先日、伽鹿舎——熊本に本拠を置き「九州限定」を旗印とする出版社、念のため——の加地葉さんからメールが来て、紀伊國屋書店グランドフロント大阪店で企画されている「はじめての海外文学フェア」に協力してもらえないだろうかという間接的な(?)依頼が来た。「ビギナー」にお薦めのフランス文学関係の本を選ぶ選者のひとりになってくれないかという。添付の資料にも目を通したけれど、ちょっと条件が多すぎて、選ぶのがむずかしそうだと感じた。
ただ単に「できません」では愛想がないので、自分が訳した本のなかで、もっとも反響の大きかった小説の書評のPDFをばらばらと送った。残念なことに十年以上前に出版されてそのまま絶版になってしまった小説で、今回の企画が対象としている書籍の条件からは外れてしまうものである。加地葉さんはさぞ目を白黒させたことだろう。そのお詫びとフォローを兼ねて、なぜそんな返信になってしまったのか、少し書いてみようと思う。
その本の作者とタイトルは、ここではあえて伏せておく。なぜならば、反響は大きかったけれども、訳者としては微妙な感じの残る作品だったからである。
反響はとにかくすごかった。おもに女性の、著名な作家、評論家、フランス文学者たちがこぞって贔屓してくれたばかりでなく、テレビ・ラジオでも取り上げられたし、わたしも翻訳者として有力月刊誌のインタビューを受けたし、某誌の年間ベスト1にも選ばれたのである。
もちろん訳者としてうれしくないわけがない。だが、でも・・・と続くのである。
この小説を書いた若手作家はとにかく筆が立つ。何をやらせてもうまい。映画も撮るし、芝居の脚本も書く。そのすべてが、いわゆるウェル・メイド(well made)なのである。
もの足らない? いや、うますぎるのである。だから翻訳もなんの苦労もなく快調に進む。わたしは訳者あとがきに、前作と比べて「これはフランス語で書かれなくてもよかったのではないかと思えるほど言葉を切り詰めている」と書いた。
ようするに平易に書かれていたのである。当然読みやすい。頁を繰る手は徐々に速くなる。おまけに紅涙をしぼる場面が用意されているとくれば、「ビギナー」にはぴったりだ。これを機会にフランス文学に目が開かれれば御の字ではないか。
ところで、おまえはこの作品が好きか? と問われれば、うーむ、とうなってしまうのである。
嫌いではない。訳していて気持ちがよいものを嫌いになれるわけがない。
でも、個人的にこういう本を選んで読んではこなかったのである。
というか、今は自分の仕事にしているけれど、かつてフランス文学の敷居はとても高かったのである。若いときは、敷居の高いものにあこがれたり、挑戦してみたくなるものである。べつに難解きわまるマラルメの詩や、プルーストの大長編小説のことを言っているのではない。
たとえば、アルベール・カミュの『異邦人』、これをはじめて読んだのは十代の終わりころだったと思う。第一印象は「とりつく島がない」。主人公のムルソーに、どうしても感情移入できない。どうして作者はこんな小説を書いたのか?
フランス文学には何かなじめないものを感じたまま大学を卒業し、小さな出版社につとめた。そして、何度かこのブログにも書いたように、二十代の終わりに一念発起して、カミュの故郷アルジェリアに渡った。フランス語への耳慣らし、口慣らしのために作者みずから吹きこんだ朗読テープを入手して毎日聴いたりもした。
現地の光を浴び、現地の風に吹かれたのだから、作品が身近に感じられるようになったか、といえば、じつはそうでもない。
なにしろ、家族を養うために大車輪で働かねばならなかったから、「本」など読んでいる暇がなかった。もちろん、仕事で資料や本は読む。しかし、「読書」する暇はなかった。
それはそれで楽しかった。家族のためだと割り切って、あらゆることを単純化してしまうのは存外喜びを伴うことである。「断捨離」とつながるものがある。でも、危険なことでもあるだろう。人はなぜ戦争に突き進むのか? ありとあらゆることを割り切って、ひとつの価値に収斂させていくこと、それは快感なのだ。テロが世界の方々で起きているのを見て、いつもそう思う。
それはともかく、そうした幸福な生活はいつまでも続かなかった。妻が病死し、娘たちは早々と結婚して家を出ていった。家から人の気配と、人の声が消えた。がらんとした空間に男だけが取り残された。
よし、「本」を読もう、と思った。古典中の古典を。たとえば聖書、たとえば仏典、たとえば老荘、たとえばマルクス、資本論、たとえば科学史に関連する本、自分の生地が踊る本。ここに小説はあまり含まれていないのがミソ(?)だ。
午前中に翻訳の仕事を終え、昼食をたべて仮眠をとる。その習慣は変わらない。けれど三時から五時くらいにかけての昼下がりの時間には、仕事を持ちこまない。ひたすら「古典」を読む。この種の古い本はけっしてpage turning(読み出したら止まらない)といえるようなものではない。むしろ、一行ずつ、一頁ずつ、亀のように、毛虫のように這いながら読み進めていく。その間、時間は忘れている。あるいは止まっている。世界の共通時から外れていく。それが快感になる。家族がいたときとは真逆の時間がそこにはあった。
けれどそういう時間も長くは続かなかった。一人暮らしは予想以上に疲れた。誰でもいいからそばにひとがいてほしいと思うようになった。もう年貢の納め時かと思い、生まれ故郷に帰った。老いた母親も一人暮らしになっていたから。
ただし「読書」の習慣は残った。古典を遅読する習慣とでもいおうか。三時から五時にかけての昼下がり、わたしの時間は止まる。
その時間が無上の快感なのである。時間は完全には止まっていない。ゆっくりとした微風のようなものが流れている。遠い遠い時間の果てから吹いてくるような風。
「本」を読んでいるときに感じる、そういう風が「文」を書いているときにも吹けばいいと思う。
で、カミュの『異邦人』の話はどうなったか。アルジェリアから帰ってきて、長いこと忘れていた。東京で非常勤講師を頼まれたときに、テキストに使ってみたことがあるが、学生たちの反応は今ひとつだった。大学で教えている翻訳者仲間にも尋ねてみたが、『異邦人』はノーベル賞を獲得した現代の古典と呼べるような作品ではあるが、やはり学生がすぐに食いつく作品ではないらしい。
帯広に帰ってきてから、地元の同人誌から声がかかった。何か書けという。ふと『異邦人』を思い出した。この作品は自分の青春とともにあった。あまり気張らずに、新しい切り口で何か書けないかと考えた。
「ムルソーの食卓」(2015年1月28日に本ブログに公開)というタイトルが思い浮かんだとき、これはいける、と直感した。そして、書きはじめるとすぐに、この小説は自分の体内に入っていると感じた。長い間、記憶の底に沈んでいたが、身体の奥で呼吸していたというべきか。食事をするムルソーの描写を通じて、ムルソーが自分の身体のなかに生きていると感じた。
そこに静かな時間が流れていた。最初にこの作品を手にしてから半世紀近い時間が流れた計算になる。
本屋さんは商品としての本を扱う。本が売れなければ本屋はつぶれる。専業の小説家や翻訳家だって路頭に迷う。三年前に本屋大賞を頂戴したくらいだから、本屋さんのありがたみは人一倍感じている。
でも、わたしにとっての「本」は、商品としての本ではなく、降りそそぐ光とか風とか、そのつど口にした食べ物とか、やはり人生そのものとしかいいようのないものなのである。