*72 猫の記憶(esq.06)

文字は石にきざまれて、そこに残る。

声は風にのって、空に消える。

石は風にけずられて砂となり、

砂をはこぶ風の行方は風にもわからない。

 

*4

 

猫さんはテレビを見ている。チャンネルはBSのどこか。景色はスコットランドのどこか。青々とした牧草地がどこまでも広がっている。たくさんの犬たちが草原を走り回り、跳ね回っている。大型犬もいれば小型犬もいる。微風に乗って滑空するフリスビーを追ってジャンプし、空中でキャッチするシェトランド・シープドック。遠くに放り投げたテニスボールを追って疾走するディアハウンド。燦々と降りそそぐ日の光を浴びて草むらに横たわるゴードン・セッター。近景にも遠景にもまだまだたくさんの犬たちが走り、じゃれ、跳躍している。

スコットランドのトップブリーダーと称される女性が画面に大写しになっている。赤みがかった金髪をポニーテールにしている。化粧っ気はなく睫が長い。肌は小麦色、見るからに健康そうだ。中背で細身だが、鍛えられた身体であることは、ワークシャツの肩を盛り上げている筋肉の張り具合からもわかる。ゲール訛りの英語のせいか、画面の下に字幕が出ている。日本語吹き替えの合間から聞こえてくる本人の肉声はアルトだ。

——犬というのは、人間が狩猟生活を集団で行うようになったころから人間とともに生活してきました。虚弱で野性の生活には不向きで親から見捨てられた狼の仔を拾ってきて、人間の群れのなかで育てたのがはじまりだと言われています。だから犬はとても依存性が強いんです。人間にとてもよく似ています。犬が躾けやすいのはそもそも人間に似ているからです。似た者同士なんです。猟犬、牧羊犬にはじまり、近代に入ってからは盲導犬、警察犬、麻薬犬など、様々な分野で彼らは人間とともに働いてきました。それは今も変わりません。でも、圧倒的に増えたのが愛玩犬です。それとともに圧倒的に悲劇も増えました。事故、病気、そして虐待です。犬もときとして牙を剥きます。人間だって暴力をふるいます。彼らは動物です。人間も動物です。でも、動物だから暴力をふるうのではありません。人間だから暴力をふるうのです。犬が突然人間に噛みつく。その理由はさまざまです。言えることはひとつだけです。適切な距離を保つこと。スキンシップは大切です。でも、だらだらと節度なくいつまでもくっついているのはよくありません。人間にとっても犬にとっても。私たち人間が成熟しなければいけません。犬を依存性の強い生き物にしてしまったのは、私たち人間です。人間にはその責任があります。人間とともに生きてきた犬たちは、まさに人間の鏡です。彼らは幸福なんだろうかと私はときどき思います。同時に、私たち人間は幸福なのだろうかとも思います。

カメラが女性の顔から逸れて、遠くで草を食んでいる羊の群れをパーンしていく。その手前には元気に飛び跳ねている犬たちがいる。空の雲が画面の左から右に向かって流れていく。

猫さんがこの番組を見たのは、ずいぶん昔のことだ。たしかBS放送がはじまって間もなくのころではなかったかと見た本人は思っているが、ビデオに録画したわけでもないので証拠はない。記憶だけはくっきりしている。そのころのBSでは、海外の放送局が制作した番組がよく流れていた。スコットランドの女性ブリーダーが登場した番組はBBCの制作ではなかったか。これもまた猫さんの記憶に属することで、確証はない。

猫さんが見るテレビ番組は、ニュースを除けば、野生の動物たちの生態を特集したドキュメンタリーが多い。ドラマや音楽番組はあまり見ない。いわゆるバラエティのたぐいはまったく見ない——と本人は言っている。録画することはないので、そのための装置もない。猫さんが鮮明に憶えているもう一つの映像がある。これも野生の動物を映したものだが、どんな番組だったか、地上波だったか、BSだったか、それさえも忘れて、映像の断片だけが残っている。

登場するのは犬でも猫でもなく、キタキツネの親子だ。キタキツネが登場するのだから北海道の風景であるが、猫さんがこの映像を見たのはこちらに帰ってきてからではなく、東京である。例によって、いつごろ見たのか、どこで見たのか——自宅か、どこかの店内か——、まったく記憶にない。映像だけが残っているのである。

真っ向から吹きつける猛烈な地吹雪のなかを、キタキツネの親子が歩いていく。画面はほぼ真っ白である。中央にぽつんと二つ黒っぽい点が見えるだけ。遠景にはカラマツの防風林らしきものがぼんやりと映っている。北海道のどこかの畑だろう。あたり一面雪に覆われ、なおかつ吹雪のせいで地形も何もわからない。これでは地方を特定することなどできない——いや、番組ではたしかナレーションが入っていたはずだが、猫さんの記憶からはすっぽり抜け落ちている。

カメラが中央の二つの黒い点をズームアップする。尻尾が長く太いからキツネであることがわかる。顔面をまともに襲う吹雪をさけるために前屈みになり、前脚を踏み出すたびに少し埋まり、引き抜いてはまた前に差し出し、また埋まる。それを四本の脚で繰り返す。見るからに重労働だ。どこから来て、どこに向かうつもりなのか。画面に映し出だされているのは、荒れ狂うホワイトアウトの世界だ。

餌を求めて? いや、こんな吹雪のなかを移動するくらいなら、どこかの林のなかでじっと息を潜めていたほうがいい。移動しているうちに猛吹雪に遭遇した? そうかもしれない。

後ろの一匹が埋もれて立ち止まる。やや小柄に見えるから、子狐かもしれない。それに気づいた母狐——たぶん——が立ち止まり、振り返り、そして二、三歩戻り、鼻先を相手の鼻先に近づける。子狐は力を振り絞り、前脚を踏み出し、後ろ脚を抜き、また前に歩きはじめる。

後ろの子狐は徐々に遅れていく。そしてまた雪に埋もれる。母親がまた戻っていく。自分の鼻を子の鼻に近づける。何度も何度も。そして顔を上げる。その間、二秒か三秒。母親は吹きつける地吹雪のほうに顔を向け、子供から立ち去っていく。

画面は固定されている。母親は画面の中央から左に向かって歩きつづけ、やがて画面から消える。カメラはそのあとを追わない。ホワイトアウトのなかに、ぽつんと小さく黒い点が残る。

その映像を見終わったあと、猫さんはあれこれ想像した。母親は子供のところに戻ると、二、三秒、鼻を近づけた。あれはまだ歩けるかどうか確認していたのだろうか。それとも死んだわが子を弔ったのだろうか。でも、むしろ猫さんが気になったのは、その二、三秒のあいだに母親が何を考えたか、何をしていたかではなく、そのときたしかに時間が止まっていたように感じられたことだった。

時間が止まっていた? いや、その間も吹雪は舞い、母狐は鼻先を動かしていたではないか。時間が止まっているように感じられたのは、おまえが息を詰めてその場面を見ていたからではないのか。猫さんは自問自答する。

いやいや、そうではない。

どっちも、違う。

時間は同じように動いていたのでも、止まっていたのでもない。

あの瞬間——二、三秒のあいだ——、時間は加速して、重みを増したのだ。

自分はそれを経験したと、猫さんは思っている。奥さんが病院のベッドで絶命する寸前の、二、三秒間、時間は止まったのではなかった。時間は急激に加速して、ブラックホールに吸い込まれていくように、死の井戸に落下していったのだ。猫さんもまた、その死の井戸に吸い込まれるようにして——キタキツネの母親がわが子の鼻先に鼻を近づけたように——奥さんの顔を覗きこみ、叫んだのだ。

——おーい、いっちゃうのか、と。

その声もまた井戸に吸い込まれていった。

彼女の意識も消えた。記憶も消えた。肉体も焼かれて消えた。

けれども、猫さんの記憶のなかに、彼女の姿、彼女のしたこと、語ったこと、書き残した言葉のいくつかも残っている。

でも、それは脳のある一部分——海馬とか呼ばれているところ——に刻まれたものだろうか。

長椅子の横で丸くなって寝ているネコの眉間を撫でながら、猫さんは思うのだ。

彼女が今ここに現れたら、ネコはきっと驚き、二、三秒とまどい、そして彼女に擦り寄っていくだろう、と。たとえ匂いもなく、声もなく、姿さえ見えなくても。