*76 閑話、その二(esq.09)

どうやらうちの猫は死を覚悟したようである。「うちの猫」というのは、あくまでも現実の猫であって、猫さんが飼っているネコという名の猫のことではない。

東京に住んでいたとき、家の近くのクリニックで発行してくれた「動物の健康手帳」によれば、生年月日が二〇〇三年四月二十四日、このクリニックの初診日が六月六日、その翌月に初めて記載のある体重は一・三キロ、その半年後の冬に去勢手術をしたときの体重が四・六キロとなっている。まだ一歳をなっていない時点での体重である。いちばん大きかったときは七キロくらいはあったはずだ。

それが一昨日、こちらの掛かりつけの病院で診てもらったら、二・六キロにまで落ちている。三年前にこの病院で血液検査をしてもらったときには、獣医師さんを含めて四人がかかりで押さえつけなければならないほど元気——というよりは強暴——だったのに、今回はもう抵抗したり、シャーシャー威嚇したりする気力もない。

診察台の上で、優しそうな看護師さんに前脚と後ろ脚の付け根を握られておとなしくしている様は、まるで俎板の上の鯉——たとえが安直すぎるけれども——のようだった。

食餌も口にしようとしない。東京時代から下部尿路疾患用のダイエット食を与えてきたのだが、食べてもすぐに吐くようになり、今では手のひらの上に載せて食べさせようとしても、鼻先を背けてしまう。

ほぼ一日中、ソファで寝ている。それでも階段の上がり下がりとか、ベランダに出て外の空気にあたるくらいのことはできる。

血液検査をしてもらった結果、肝臓と腎臓の機能がかなり落ちていることがわかった。外部の検査機関にあらためてホルモン分泌の状態を調べてもらう必要があるが、おそらく甲状腺に問題があるのではないか、と獣医師は言う。

甲状腺という言葉を聞いて、ガンかもしれないと思った。

同時に、十六歳まで生きたのだ、人間であれば八十余、静かに逝かせてやってもいいのではないか、とも思う。

この猫の名前はシマという。この猫をもらってきた経緯は、*23にも書いたし、その変奏曲みたいなものを*71にも書いた。

幼いころ、わが家の二階のテラスまで上がってきた野良猫——近くの飼い猫かもしれないが——と大げんかして、首筋に深傷を負ったときも、彼はベッドの隅でじっとしていた。痛いからといって、人間のように泣き喚いたりしない。

今日は手のひらの上にマグロのチュール(流動食みたいなもの)に胃薬と肝臓の薬を混ぜたものを載せて、食べさせてやった。それだけ、ほかのものはいっさい口にしない。ただ寝ている。

その寝姿を見て、思い出すことがある。

*68に書いた父方の祖父のことだ。この祖父は晩年、心臓の調子が悪くなって、八十を過ぎてからは床に就いていることがおおくなった。そのころ私は東京で学生生活を送っていて、いっしょに暮らしていたわけでもないし、たびたび帰省していたわけでもないから、すべて母から聞いた話なのだが、米の飯はいっさい口にせず、夕飯はお猪口一杯の酒とマグロの刺身一切れだけで命をつないでいたという。

この祖父は私が大学を卒業する直前の年の暮れにこの世を去った。野辺送りの車の中で、どういうわけだか涙が止まらなくなった。人生ははかないものだと思ったか、ああ、なんという潔い死だと思ったか、大学に進学したものの、自分の将来を思い描けるようになるどころか、ただひたすら混乱をきわめ、自分が何をしたいのか、自分が何者なのかまったくわからなくなっている自分が情けなくなったか、とにかく、感情の嵐のようなものが押し寄せてきて、文字どおり滂沱の涙があふれた。

さっさと大学を出なければ、廃人になると思った。

そして、就職した出版社で妻となる女性と出会った。

その妻も十五年前に亡くなった。

彼女が死ぬ一年半ほど前に家に来たのが、シマと名づけられた猫である。

その猫が今、死を覚悟してソファに横たわっている。

おまえも覚悟せよ、ということなのだろう。

閑話という題にふさわしくない内容になってしまったが、「心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし」(日本国語大辞典)というほうの意味を強調しておいて、今日はここまで。