*71 猫は丸くなって眠る(esq.05)

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猫は炬燵で丸くなるという童謡の一節もあるし、そもそもネコの語源は寝る子から来ているという説もあるし、猫がよく寝るのはむしろ健康な証拠なのかもしれないが、老齢の猫がひたすら朝から晩まで寝ているのを見ると、心配になってきたりもする。

猫さんのところのネコも、じつによく眠る。朝になると餌をねだりにやってくるが、一口二口食べるとまた寝てしまう。もっとも最近は、ペットショップに行っても、ペットクリニック——昔は犬猫病院と言ったものだと、還暦を過ぎた猫さんは思うのであるが——に行っても、餌とは言わない。はい、はい、いつものネコちゃんのお食事ですねと言う。その度に猫さんは、餌と言ってはいけないのかと訝るのだが、声には出さない。偏屈じいさんとは思われたくないからである。生まれ育った故郷に帰ってきたというのに、知り合いがほとんどいないせいか、よそ者感が強い。その分だけ変人扱いされたくない。息を詰めてというほどのことはないが、できるだけ目立たないようにしている。

なんのために帰ってきたのかと、猫さんはときどき思うのである。

朝の五時頃、ネコは主人を起こしにやってくる。猫さんは布団のなかには入っているが、たいていは目が覚めている。小学校の同級生だった精神科医に睡眠薬代わりの抗鬱剤を処方してもらってからは、一時、二時に眼がぱっちり開くことはなくなったが、年齢のせいか、朝はあいかわらず早い。

ネコがやってくるのを合図に起き上がり、処方食の餌——尿路に結石がたまりやすい体質なのである——を与えると、猫さん本人はトイレに入って用を足し、顔を洗ってから布団を上げ——ベッドは落ち着かないので、若いときから布団を敷いて寝ている——、電気剃刀で髭をあたり、乾いたモップで床を軽く拭き、オーディオ装置やデスクの上にほんのうっすら積もった埃を静電気除去布巾とかいう代物で拭き取り、革張りの長椅子——ソファという呼称はいまだに馴染めない——に腰かけて新聞を読む。するといつのまにか、ネコが隣で寝ている。

いつもほとんど同じ姿勢である。右前脚で後ろ脚を抱えこむようにして丸くなり、左前脚をアイマスク代わりにして眼のあたりを覆う。まるで眠りを抱えこんでいるようだと猫さんは思う。

最近はよく寝るだけでなく、よく鳴くようになったとも思う。しかも、犬の遠吠えのように、遠いところにいる誰かを呼んでいるのかとも思えるような野太い声で鳴くのである。もらってきた当初は、か細い声を出すどころか、まったく鳴かなかったのに。それに最初に気づいたのは、猫さんの奥さんだった。

——ねぇ、ひょっとしてこの子、鳴かないんじゃないかしら。

——鳴かない? 鳴くだろ?

——あなた聞いたことある?

そう言われてみると、聞いた覚えがない。

——そのうち鳴くだろ。

——仔猫って、ふつうミャーミャーかわいい声で鳴くものでしょ。変よ。

というわけで、近くの犬猫病院——ペットクリニックではなく——で診てもらうことにした。

——鳴かない?

若い獣医さんは明らかに当惑している。猫さん夫妻も当惑しているので、頷くことしかできない。
——ぜんぜん?

また頷く。若い獣医さん、診察台の上に籠ごと乗せられた仔猫のネコを覗きこむ。ウンともスンとも、ミャーともシャーとも言わない。ただプルプル震えている。獣医さんに怯えているようにも見えるが、春先に猫さんのところにやってきてから、ずっとプルプル震えているのである。体が虚弱なのかもしれないし、あちこち引き回されて怯えが常態になっているのかもしれない。

——そのうち鳴くでしょ、というのが若い獣医師の出した結論であった。猫を飼ったこともない素人の考えと変わるところがなかった。帰り道、仔猫用の小さな籠を胸にそっと抱きしめながら、猫さんの奥さんは明らかに不満そうだった。

——彼女にきいてみる。

彼女というのは、多摩川縁に住む篤志家の女性のことである。捨て猫を拾ってきては里親を見つけるまで育てるという手間も費用もかかる仕事を善意で続けている人なのである。ヴォランティアと呼ぶ人もいるが、猫さんは篤志家という。

いずれにせよ、猫さんの家にやってきてネコと名づけられた猫は、この女性が多摩川縁で拾ってきた捨て猫だったのである。たまたまその篤志家の奥さんと猫さんの奥さんが、自然食品の学習会とか称する主婦の消費者運動を通じて知り合いになり、うちに今、仔猫の兄弟が二匹いて、もらい手を探しているんだけど、とかいう話になったのである。

——ねぇ、ねぇ、今度の土曜なんだけど、見に行かない?

どういう風の吹き回しか知らないが、声がはしゃいでいた。それまで猫さんの奥さんは、犬にせよ猫にせよ、小鳥にせよ金魚にせよ、ペットを飼いたいと言ったことなど一度もなかったのにである。

猫さんにしてみれば、猫が猫を飼う、照れくさいような、シャレにもならないというような気持ちがつきまとう。そして何より、誰にも言ったことのない秘密に属する事柄なのだが、猫柳という名前で、幼いころから猫という愛称で呼ばれてきたのに、じつは猫さん、犬が好きだったのである。

とりわけ大型犬に、どういうわけか、無性に惹かれるのである。ゴールデン・レトリバーでも土佐犬でもいいし、シェパードでもドーベルマンでもいい。セントバーナードになると、通りを散歩しているのを目にするだけで抱きつきたくなってしまうのである。

それなのに猫を飼う。あまり気乗りがしないだけでなく、不吉な予感のようなものもあった。あとから思えば、というようなこじつけではなく、何かがまずいほうに流れ出していると感じたのである。

ならばはっきりと奥さんに、猫を飼うのはよそうと言えばよかったじゃないか、と誰しも思うだろうが、そういうときにかぎって、猫さんは何も言えないのである。人任せにしてしまう。どっちでもいいさとか、どうせ大差ないだろうとか、自分の気持ちをごまかしてしまう。

人生の一大事であっても。

そして、猫さんの人生における唯一の決断が、自分の生まれ育った町に帰るということだった。還暦を過ぎてから、このままだと手遅れになる、なぜかそう思ったのである。

ネコ——猫ではなく——の話に戻そう。とにかく、その週の土曜、猫さんと奥さんは多摩川縁に住む篤志家さんを訪れたのである。せっかくお越しいただいたのに、家のなかは犬と猫だらけなので、おかまいもできませんが、と言って差し出されたのは、小さめの段ボールに入れられた二匹の仔猫だった。

この二匹は見るからに対照的だった。まず柄が違う。一方は大きな白黒の丸い模様に覆われている。一方は背中の部分が濃い茶色の毛で覆われていて、よく見ると濃い茶色と黒の縞模様になっている。一方はすでに大きく育ち、動きも活発で、か細いけれども通る声で、さかんにミャーミャー鳴いている。縞模様のほうは白黒よりも小さく、段ボールの隅に小さくうずくまり、プルプル震えている。

——これ、兄弟ですか?

猫さんの奥さんが、思わず質問した。

——いっしょに捨てられていたから、とりあえず兄弟ということにしてあるけど、ほんとうのところはわからないわね、と篤志家の奥さんは言う。ただし、野良猫が産んだ子だとすると、同じ腹から生まれてきても、まったく柄が違うことはよくあることだという。篤志家の奥さんは、できれば二匹とも連れていってもらえるとありがたいですけど、と言って、大きな笑顔をつくる。

——それはちょっと無理よね。

猫さんの奥さんは旦那さんのほうに目を向ける。猫さんは躊躇なく頷く。そもそも飼うと誰が決めたのか、というのが本音である。

——それならば、せめてどちらか一匹でも。

家のなかにはもう置き場がないのだと篤志家の奥さんは嘆く。おまけに病気の猫も最近増えてきて——エイズの猫もいるらしい——、それを隔離するためのスペースも必要だという。

——人間の寝場所を確保するのがやっとなの、と言って、篤志家の奥さんは大きな声で笑った。

これでもらわずに帰ったら、鬼だと罵られそうである。

——ねぇ、どっちにする?

猫さんの奥さんはすでにどちらか一方をもらっていく心づもりでいるらしい。困ったことになった。飼うこと自体、気乗りしないのに、この対照的な猫のどちらかを選べというのは、ほとんど究極の選択ではないか。というのは、猫さんは大きな白黒の丸い模様がついたほうを見たとたん、これはない、と思ったのである。丸い模様がなんとなく気に入らなかっただけでなく、動きが活発で、ミャーミャー——むしろピャーピャーに聞こえる——鳴く様が、うるさいというよりも、性格が自分本位で意地汚い印象を与えたのである。むろん言うまでもなく、猫さん個人の感想である。

それに比べて、背中が縞模様になっている小柄なほうは、大柄なほうに——たぶん兄だろう——比べると華奢だし元気がない。見るからに虚弱そうだ。でも、こっちのほうが美しいと猫さんは思ったのである。

健康だが醜い猫と虚弱だが美しい猫がいる場合、ふつう世間一般はどちらを選ぶだろうか? まるでグリム童話か日本昔話に出てくる話のようではないか。こういう場合、心優しい飼い主は虚弱だが美しい猫をもらっていって、精魂込めて大切に育て上げると、じつはその猫は王子さまの化身であったとか、飼い主が殿様に無理やり城に連れ去られていく朝に領内の全野良猫が結束して、殿様の家来たちに襲いかかったとか、どんな物語も作れそうではないか。

——小さいほうにしよう。

そう言ってしまってから、猫さんは、しまったと思ったが、時すでに遅しであった。罠にでもかけられたような気がした。

そして、いつのまにか、鳴かない猫も鳴くようになった。頼りなさそうに見えた若い獣医師は正しかったのである。鳴くようになったのが、病院で診てもらってから一ヵ月後だったか、二ヵ月後だったか、猫さんの記憶にはない。記憶にあるのは、

——あら、この子、今、小さく鳴かなかった? という奥さんの言葉だけである。

あれから十五年も経つのか、と猫さんは背中の縞模様を誇示するように丸くなって寝ているネコを見つめながら思う。猫の年齢は四倍か五倍すると人間の年齢に相当するらしい。とすれば、このネコはおれとほぼ同じ年齢ということになるではないか。こんなに長生きするとは思わなかったし、年を取れば取るほど、さかんに鳴くようになるとも思わなかった。

何百匹もの捨て猫を育てたあの多摩川縁の篤志家さんの見解では、生まれてすぐに捨てられた仔猫は鳴いて乳をせがんでも母親がいないので、鳴かなくなってしまうのだという。ならば、兄のほうの白黒はなぜあんなにも鳴くのか? 健康だからというのがその答えだった。犬猫病院から帰るとすぐに篤志家さんに電話した猫さんの奥さんがそう言っていたのである。弟のほうが虚弱になってしまったのは、餌を別々にやっても、食欲旺盛な兄のほうが弟の分まで食べてしまうからだとも。ほら見たことか、おれの直感は正しかったじゃないかと思い、本来なら猫は飼いたくなかったはずの猫さんは自分の見立てに満足した。

背を丸くして、猫にしては大きな寝息をたてて、すやすや寝ている丸い寝姿を見るにつけ、これがあの虚弱でプルプル震えていた仔猫とは思えないし、ネコ本人(?)にあの多摩川縁で過ごした幼年期の記憶があるとも思えない。

でも、ほんとうにそうだろうか、猫さんはときどき思うのである。丸くなって寝ている猫が抱いているのは眠りではなく、記憶ではないのか。

(つづく)