*79 兎追いし(esq.12)

じつは「兎追いし」というタイトルで、昨日一日、ああでもない、こうでもないと考えあぐね、書きあぐね、ついに活路が見いだせないまま、寝てしまった。このブログの更新は、原則的に土曜日にすることにしている。週日は翻訳や授業の準備に当てるというリズムを崩さないようにしている。そうしないと持続できないから。そして、日曜日はできるだけ仕事をしない。具体的には、コンピュータに電源を入れない。本を読むか音楽を聴くか、車を転がして写真を撮りに行くか。

ところが今朝は日曜日なのに、起きてからずっとぐずぐずとその原因を考えつづけている。反省は不毛だと思っている。自分のやっていることを見直し、反芻しているうちに、始めた動機さえも疑うようになり、いつしか弱気になって、最後には、やめた、やめた、と結論しかねない危険な代物である。だが、やめたら終わりである。そうやって翻訳を三十年やってきた。やめたら終わりだと言い聞かせて。この「小説」の試みも同じである。

以下、書けない原因を列挙してみる。密かに(?)、この連載をフォローしていただいている少数の——スタンダールみたいに「ハッピーな」という言葉は付け足しませんが——読者のみなさん、退屈でしょうが、ご海容ねがいます。

 

1.やたらに疲れている。

このところずっと、朝五時か六時には起きて活動をはじめていたのだが——歳をとると朝早く目が覚めるだけのこと——、今週木曜日の夜に大谷短期大学で生涯学習講座を務めてから、朝が眠くて眠くてしかたがない。金曜日の朝は習慣から、六時くらいから、なんとなく動きはじめたが、脳も身体もしゃきっとしない。昨日土曜の朝は目は覚めても起きることができず、気がつくと七時過ぎまで寝ていた。今朝も同じ、七時過ぎにようやく起き出して、髭を剃り、部屋の掃除をして、朝食を食べ、ソファに横になって、見るともなくテレビに目を向けていたら、そのまままた眠ってしまった。目が覚めたは九時半頃である。帯広に帰ってきた直後、「鬱病」の診断を下されて以来のことである。また、あの「メランコリー」? ではないとおもう。たぶん。

 

2.脳みそが思うように反応してくれない。

上記1.と関係することだが、脳の反応が鈍いのである。手を動かしていても、脳が乗ってこない。あるいは脳の動きが鈍いので、手は勝手に動き言葉を並べていくが、その言葉を見ている眼が、なんかちがうなぁ、おもしろくないなぁ、とぼやいている。文章を書いているとき、いちばん大事なのは、この脳と手と眼の一致なのだが——そこからリズムのようなものが生まれ、思いがけない言葉や言い回しが生まれて、それが喜びにつながり、喜びは書くエネルギー源となる——、いつまでたっても、それがちぐはぐなのである。

 

3.妄想を持続させるためにはエネルギーがいる。

近代という時代に入って以来——近代はいつから始まったのかという問いは、とりあえず棚上げにしておこう——「小説とはなんぞや」という自問自答を小説家も批評家も繰り返してきた。さすがに最近はあまり見かけなくなったけれども——たぶん、「近代」という時代が終わってしまったせいだろう。難しい議論はさておき、小説は所詮、妄想である、というのが個人的考えである。その作品が「私小説」を自称しようと、「歴史小説」であると言い張ろうと、すべては妄想である。夢と言い換えてもいいし、幻想と言い換えてもいい。想像力という言葉は美化に美化を重ねて、ついには厚化粧の老婆みたいになってしまったが、所詮は妄想であると考えるとかなりの部分がすっきりする。この妄想はかんたんに掻き消せるものではないというところが曲者であり、かつ恐ろしいところであって、たぶん人間の本質のもっとも奥深い部分を形づくっている。この妄想は、人間の果てしない欲望に直結している。そんなものは存在しないとわかっていても、人間は造り出すのである。しかし、造り出すためには原料=資源とそれを加工するエネルギー源が必要になる。その資源が、もしかすると枯渇するかもしれない。地球を思うがままに搾取(=開発)してきた人類が初めて、ひょっとしてこれヤバイんじゃないのと思いはじめた。地下資源の限界、地球温暖化、環境汚染、生態系の危機、人口爆発……いくらでも列挙できる。小説はけっして平和なものではない。人が生存するためのエネルギーを食らい尽くすものである。読むにせよ、書くにせよ。文学の時代は終わったなどと、上から目線の素知らぬ顔の評論家には言ってやりたい。近代の終焉は人類の終焉であるかもしれないと、一度は考えてみるべきではないか。あなたの身の上だって危ないのだ。わかったわかった、大言壮語はわかったけれど、おまえの「小説」はそれとどう関係するんだい? という声が脳のなかで響く。そんな危ない妄想はやめたらいいんじゃないの? 正論である。かつてディープな鬱病に陥ったある作家——たしか吉行淳之介——が、鬱が疎ましいのは、鬱のなかで考えることは正しいからだ、と喝破していたことを思い出す。鬱が生のエネルギー状態の低下、沈滞であるのは論を俟たない。さあ、どうする?

 

4.できれば動物を主人公にした「小説」にしたい。

主人公——と言っていいのかどうかわからないけど——の名に猫の一字を含めただけでなく、その人の通称であるところの「猫さん」を小説中の呼称として採用し、なおかつ、この猫さんはネコという名の猫を飼っているというふうに設定したとき——というか、勝手にそんなふうに「手」が動き出してしまったのだけれど——、この小説の試みには決定的な方向性と枠組みが与えられてしまったのだろう。早い話が半分は自分の経験に基づくことなのだが、残りの半分は、この「手」の創作である。脳の妄想よりは、この「手」の暴走に委ねたい気分である。なぜならば脳の妄想には際限がないが、手の動きは経験に裏打ちされていて、おのずとブレーキが掛かり、自惚れとは一線を画した個性があるから。「猫の記憶」と題した *72は、書き手の経験を素材にしたものだが、書き出して一気に書き抜いたのは、この「手」である。書こうと思いついたのも、この「手」だと言っていい。脳が思いついたものはあまりいい結果にならない。*75の「モズ」もその延長線上に自然に出てきたものだし、今回の「兎」もやはり同じ延長線上にある。すらすらと流れていくはずだった。

 

5.作家たちはなぜあんなにも猫が好きなのか?

猫の好きな作家の名を挙げていくと切りがない。だから、よほど気をつけて書かないと、誰かの二番煎じになってしまう。だから——別に苦肉の策としてではなく——、われらが主人公(?)の猫さんは名前とは裏腹に、じつは犬が好きなのである(*71参照)。そして、ここが肝心なところであるけれど、けっして動物好きではなく、むしろ怖れを抱いているのである。愛玩動物であれ野生の動物であれ、単純に怖れを抱いている。もちろん、この怖れは畏れに通じるものであり、この畏怖こそが宗教の源泉であるばかりでなく、美の源泉でもあるはずだ。その源泉がいま涸れようとしている。漱石の『猫』はつまらない。どこまで行っても、どこまで読んでも、擬人化の域を出ないからだ。金太郎飴みたいに、どこを切っても同じ顔が出てくるだけ。日本の近代文学のなかでもっとも有名な作品の一つではあるけれど、全篇読み通した人は——研究者を除いて——ほとんどいないはずだ。そもそも、のっけからアンドレア・デル・サルトなんて、どこの馬の骨かわからないような画家——漱石によれば「伊太利の大家」ということになっているが、どこかの美術館が回顧展を催すほどの画家ではない——の名前を出してくるところが、悪趣味だ。でも、漱石が野性に対する畏怖とは無縁だったかといえば、そうではない。彼はこんな一文を残している。「木島櫻谷氏は去年澤山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても気持の悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於てはあの鹿に劣るまいと思ふ」(「文展と芸術」東京朝日新聞、大正元年/1912)これほど嫌みな美術評もそうあるものではない。木島櫻谷氏は名誉毀損で訴えてもよかったのではないか。ま、いつの時代もヒョーロンカというのはこんな文章を書く人種ということかもしれない。でも、漱石を援護するわけではないが、この人は見るべきものは見ていると感じられる。木島櫻谷氏は花鳥風月のなかの鹿や狐を描きたかったのではないだろう。正しく「野性」を表現したかった。それを漱石は「気持ちの悪くなる」とか「不愉快」だとか言っている。そして、この評を「兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と結んだ。彼は、西洋美術のリアリズムの影響を受けた日本画家の野心を「不愉快」と言っているのである。僕はできることなら、木島櫻谷の夜の狐のような眼をした野生の兎の姿を描いてみたい。

 

6.こんなにも疲れてしまった理由。

ここまで書いてきて、わかった! こんなにも疲れてしまったのは、死にかけた猫のケアにエネルギーを吸い取られたからだ。食欲がなくなって、すっかり痩せ細ってしまったわが家のシマを動物病院に連れていったのが六月六日、その日血液検査をしてもらって、肝臓機能の値も腎臓機能の値も非常に悪く、おおもとの原因は甲状腺ホルモンの過剰分泌だろうと診断された。排便もしなくなり、ぐったりと寝たきりになってしまったので、排便処置と点滴をしてもらいに行ったのが十二日——放っておいたら死んでましたよと、あとで医師に言われた——、ホルモン分泌の分析結果に基づいて、甲状腺の薬を処方してもらったのが二十一日、その間、胃薬やら肝臓の薬やらを含めて、朝と夕方に二回、二つ乃至は四つに分割した錠剤をスプーンの背で粉々にして投薬用のチュールに混ぜ、食欲が戻ってくるまで根気よく食餌を与えつづけたのだ。その努力の甲斐があって、六月十二日の時点で2.4㎏にまで激減した体重が、一昨日(六月二十八日)は2.9㎏まで回復した。食欲がないので睡眠も浅く——猫の話である——、不安がって朝早くから起こしにくる。こちらは為す術もなく、朝四時くらいから食餌を与えることになるが、そのときに毎回薬をすり潰してチュールに混ぜ、ウェットとドライの食餌の配合を考え、猫の食べっぷりを横でじっと見ている。その都度、一喜一憂するのである。あと100㌘で3㎏に戻る。少し希望が見えてきた時点で、どっと疲れが出たのだろう。現実の猫と虚構(妄想)の猫の双方をケアするというのは、なかなか疲れるものである。それにしても、なんだかなぁ、正しいことやっているのだろうか……。

*78 メランコリー、その二(esq.11)

閑話が続いたので、ここらで「小説」の本筋に戻ることにしよう。おかげさまで(?)、わが家の猫の体調も戻り、食餌をふつうに食べてくれるようになったことだし。体重が元どおりにならないのは、老齢の猫の体重が増えるのはなかなか難しいことなのだろうと静観することにした。

今回は「メランコリー」と題した*70の続きである。

*7

猫さんは、処方された一ヵ月の薬が切れる日に、精神科医の北島医師をまた訪れた。診察室のドアをノックすると「どうぞ」という声が返ってきて、ドアの向こうでは、すっかり太って、頭頂部の禿げあがった顔がにこやかにほほ笑んでいる。

——どうだい、調子は?

——まぁまぁかな。最近は寝付いてからすぐに目が覚めるということはなくなった、おかげさまで。

——それはよかった。じゃ、この抗鬱剤をもう少し続けてみようか。

——それって、ずっと飲みつづけることになるのかな。血圧の降下剤みたいに。

——それとこれとは別だよ。また依存の話か? ふつうに眠れるようになったら、自然と薬を飲むのを忘れるから、心配ないよ。

——この年齢でもかい?

——個人差もあるけど、睡眠薬や抗鬱剤は悪循環に陥った生活習慣を改善するきっかけを作るためのものだからね。

——毎日飲む薬の数が増えていくだけでも気が滅入るんでね。

——ま、それはわかるけど、もっと医学と医師を信用しろよ。

北島医師のその言葉で、二人はようやく笑った。

——ところで、そのうち、うちに来ないか? 外で飲むより、家のほうがゆっくりやれるだろ?

突然の申し出に、猫さんは一瞬言葉に詰まった。

——迷惑にならないのかな。

——迷惑ってことはないさ。子供たちも自立して出ていったし、今は夫婦水入らずだ、と言って、北島医師は笑った。

——子どもは何歳になった?

——どちらも三十代後半だよ。正確な歳は、女房に聞かないとわからないけど。

そう言ってまた笑い、少し間をおいてから、北島医師は真顔に戻った。

——サワコのこと、憶えてるだろ?

——え?

虚を衝かれて、猫さんは聞き取れなかった。

——サワコだよ、サワコ。

目の前がかすみ、意識が遠ざかっていくような気がした。

——ああ……、と答えるのが精一杯だった。

——おい、おい、忘れちゃったのか? あんなに仲良かったのに。タコだよ、タコ、みんなそう言って、冷やかしていたじゃないか。本人はそれでだいぶ傷ついていたようだけど、ま、子供のことだから、悪気はないんだけどさ。

——タコ……。

猫さんには、なんのことやらわからない。

——おい、おい、ほんとに忘れちゃったのか。多い子って書いて、サワコ、珍しい読みだから、みんなふざけてタコって呼んでた。まあ、仕方ないか、あれから半世紀以上たつんだものな。おまえはずっと東京にいたわけだし。

猫さんの首筋に気持ちの悪い汗が流れているのがわかった。思い出せないというより、ぽっかりと穴が空いていて、そこを覗きこむと、全身の血流が冷えていく。内臓に不快感が広がり、視野も狭くなっていく。

——じつはさ、おれ、多子と結婚したんだよ。先月、おまえが診察を受けにひょっこりやってきたんで、猫柳が帰ってきたぞって言ったら、カミさん、目が飛び出るほど驚いていたよ。そりゃそうだよな、おまえが帰ってくるなんて、誰も思っていないから……。

猫さん、返事ができない。

——おいおい、顔色が悪いぞ。どうした、急に?

——いや、よくわからないんだけど、なんだか目眩がして……。

——昨日はちゃんと眠れたのか?

——うん、まぁ……。

——べつの薬にしたほうがいいのかな。

——いや、そういうことではないと思う。

北島医師は無言で猫さんの顔を見ている。

——この町で暮らした幼年期のことが、ときどき思い出せなくなるんだ。というか、記憶がまだらになっている。東京に移ってからの記憶には、そういう感じはないんだけど、幼年期の記憶に関しては、あちこち断線している。

——それは自然なことじゃないのか。おれは医学部時代を除いて、ずっとこの町で暮らしてきたから、記憶は地続きのようなものだけど、小学校を出ると同時に東京に行ってしまったりすると、そういうことはあるんじゃないの。そっちの方面の勉強はあまりしてないけど……。

たしかに大げさに考える必要はないのかもしれないが、猫さんにとっては、定年退職したのち、ほとんど誰も知り合いのいない故郷の町に帰る決断をうながすほど大問題なのである。というか、その問題が何なのか解き明かすために帰ってきたと言ってもいい。

自分の生まれ育った町に帰ってきて眠れなくなった。紹介された精神科医が小学校時代の同級生だった。その男がサワコという名の同級生と結婚していた。そのサワコが思い出せない。というよりも、その名を耳にしたとたん、不快感のような、悪寒のようなものが襲ってきた。

北島医師によれば、猫さんと多子さんは仲がよかったという。なのに猫さんは思い出せない。なにひとつ。そのあたりだけが停電していて真っ暗な感じである。北島晋一くんのことは憶えている。彼と遊んだり、勉強した場面の記憶は明るい。その場所に多子さんはいたのか? 三人で遊んだことはなかったのか?

北島晋一本人が口を開いた。

——おれさ、うらやましかったんだよ。多子と猫がね。放課後になると、いっつも二人きりで何か話してた。帰る方向も一緒だった。二人並んで、学校の裏手の踏切のほうに歩いていった。

猫さんの動悸が激しくなった。やめてくれと叫び出しそうになった。その話はやめてくれ。人に話してもらいたくない。自分で思い出したいのだ。この町に帰ってきたとき、もちろん、小学校の前も通ってみたし、自分が住んでいた所番地のあたりにも行ってみた。しかし、そこには三階建ての集合住宅が建っていて、周辺には駐車場やら公園やらが広がり、往時を思い出させるものは何ひとつ残っていなかった。

もちろん、同級生の顔も名前も、仲のよかった友だちの顔も名前も、多子という名前も、何ひとつ浮かび上がってこなかった。

偶然——そう、偶然——、精神科の専門病院を訪れることがなければ、北島晋一に会うこともなく、多子という女性の名を告げられることもなかっただろう。

偶然? これを偶然というのか? こういう出会いを求めて、自分の生まれ育った町に帰ってきたのではないか、と猫さんは思うのである。

なぜ思い出せないのか? 多子って誰だ? 親しかった? それなのに思い出せない? 顔色がどんどん青ざめていくのがわかる。

——おいおい、そんなに深刻になるなよ。だから、うちに来いってば。そうしたら途切れていた記憶がいろいろよみがえってくるかもしれないじゃないか。多子だって、会いたがっていたぞ。

そうか、それだけのことか。何を怖がっている? 会ってみればいいじゃないか。何か思い出すかもしれない。いや、何かというような漠然としたものじゃなく、ひょっとすると……。いや、今から妄想をたくましくしてもしかたがない。

——ああ、わかったよ。面倒かけてすまん……。

——面倒ってこと、あるか。で、猫の都合はどうなんだ?

——そんなものあるわけないじゃないか。夜はいつもネコといっしょにテレビを見ているか、音楽を聴いているか、本を読んでいるか、だ。

——猫を飼っているのか?

——うん、東京から連れてきた。

——猫が猫を飼っているのか?

——うん、よく言われる。

二人とも笑いかけて笑えないでいる。

——うちは犬を飼ってる。ゴールデン・レトリバーだ。おれが飼っているというより、もっぱら多子が世話してるんだけどな。

意識がまた暗くなった。そう、たしかに犬がいた。大きな犬。長い毛、たしか黒の。犬種はわからない。また、胸が苦しくなった。

——わかった、こうしよう。今日、帰ったら多子と相談して日取りを決める。で、メールする。メールアドレスくらいあるだろ?

猫さんはうなずく。北島医師は自分の名詞に携帯電話の番号を書いた。

——ショートメールでおまえのアドレスを送っておいてくれ。二、三日中に返事するから。

猫さんは首筋の汗をハンカチでぬぐいながら、北島医師に一礼し、診察室を出た。

*77 閑話、その三(esq.10)

また「閑話」です——それなりの理由があって。

六月半ばの日曜日、今朝は雨が降っている。

「内地」であれば、梅雨のまっただなか、雨が降っていても、なんの不思議もないが、北海道だとやはり地球温暖化の影響かと思ってしまう。そのむかし、北海道に梅雨はないと言われ、台風も津軽海峡を渡らないはずだった。

今日は雨。おそらく梅雨、もしくは本州にかかる梅雨前線の影響ということになるのだろう。

日曜日の早朝なので、通りを走り抜ける車の音もしない。たまに通る車があっても、雨のせいで速度も緩やかなうえに、雨が音を遮るカーテンの役割をはたしてくれる。

 

 

このブログをお読みいただいている方のなかには、前回書いた猫のことを心配してくれている人もいるかもしれない。

安心してください。だいじょうぶです。そう簡単には死にません。

血液検査に続いて、ホルモンの検査もしてもらったところ——「内地」の専門検査機関に血液サンプルを送るので、結果がわかるまでに一週間かかる——、予想どおり甲状腺ホルモンが過剰に分泌されていることがわかった。甲状腺ホルモンが過剰に出ると、まずは食欲が減退し、興奮状態が続いて攻撃的になったりするらしい。うちのシマの場合、変な具合に仔猫がえりして、家中をちょろちょろ動き回り、台所で食事の支度をしていると、俎板からこぼれ落ちる屑を待っていたり、テーブルの上の焼き魚を床に引きずり降ろそうとしたり、はたまた風呂掃除を始めると、排水口に吸い込まれる残り湯にやたらに興味を示したりする。

攻撃的にはならなかったけれど、壮年——十歳前後——のときには見せなかったこの落ち着きのない行動ぶりは、甲状腺ホルモンの作用だったのかもしれない。

それはともかく、先週の木曜日、動物病院から検査結果の報告があり、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してもらった。

この薬を食餌に混ぜて——糖衣錠を四分割したものが一回の投与量だが、これをスプーンの背で粉々に砕いてチュールに練りこむ——与えるようになって、今日で四日目、昨日の午後あたりから目に見えて食欲が出て来た。チュールと混ぜなくても、ウェットタイプの食餌なら食べるようになった。ドライのものも少量ならかりかり音を立てて食べるようになった。

これで一安心。といっても、十六歳の高齢なので、いつまで生きるかはわからない。いたずらに延命させようとは思わないが、食欲が戻ってきて、元気でいられるなら、それに越したことはない。

死を覚悟したのは、猫ではなく、たぶんこの私だったということなのだろう。お騒がせしました。

 

 

文字どおりの閑話休題。これからが本題です。

金曜日の夕方、一通のメールが届きました。以前、東京でお会いしたことのある方です。プライベートな内容を含む私信なので、そのままの引用は憚られますが、このブログを続けていくうえで、あるいは「小説のためのエスキス」という試みを続けていくうえでも、とても大切なこと、とても励みになることが書かれているので、この場を借りて、僕なりの感想を記しておきたい。

「猫の記憶」と題した*72には、犬のこと、キタキツネのことを書いた。

吹雪の原野をキタキツネの親子が歩いていく。遅れはじめた子狐が歩けなくなってその場にうずくまる。母狐が数歩戻って歩み寄り、二、三秒、わが子の顔に鼻を近づけ、何かを確認すると、また踵を返して、吹雪のなかを歩き去っていく場面を書いた。

それに続けて、猫さんの奥さんが絶命する場面を置いた。この世を去っていく奥さんに向かって、猫さんは「おーい、いっちゃうのか」と叫ぶ。

この「二、三秒」の場面を読んで、A・Iさん——取りあえず、そう呼ばせていただきます——は、ほろほろ涙が止まらなくなったんだそうである。そして、その勢い(?)でメールを送ってきた。ご主人が心房細動で心臓停止して、救急車で病院に運ばれ、心臓バイパスの緊急手術を受けて一命を取り留めたときのことがよみがえってきたのだそうだ。

A・Iさんは小説家志望の人である。ヘルニアの持病も持っている。小説を書きたい、書かねばならぬと思っても、人生の諸事情や病気のことが重なって、思うようにならない。「生まれて初めて底の知れない恐ろしい想い」をしたことや自分の感情の動きを、このブログを読んで、振り返る時間を持てた。そのことを感謝するといった内容のメールである。

A・Iさんと初めてお会いしたのは、今から六年前、パスカル・キニャールの国際学会が東京恵比寿の日仏会館で開かれたときのことだった。私もパネラーとして参加したのだが、そのときの聴衆のひとりにA・Iさんが含まれていた。その後、何かのきっかけで東京のどこかでもう一度お会いしたことがある。

仔細は忘れてしまった。そのとき彼女が小説家志望であることを知った。たしか相談のようなものを受けたように記憶しているが、徹頭徹尾個人的な営為である文学や小説に関して、何か有益なアドバイスだとか、忠告だとかを与えることなど、どんなキャリアのある作家でも不可能だろう。ましてこっちは一介の翻訳者、長く出版業界で生きてきたに過ぎない。

ただそのとき、小説家になりたいというのなら、藤沢周平の『半生の記』というエッセイを読んでみたら、と薦めた記憶がある。

その理由は——その場で口にしたか、説明しようとしたか、もう忘れてしまったけれど——、あらためてここに書くとすれば、あなたは小説が書きたいのか、小説家になりたいのか、という質問に尽きる。それを聞けば、大方の人は、それは二者択一の問題なのか、と怪訝な顔をするだろう。つまり、小説を書く人が小説家であるだろうし、小説家は小説を書くのが仕事の人だろうと。

でも、微妙に違う。なぜなら、趣味で小説を書いて、同人誌などを仲間で発行して、それに発表している人も存在するから。あるいは小説家の肩書きで世間に知られてはいるが、もう書かなくなった人、書けなくなった人もいるから。

A・Iさんに藤沢周平の自伝的エッセイを薦めたのは、彼は明らかに小説家になるべくしてなった人だと思っているからである。彼はたまたま「時代小説」——「歴史小説」でも「私小説」でもなく——というジャンルを選んだわけではない。

しかし、若いときから小説家を志したわけではけっしてなかった。山形の師範学校を出て、教員生活を送っていたが、結核にかかり、地元の病院で治療を続けたが、なかなか病状が好転せず、本格的な結核治療の場所として東京の東村山にある療養所に入ったのである。結核専門の病院で三度の手術を受け、療養中には何度か外出許可をもらって、地元での再就職の道を探したと『半生の記』には書いてある。しかし、その願いも叶わず、そのまま東京に住みつくことになる。最初に得た仕事は業界紙の記者だった。

繰り返すが、彼は野心を抱いて小説家になろうとしたわけでもないし、何かの野心があって上京したわけでもなかった。長期にわたっての結核治療、そのせいで地元に戻って再就職する道も絶たれ、気がつくと、都会の雑踏のなかで業界紙の記者として歩き回っている。人生、理不尽、その気持ちがときに東京の街角で湧き上がってくることもあっただろう。

こういうやるせない想いを救ってくれたのは、山形の教員時代の教え子で、たまたま同時期に上京してきた女性と結婚したことだったろう。彼は新橋にある「日本食品経済社」に通い、ときには妻の勤め先があった池袋で待ち合わせ、映画館に足を運んだり、公園を散歩したり、そういう平凡な生活がいっときつづき、やがて一女が誕生する。「展子と名づけた長女は健康に育ち、私たちはそういう生活がずっとつづくものだと思っていた」

しかし、妻の悦子は長女の出産後、体調を崩し、一年も経たないうちに、進行の早いガンでこの世を去ってしまうのである。

「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見届けるあいだには、人に語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである」(『半生の記』)

そして、彼は会社勤めをつづける傍ら「一番手近な懸賞小説」に応募をはじめる。

「小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。……しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成り行きとしか言えない」

彼は新人賞を取るまでに何度も落選を重ねている。それでも彼は懸賞小説への応募を続けた。そうすることが死に別れた先妻への供養であり、鎮魂でもあるというように。

しかし、ひとの人生に口を挟むようで、まことに僭越だが、これは理不尽な人生への「怨念」をバネとした、自分自身への鎮魂ではなかったか。

彼は妻の死とともに自分の人生も終わったと感じる。そのとき彼はすでに「この世」から「あの世」に渡っている。「怨念に凝り固まったままでは小説の体をなしにくいのではなかろうか」というのは、この時点ではじつは「あの世」に渡りきっていないということではないのか。そして、「あの世」はあの世にあるわけではなく、この世にあるということ、それが小説という器の不思議なところ、それはどんな芸術にも、どんな職業——プロフェッショナルとしての——にも通じるところではあるまいか。それに気づいたとき、ひとりの人間は自分のスタイルを発見し、小説家として、芸術家として、あるいは職人として再生するのではあるまいか。

藤沢周平は結果として——成り行きで——小説家になったわけではない。彼は小説家になるべくしてなった、それが彼の宿命であった。『半生の記』に書かれているのは、まさにそのことにほかならない。私はそう信じている。

*76 閑話、その二(esq.09)

どうやらうちの猫は死を覚悟したようである。「うちの猫」というのは、あくまでも現実の猫であって、猫さんが飼っているネコという名の猫のことではない。

東京に住んでいたとき、家の近くのクリニックで発行してくれた「動物の健康手帳」によれば、生年月日が二〇〇三年四月二十四日、このクリニックの初診日が六月六日、その翌月に初めて記載のある体重は一・三キロ、その半年後の冬に去勢手術をしたときの体重が四・六キロとなっている。まだ一歳をなっていない時点での体重である。いちばん大きかったときは七キロくらいはあったはずだ。

それが一昨日、こちらの掛かりつけの病院で診てもらったら、二・六キロにまで落ちている。三年前にこの病院で血液検査をしてもらったときには、獣医師さんを含めて四人がかかりで押さえつけなければならないほど元気——というよりは強暴——だったのに、今回はもう抵抗したり、シャーシャー威嚇したりする気力もない。

診察台の上で、優しそうな看護師さんに前脚と後ろ脚の付け根を握られておとなしくしている様は、まるで俎板の上の鯉——たとえが安直すぎるけれども——のようだった。

食餌も口にしようとしない。東京時代から下部尿路疾患用のダイエット食を与えてきたのだが、食べてもすぐに吐くようになり、今では手のひらの上に載せて食べさせようとしても、鼻先を背けてしまう。

ほぼ一日中、ソファで寝ている。それでも階段の上がり下がりとか、ベランダに出て外の空気にあたるくらいのことはできる。

血液検査をしてもらった結果、肝臓と腎臓の機能がかなり落ちていることがわかった。外部の検査機関にあらためてホルモン分泌の状態を調べてもらう必要があるが、おそらく甲状腺に問題があるのではないか、と獣医師は言う。

甲状腺という言葉を聞いて、ガンかもしれないと思った。

同時に、十六歳まで生きたのだ、人間であれば八十余、静かに逝かせてやってもいいのではないか、とも思う。

この猫の名前はシマという。この猫をもらってきた経緯は、*23にも書いたし、その変奏曲みたいなものを*71にも書いた。

幼いころ、わが家の二階のテラスまで上がってきた野良猫——近くの飼い猫かもしれないが——と大げんかして、首筋に深傷を負ったときも、彼はベッドの隅でじっとしていた。痛いからといって、人間のように泣き喚いたりしない。

今日は手のひらの上にマグロのチュール(流動食みたいなもの)に胃薬と肝臓の薬を混ぜたものを載せて、食べさせてやった。それだけ、ほかのものはいっさい口にしない。ただ寝ている。

その寝姿を見て、思い出すことがある。

*68に書いた父方の祖父のことだ。この祖父は晩年、心臓の調子が悪くなって、八十を過ぎてからは床に就いていることがおおくなった。そのころ私は東京で学生生活を送っていて、いっしょに暮らしていたわけでもないし、たびたび帰省していたわけでもないから、すべて母から聞いた話なのだが、米の飯はいっさい口にせず、夕飯はお猪口一杯の酒とマグロの刺身一切れだけで命をつないでいたという。

この祖父は私が大学を卒業する直前の年の暮れにこの世を去った。野辺送りの車の中で、どういうわけだか涙が止まらなくなった。人生ははかないものだと思ったか、ああ、なんという潔い死だと思ったか、大学に進学したものの、自分の将来を思い描けるようになるどころか、ただひたすら混乱をきわめ、自分が何をしたいのか、自分が何者なのかまったくわからなくなっている自分が情けなくなったか、とにかく、感情の嵐のようなものが押し寄せてきて、文字どおり滂沱の涙があふれた。

さっさと大学を出なければ、廃人になると思った。

そして、就職した出版社で妻となる女性と出会った。

その妻も十五年前に亡くなった。

彼女が死ぬ一年半ほど前に家に来たのが、シマと名づけられた猫である。

その猫が今、死を覚悟してソファに横たわっている。

おまえも覚悟せよ、ということなのだろう。

閑話という題にふさわしくない内容になってしまったが、「心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし」(日本国語大辞典)というほうの意味を強調しておいて、今日はここまで。

*75 モズ(esq.08)

*6

猫さんの就職した出版社は目黒にあった。初冬の空に初めてモズの大群を見かけた日のことを、彼は今も鮮明に憶えている。入社して半年ほどが経ち、会社勤めにも仕事にも少しは慣れてきたころ、横殴りの北風に吹きつけられながら、山手線沿いに目黒駅のほうに向かって歩いていると、白金台のほうから押し寄せてくる真っ黒な雨雲のようなものが目に入った。まるで駅ビルに襲いかかるように接近してきたかと思うと、駅ビルの壁に沿って急上昇し、寒風を突いて昇れるだけ昇り、今度は戦闘機のような形になって真っ逆さまに降下し、それを何度も繰り返す。駅ビルの前まで来たとき、ようやくそれがモズの大群だということがわかった。モズの群れはひとしきり駅の上空を旋回すると多摩川のほうに向かって飛び去っていった。

唖然としてその場に立ち尽くしていると、背後で女性の声がした。

——猫柳くん。

振り返ると、キャメルのコートの襟もとから暖色系のスカーフと灰色のハイネックを覗かせた女性が立っていた。冷たい風に当たっているせいか、白い肌が紅潮し、目が涙ぐんで見える。虚を衝かれて動揺した猫さんは、言葉を返すことができなかった。それがどういう場面であれ、状況であれ、虚を衝かれるというのはあまり気持ちのいいものではない。彼は、声をかけてきたこの同僚の女性を意識していたし、それゆえ避けていたから、なおさらだった。

猫さんは大学を卒業すると目黒線——当時は目黒と蒲田を結んでいたので目蒲線と呼ばれていた——の沿線に引っ越したので、目黒駅の改札口を通り抜ける彼女の後ろ姿を何度か見かけることがあった。しかし、声をかけることはなかった。それどころか、彼女の後ろ姿に気づくと同じ電車に乗らないように、必要もないのに駅の売店——当時はまだキオスクという呼称は定着していなかったし、そもそもJRではなく、歴とした日本国有鉄道であった——でガムを買ったり、週刊誌を買ったりしていた。

二人の勤めている会社は、出版社としてはそんなに大規模な会社ではなかった。出版しているのは国語と英語と美術の教科書だけだったから、営業部を除いた編集部にかぎっていえば、そんなに大人数ではなかった。猫さんは国語のセクションに配属され、彼女は美術の担当だった。ただし、彼女は二年先輩だった。しかし、年齢は同じだった。彼女は四年制の美術大学を順当に卒業し、猫さんのほうは中学を卒業するのに四年かかり、高校は三年で卒業したが、大学は一年留年したのである。

会社は三階建ての社屋で、二階のフロア全体が編集部になっていた。部署は簡単なパーティションで区切られていた。当然のことながら、狭い給湯室のなかで顔を合わせることもあるし、コピー機の前で譲り合うこともある。当然のことながら礼儀として、頭を下げるし、精一杯の笑顔を作ることにもなる。

彼女の目は大きくもなく小さくもなく、二重でもなかった。しかし、日本人には珍しい薄い鳶色の目をしていた。そして一七〇センチ近い背丈があった。これは当時——七〇年代——の女性としては、大女の部類に入った。

男性社員の誰もが、まぁ美人なんだろうけど、と言葉を濁した。虹彩が薄いのも、背が高いのも、おそらく日本人の男の大半が敬遠したくなる身体的特徴なのだろう。しかも、本人に悪気はないのだろうが、彼女には相手の目をじっと見つめる癖があった。

彼女は背が高いから社のどこにいても目立った。すれ違いざまに目が合うと、彼女はかすかにほほ笑み、目を逸らさなかった。おそらく誰に対してもそうしていたのだろうが、猫さんは否応なく彼女を意識した。意識すればするほど、距離を保とうとした。

猫さんが懸命に彼女を避けようとしていた理由はもうひとつある。べつにもったいをつけるほどの理由ではなく、ようやく手に入れた独身生活——親から経済的にも精神的にも完全に独立した生活——をもっと楽しみたかったのである。ガールフレンドがほしいとは思わなかった。はっきり言えば、様々な理由が重なって女性を恐れていた。その理由をほじくり出して、あれこれ分析したり反省したりするのは、彼の性分には合わなかった。面倒だから遠ざける。それでいいではないかと思っていた。

彼が大学を卒業するのに五年かかったのは、いわゆる学業と生活の両立は、やはりたいへんだったのである。一年分余計にかかった学費は親に負担してもらうしかなかった。そういう親に対する負い目からようやく解放されたばかりだったのである。

それに加えて、学生時代の四畳半一間、トイレは共同、風呂は銭湯という暮らしからも自由になりたかった。目黒にある出版社に就職することが内定したとき、猫さんは目黒線沿線の不動産屋を小まめに歩いて回った。最低でも六畳間と台所、浴室とトイレもほしかった。駅まで多少遠くても、歩いて通えるのであればよしとした。新築でなくとも、しっかりとした造りのアパートを探していると不動産屋には告げた。

そして探しはじめて半月もしないうちに、その条件に適う物件が出てきた。目黒駅から二駅の武蔵小山、駅まで歩いて十分、背後には林業試験場の跡地を整備したばかりの広大な公園が広がる。部屋は八畳、もちろん台所もバス・トイレも付いている。想定していた上限よりもいくらか高かったが、初任給は学生時代にアルバイトで稼げる額の二倍ほどだったから、家賃が高くなっても、それなりにやっていけると計算できた。自炊には慣れていたし、もう学校には行かなくていいのだから、これはほとんど天国ではないかと、学生時代に生活のやり繰りで苦労した猫さんはその場で足踏みしたいほど喜んだのである。この幸福をたった半年、一年で放棄してなるものか。

彼女の名前は波多野庸子という。新入社員として、編集部のひとりひとりに挨拶して回ったときに渡された名刺に印刷されていたこの名前を、猫さんは容姿とともにすぐに記憶した。しかし、モズの大群を目黒の上空に初めて見た日、初対面とは言わないけれど、会社の外で二人きりで顔を合わせるのは初めてなのに、彼女は相手を「猫柳くん」と呼んだのである。後にも先にも、学校の女性教師以外から、くんづけで呼ばれたのは初めてだった。猫さんにしてみれば、相手から一気に距離を詰められ、主導権を奪われたということになる。そういう展開は——男としては——好ましくなかったし、できれば避けたかった。

——これから帰るの?

彼女はいきなりそう尋ねてきた。猫さんはいささか面食らった。先輩風を吹かせたいのか、とも思った。

——いや、ちょっと、本屋に寄ってから……。

嘘ではなかった。早めに帰れるときには本屋に寄るのが、彼のお決まりのコースだった。駅ビルのなかに小さな本屋が入っていて、月末の給料払いでツケにすることもできた。猫さんは当惑したまま歩き出し、そのまま改札口の前を通り、駅ビルの反対側に位置する本屋に向かった。彼女は無言で後ろからついてきた。猫さんは本屋に入ると、文芸誌や囲碁・将棋の月刊誌が並ぶ棚のほうに進んでいった。彼女はモードや映画の雑誌が並ぶ反対側の棚に回った。五分ほど雑誌のページをめくってみたものの気分が落ち着かないので、同年代の若い雇われ店主に会釈をすると店を出た。彼女もあとを追うように店を出て、そのまま二人は改札口を通り抜けた。

言うまでもなく目黒線は目黒駅が始発なので、同じプラットフォームに並ぶことになる。猫さんがいつもの位置に立つと、当然のように彼女も隣に立った。列車が入ってくると、同じ車両の同じドアから車内に入り、並んで吊革を握った。猫さんが避けたかった展開である。無言が続いた。二人ともまっすぐ前を見ていた。外はすでに暗くなりかけていた。並んで立っている二人の姿が窓に映っている。二駅はほんの一瞬である。このまま無言を押し通すわけにはかないと思っていると、彼女のほうが先に沈黙を破った。

——夕食はいつもどうしてるの?

彼女はまっすぐ前を見たまま、そう言った。猫さんは返事に詰まった。馴れ馴れしいというより、順序を一つか二つ飛ばしている。電車のなかで初めて隣り合わせた場合、どこで降りるのかとか、どこに住んでいるのかとか、ふつうそういうことを先に訊くものだろう。つまり、彼女もまた彼が目黒線で通勤し、二駅目で降りるということをすでに知っていたということだが、そんなふうに筋道を立てて考える余裕は彼のほうにはなかった。

——自分で適当なものを作って食べてるけど。

——自炊しているんだ。

そしてまた会話は途切れた。窓に映る彼女が猫さんを見ていた。電車はすでに不動前駅を過ぎて、武蔵小山に向かっていた。

——僕は次で降りますけど?

——次の洗足に行きつけのお店があるんだけど、どうかしら?

彼女が隣の駅から通勤しているということを、猫さんはそのとき初めて知った。まるで自分が誰かに監視されているような気持ちになった。彼女は、真横にいる猫さんの顔を覗きこんだ。ほほ笑んではいたが、真顔だった。

二人は結局、駅の近くの、おかみさんがひとりでやっている京都のおばんざい屋風の店に入ることになった。

ずっとあとになってから、猫さんがのちに奥さんとなる彼女の口から聞いた話であるが、彼が入社してきた第一日目に、わたしはこの人と結婚しようと思ったというのである。

男にとっては空恐ろしい話であるが、この話を聞かされたとき、自分の人生は自分ではどうにもならないものだということを彼は観念した。誰しもそうではないかという意見は正しい。しかし、正しい意見はにわかには信じられない。正しい意見はわかりやすいだけだから。そして、この世にわかりやすいものなど一つもないというのが、還暦を過ぎて生まれ育ったところへ帰ってきた猫さんの感慨であった。