している人たちすべてが幸せでありますようにという祈りであることも、どうか信じてほしい。

*82 記憶の在処(esq.15)

*10

 

自分が小学校の終わりに書いた作文を読み終えた猫柳泉さんは、目をつぶり、ソファの背に首をあずけて、じっとしている。

膝に重みを感じて目を開けると、こちらを見上げているネコと目が合った。ネコはニャーと鳴き、猫さんの膝の上で二、三度足の位置を変え、落ち着く場所を見つけると、そのままうずくまった。ネコの体温が腿の内側に浸透していくにつれて、眠りが忍び寄ってきた。

目ざめたときには、膝の上の重みはどこかに消えていた。西向きの窓のレースが橙色に染まり、テラスに通じる大きな硝子戸には夕暮れの長い影が落ちていた。どれくらい寝ていたのか、時間の感覚がなかった。時計はソファの後ろの壁にかかっている。

急に視界が曇って、猫さんの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。こんこんと湧き出す地下水のように、いつまでも止まらなかった。苦くも、甘くもなく、しょっぱくもなく、ただ、こんな量の涙がどこに潜んでいたかと思うほど、とめどなく溢れだす。

こんなにもおれは疲れていたのか、と思う。

十年間に三回も葬式の喪主をつとめた男は、おれくらいしかいないんじゃないか。内心そう自嘲してみるが、涙が止まらないので、笑みは浮かんでこない。

ネコが戻ってきて、またニャーと鳴く。低いテーブルの上に置いてあるティッシュペーパーの箱から紙を一枚取り出し、眼鏡を外して涙を拭くと、ようやく気が晴れてきた。まるで射精のあとのようだと思い、ようやく笑うことができた。

もう四時か、と猫さんは背後の時計を見ることもなく、つぶやいた。ネコが催促がましい鳴き声を出すのは、夜が明ける前の四時頃か、陽が沈む前の四時ころと決まっているからだ。

振り返ると、果たして時計の短針は四時をさし、長針は五分をさしている。

立ち上がって、キッチンへ足を運ぶと、ネコの鳴き声は長めの低いニャーから、短めのニャ、ニャ、ニャと高めのトーンに変わる。サイドボードから猫用のドライフードを取り出し、大きめのプラスチックのスプーンですり切り一杯、ネコ用の食器に入れてやると、鳴き声はおさまり、部屋にはただドライフードを噛み砕く音だけが響く。

テーブルの上にはガリ版刷りの卒業文集が置いてある。二百ページほどの文集だが、わら半紙に刷って袋綴じの製本になっているので、かなりの厚みがある。

これを読んだことは正しかったのか? 正しいも正しくないもない。もう読んでしまったのだから。

感動したのでも感心したのでもなかった。あきれて呆然とした。そして、意識を失うように眠りに落ちた。

あきれたのは、まずその長さだった。四百字詰めの原稿用紙で十二、三枚はある。ほかの生徒が長くて四、五枚なのに、その倍以上ある。猫さんは編集者の習い性で、活字になった文章——この場合、ガリ版刷りではあるけれど——を見ると、すぐに原稿用紙の枚数に換算してしまう。

この長さはなんだろう?

自分が生まれ育った場所を去らなければならないことを知った小学生が、何か必死で——そう、必死で——忘れてはならないことを刻みつけようとしている。その忘れてはならないことが、なぜ兎狩りでなければならなかったのか?

長さだけではなく、その細かさ。むろん細かく書くから長くなっているのだけれど、小学生にしては尋常ではない。

そして、自分が半世紀以上も前に書いて、しかも書いたことを忘れている文章を読んで、猫さんは深く混乱しているのである。

これは誰の記憶か?

猫柳泉の記憶だ。

しかし、それは記憶の所有者の名前を特定したにすぎないではないか。

小学生だった猫柳泉と還暦をすぎた猫柳泉は同一人物か?

そもそも、記憶に所有者はいるのか?

記憶は海馬に刻まれる。だがその海馬は、はたして誰のものか?

でも、そんなことを言い出したら、この肉体は誰のものか、ということになる。

人間はこの地球を自分のものだと思っているが、ほんとうは人間は地球環境に属し、依存する一つの種にすぎない……。

猫柳泉は、自分が小学校のときに書いた作文を突きつけられて、混乱の極みに達したのである。

いやいや、話が大きすぎる、と猫さんは思い直す。

自分はこの作文を小学校の終わりに書いたことを憶えていなかった。だが、蓮見の叔父と兎狩りに行ったことは憶えている。この作文に書かれているほど鮮明ではないにしても。

しかし、この作文を読んでしまった今、もう自分の思い出はこの作文が描写するひとつひとつの場面、風景、そこに登場する人物、物、道具の映像によってかき消されてしまった。

もうどれが自分の頭に刻まれた記憶なのか、この作文に保存された記憶なのかわからない……。

おい、待て。そこのところ、考え方がおかしいではないか。さっきまで脳内——の海馬と呼ばれる部分——に保たれていた記憶は、小学校のときにすでに刻まれた記憶が年齢とともに薄められ、ぼやかされたものなのではないか。それがその当時に書かれた作文によって鮮明によみがえってきたと考えるべきなのではないか。

文章は記憶ではない。備忘録ではあったとしても。

たしかに。

そうだ、そんな難しいことではないだろう。自分の記憶からは失われていたはずのこの作文が、母親によって保存され、それが妻に受け渡されていた、しかも、捨てろと命じたのに捨てなかった、ただそれだけのことではないのか。

庸子を恨むのはお門違いだ、と猫さんは思い直す。捨てるべきものなら、自分で捨てるべきだった。彼女は捨てるに忍びなかった、それだけのことだ。

だったら、それでいいじゃないか。

あらためて、自分の手で始末するがいい、目の前にある段ボール箱を、文集も何もかも詰めこんだまま。

すると自分の心のどこかから、苦しげな声が反論する。

よくもそんな、酷いことが言えるな。

人は二度死ねないし、二度記憶を捨てることもできない。

あの中学校最初の一年の暗い、喪のような時間がそう言っている。

何かわけがあって、それ以前の失われた記憶が——穴だらけの断片的な記憶が——よみがえろうとしているとしか思えなかった。

 

釣瓶落としの秋の夕暮れ。

あたりはすっかり暗くなっていた。

猫さんは、テラスに通じるガラスの引き戸にも、西側の窓にもカーテンを引いた。

空腹を覚えたので、冷蔵庫の中を開けてみた。めぼしいものといえば、トマトとレタスと卵しかなかった。週末に庸子さんと買いだめする習慣が失われて、冷蔵庫には空きが目立つようになった。冷凍庫を開けると、六枚切りの食パンが二枚残っていた。

大きめの皿を取り出し、レタスを洗ってから、一口大にちぎり、皿に敷きつめる。小さな鍋を火にかけ、トマトの皮に浅く十文字の切れ目を入れる。一かけのバターをレンジでほんのちょっとだけ温めてから、パンに塗り、溶けるチーズを上からパラパラと落とす。卵を二個ボールに割り入れて、よく攪拌する。塩胡椒を少々、牛乳もちょっぴり。沸いたお湯の中にトマトを入れ、皮がむけてきたらすぐに取り出して、冷水に浸し、皮をむき、八分割にしてからさらに乱切りにする——猫さんの包丁は切れる。オーブントースターにパンを二枚入れて、五分にセット。その間に大きめのフライパンにオリーブ油とバターを入れて、火を強くして薄く引き延ばし、細かい泡が見えてきたら、卵もトマトもいっしょに投入する。適度にかき混ぜながら、水分を飛ばす。オーブントースターがチンと鳴ったら、パンを取り出して中皿に重ね置く。フライパンのトマト入りのかき卵をどかっとレタスの上に載せる。安物のチリワインをグラスに注ぐ。

猫さんの、一人だけの晩餐である。バジルの葉っぱがあればよかったのに、と思いながら。

卵とトマトをスプーンですくって口に入れ、パンの角をかじり、赤ワインを一口流しこみ、帰ろうと思う。

自分の生まれ育った場所に、記憶の眠る場所に。

*81 惜しみなく奪え(esq.14)

今から半世紀近くにもなんなんとする年の夏休み、東京から帰省した学生の私は、今年の夏こそ、プルーストの『失われた時を求めて』全巻を読破しようと、図書館通いを続けた。

例年にない猛暑の夏だった。今ではしゃれたデザインの建物となって駅前に移った図書館も、当時は繁華街から少し外れた市役所の隣にあって、なんの愛想もないただの箱のような、古ぼけた鉄筋コンクリート二階建ての建物だった。もちろん空調システムなどあるわけがなく、扇風機すら付いていなかったように記憶している。

午後になると、自転車をこいで、この図書館に行き、ほとんど誰もいない二階の閲覧室で、プルーストのページを文字どおり黙々と繰った。

読点はところどころあるものの、句点はまばらにしか打たれていないページがえんえんと続く、著者自身の意図的な「悪文」を、しかも途方もない誤訳に満ちた翻訳で毎日読みつづける作業は苦行であり、拷問ですらあった。

フランス文学専攻の学生なのだから、プルーストくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったか、義務だと思ったか、理解できようとできまいと、とにかく読み進めた。

開け放たれた閲覧室の窓から、ときおり熱風が吹きこんできた。こめかみからも首筋からも汗が噴き出し、滴り落ちた。暑いのだからしかたがない。でも、本人は暑いと思わず、どうしてこんなに汗が出るのだろう、夏風邪でもひいたかと思っていた。それほど読書に集中していたというよりも、あまりの悪文、難文なので、少しでも意識がそれると読みつづけられないのだ。

毎日、二、三時間、一週間か二週間かかけて読み通した結果、この作品のページを開くことはもう二度とあるまいという断念なのか失望なのか怒りなのか、よくわからない印象だけが残った。そして、新潮社版の箱入り全巻セットは、親しい友人に進呈してしまった。

でも、こんな本、読まなきゃよかったとか、時間の浪費だったとか、そういうことは思わなかった。むしろ、これは失われた時を求めて、それを見出す物語ではなく、失われた時を追い求めて、ついに時間に食いつぶされる男の話ではないかと思い、その徒労にも似た著者の、語り手の「私」の情熱に感銘さえ覚えた。今かりに、フランス語の原書を頼りに、若い人の新訳を読み進めれば——あるいはその逆——、別の印象を持つかもしれない。でも、第一印象がかき消されるほどの感動がやってくるとも思えない。

私にとっての『失われた時を求めて』は、あの夏の暑さと、失われた旧図書館の思い出とともにある。

われらが「猫さん」も、失われた時を求める。だが、失われた時を見出して、そこで満足し、追跡の円環が閉じるわけではない(プルーストの作品がそうだという意味ではない)。

彼は「見出された時」を奪還しようとするのだ。芸術や文学の表現手段を介することなく、まさしく実力行使によって、直接、好きなもの、ほしいものを強奪しようとする。

作品のタイトルのことなど、まったく念頭になく書きはじめたスケッチ=エスキスだが、二、三週間前に、どういうわけだか、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を思い出して、あらためてページを繰ってみた。

読み出してはみたが、読み通そうという気力は湧いてこなかった(有島先生、すいません)。本は持っているものの、たぶん若いときから、この手の思い詰めたような、やたらに生真面目で自意識過剰の文学が嫌いだったことを思い出した。

でも、タイトルはかっこいい。意味はよくわからないけれど、わからないのがいい。かっこよさのなかには、わからなさも含まれているのだろう。

言うまでもなく、有島武郎の場合、惜しみなく奪うのは愛であり、愛が主語である。

でも、猫さんの場合、違う。惜しみなく、愛を奪うのである。愛は目的語である。

記憶を取り戻したとき、彼の脳、彼の意識、彼の肉体のなかに嵐のようなものが吹き荒れ、いったん死んで、よみがえる。

そして、自分に命ずる、惜しみなく奪え、自分の人生を奪還せよ、と。

*9

猫さん自身は、小学校の卒業文集に「鉄砲撃ちの思い出」という題の作文を書いたことを憶えていなかった。蓮見の叔父さんに連れられて行った兎狩りそのものは憶えている。忘れられない思い出として、記憶にしっかり保存されている。しかし、そのことを作文に書いたことは忘れている。忘れているのか、消されているのか、そのへんのところが不分明なのである。

猫さんがこの文集の存在を知ったのは、奥さんが亡くなったあとのことだった。遺品のなかに猫さんの母親から彼女が譲り受けたものがいくつかあって、そのうちの一つが、猫さんの小学生時代の思い出の品が詰まった段ボール箱だった。通信簿だとか賞状だとか、あるいは作文、写生、習字のたぐい——本人にとっては「記憶の遺品」とでも呼ぶべきもの——が整理されて中に収められていた。

もっとも、こういう段ボールがあること自体は、猫さんの母親が亡くなったとき、遺品を整理していた奥さんから聞かされて知っていたのである。

——ねぇ、あなた。

猫さんの奥さん——庸子さん——は、自分の夫を呼ぶとき二とおりの呼称を使い分けていた。「いずみさん」と「あなた」。「いずみさん」と呼ぶときは、話題が比較的軽く、明るいときである。声も必然的に高くなり、語尾のイントネーションも上がり気味になる。「あなた」と呼ぶときは、どちらかと言えば大切な——ときには深刻な——用件を伝えるときである。声も低くなり、イントネーションも語尾がいくぶん下がる。

——ねぇ、ちょっと、こっちに来てくれる?

開けっぱなしになっている寝室の戸口からリビングのほうに顔を出した庸子さんにそう言われて、猫さんは軽く緊張した。中に入っていくと、庸子さんは小ぶりの段ボール箱を指さした。

——これ、知ってる?

見ると、黒のフェルトペンで「泉・小学校」と書いてある。

——いや、知らない。母親の持ち物については何も知らない。

——あなたの小学校時代の成績だとか文集だとか、ぎっしり入ってるのよ。

虚を衝かれて、猫さんの顔が強ばった。

——どうする?

——どうするって?

——見る?

——冗談じゃない。

——じゃ、どうするの?

——捨ててくれ。

猫さんは迷いなく答えた。それ以来、この段ボール箱ことが二人の話題に持ち出されることはなかった。猫さんは捨ててくれたものと思っていた。なんの未練もなかった。

ところが庸子さんは捨てていなかったのである。

亡き妻の遺品を整理していたとき、猫さんはこの段ボール箱をふたたび目にしたのである。

思い切り遠くに投げてどこか遠くに飛んでいってしまったはずのブーメランが、忘れたころに戻ってきて後頭部を直撃したような感じだった。

そのまま捨てようか、それとも開けてみようか。彼は迷った。

猫さんは迷うことが生理的に嫌いな人だった。気質的にそうだというよりは、小学校と中学校の時期のあいだにある深い亀裂——人はそれをトラウマと言ったりする——のなせるわざだろうというのが本人の自覚である。

あまりにも突然、生活と学校の環境が激変したために、猫さんは中学校の一年目を棒に振ってしまったのである。登校拒否などという言葉がまだ存在しない時代だった。

その暗い穴のような一年を乗り切るために、彼は別人になる必要があった。別人になるためには大切なものを捨てる必要があった。大切なものとは思い出であり、記憶であった。なぜならば、東京に移り住んだ彼の周囲には、生まれ育った土地の風景も親しかった人々の顔も声も存在しないのに、記憶だけは、むしろ鮮明に残っている。

もう存在しないのに、記憶だけは残っている。でも、記憶は映像でもないし、言葉でもない。匂いでもないし、触ることもできない。にもかかわらず、こんなに生々しいのはどうしたことなのか。

猫さんは十二歳にして、そうとは知らずに深い哲学的難問に直面していたのである。

それに加えて、いじめもあった。@いじめ{傍点}などという概念も当時は存在していなかった。転校生がいじめられるのは当たり前のことだった。発する言葉の訛りをからかわれた。何よりも、小学校時代の優等生が平均以下の生徒になってしまった。教師に当てられると答えられなかった。緊張のあまり失禁した。教室内でも、家でもほとんど失語症のような状態になった。どのように手を動かせばいいのか、足を動かせばいいのかさえわからなくなった。学校に行くことができずに、自分の部屋に引きこもった。

そして、彼は自分の幼年期の、もっとも幸福を感じたときの記憶を抹消しようと努力した。なぜなら、その記憶が残っているかぎり、自分は永遠に不幸のままだという結論に達したから。

猫さんの頭に迷いが生じると、そのときの不安、緊張がぶりかえしてくる。その気配を感じると、彼は目をつぶって一歩踏み出す。経験の分析から何かを引き出すのではなく、瞬時の本能的判断を信じるようになったのである。とまどうこと、躊躇することは、彼にとって死を意味した。

結局、彼は段ボールを開けてみることにした。そして、「光が丘小学校卒業文集」に出会ったのである。

*80 兎追いし(esq.13)

*8

 

小学校生活で最も印象的な出来事をずっと考えていて、やはりこれしかないと思うことがあります。それは蓮見のおじさんに鉄砲撃ちに連れていってもらったときのことです。叔父さんは兎狩りとは言わず、「鉄砲撃ち」と言うのです。

蓮見の叔父さんというのは、父の妹の夫のことです。いとこが二人います。姉のほうのほうはもう中学生ですが、妹のほうは同じ光が丘小学校に通っています。同じO市内に住んでいるので、僕はときどき泊まりに行きます。向こうからは泊まりに来ません。うちは父が厳しいので、息が詰まるというのです。僕も息が詰まります。

僕が叔父のうちに遊びに行くのは、小さいときには家が近くて、いとこたちと本当の姉妹のようにいつもいっしょに遊んで育ったということもありますが、叔父のところには釣り竿とか空気銃とか猟銃とか、そういう道具がたくさんあって、本当に楽しいからです。

海釣りで使う太い竿もあれば、渓流釣りで使う細い竿もあります。忍者が使うような三本か四本の太い針を束ねた仕掛けもあれば、注射針の先よりも細い細い針もあります。テグスも何種類もあります。うどん粉を丸めた餌もあるし、ミミズもブドウ虫もいます。イクラもあります。

この前は空気銃を撃たせてもらいました。家の前の畑を取り巻いている柵の上に空き缶をのせて、それを狙うのです。緊張しました。一メートルくらい離れたところからだと当たりますが、二メートル、三メートル離れると、なかなか当たりません。引き金を引くときに緊張して、銃口がぶれてしまうのです。

叔父さんはときどき、家の前に米粒をまいて、それをついばみに来た雀を撃つことがあります。家の中に隠れていて、窓の隙間から空気銃の先だけ出して狙うのです。でも、そんなにたくさんは捕れません。雀が警戒して来なくなるからです。叔父さんがそう言っていました。雀は賢いんだなと思いました。

でも、一番緊張するのは、猟銃です。叔父さんの持っているのは、水平二連の散弾銃です。銃身が二本水平に並んでいるのでこう呼ばれます。直径が二センチくらい、長さが五センチくらいの筒に小さな弾がぎっしり詰まっているのが散弾です。ライフルの弾のように一点を撃ち抜くのではなく、小さな弾がいっぺんに発射されて、徐々に半径が広がっていくんだそうです。だから、空を飛ぶ鳥とか地上を素速く動く小動物を撃つのに使われます。

猟銃は見ているだけで、緊張します。長さ一メートルほどの銃身は黒光りしています。見るからに重そうです。実際に持たせてもらったことがありますが、子供の力では銃をちゃんと水平に保つことさえ難しいと思いました。それに恐ろしいです。弾は入っていないから大丈夫だと言われても、引き金を引いたら爆発して弾が飛び出すんじゃないかと思ってしまうのです。銃口を向けられると足がすくみます。

釣り竿は生け捕りにするための道具です。空気銃は軽いし、弾は小さなアルミ玉です。至近距離から撃たれて心臓に当たれば死ぬかもしれませんが、そんなに恐怖感はありません。

でも、猟銃は相手を殺すための道具です。見ているだけでそれが伝わってきて、足が震えるのだと思います。叔父のところではありませんが、日本刀を見せてもらったことがありますが、そのときも同じことを考えました。

この蓮見の叔父さんに「鉄砲撃ち」に連れていってもらったのは、去年の春のことです。叔父さんが家まで迎えに来てくれて、車三台連ねて、目的地に向かうのです。行き先は鹿追というところだと聞きました。初めて聞く地名で、町なのか村なのかもわかりません。兎を撃つのに変だなとも思いました。

市内から一時間以上砂利道に揺られて、畑と落葉松の防風林だけしか見えないところに着きました。道は除雪されていて、雪もほとんど融けていて、ところどころ水たまりができているほど暖かい日でしたが、畑は一面雪におおわれていて、表面はかちかちに固まっていますが、踏み抜くと三十センチか四十センチは深さがあって、子供だと足が抜けなくなります。

春が近づいてきて、暖かくなると兎の活動が活発になって、でも食べ物はろくにないので、防風林の根本を食い荒らすのだそうです。害獣指定になっている動物なので、仕留めた兎の耳二本そろえて市役所に持っていくと百円もらえるのだそうです。奨励金だと叔父は言っていました。

車は二手に分かれて停まりました。先頭を走っていた車が百メートル先のほうに停まったかと思うと、少し腰の曲がったおじいさんが猟銃を斜めに背負って、雪をかぶった畑のなかをどんどん歩いていきます。
「村田のおやじ、また勝手なことをしやがって。兎が逃げてしまう……」と、叔父はぶつぶつ言っています。「さて、こっちも行くぞ」とみんなに号令をかけています。

どうやら、向こうの防風林から兎を追い出して、こちらから迎え撃つ作戦のようです。車の中にいたときから、心臓がどきどきして、あくびばかりしていたのですが、いよいよ狩が始まるのかと思うと、緊張のあまり、声も出ず、息もできなくなりました。

快晴の日で、太陽は真上にあって、半分凍りついた雪の表面がぎらぎら輝いています。

遠くから銃声が響きました。さっきの腰の曲がった老人が撃ったのかもしれません。

一瞬の間をおいて、銃声が何発か続けざまに響きました。

あちらの防風林から、なにか黒っぽい点のようなものが、道のほうにむかって、まるでこわれた玩具のようにぎくしゃく、駆け出しました。

こちらからも銃声が何発も響きました。鼓膜が破れるかと思いました。頭がキーンとなりました。白い煙がふわっと漂い、火薬の臭いが立ちこめました。

兎です。茶色くなりかけた兎。後肢で思い切り蹴ろうとすると、畑の真ん中の柔らかい雪に埋もれて、ちゃんと走れないのです。そして動かなくなりました。

あたりはまた静かになりました。

男たちはしばらく銃を構えていましたが、やがて銃を降ろし、銃床と銃身が別れるところで銃を二つに折って、空になった薬包を取り出している。

え、たった一匹?

僕が叔父さんのほうに目を向けると、なんだかがっかりしたような、怖そうな目をして、倒れた兎のほうを見てから、無言で銃の後始末をしています。そして、
「おい、センちゃん、あれ取ってこれるか?」と言うではありませんか。

え、どうして? 一瞬、意味がわかりませんでした。でも、なぜか反射的にこっくりうなずいていました。試されているんだと思いました。

叔父さんは僕のことを「センちゃん」と呼ぶのです。イズミと呼び捨てにするのでもなく、叔母さんや従姉妹のようにイズミちゃんとも呼ばずに、泉を音読みするのです。物心ついたときには、もうこんなふうに呼ばれていました。僕にとっては第二の名前で、なぜかこう呼ばれるほうが男らしい気持ちになります。

叔父さんは僕を一人前の男として扱おうとしているように思いました。さすがに弾の入った銃を持たせるわけにはいかない。でも、少なくとも獲物を拾ってくるくらいのことはさせたい。叔父さんの心意気が伝わってくるような気がしました。

五十メートルほど先の兎のほうに向かって、歩き出すと、背後から叔父が呼び止めました。

「いいか、耳を持つんだぞ。腹に手を回すな。がぶりとやられるからな」

緊張しました。心臓がばくばくしました。ときどき床が抜けるように、雪に足を取られました。畑の真ん中のほうにいくと雪は浅くなりました。風が通り抜けるので、あまり積もらないのです。

兎はまだ生きていました。生きているというより、左の後ろ肢に弾が当たっただけで、右の後ろ肢にも、前肢にも怪我はないから、ものすごい勢いで前に進もうとしているのです。でも、左後ろ肢に怪我をして、雪は浅くなっているとはいえ、深さ二十センチくらいはあるので、前に進めないのです。ただ足掻いているのです。

一メートルほどのところまで近づくと、兎はものすごい顔で僕を睨みました。口の中は真っ赤でした。血の赤さなのか、兎の口の中はもともとこんなに赤いのか、僕にはわかりません。ただ、長い前歯が狼の牙のように真っ白に光っていました。

猫よりも小さな兎が、僕をおどかしているのです。命がけで僕に闘いを挑もうとしていると思いました。

僕は自分が子供だと思いました。兎は大自然のなかで懸命に生きてきた大人ですが、僕は大人に守られて生きている子供なのです。真っ赤な口を開けて、僕に噛みつこうとしている兎を前にして気後れしました。自分が恥ずかしいと思いました。でも、怖がって叔父さんのところに戻ったら、もっと恥ずかしい。

どうすればいいのか。

僕は暴れる兎の背後に回ることにしました。真正面からではなく、後頭部から耳を捕まえました。でも、野兎の耳は短くて、すぐにすり抜けてしまうのです。白い飼い兎の半分もないから、握ることさえできない。僕は手袋を脱いで、ジャンパーのポケットにしまいました。そして、ありったけの力を込めて、両耳を束にして握りしめました。素手だとなんとか握れます。でも、持ち上げることはできません。兎は二キロか三キロはあったと思います。持ち上げたとしても、後ろ肢をばたばたさせる野兎をそのまま五十メートルの距離を持って歩いて帰ることはできません。

僕は後ろ肢をつかまえてみました。でも、兎の後ろ肢は思ったよりもずっと強く、かえって右手で持った耳を振りほどかれてしまいました。兎はまた雪のなかに落ちて足掻きましたが、前には進めません。

僕はまた同じことを繰り返し、今度は腹を持ってみようと思いました。「がぶりとやられる」かもしれませんが、ほかに方法がないのです。僕は右手で両耳をしっかりと握り、小さな兎の下腹部に左手を回し、そのまま自分の腹に押しつけて、どんなに後ろ肢を激しくバタバタさせても落ちないように、そしてあの長く鋭い前歯が腹を押さえている左の甲に届かないよう、しっかりと上に吊り上げました。そう、両手で兎の体を上下に引き伸ばすようにしたのです。

そうして、焦らずゆっくりと叔父の待っているところに戻っていきました。

叔父はにこにこ笑顔で迎えてくれました。その笑顔が誇らしく思えました。

でも、誇らしさはそこまででした。

兎を受け取った叔父は、小さな体を思い切り地面に叩きつけると、銃床で何度も何度も側頭部を打ちつけたのです。でも、兎は死にません。声にならない声を絞り出し、口も裂けよとばかりに歯を剥き出しにするのです。ほかの大人たちも来て、銃床で叩くわ、ぶ厚い革の長靴の踵で踏みつけにするわ、もうリンチです。

僕は見ていることができませんでした。でも、おまえが持ってきたんだろう。最後まで見届けろという声がします。

さすがに兎はぐったりしてしまいました。でも、まだ息は残っているように思えました。

「どんな動物でも、仕留めた獲物を生殺しにしちゃいけない」

叔父は、そう言いました。でも、僕の膝は震えていました。叔父は、命絶えた兎から、二本の耳をナイフで切り離しました。百円です。

僕が帰りの車の中で何を考えたか、もう覚えていません。たぶん疲れ果てて寝てしまったのだろうと思います。

僕はこの光が丘小学校を卒業すると、東京に行きます。父の仕事の関係で東京に引っ越すことになったのです。

東京のどこに住むのか、どこの中学校に入るのか、僕にはわかりません。名前がわかったところで、どうせ知らない土地です。

ときどき不安な気持ちになりますが、この光が丘小学校で過ごした六年間がきっと支えてくれると思います。そして、何年かしたらまたここに戻ってきて、みんなに会いたいです。

大人になって、叔父さんといっしょにまた釣りに行ったり、山登りに行ったりしたいです。でも、今のところ「鉄砲撃ち」に行きたいとは思いません。一生忘れられない思い出として、ずっとこの胸に刻んでいきたいと思います。

(猫柳香「鉄砲撃ちの思い出」光が丘小学校卒業文集より)