*33 LGBT、あるいは「第三の性」

今月号(8月号)の「すばる」に野崎歓さんの「第三の性と出会うとき——フランス文学とホモセクシュアリティ」(特集*LGBT)と題したエッセイが掲載されている。「バルザック以来、フランス文学史において脈々と受け継がれてきた男性同性愛の表現」がジャン・ジュネにおいて絶頂に達する過程を鮮やかにすくい上げ、最後はエドゥアール・ルイの衝撃の問題作『エディに別れを告げて』(拙訳、東京創元社、2015年刊)に触れられている。

そう、そうなのだ、と読んでいて、何度もうなずいた。ホモセクシュアルの世界はフランス文学ならずとも、文学のきわめて重大なテーマのひとつではないか。

だが、フランスでは賛否両論の渦を巻く話題作となった『エディに別れを告げて』も、日本においてはほとんど無視の状態で終わりそうな気配なのだ。野崎さんの力強いエッセイの後押しで、日本版「エディ」が息を吹き返すのを見たいものだと願わずにはいられない。

それにしても、なぜ日本の読書界はこの作品を前にしてほとんど沈黙してしまったのだろうか? テレビの世界では、みずから「おかま」と称して悪びれも気後れもせず堂々と活躍しているタレントも珍しくないし、トランスジェンダーであることや肉体的に性転換を果たしたことを「カミングアウト」する人たちも増えてきているというのに、どうしてだろうと思う。

おそらく複数の要因が絡み合っているのだろうと、翻訳した本人としては考えている。翻訳の質については問わないことにしよう。自分ではいいのか悪いのか判断できないから。

まず、ひとつには、フランスの読者でさえもが、こんなに貧しく汚い世界がフランスに残されていたのかと驚いたということがある。日本の読者が、そういう事実なり真実なりに触れるためにわざわざ翻訳小説を手にするだろうか? そもそも、「破滅型」と呼ばれる日本の私小説作家たちが、さんざん貧しく憐れな世界を描き、こんなのは日本特有のいびつな「自然主義」の受容の結果だと言われつづけてきたのだ。そして、その種の貧しさからようやく脱し、世界の一流国の仲間入りを果たしたと自惚れている日本人が、わざわざ一昔前の自分たちの姿を鏡に映して喜ぶだろうか。しかも、「ホモ」と呼ばれて蔑まれ、こっぴどい「いじめ」を受ける自虐的な場面に事欠かない小説なのである。

いや、夢中にならなくてもいい。そういう小説ではないのだから。

長年、翻訳をやってきて、ちっとも売れなかったという経験ならいやというほどしてきた。だから、思ったほど刷り部数が伸びなかったことがショックなのではない。あまりにも書評の数が少ない。版元から送られてきた書評のコピーは、たった二つ、これはどうしたことか、と訝っているのだ。

野崎さんのようなけっこう分量のある秀逸な書評を期待していたわけではない。だから、今回「すばる」に掲載されたエッセイは望外の喜びと言ってもいい。

もうひとつの問題は、この野崎さんのエッセイのなかに潜んでいるかもしれない。文章の流れを寸断するようで申し訳ないのだが、ここで言及されたり引用されたりしている作家と作品の名前を一部ここに列挙してみよう。

サルトルの『水いらず』、ランボーの『イリュミナシオン』、エルヴェ・ギベールの『わが両親』、バルザックの『ゴリオ爺さん』、『浮かれ盛衰記』、プルーストの「ソドムとゴモラ」(『失われた時を求めて』)、ジュネの『花のノートルダム』、『薔薇の奇蹟』・・・・・・。

わたしはフランス文学の翻訳者ということになっているが、正直言って、ここに挙げられた作品は、読んだものもあれば読まなかったものもあるし、途中まで読んで投げ出したものもある。

もっと突っこんで言えば、「フランス文学」にはコンプレックスがある。おまえは本当に「フランス文学」が好きかと問われて、間髪入れず「はい」とは答えられないのである。学生時代からずっとそうなのだ。

ならば、なぜ「フランス文学」の翻訳者などになったのか?

なりゆきとしか答えようがない。

ただし、「文学」を「書かれたもの」と解釈するならば、フランスの文学に対する「学恩」は計り知れないものがある。

『トリスタンとイズー』、『ローランの歌』、ミシュレの『魔女』、デカルトの『方法序説』、スタンダールの『イタリア絵画史』、バシュラールの『近似的認識試論』、夢中になって読んだものを挙げよと言われると、こんなライン・アップになってしまうのである。

大学時代のフランス文学関係の講義は苦痛で仕方がなかったけれど、科学史の授業は好んで出かけていった(教授の名前も講座の名前も忘れてしまったけれど)。

話が逸れた。

野崎さんは、「すばる」に発表したエッセイの最後を「何しろここで触れた作品はいずれも、ギベールのいう「新聞売りの回転陳列台」にあるような、本来だれにでも手に取って読むことのできる作品ばかりなのだから」という文言で締めくくっているが、それははたしてどうか、と思うのである。

もちろん、野崎さんの言わんとしているところは承知しているつもりである。ホモセクシュアルはけっしてマイナーな主題ではないということだろう。それはわかる。しかし、キオスクの回転陳列台に並べられているから、フランス人の誰もが読む作品かといえば、そうとは限らないだろう。

学生時代、フランス文学の教授(たしかスタンダールの専門家だった)が「フランスの庶民階級はあまり本を読みませんよ。識字率も日本より低い」とか語っているのを今でも憶えている。四十年前と今とではもちろん事情は違う。

しかし、「文学」にまつわる事情は日本もフランスも、今も昔も同じではないかと思うのだ。

何年か前に、急遽フランスから取り寄せたい本があって、フランスのアマゾンで検索していたら、フランス人の一読者が自分はふだんフランスの小説をあまり読まない。なぜならおもしろくないから。おもしろみを求めて読むなら、アングロサクソンの探偵小説に限る、というような内容のレビューを発見して驚いたことがある。

今、パリの書店を巡り歩くと、日本のエンタテインメント小説が平積みになっているのを目にすることが驚きではなくなっている。日本のマンガ・コーナーの広さにはほとんど唖然とさせられる。

いったいこの光景は何なのか?

フランスを文化的先進国として見上げていた自分の青春はいったいなんだったのか?

フランスは優れて近代の国だった。それが今、「近代は終わった」などと言われ、「ポストモダン」という言葉は特殊な専門用語ではなくなった。

しかし、こういうことをしたり顔で言う知識人は信用できない。なるほど「近代」という時代はいたるところで限界を露呈しているかもしれない。しかし、「近代」を軽々しく否定することは、みずからを否定することではないのか。とくに「知識人」と呼ばれる人にとっては。

それとも彼らは自分だけは別物だと思っているのだろうか。

『エディに別れを告げて』の著者エドゥアール・ルイは、このあたりの自己欺瞞に優れて敏感な作家だと思う。なぜなら、彼は成り上がりであり、自分の出自に対する裏切り者だという罪悪感をごまかそうとしないからだ。

もしかすると、「文学」は壮麗なごまかしなのかもしれない。野崎さんはこう書く。

 

作品冒頭、悪辣ないじめっ子が中学の廊下でエディの顔面にねっとりとした唾を吐きかける場面が強烈だ。『薔薇の奇蹟』にも同様の場面があったが、ジュネのような汚辱の壮麗化からははるかに遠く、救いのないベタな事実として記述されていることが逆に衝撃を与える。偉大な同性愛文学のはるか手前{原文傍点}に横たわる現実があらわにされているのであり、若き作者にはそこから出発する以外に方法はなかった。その隔たりの大きさに眩惑を覚える。

 

このような感受性と視点をもって、作品を読み込むことのできる野崎さんの文学者としての懐の深さには脱帽するしかないが、こんなふうな率直な作品評価のできる人が野崎さん以外にいないというのは、いったいどうしたことなのか?

さっき言ったことの繰り返しになるが、人生の節目節目で自分は本当に「文学」というものが好きなのかと問い直す場面に何度か直面してきた。たとえば嘉村磯多の作品を読んでいたときにもそういう思いに駆られたことがあった。天皇行幸の場面を描写した箇所を読んで、自分は貧しくしがない一介の文士だが、文を書くことにおいては帝王にもひけを取らないと言っているように思えて、「この卑怯者!」と内心つぶやいたのである。

プルーストを読んでいたときにもそういう感慨が湧き上がってきた。コルク張りの部屋を設えて、そこを王国となす。いい気なもんだね・・・・・・。でも、読み進めていくうちに、これは「失われた時」を求め、それを発見する物語ではなく、ボードレール風に言うならば、時間から逃げようとしてついに時間に捕らえられてしまう男の物語ではないかと思えてきて、作者にのしかかる強迫観念がこちらにまで押し寄せてきて、読み終わったときには、もう二度とこの小説を読むことはあるまいと、全巻友人に進呈してしまった(翻訳家になってから、やはり必要になって文庫本を全巻購入するはめになったけれど)。

また、話が逸れた。

10月には、アルルで開設される翻訳家養成のワークショップに参加するためにフランスに行くことになっている。帰りがけに、知己を得た作家に会ってこようかと思っているのだが、エドゥアール・ルイはどうしよう? 第二作目を翻訳するかどうかまだ決まっていない状態で、彼と会って何を話せばいいのか?

少なくともここで言えることは、第一作はあくまでも作家としてのスタートを切った作品であって、文体にしろ、構成にしろ、すべて手探りの暗中模索、これ以上はどうにもならないと観念して作品を手放したという感が強い。それに比べて第二作目(版権の問題があるからタイトルはあえて伏せておく)はあきらかに自覚した作家の誕生を告げる作品に仕上がっている。翻訳したいと思っても、この前代未聞の出版不況にあって、よほどの追い風が吹かないかぎり、実現はなかなか難しいだろう。

とりとめもなく書いてしまった。こんな文字どおりの拙文よりは、野崎歓さんのエッセイのほうがはるかに為になると思うので、PDFファイルを下に貼りつけておくので、ぜひ読んでみてください。

 

野崎歓 すばる