*88 最後の閑話(esq.21)

タイトルを見て、驚いた人もいるかもしれません。

ほぼ半年にわたって、ほぼ一週間に一回更新してきた〈小説のためのエスキス〉と題した試みは中断させていただきます。

「させていただきます」などという珍妙な丁寧語を使うのは、書いてきたのは本人だとしても、読む人と書く人の関係は表裏一体というか、持ちつ持たれつの関係であるということが今回の試みで痛いほどよくわかったので、一方的に中断してしまうのは申し訳ないという気持ちが先立つからです。

単純明快な理由から申し上げると、一週間に一回更新するのがしんどくなってきたということがあります。ならば隔週とか、一ヵ月に一回とか、いくらでもやり方はあるだろうと言われそうですが、この試みは規則的に連載するからこそ意味があり、続けられてきたように思います。

どだい、はじめて小説というものを試みるにあたって、専業の小説家でさえ、体力と精神力を削られるという連載形式(これは日刊紙の連載について、多くの作家たちが言っていることです)を採用したこと自体、身の程知らずであったのでしょう。

正確を期すれば、創作ノートの公開という形式そのものが破天荒でもあり、不遜でもあったわけですが、それにしても、こんなにしんどいものだとは思ってもみませんでした。年寄りの冷や水と言うべきかもしれません。

物語の軸となる人物の名を「猫さん」と呼ぶことで、この小説の試みはスタートしたわけですが、途中から、一人称と三人称の関係が不分明になってきて、小説というものは難しいものだなぁとしばしば考え込むようになった。

それに加えて、構想がどんどん膨らみ、変化していったということがあります(とりわけ*84のあたりから)。

どんなふうに構想が膨らんでいったかというと、そろそろ猫柳泉の父親の亮氏(*73で名前まで考案した)がO市を離れなければならなくなった事情を書かなければならないのですが、下手をするとそれだけでも一篇の小説になりそうな気配になってきたのです。

彼は同じ高等学校に勤めていた若い女性教師と親密な関係になり(つまり不倫関係)、それがために妻(=猫さんの母)は精神を病み、若い女性教師は自殺を図るという、まさにどろどろの三角関係に陥る。この構想——現時点ではむしろ妄想と言うべきもの——が肥大してきて、われながら、これを書き抜くだけの力が自分にあるか、心許なくなった。

これじゃまるで島尾敏雄の『死の棘』じゃないか……。

戦中派の猫柳亮氏は、独学でデカルトに関する学位論文を書いて東京の大学に送り、学位を取得している。不倫相手の女性が自殺を図るに至って、O市にはいられなくなり、妻と子を引き連れて東京に転居するという、まあ、途方もない構図です。

息子の泉は、狂乱する母の姿を直視できずに、同級生の幼なじみである多子(さわこ)さんの家に入り浸り、彼女の優しさに癒される。多子さんは猫さんの初恋の人であると同時に、狂乱し〈不在〉となった実の母親の代わりをつとめていたということになります。その絆が東京に引っ越すことで絶たれてしまう。そして、還暦を過ぎて生まれ育った町に帰ってきた猫さんは、精神科の医師になった同級生の北島晋一宅に招かれ、その妻、多子(さわこ)さんと再会する。そして凍結されていた忌まわしい記憶が一気に溶け出し、猫さんもまた錯乱に陥る。

さて、猫さんは多子さんを奪い取って、O市を終の棲家とするのか。それとも宿痾(?)の記憶喪失から立ち直って、結局は東京に帰っていくのか。

もう、おわかりでしょう。

休まないと体も頭も持たない。妄想はとてつもないエネルギーを消費する。小説家が尊敬される所以でもあり、身を滅ぼす原因でもあるのだろうなと思うに至ったしだいです。

早い話が、この種の長編小説を書く準備はまだ自分にはできていないということです。

 

今抱えている五百ページの翻訳がようやく三分の二あたりまで来たところです。

まずはこれを仕上げなければなりません。

さて、仕上げたのち、膨れあがりすぎた妄想を小説という器に盛る作業に再度立ち向かう気力が戻ってくるかどうか。

ここにネタバレのような、これからの物語の展開を記したのは、ただたんに中絶してしまうのではあまりにも芸がないし、読者の方々に失礼でもあるだろうと思うと同時に、もしこの小説の試みに何か必然性のような、定めのようなものがあるとすれば、きっとまたここに戻ってくるだろうとも思っているからです。そういうものがなければ、ここで途絶えてしまっても仕方がない。

よみがえってくる場所が、このブログになるのか、あるいはすでに本になっているのか、それは書いている自分にもわからない。

いずれにせよ、半年間続いたこの〈小説のためのエスキス〉は書いている本人にとっては、計り知れない収穫がありました。小説とは何かと上から目線で論じることはさほど難しいことではありません。みずから書いてみて、初めて気づくことがたくさんありました。

ですから、ここまでお付き合いいただいた方々には感謝しかないのです。物申したいという読者の方がいれば、コメント欄にどしどしお書きください。コメント欄に公表されるのは抵抗があるという方で、私のメールアドレスをご存じの方は、そちらに一筆お願いします。

ただし、扉の写真だけは頑張って更新します。こっちのほうは週に一度の更新がすっかり習慣になり、楽しくもなってきました。ブログ本文の更新はたまにしかできなくなるでしょうが、せめて写真で一息ついていただけば幸いです。

*87 美術展(esq.20)

*14

 

泉さんは庸子さんを美術展に誘った。もう、三十年前のことだ。

——今度の日曜に砧公園に行かないか。

——公園って、散歩?

——うん、それもあるけど、公園の隅に新しくできた美術館でワイエス展やってるんだよ。

——あら、そうだっけ。美術担当としては迂闊だったわね。ワイエス、好きなの?

——好きというより、ちょっと気になることがあって。名前を知っているだけで、絵は一枚も見たことがない。

——「クリスティーナの世界」も?

——うん。

——わたしは、あの絵、どうも好きになれないのよ。まるで演劇の舞台の一場面みたいで。

——どんな絵なの。

——女の人が枯れた草の上を這い上がっていくの。

——え……。

——ね、え、でしょ。画布の上のほうに地平線があって、いかにも開拓時代のアメリカで建てられたって感じのがっしりした木造の家が二、三軒があって、どうやらその女の人はその家に向かって這っていこうとしているようなの。

——どんな感じの女の人? 若いの、年取ってるの?

——背中から描かれているから顔はわからないけど、若いわね。髪が長くて、ワンピースを着ている。色は覚えてないけど、白っぽくて少し薄汚れている感じ……。

庸子さんは、そう言って、左手で右肘をつかんだ。

——たしか、下半身が麻痺してる人をモデルにしたってことはその絵の解説に書いてあったと思うけど。

——やめておくかい。

——いや、そうは言ってない。実物を見てみないとね。あんがい好きになるかも。よけいに嫌いになるってこともあるけど。

庸子さんは目を少し伏せて笑った。

——でも、あなたのほうから、美術展に誘うなんて、むしろそっちのほうが気になるけど。ワイエスの展覧会のことはどこで知ったの?

——昨日、駅ビルの本屋で雑誌を立ち読みしてたら、「三代続くアメリカの現代画家」というタイトルの美術展紹介記事が目に入ったんだ。画家って二代続くのも珍しいのに、三代って、どういう親子関係だったんだろうと思ってね。とくに現代絵画の世界は破天荒な伝説が多いだろ。アル中だとか、精神病だとか、親子の葛藤とか軋轢とかさ。代々受け継がれていく職人技術ならともかく、芸術なんだから、親子が真っ向からぶつかっても不思議ではない。その辺がどう受け継がれていったのか。

——ふーん、おもしろいじゃない。行こう、行こう。

 

絵から圧倒的な衝撃を受けたのは、誘った猫さんよりも、むしろ庸子さんのほうだった。

〈アメリカン・ヴィジョン〉と銘打たれたその企画展は、まずは、初代のN・C・ワイエスから二代目のアンドリュー、そして三代目のジェイムズへと仕事と画風がどのように変遷していったかを写真と作品とテキストのパネルで説明するイントロダクションの部分、それからN・Cの作品を展示するコーナー、アンドリューのコーナー、そして一番若く同時代的なジェームズのコーナーで締めくくられる、かなり大がかりな構成になっていた。

庸子さんの軽快な足取りは徐々に重くなり、アンドリューのコーナーに入ったときには貧血に見えるほど顔色が青ざめ、作品の前でいちいち立ち尽くす時間が増えていった。

声をかけられる雰囲気ではなかったので、猫さんは同じ展示を三回見て、ミュージーアム・ショップで図録を買うと、庸子さんが出てくるのが目に入る位置にある腰かけに座り、買ったばかりの図録のページを繰った。

どれくらい時間が経過したのか、肩を軽く叩かれて、われに返った。

——待たせちゃってごめん。

——いや、時間を忘れてた。

——図録買ったのね。

——うん。すごい。図録見て、再確認した。

庸子さんは、どこか遠くを見ているようにぼんやりとしていた。

——レストランで何か食べようか。

——何か食べるって気分じゃないかも。公園散歩しない?

広い芝生を取り囲む大きな桜の木のほとんどが花びらを散らし、柔らかい緑の若葉が光を集めていた。花見の時期が終わったばかりで、おそれるほどの人出ではなかったものの、晴れ上がった春の空に誘われて、たくさんの家族連れが公園内を賑わしていた。

歩きはじめて、しばらくしてから庸子さんが口を開いた。

——ねぇ、会社辞めていい?

あまりに唐突だったので、猫さんは自分の左側を歩いている庸子さんの横顔に視線を向けることしかできなかった。二人は結婚したのちも、それまでと同じように教科書会社に勤めつづけた。おしどり夫婦と冷やかされることもあったが、気にはならなかった。

——また絵が描きたくなっちゃった。こんなの初めて。

たしかに、二人はこれまでいくつもの美術展に足を運んだけれど、庸子さんがこんなことを言い出すのは初めてのことだった。

——わたしね、色のついた絵を見て、こんなに感動したの初めてなの。本物のテンペラ画を見るのもじつは初めてなの。テンペラ画ってこんなにすごいものなのね。たぶんアンドリューが研究に研究を重ねた結果の色遣いなんでしょうけど。

また、庸子さんの独演がはじまった。ふだんは無口なのに、一年に一度か二度、たまっていたものを吐き出すように、えんえんとしゃべり出すのだ。

色が向こうから迫ってくるのではなく、自分が色のなかに吸い込まれていくような気がしたというのだ。色のなかにたしかな空気感があって、それに包まれる。まるでこの公園にいて、緑の芝生があって、桜が大きく枝を張り、鳥が鳴き、虫が飛んでいる、そんな感じ。正確に風景を模写したというのじゃなく、風景を画布のなかに取り込んで、そこを空気が自在に行き来している感じ。ヨーロッパの写実主義にも日本画にもない、リアルな感じ。画家が何かを表現しているのではなく、人も動物も生物も風景も、そこにそっと佇んでいる。

庸子さんのいつ終わるともしれない独り言を耳にしながら、猫さんも、作品の印象を反芻していた。いや、反芻ではなく、忘れていた記憶が揺り戻ってくる感じがあった。三代にわたるワイエス家の画家たちが描き出す風景、風物は、彼が育った北海道の空、風、雪、川そのものだった。N・Cの描くインディアン——ネイティブ・アメリカンというのが正しい呼称かもしれないが、それではイメージと肉体が伴わないので——は、猫さんが小学生だった当時、どのクラスにも一人や二人いたアイヌの少年少女を思い出させた。しかし、N・Cの作品にある生命の率直な躍動感のようなものが息子のアンドリューの代になると、なぜか息を潜めて、どの作品にも沈降する死というのか、質量感とでもいえばいいのか、そういうものが画面の奥へ奥へと引きこもっていくように見えるのは、どうしたことなのだろう。舟や納屋や牛舎の内部に湛えられた静けさ、無時間の感覚はただ事ではない。

庸子さんも同じことを考えていた。アンドリューの裸婦は——背景こそ窓の開いた室内であったり、奥深い森のように見えるものであったりするが——、きわめてがっしりとした骨盤を持つ肉厚の女性たちばかりだ。テンペラ画に描かれた彼女たちの肉体は、中学生のときに美術室で初めて出会った石膏像の手触りそのもの、あのミロのビーナスの堂々たる腰回りを思い出させる。

——わたし、また絵を描く。アンドリューの水彩を見て、絵が呼んでる、色が呼んでるって思ったの。

公園内の散歩はえんえんと続いた。公園の縁は起伏のある林になっていて、その向こう側には住宅街を抜ける道路が走っていた。公園の南側の空を高速道路がかすめていた。

二人はもう子供をつくることは断念していた。築地の病院では、人工授精とか、最新の生殖補助医療も紹介してくれた。しかし、すべて手を尽くして、目的がかなえられなかったらどうするのか。今よりもずっと絶望するように思えた。むしろ、子を断念することで開ける人生もあるのではないか。温厚で包容力のある婦人科の看護師さんは、「それは賢明な選択だと思います。わたしもそのような人生を選びましたから」と言った。

庸子さんは出版社を辞めて、来る日も来る日も鉛筆のデッサンに取り組んだ。そして、ある日、そのデッサンに水で溶いた薄い色をのせた。満足できるものに仕上がると、額に入れて寝室に飾った。

川辺に咲いていたマーガレットの一輪とか、気に入って買ってきたグラスやお茶碗とか、読みかけの本とか。窓のレースを通して入ってくる陽射しとか、風をはらんだカーテンとか、日常のあらゆるものが、画用紙のなかに取り込まれた。

猫さんは趣味にしておくのはもったいないと思い、会社に持っていくと、本の挿絵や装幀に採用されるようになった。その評判が口コミで広がり、ほかの出版社からも声がかかるようになった。

こうして庸子さんは少しずつ忙しくなっていった。

自分の胸にしこりがあるのに気づいたのは、ワイエス展から数えて五年後のことだった。

*86 泉さんの回想(esq.19)

*13

 

庸子さんの物語を猫さんが知ったのは、彼女が住む洗足のアパートで初めて二人が結ばれた日のことだった。

庸子さんは堰を切ったように朝まで語りつづけた。その間、猫さんは隣でうとうとしたり目覚めたりを繰り返しながら、話をずっと聞いていた。聞いていたというよりも、耳に入っていたというべきかもしれない。庸子さんの声は、メゾソプラノかアルトか、ちょうどそのあいだくらいの柔らかい声だった。それに加えて、少し滑舌の悪いところがあって——正確に言うと、ときどき興奮して声が高くなると、ファルセットのように声が裏返る——、言葉が乱れるたびに、猫さんは沈みかけた眠りから釣り上げられる。

彼女がしゃべり疲れて眠りに落ちたとき、彼もまた聞き疲れて眠りに落ちた。

白々とした光のなかで目が覚めたとき、彼女はすでにゆったりした生成りのブラウスにジーンズをはき、足を組んでインスタントコーヒーを飲んでいた。

——飲む?

猫さんは無言でうなずくと、服を着て、トイレに入り、顔を洗って出てくると、丸テーブルの上にはコーヒーが用意してあった。ソーサーの上には角砂糖とスプーンがが置いてあり、その隣に瓶の牛乳が立っていた。

庸子さんは語ることはもう何も残っていないと思ったか、もう何もしゃべるまいと心に決めたか、唇は一文字に結んだままだったが、化粧を落とした素顔は晴れやかだった。

猫さんのほうも満ち足りてはいたけれど、人の話を聞くだけ聞いて、自分のことは話さなくてもいいのかという思いが残っていた。でも、庸子さんが何も言わず、何も訊いてこないので、自分のほうからあえて打ち明けるという気分にはなれなかった。コーヒーに角砂糖を一つ落とし、牛乳の蓋——厚紙の押し蓋——を開け、コーヒーと牛乳を交互に飲んでいるうちに、また軽く勃起してきた。自然と腰が上がり、彼女の額に唇をつけた。

 

猫さんと庸子さんの夫婦は二十五年続いた。あるいは二十五年で途切れた。その間に夫は妻にどれだけのことを語り、妻は夫にどれだけのことを語ったか。自分の学生時代のことを、どのくらい語っただろうか。何も語らなかったわけではない、もちろん、二十五年も一緒に暮らしていたのだから。おまけに子供のいない夫婦であったから。よく話した夫婦だったのではないかと猫さんは思うのであるが、こればかりは他の夫婦と比較ができないので、なんとも言えない。

でも、自分の学生時代の、あの失恋、あの理不尽な別れと、その後の失意と絶望の一年については、築地の病院の看護師さんに話したこと以上のことは、結局何も話さなかったのではないかと思い、そのことがなぜか、猫さんの悔いになっているのである。

庸子はあれだけ自分の失恋、あるいは破綻した恋について語っておきながら、なぜ夫の過去を問い質すことをしなかったのか。気遣ったのか。知る必要を感じなかったのか。

それが今となっては——今さらのように——、猫さんの心残りになっているのである。

猫さんが彼女——もちろんこの彼女は庸子さんのことではないし、庸子さんの場合と同じように、相手の固有名詞もあえて特定しないけれど——と知り合ったのは、彼が大学に入った年の夏のことだった。

夏休みは金を貯めると決めていた。入学したばかりで勝手がわからず、前期はたいしたアルバイトもできず、なけなしの貯金——心配した親から渡された小遣い——はほとんど底をついていた。

求人案内をいろいろ調べた結果、昼はデパートのお中元の仕分けと発送、夜は同じデパートの屋上で夏場だけ営業するビアガーデンの求人に応募するという強攻策に打って出た。時給の単価もさることながら、肉体労働とはいえ銀座のデパートで働くというのも魅力のひとつだった。そのビアガーデンで二人は出会ったのである。ジョッキをテーブルに配り歩く仕事はまさに重労働だった。一リットル入りのジョッキを左右の手に三つずつ持って、ひっきりなしに場内を歩き回る。腕も脚もまさに棒になった。彼女は厨房で食器洗いを担当していた。昼は歯科衛生士の学校に通っているとあとで聞いた。

仕事は過酷だったが、爽快だった。本とノートと筆記用具から解放されることがこんなにも心躍ることなのかと思った。

デパートのビアガーデンは九時がラストオーダー、十時には店じまいとなる。ホール担当はテーブルの上を布巾できれいに二度拭きし、コンクリートの床にデッキブラシをかけ、モップで水分を吸い取って業務終了となる。厨房の食器洗いもそのころ同時に終わる。

アルバイト学生がいっせいに乗り込む帰りの業務用エレベーターのなかで、たまたま二人の視線が合った。その日は勤めて初めての金曜日だった。土曜日の夜のビアガーデンは休業で——週休二日制にはなっていなかったけれど、土曜日は午前だけ、当時はまだ「半ドン」という言葉が残っていた——、アルバイト料は日給だが、週末の金曜日に支払われることになっていた。

夜の銀座は、ここは日本かと思うほどネオンが美しく、街路は整然として、夜風に揺れる並木は涼しげだった。当時は新宿も渋谷も池袋もまだ雑然として騒がしく、戦後のまま時間の止まっている場所がいたるところに残っていた。銀座だけ、時代を超越しているかのようにとり澄ましている。

デパートの裏口から銀座の裏通りに出たとき、解放感のあまり、猫さんは思わず大きな声を出した。深呼吸したつもりだった。そのとき背後で、クッと笑う声がした。よほどタイミングがよかったのだろう、自分のほうから女性に声をかけたことなど一度もない猫さんが「ぼくらもビール飲みに行きませんか」と誘ったのである。

二人は表通りに出て、ビール会社の経営するビアホールに入った。二人とも給料をもらったばかりで、自然に笑みがこぼれた。彼女は小柄で丸顔で、髪は短かった。ほとんどすべてが庸子さんとは正反対だったと、今になってあらてめて猫さんは思い返すのである。

その夜から二人の付き合いは始まった。若かったし、疲れていたし、まだろくに飲み方も知らないビールが全身に回ってしまえば、もうとめどなかった。彼は初めて女の身体を知った。嘘だろうと思った。なぜか。夢精のときの、あのもどかしくも吸い込まれるような快感が、そっくりそのままそこにあったから。自分は蝶になった夢を見ているのか、蝶の夢にまぎれこんでしまったのか。

彼女は豹変した。陸の生物から海の生物へと姿を変えた。汗ばむ肌は潮の香りを含み、全身が溶けて、ペニスは標的を失った。やがて風は怒気を増して海面を逆立て、彼はたちまちなぎ倒されて、海に沈んだ。

彼には何が起こったのか理解できなかった。暴風雨に襲われたようでもあり、気の遠くなるような進化の時間を一瞬にして経験したようでもあり、そんな快感を最初に知ってしまったことは、けっして幸福な記憶とはならず、かえって苦い思い出となった。相手は天然の娼婦というべき女性だったかもしれないし、そうだとすれば、なぜそんな女が彼を選んだのかもわからないし、ただ濃密なだけのこの奇妙な性的関係が、なぜ一年も続いたのかもわからない。

次の年の夏がめぐってきて、いつものように仕事の帰りに——彼は家庭教師の口を見つけ、もう肉体労働はしていなかった——、彼女のアパートに寄ったとき、思いがけない言葉が彼女の口から出てきた。「できちゃったみたい。ちゃんと計算していたのにね」

頭の芯が痺れて、すぐには返事ができなかった。彼女は若いのに、毎朝自分の体温を記録し、避妊具も用意していた。「だいじょうぶ。あなたに迷惑かけないから」と言った。

目の前が真っ白になったか、真っ暗になったか、そのとき自分がどんなに情けない顔をしていたか、もちろん本人にわかるわけがないし、そもそも相手の言っていることの意味がわからなかった。迷惑をかけない?

迷惑ってなんだ?

結婚して、籍を入れて、ちゃんと産んで育てようと言った。

彼女は伏し目がちになり、さびしそうな、相手を見下したような、かすかな笑みを浮かべた。同い年のはずなのに、一回りも二回りも年上に見えた。「うん、ありがとう」と彼女は答えた。

帰り道、大学をやめなくてはならない、と猫さんは思い詰めた。去年の夏の、あの解放感を思い出していた。学者の家に育ち、厳格な父の影響圏から逃れようとして一人暮らしを始めたのだ。学校をやめ、一人の労働者として所帯を持ち、父親になり、子を育てることはまっとうな人生の道を歩むことではないかと、健気に考えた。

そう思うと、あの学内でラウドスピーカーでがなり立てている学生たちに対する憤りのような、敵愾心のようなものが、ふつふつと自分の内部に沸きあがってくるのを感じた。自分自身が学生であり、大学に所属しているのに、大学解体を叫ぶ。学費はいったい誰が払っているのか。大学を解体して、自分たちで新たな、自由な大学を創るなんてことが可能だと本当に信じているのか。あらゆる政治制度に対する、あのすべての抗議と主張を、きみたちは本当に信じているのか。

すべてはパラノイアの妄想ではないか。自分を何様だと思っているのか。

おれはそういうものをすべて捨てよう。たったひとりのふつうの人間になって、ふつうの生活者になって、誰にも知られず、何ひとつ主義主張を語ることなく、妻を愛し、子を愛し、黙々と働き、生きていこう。宮澤賢治のような言葉が浮かんでくると、顔が火照って、何も恐れることはないという声が聞こえてくる。

この期に及んで、猫さんは正しい人でありたかったのだ。

主義主張がなんであれ、人は正しいことをしようとして、正しい言葉でみずから納得しようとするとき、じつは何も見えなくなっている。女に溺れることと、主義主張、政治思想に溺れることは同じことなのだという考えは、若い人にはふさわしくない。同時代を生きる青年の表と裏に過ぎないということも、どちらが表で裏なのかも、その時代を生きている人間にはとうてい知り得ないということなど、わかるはずもない。

それにしても——と、還暦を過ぎた猫さんは思うのだ——なんと口惜しい青春か。

次の週の家庭教師の帰りに、彼女のアパートに立ち寄ると、鍵がかかっていた。いつもなら、その曜日のその時間帯には彼を待っているはずだった。それが一年間続いた習慣だった。

食料でも買いに出たのかもしれないと思い、部屋の前の吹きさらしの通路でしばらく待った。隣の住人が出てきた。顔見知りになっていたので、向こうから声をかけてきた。たぶん、今夜は帰ってこないのではないか、昨日、救急車が来て運ばれていったから、と言う。

病気なのか、怪我をしたのか、事故か、事件か、どこの病院に運ばれたのかと畳みかけてみても、そのとき部屋にいなかったからわからないという答えしか返ってこない。彼女が帰ってくるのを待つしかなかった。当時は、若くて部屋に電話を備えている人は少数だった。携帯電話など夢のまた夢、いや夢を見る人さえいなかった。彼女のほうから彼の部屋にやってくることはなかった。

毎日のように彼女の部屋を訪れても、鍵はかかったままだった。

一ヵ月がたったある日、訪れてみると部屋のドアが開いていた。覗いてみると、部屋は空になっていて、大家がいた。どこに行ったのかと尋ねてみると、越した先は聞いてないけど、実家にでも帰ったんじゃないの。若くして流産したんじゃ、辛いだろうし、養生もしなくちゃならないだろうし、という。

流産? 妊娠を告げられたときよりもなお深い穴に突き落とされたような気がした。しかも、なんの相談もなく姿を消した。何もかもわからなくなった。

子供というものは、母親のものなのか。胎のなかの児はひとりで身ごもったものなのか。おれはいったい何者なのか。彼女にとって、自分はなんだったのか。彼女はなぜおれを選んだのか。何が目的だったのか。

明晰に考えられることなど何ひとつなかった。

ただ自分は取り残され、どこかに流れていった胎児のように捨てられたという感情だけが潰瘍のように腹部を蝕んだ。

まるで夢のようだという思いは、すべて嘘だったのかという思いに変わった。彼女が歯科衛生士の学校に通っているということも、郷里は四国の松山で、家は観光客相手のお土産屋で、兄が一人いるという話も、すべて彼女の作り話のように思えた。

かりに作り話ではないにしても、意味を失う。彼女とはもう接点がないのだから。

おれは他人の記憶のごみ箱ではない。

おれは同じことを繰り返している。

生まれ育った土地を捨て——いや、捨てさせられたのだ——、東京に出てきたときも、ただ呆然として、新たな環境に馴染むことができなかった。教室のなかで一人取り残された感じ。世界から見捨てられている感じ。

なぜこんなことが繰り返されるのか。

このおれの、いったい何が問題なのか。

こうして猫さんは大学を休学した。朝夕は新聞配達をして、家庭教師の仕事は続けた。残った時間はひたすら本を読んだ。

結局その一年間で得たものは、ただ、時間はたしかに慰謝を与えてくれるという手応えだけだったが、そのおかげで猫さんは、あの荒れ果てた大学に戻るしかないと腹をくくることができたのだった。

遠い記憶のなかで彼女の顔も声もかすんでしまっている。あれほど激しかった快楽の記憶も、もう何万年も前の化石のようでしかない。しかし、かすかな記憶のなかで、ひょっとして彼女は本当にこの自分を愛していたのかもしれないと思うとき、人が過去を美化するのではなく、過去のほうで人間に余計な思いをさせないようにしてくれているのだという作家の言葉を、猫さんはあらためて噛みしめるのである。上手に思い出せる人は幸せだ。

*85 庸子さんの回想(esq.18)

*12

 

二人は故意に会話を避けようとしていたわけでも、話すべきことがなくなったわけでもなかった。むしろその逆に、結婚して以来、これほど会話の必要、欲求を感じたことはなかったのである。しかし、お互いにどう切り出せばいいのかわからなかった。言葉はそれぞれの心のなかでわだかまり、出口を見失っていた。

夫婦のどちらにしても器質的な問題なり異常は見当たらず、婦人科の看護師さんの指導に従って規則的な性生活を営んできたにもかかわらず、妊娠の徴候がない。

原因が見つからないということ自体が不安を招く。不安は現在と未来に属するものであるにも関わらず、人は過去との因果のなかにその由来を求めようとする。そして、どういうわけか、事態を悪いほう、悪いほうへと追いこんでいく。

 

——何もかも失ってしまった。

わたしはまた同じ言葉を繰り返している、と庸子さんは思う。あそこに断絶点があって、そこで自分は途切れている。一年間の生理の途絶えは、けっして女性の肉体の失調ではない。わたし自身が、そこで途切れ、それまでの自分は死んでしまったのだ、と思う。事実、死のうとさえしたのだから。

幼いころから優等生だった。女の子にしては背も高かったし、運動神経もよくて、ピアノの上達も早かった。父は銀行員で、母は専業主婦、小さいころからたくさんの習い事をさせられた。長女の庸子さんは、父にも母にも従順だった。素直に教えを守り、勉強をした。だから成績はよかった。

絵を描くことに目覚めたのは、中学校に入ってからだった。美術の時間に初めて石膏デッサンに触れて、夢中になってしまったのだ。先生に褒められたことは大きかった。だが、それよりも、ふだん文字と記号を書くために使っている鉛筆に、こんなに豊かな造形力が潜んでいるとは思ってもみなかった。石膏の——少し煤けて肌理の粗い——白い肌にうっとりした。でも、あの石膏たちは、元はといえば、どれも古代ギリシア・ローマの遺跡から象られたものなのだ。世界中の美術教室に散らばった二千年前の大理石像の複製。それを遠いアジアの果ての島国の、小さな中学校の、小さな美術教室で、十歳を超えたばかりの少年少女たちが息を詰めて、描き写している。

もちろん、そのとき中学生だった庸子さんが、そんなふうに考えたわけではない。失われてしまった自分の少女時代の、もっとも美しい思い出が石膏デッサンに目覚めた瞬間にあると、傷ついて大人になった今の——二十代なかばを過ぎた——庸子さんが思うのである。

彼女は、山の手の住宅街にこぢんまりと佇む、戦前に建てられた和洋折衷の居心地のいい家で育った。でも、そのころの東京は高度成長期に入って、どこもかしこも建設工事現場だらけ、電車は満員、道路は渋滞、あちこちでデモ隊が警官隊と衝突していた。

騒がしいのは苦手だった。大きな音を耳にするだけで、足がすくんだ。

美術教室は静かだった。そこでは時間が止まっていた——二千年以上前から。アジアでもヨーロッパでもない、世界のどこにもない場所、その密やかな空間の中で、2Bの鉛筆の音だけがさらさらと響く。画用紙に最初に薄く十文字の線を引く。そこに全体の輪郭を埋める。カールした髪の細部、眉、鼻梁、顎の線を引き、影をつけていく。

たしかにそれは目の前の石膏像——メディチでもいいし、マルスでもいいし、アリアスでもいい——を描き写しているのだけれど、白い紙の@なか{傍点}——けっして紙の上ではなく——に、一つの像が立ち現れていく時間は、まぎれもない造化の時間であって、世界のどこにも属していない、その真っ白な時間にわたしは魅せられていたのだと、今の彼女は思う。

そして、庸子さんは地元の——まだ大学区制にはなっていなかったころの——高校に入学し、美術部に入った。そこで鉛筆は木炭に代わり、画用紙は木炭紙に変わった。それは初めて毛筆を握ったときのとまどいにも似た衝撃を彼女に与えた。腕と手が宙に浮いていて、肩から上腕、二の腕から手首、指先までの筋肉の微細な連携が木炭にそのまま乗り移っていく。描いた線を消すときには消しゴムではなく、食パンを使うのも新鮮だった。彼女はますます粗描の世界へのめり込んでいった。

そこまではよかった。造形の世界がデッサンから水彩画、油彩画へと広がっていったとき、彼女は小さな躓きを経験する。高校の美術部では——おそらく美術の世界全般においても——、木炭のデッサンはあくまでも水彩や油彩、あるいは彫刻作品へといたる前段階のレッスンとしかみなされていなかった。

色って、何? 形はつかまえられる。でも、色はつかまえられない。逃げていく、彼女にはそう感じられる。鉛筆や木炭で把握した精緻な物の形が、色を塗ったとたんに溶けていく。一所懸命に目の前の色をつかまえて、画布に定着させようとするのだが、色と自分の目のあいだ、色と自分の手のあいだに隙間があるのを感じてしまう。

もちろん、彼女は小学校でも中学校でも、絵の具を使って風景や花を写生をしたり、自画像を描いた経験はあった。でも、彼女が強くひかれたのは、あくまでも石膏像のデッサンだった。色彩の世界にひかれたことは一度もなかった。油絵の具には触れたことさえなかった。

庸子さんの色覚に異常があるわけではなかった。しかし、彼女の内部には、色彩に対する頑なな抵抗が潜んでいた。あるいは、色がうるさいと感じられる。とりわけ暖色系の、赤、紅、緋、茜、臙脂と呼ばれる色彩群は、大きく口を開けて叫んでいる口腔内の赤い色を思い出させる。あるいは月に一度の血の色。オレンジ色に染まる夕暮れも秋の紅葉も庸子さんには刺激が強すぎた。

せいぜい心洗われるのは新緑の季節、澄みきった冬の空。色は淡ければ淡いほど、心に染みた。色がはみ出ないように、騒がないようにと神経を使い、その結果、絵は静かになるが、色は画布の奥に引っ込んでしまう。

石に象られた二千年前の胸像を紙の上に描き写したときには、命が通う感動と興奮を得ることができるのに、自然界の物を描き写すと、どうして死んでしまうのか。

でも、庸子さんは努力家だから、あきらめなかった。デッサンは得意だったし、勉強もできたから、美術大学に入ることはそんなに難しいことではなかった。両親も、娘がまさか画家を志しているとは思わなかったから——本人にもそこまでの野心はなかった——、反対はしなかった。

しかし、そこで予想外の挫折が待っていた。色がなんであるか、ますますわからなくなってしまったのである。庸子さんにとって、物の本質は形態にある。色はその装いにすぎなかった。一個の石に赤い絵の具を塗れば赤くなり、青を塗れば青くなる。そういうものと思っていた。だから印象派の画家たち——前期にせよ、後期にせよ——の色彩の冒険は、まったく縁遠いものだったのである。

そして、美大に進学したのは間違いだったのではないかと深刻に悩みを深めていった三年目の時期に、出会ったのである。まさに色彩の野獣のような男に。

友人と好奇心から覗きにいった油絵科のアトリエに、その男はいた。ちなみに庸子さんは、油絵にひかれることはなく、色彩には苦手意識はあったものの、静かで芯の強い岩絵の具には憧れるところがあったので、日本画科を選んだのである。

その第一印象は、汚い、であった。男も絵も、何もかも。何日も洗っていないにちがいないシャツとジーンズ、髪はもじゃもじゃの長髪。百号のキャンバスに何やら絵の具を叩きつけているが、何を描いているのかはわからない。いわゆる抽象画と呼ばれているものくらいのことはわかっても、それ以上の距離は縮まらない。それどころか見ていて吐き気がしてきた——ほんとうに。鼓膜が痛くなってきた——ほんとうに。

庸子さんの苦手な赤系統の色、茶色、焦げ茶、ダークグレー、黒、重苦しい色たちが、これでもか、これでもかという具合に、画布に盛り上げられている。足もとにはペンキの缶、砂や泥を入れたバケツもあった。

彼が何を描いているかではなく、彼が何をしているのかがわからなかった。激しい嘔吐感に襲われて、すぐに立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。

——おい、失礼だろ。

庸子さんはハンカチで口もとを抑えながら、立ち止まり、振り返り、頭を下げた。そして、そのままトイレのほうに足早に歩いていこうとした。声はなおも追ってきた。

——おい、どこへ行くんだよ。トイレか? だったら用がすんだら戻ってこいよ。挨拶するくらいは礼儀だろ。

庸子さんは吐き気と恥ずかしさで泣きたくなった。トイレに入ると、不思議と吐き気は収まった。あの共同アトリエには戻りたくなかった。また吐き気がぶり返してきたらどうしよう。でも、お嬢さん育ちの庸子さんは、礼儀知らずと言われたまま立ち去るわけにはいかなかった。

友人と二人で恐る恐るアトリエに戻ると、男は後片づけをしているところだった。二人が戻ってきたことに気づくと、愛嬌のある笑みを浮かべた。

——へぇ、戻ってきたんだ。見所あるじゃん。

三人は学食の売店——まだ自動販売機は学内にはなかった——で瓶のコカコーラ——缶もまだ普及していなかった——を三本買うと、木陰のベンチに座った。新学期が始まったばかりで、キャンパスを歩く学生の数多く、楓の若葉を揺らす風が気持ちよかった。

——オレの絵を見て、ほんとに吐き気を催すなんて、見所あるじゃん。

彼は——固有名詞を思い出したくない庸子さんのために名前は出さない——「見所」という言葉を二度使った。

——評論家なんて、頭の悪い不感症女みたいなもんだから、吐き気さえ感じないんだよ。そんなんがこの学校で先生やってんだから、退屈しちゃうよね。

だったら、やめればいいのにと庸子さんは思った。

最初は吐き気、次には反発、そのあとのことは成り行き、詳しく書いたところでさほどおもしろくもなく、美しくもないので——庸子さんにとっても、読者にとっても、また筆者(書いているこの私のこと)にとっても——、要所だけかいつまんでお伝えしよう。

とにかく、その日から彼と庸子さんの付き合いは始まったわけだが、どちらかと言えば潔癖症に近い庸子さんが、身なりにも清潔にも無頓着な男に引き寄せられたのは、ひとえに色彩についての彼の考えなり信念によるものだった。庸子さんは健気にも、自分の色彩に対する弱点を克服しようとしていたのである。

色は光の属性ではない、というのが彼の持論だった。

——いいかい、色は物それ自体の属性なんだ。林檎は深夜、闇の色に染まるかい? 光が当たるから赤く見えるのかい? 違うよね。青い林檎は昼でも夜でも青いよね。夜に食べても朝に食べても、酸っぱい林檎は酸っぱいよね。ニュートンはさ、林檎が落ちるのを見て、あれは落ちてるんじゃなく、地球が引っ張ってるんだと考えた。そして、地球が引っ張っているだけじゃなく、林檎もまた地球を引っ張っている。ほんのわずか、地球は林檎のほうに引き寄せられている。色もそれと同じなんだ。生き物であれ、無生物であれ、物には力がみなぎっている。物がそういう形をしているのは、そこに力の臨界線のようなものがあって、かろうじて均衡が保たれているからなんだ。そして、この均衡はたえず、そして永遠に揺らいでいる。石を風の通り道に置いておけば、百年かそこらで風化してしまうだろう。百年なんて、あっという間さ。そう、だからさ、色彩はね、その物が内部に貯めこんでいるエネルギーが表面ににじみ出て、光に照らされて、おぎゃーって声を上げているんだよ。色は命なんだ、生命なんだ、命の色は赤いんだよ。空は死の色だよ。赤い命が通わなくなった死の世界なんだ。でも、美しい? いや、だから美しいのかもしれないね。だったら、オレはさ、美しいものは描きたくないのさ、どろどろした生まれたての、血みどろの胎児みたいなものを描きたいのさ。

庸子さんが愛したのは、彼の絵でも、肉体でもなく、言葉だった。その言葉に彼女は自分の身を捧げた。いや、そんな受動的なことではなく、むしろ、刺し違えたのである。

庸子さんは表向きはおとなしく清楚だったが、情熱の人であり、果断の人でもあった。

庸子さんは彼の言葉を愛した。しかし、自分の肉体や生活を疎かにすることには違和感を覚えた。身なりも身体も清潔にしていてほしいと思った。部屋は小ぎれいに片づけ、小まめに掃除してほしいと思った。ちゃんとしたものを食べてほしいと思った。

けれど庸子さんは、彼の生活に手を伸ばそうとは思わなかった。たとえ、彼の散らかった部屋で、風呂にも入っていない肉体に抱かれようと。

そして、ある日、彼が誰か知らない女の人と駅前を歩いているのを見たとき、彼女は終わったと思った。

それは嫉妬ではなかった——いや、それが嫉妬なのかもしれないけれど。彼女には見えたのである。その誰か知らない女の人は、きっと彼の部屋を片づけ、掃除をして、洗濯してやり、お料理もしてあげているのだろうと。

そして、彼が画家になることもないだろうと思った。

わたしも絵をやめよう、そのとき、彼女は思ったのである。

それからの庸子さんは、大学では粗描だけに没頭した。卒業制作を仕上げるのは辛かったけれど、できるだけ色のない、白い牡丹の絵を描いた。

*84 夫婦(esq.17)

*11

 

深く愛し合っていて、深く信頼し合っていて、性の営みにも深い悦びがあり、二人とも切に子ができることを願っているのに、願いの叶わない夫婦がある。産婦人科学会の統計資料によると、ごくふつうの性生活を営んでいれば、一年間で約九〇%の夫婦が妊娠する。千組の夫婦がいれば、九百組の夫婦に子が授かる。残る百組は一般不妊治療を受け、基礎体温表に基づいて排卵日を予測して、受精の確率を高める方法を試したり、男性の精子に問題がある場合には薬物治療を受けたりすれば、五十組が妊娠に至り、残る五十組も体外受精や顕微授精などの生殖補助医療を受ければ四十組が妊娠する。しかし、それでも妊娠に至らず、治療を断念する夫婦が十組は残る。

 

猫柳泉と庸子さん夫婦が不妊に関する相談を受けるために、築地にある総合病院の産婦人科を訪れたのは、正式に結婚してから一年後のことだった。それまで三年近く、互いのアパートを行き来していた期間があったから、同い年の二人はすでに三十歳を目前にしていた。今からだと三十年以上前のことである。

電話で予約した日の朝に産婦人科の病棟を訪れると、相談室というプレートのかかった部屋に案内された。室内には、豪華でもなく、粗末でもない、黒い合成皮革の応接セットが置かれていた。壁を背にした長いほうのソファに腰を降ろし、数分待つと、白衣を着た年配の看護師さん——当時は看護婦という呼称が一般的だったけれど——が現れた。二人はまだ若かったから、落ち着き払った看護婦さんの物腰に安心はしたものの、緊張感が和らぐことはなかった。

——不妊のご相談と伺っていますが、それでよろしいですか?

二人はまず無言でうなずき、その直後に「ええ」という声がほぼ同時に出た。

——そうしますと、まず前提条件からご説明しますね。今の産婦人科の基準では、二年間妊娠の徴候が現れない場合に不妊症と認定するということです。

庸子さんがうなずいた。いろいろ本を調べて、そのことは知っていた。

——そこで、まずはいろいろ質問させてください。立ち入ったことも伺いますけど、治療の一環だと思って、照れずにリラックスして、正直に答えてください。

そう言うと、看護師さんは膝の上のファイルを開いた。

——ご結婚なさって一年ということですが、婚前交渉はありましたか?

二人は同時にうなずいた。

——同棲なさっていたということでしょうか?

二人は視線を交わし、なんとなく庸子さんが答えることになった。

——いいえ、同棲はしていませんが、お互いのアパートをよく行き来していました。

——どのくらいの期間ですか?

——三年ほどです。

——どのくらいの頻度で行き来なさっていましたか?

——週末はいつもどちらかのアパートで過ごしました。

——今はご結婚なさって、一緒に暮らしているのですね?

——はい。

二人はなんとなく見つめ合った。

——基礎体温表のようなものは付けていますか?

庸子さんは「はい」と答えて、大きめのハンドバッグのなかから、仕事に使う手帳を取り出した。そこに毎朝の体温が記されている。

——見せていただいてもいいですか?

庸子さんはうなずいて、手帳を差し出す。

——基本的にはこれでけっこうですが、これからはグラフにして体温の変化を見やすくしたほうがいいかもしれませんね。基礎体温の正しい計り方については、あとで説明書をお渡ししますので。

看護師さんは手帳を戻すと、開いたファイルに目を落とし、そのなかの問診票のようなものに何か書きつけている。

——まずは奥さんのほうからお尋ねしますね。月経は規則正しいほうですか?

——早めに来たり、遅くなったり、規則正しいとは言えないかもしれませんが、必ず来ます。今は……。

——今は? というと、止まっていた時期があるということですか?

——はい。

——それはいつごろですか?

——学生時代の終わりから、働くようになってからも、しばらく続きました。

——どれくらいの期間ですか。

——三年くらいは続きました。

——再開したのは?

——四年ほど前です。

——つまり、ご主人とお付き合いするようになってからということですか?

——ええ、だいたいそういうことになります。

——月経が止まってしまった理由に心当たりがありますか?

——ええ、たぶん、当時付き合っていた人と別れたせいだと思います。

——そのとき、流産とか、あるいは堕胎とか、経験しましたか?

庸子さんは無言で顔を横に振った。看護師さんはさっきから顔を上げて、相手の目を見て質問している。庸子さんは隣にいる夫のほうに視線を向けた。失恋の経緯について、だいたいのことは知っていたから、猫さんは動じなかった。看護師は淀みなく続けた。

——セックスの回数を教えていただけますか。毎日とか、週に何回とか……。

猫さんと庸子さんは顔を見合わせた。どちらが答えるか、互いにさぐっている。結局、庸子さんが答える。

——その週によって変わりますけど、だいたい一回か二回くらいですね。最近は、排卵日がやってくる週には毎日するようにしているんですけど……。

——それでも妊娠しないのですね。でも、まあ、焦る必要はありませんよ。お二人ともまだお若いんですから。

そういうと、看護師さんは視線を猫さんのほうに移した。

——言うまでもなく、不妊には女性側に原因がある場合と男性側に原因がある場合があります。その両方というケースもあります。お二人は信頼し合っているご夫婦だとお見受けしましたので、あえてお尋ねしますが、もちろん、答えたくない場合には答えなくてもかまいません。ここは警察の取り調べではありませんから、黙秘権とか、そんな大げさなことではなく、しゃべりたくなければ、それはそれでなんの問題もありませんので。

と言って、看護師さんはそれまで以上に顔を崩して笑みを作った。

——はい、答えられる範囲で答えます。

猫さんとしては精一杯ユーモアを交えたつもりだった。

——奥さんが妊娠しないことについて、ご主人の側から思い当たることはありませんか?

——というと?

——不妊因子が自分のほうにあるのではないかと思ったことはありませんか?

——つまり、僕の精子に問題があるということですか?

——それは検査してみないとわかりませんが、その前に本人に思い当たる節はないかということです。さきほど奥さんが、失恋によって月経が止まったということをおっしゃってましたが、それに類することです。

猫さんは庸子さんのほうを見た。庸子さんの目は少し潤んでいるように見えた。何を言ってもかまわないと促しているようにも見えた。

——僕も彼女とほぼ同時期に失恋したというか、ある女性との関係が終わってしまいました。彼女は妊娠したのですが、流産してしまったのです。でも、でもその事実を知る前に僕らの関係は終わってしまったのです。流産の原因がなんだったのかもわかりません。

看護師は笑みを絶やさずに、猫さんの言葉を聞いていた。庸子さんはその看護師さんの笑顔をじっと見つめていた。

——ああ、そうでしたか。辛いことをお尋ねしてしまいましたね。でも、お二人とも率直に、正直に話してくれて、とても感謝しています。問診だけでは、今のところ何も申し上げられないのですが、ただし不妊治療というのはたいへんデリケートな治療です。技術的なことを申し上げているのではありません。夫婦間の精神的な事柄、愛情に属することを申し上げているのです。わたしたち医療の現場にいる第三者が、夫婦という本来なら閉ざされた世界に介入することで、破局を迎えてしまうケースもあるのです。

そこで看護師は一呼吸置いた。

——あなたがたが正直に話してくれたので、それにほだされるわけでもないのですが、とても大事なことなので、わたしの身の上話も少しさせてくださいね。わたしはこの病院の婦人科の看護婦として、おもに不妊症の患者さんのカウンセリングと治療にあたっているのですが、じつはわたし自身が不妊症なのです。つまり結婚はしていますが、子供はいないのです。若いころはそれで死にたいほど悩みました。この世代ですから、女が@石女{うまずめ}と呼ばれることは死にも等しい屈辱であり、差別だったのです。幸い、私の夫も産婦人科の医師で、私の状態を理解してくれましたので、私はこの仕事を続け、不妊に関する専門の看護婦になることができました。子はかすがいって、江戸の昔から言われていますが、おそらく江戸の昔から、子はなくても愛情と信頼の深い夫婦はいたでしょうし、今でもいるのです。この病院で不妊治療を受けて、結局は治療を断念したご夫婦と今でもお付き合いがあったりするのですよ。あなたたちのような若い夫婦が不妊の相談に見えると、まるでわが子のように思えるのです。あ、でも、心配なく。あなたがたの場合、まだ不妊症と決まったわけではありませんからね。それは最初に申し上げたとおりです。

 

こうして二人は、親身に相談に乗ってくれる看護師さんの助言と指導に従って、一年間にわたって基礎体温表に基づいた規則的な性行為を重ねる一方、庸子さんは卵管や子宮の検査、猫さんは精液検査を受けたが、どちらにも器質的な欠陥は見られなかった。次に進むべき治療法としては人工授精、体外受精があることは、二人とも知っていたが、このころから夫婦の会話は少なくなり、無言の時間が長くなっていった。