*84 夫婦(esq.17)

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深く愛し合っていて、深く信頼し合っていて、性の営みにも深い悦びがあり、二人とも切に子ができることを願っているのに、願いの叶わない夫婦がある。産婦人科学会の統計資料によると、ごくふつうの性生活を営んでいれば、一年間で約九〇%の夫婦が妊娠する。千組の夫婦がいれば、九百組の夫婦に子が授かる。残る百組は一般不妊治療を受け、基礎体温表に基づいて排卵日を予測して、受精の確率を高める方法を試したり、男性の精子に問題がある場合には薬物治療を受けたりすれば、五十組が妊娠に至り、残る五十組も体外受精や顕微授精などの生殖補助医療を受ければ四十組が妊娠する。しかし、それでも妊娠に至らず、治療を断念する夫婦が十組は残る。

 

猫柳泉と庸子さん夫婦が不妊に関する相談を受けるために、築地にある総合病院の産婦人科を訪れたのは、正式に結婚してから一年後のことだった。それまで三年近く、互いのアパートを行き来していた期間があったから、同い年の二人はすでに三十歳を目前にしていた。今からだと三十年以上前のことである。

電話で予約した日の朝に産婦人科の病棟を訪れると、相談室というプレートのかかった部屋に案内された。室内には、豪華でもなく、粗末でもない、黒い合成皮革の応接セットが置かれていた。壁を背にした長いほうのソファに腰を降ろし、数分待つと、白衣を着た年配の看護師さん——当時は看護婦という呼称が一般的だったけれど——が現れた。二人はまだ若かったから、落ち着き払った看護婦さんの物腰に安心はしたものの、緊張感が和らぐことはなかった。

——不妊のご相談と伺っていますが、それでよろしいですか?

二人はまず無言でうなずき、その直後に「ええ」という声がほぼ同時に出た。

——そうしますと、まず前提条件からご説明しますね。今の産婦人科の基準では、二年間妊娠の徴候が現れない場合に不妊症と認定するということです。

庸子さんがうなずいた。いろいろ本を調べて、そのことは知っていた。

——そこで、まずはいろいろ質問させてください。立ち入ったことも伺いますけど、治療の一環だと思って、照れずにリラックスして、正直に答えてください。

そう言うと、看護師さんは膝の上のファイルを開いた。

——ご結婚なさって一年ということですが、婚前交渉はありましたか?

二人は同時にうなずいた。

——同棲なさっていたということでしょうか?

二人は視線を交わし、なんとなく庸子さんが答えることになった。

——いいえ、同棲はしていませんが、お互いのアパートをよく行き来していました。

——どのくらいの期間ですか?

——三年ほどです。

——どのくらいの頻度で行き来なさっていましたか?

——週末はいつもどちらかのアパートで過ごしました。

——今はご結婚なさって、一緒に暮らしているのですね?

——はい。

二人はなんとなく見つめ合った。

——基礎体温表のようなものは付けていますか?

庸子さんは「はい」と答えて、大きめのハンドバッグのなかから、仕事に使う手帳を取り出した。そこに毎朝の体温が記されている。

——見せていただいてもいいですか?

庸子さんはうなずいて、手帳を差し出す。

——基本的にはこれでけっこうですが、これからはグラフにして体温の変化を見やすくしたほうがいいかもしれませんね。基礎体温の正しい計り方については、あとで説明書をお渡ししますので。

看護師さんは手帳を戻すと、開いたファイルに目を落とし、そのなかの問診票のようなものに何か書きつけている。

——まずは奥さんのほうからお尋ねしますね。月経は規則正しいほうですか?

——早めに来たり、遅くなったり、規則正しいとは言えないかもしれませんが、必ず来ます。今は……。

——今は? というと、止まっていた時期があるということですか?

——はい。

——それはいつごろですか?

——学生時代の終わりから、働くようになってからも、しばらく続きました。

——どれくらいの期間ですか。

——三年くらいは続きました。

——再開したのは?

——四年ほど前です。

——つまり、ご主人とお付き合いするようになってからということですか?

——ええ、だいたいそういうことになります。

——月経が止まってしまった理由に心当たりがありますか?

——ええ、たぶん、当時付き合っていた人と別れたせいだと思います。

——そのとき、流産とか、あるいは堕胎とか、経験しましたか?

庸子さんは無言で顔を横に振った。看護師さんはさっきから顔を上げて、相手の目を見て質問している。庸子さんは隣にいる夫のほうに視線を向けた。失恋の経緯について、だいたいのことは知っていたから、猫さんは動じなかった。看護師は淀みなく続けた。

——セックスの回数を教えていただけますか。毎日とか、週に何回とか……。

猫さんと庸子さんは顔を見合わせた。どちらが答えるか、互いにさぐっている。結局、庸子さんが答える。

——その週によって変わりますけど、だいたい一回か二回くらいですね。最近は、排卵日がやってくる週には毎日するようにしているんですけど……。

——それでも妊娠しないのですね。でも、まあ、焦る必要はありませんよ。お二人ともまだお若いんですから。

そういうと、看護師さんは視線を猫さんのほうに移した。

——言うまでもなく、不妊には女性側に原因がある場合と男性側に原因がある場合があります。その両方というケースもあります。お二人は信頼し合っているご夫婦だとお見受けしましたので、あえてお尋ねしますが、もちろん、答えたくない場合には答えなくてもかまいません。ここは警察の取り調べではありませんから、黙秘権とか、そんな大げさなことではなく、しゃべりたくなければ、それはそれでなんの問題もありませんので。

と言って、看護師さんはそれまで以上に顔を崩して笑みを作った。

——はい、答えられる範囲で答えます。

猫さんとしては精一杯ユーモアを交えたつもりだった。

——奥さんが妊娠しないことについて、ご主人の側から思い当たることはありませんか?

——というと?

——不妊因子が自分のほうにあるのではないかと思ったことはありませんか?

——つまり、僕の精子に問題があるということですか?

——それは検査してみないとわかりませんが、その前に本人に思い当たる節はないかということです。さきほど奥さんが、失恋によって月経が止まったということをおっしゃってましたが、それに類することです。

猫さんは庸子さんのほうを見た。庸子さんの目は少し潤んでいるように見えた。何を言ってもかまわないと促しているようにも見えた。

——僕も彼女とほぼ同時期に失恋したというか、ある女性との関係が終わってしまいました。彼女は妊娠したのですが、流産してしまったのです。でも、でもその事実を知る前に僕らの関係は終わってしまったのです。流産の原因がなんだったのかもわかりません。

看護師は笑みを絶やさずに、猫さんの言葉を聞いていた。庸子さんはその看護師さんの笑顔をじっと見つめていた。

——ああ、そうでしたか。辛いことをお尋ねしてしまいましたね。でも、お二人とも率直に、正直に話してくれて、とても感謝しています。問診だけでは、今のところ何も申し上げられないのですが、ただし不妊治療というのはたいへんデリケートな治療です。技術的なことを申し上げているのではありません。夫婦間の精神的な事柄、愛情に属することを申し上げているのです。わたしたち医療の現場にいる第三者が、夫婦という本来なら閉ざされた世界に介入することで、破局を迎えてしまうケースもあるのです。

そこで看護師は一呼吸置いた。

——あなたがたが正直に話してくれたので、それにほだされるわけでもないのですが、とても大事なことなので、わたしの身の上話も少しさせてくださいね。わたしはこの病院の婦人科の看護婦として、おもに不妊症の患者さんのカウンセリングと治療にあたっているのですが、じつはわたし自身が不妊症なのです。つまり結婚はしていますが、子供はいないのです。若いころはそれで死にたいほど悩みました。この世代ですから、女が@石女{うまずめ}と呼ばれることは死にも等しい屈辱であり、差別だったのです。幸い、私の夫も産婦人科の医師で、私の状態を理解してくれましたので、私はこの仕事を続け、不妊に関する専門の看護婦になることができました。子はかすがいって、江戸の昔から言われていますが、おそらく江戸の昔から、子はなくても愛情と信頼の深い夫婦はいたでしょうし、今でもいるのです。この病院で不妊治療を受けて、結局は治療を断念したご夫婦と今でもお付き合いがあったりするのですよ。あなたたちのような若い夫婦が不妊の相談に見えると、まるでわが子のように思えるのです。あ、でも、心配なく。あなたがたの場合、まだ不妊症と決まったわけではありませんからね。それは最初に申し上げたとおりです。

 

こうして二人は、親身に相談に乗ってくれる看護師さんの助言と指導に従って、一年間にわたって基礎体温表に基づいた規則的な性行為を重ねる一方、庸子さんは卵管や子宮の検査、猫さんは精液検査を受けたが、どちらにも器質的な欠陥は見られなかった。次に進むべき治療法としては人工授精、体外受精があることは、二人とも知っていたが、このころから夫婦の会話は少なくなり、無言の時間が長くなっていった。