*19 高倉健

夢はどこから始まっているのかよくわからない。終わりもはっきりしないが、たいていは目が覚めたときだろう。

とにかく、高倉健が夢のなかに侵入してきたのである。気がつくと高倉健が目の前にいた。もちろん同姓同名の知人なんかではない。今年他界した映画俳優の高倉健、その人が夢に登場してきたのである。寒いところがよく似合う俳優と言われた人だから、その縁かもしれないが、夢には北海道らしい風景などどこにも見当たらず、場面はひたすら室内で終始する。四畳半か六畳くらいの狭い、板張りの部屋である。窓もない。

筋らしい筋もない。物語の片鱗もない。ひたすら健さんがしゃべっているのである。あの無口な健さんが、である。奇妙なことに子供がひとりいる。小学校の低学年ほどの子。私とその子は座卓の向こう側にいる健さんの話を黙って聞いている。話の内容は、まったくもって取り留めがない。だからここに書き留めることもできない。

健さん、じつは酔っぱらっているのである。あの飲めない健さんが、コーヒーしか飲まない健さんが、である。聞こし召している。だから呂律がよく回らない。気の毒である。断っておくが私が彼を夢に呼んだわけではないし、無理やり酒を飲ませたわけでもない。

で、よせばいいのに「今日はずいぶん調子がいいんですね」とか口をはさんでしまった。

すると健さん、はたとわれに返ったのか、すねたようにして、部屋の隅の別のテーブルに移ってしまった。

私は小声で子供に耳打ちする。「健さんって、ほんとはああいう人なんだね。映画やテレビで見るときとはぜんぜん違うね」

子供はうなずく。健さん、落ち着かなさそうである。もじもじしている。するといたたまれなくなったのか、また、こちらのテーブルに寄ってきて、しきりにしゃべりかけてくる。

今度はもっと呂律が回らない。何を言っているのかまったくわからない。よく見ると、どこで食べたのか饅頭のような餃子のようなものが口いっぱいに詰まっている。これじゃまともに声を出せるわけがない。

「健さん、口にものを入れたまましゃべるもんじゃないですよ」と私が言うと、健さん、気色ばんで言い返す。

「おまえ、どうしてそんな堅苦しいことを言うんだ」

夢はそのあたりで切れた。場面はなおも続くようであったが、覚めてしまった夢の続きを見るわけにはいかない(そういうことができると豪語する人もいるけれど)。

釈然としない。何もかも。どうしてこんな夢を見てしまったのか。どうして高倉健なのか。どうして子供がいるのか。どうして窓のない部屋なのか。夢だから仕方ないだろうと言われれば、それまでだが。

夢を合理的に判断することには嘘くささがつきまとう。フロイトの『夢判断』は何度手に取っても読み通すことができなかった。

夢は一回性のものである(繰り返しのパターンはあるかもしれないが)。人生と同じように。

私たちは生まれた場所と生まれた時間、時代を選べるわけではない。人との出会いも選べるわけではない。雨のような偶然がひらすら降りつづいている。

偶然というのも人の言葉である。必然というのも人の言葉である。

高倉健が死んで、テレビでは彼の仕事や人柄を偲ぶ回想番組がしばらく続いた。そのなかで印象に残った場面がある。小学生が高倉健に質問するのである。

「どうしたら健さんみたいにカッコよくなれるんですか?」

すると高倉健は二、三秒真顔で考え、言葉をひとつひとつ選ぶようにしてこう答えた。

「きみはこれからたくさんの人に出会う。人との出会いを大切にしなさい。人との出会いがきみをつくってくれるのだから」

これほどのインテリジェンスにはめったにお目にかかれない。インテリと称する人種にはほとんど皆無である。