思うところあって、扉の写真だけでなく、ブログの本文も更新再開することにしました。といっても、そんなに深い考えがあるわけでなく、小説の試みを連載形式で更新していくのはさすがに無理ということは痛いほどよくわかったので、元のスタイルに戻そうということにすぎません。前口上はこのくらいにして、さっそく……。
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バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(変則的な英語読みだとゴールドベルグ)というと、ほとんどの人がグレン・グールドの演奏を思い出すのではないだろうか。正確を期すれば、この曲名を知っている人のほとんどは、と言うべきかもしれない。
そう言う自分も、この曲を初めて聞いたのは、グールドの演奏だった。
今は、アナログ・レコードで聴いている(1955年のモノラルではなく、1981年のステレオ盤)。
仕事に煮詰まったときは、BGMとしてのストリーミングでは意味がなく、CDも物足らず、もったいぶってターンテーブルにビニールのレコードを載せて、おもむろに針を落とすという儀式めいた動作が気分転換にはもってこいなのだが、さて何を聴くか選ぶ段になって、あれこれ迷ったあげく、ま、いいかと、グールドのゴルトベルクを選ぶことが最近多くなった。
グールドのゴルトベルク。J・S・バッハの、ではないのである。ほかの演奏家では、だめなのである。うちにはユゲット・ドレフュスによるクラブサン(=チェンバロ、ハープシコード)演奏もあるし、ギター・デュオ用に編曲された演奏もあるし、高橋悠治の途方もなく速い演奏もある。
でも、癒してくれるというか、落ち着かせてくれるのは、グールドなのである。
どうしてなのかは、よくわからない。
彼の演奏は、語りかけてくるような気がする。歌いながら弾くのは彼独特のスタイルではあるけれど、必ずしもそのせいではないと思う。分析するのはよそう。どこにもたどり着けないから。
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グレン・グールドというピアニストの名を知ったのは、じつは村上春樹の処女作『風の歌を聴け』を読んだときだった。
この小説はすでに手もとにないし(たぶん、二人の娘のどちらかの本棚にある)、遠い昔(三十数年ほど前)に読んだきりなので、記憶が不確かであることをご容赦いただきたいのだが、そのなかに主人公の「僕」がレコード店でベートーヴェンのピアノ・ソナタを買い求める場面がある。全三十二曲のうち何番だったかは忘れてしまったけれど、たしかガールフレンドのためのクリスマスのプレゼントだったような気がする。応対に出たレコード店の若い女性店員に「バックハウス、それともグレン・グールド?」と尋ねられると、「僕」は即座に「グレン・グールド」と答える。
この作品を読んだのは、三十歳を越えたばかりの頃、場所はアルジェリアのジジェルという地中海沿岸の小さな町だった。町外れに冷凍倉庫を建設する現場があって、そのプロジェクトに通訳として雇われたのである。
そこで初めて、飯場暮らしというものを経験した。鉄骨とベニアのプレハブ住宅で半年寝起きをした。部屋は四畳半、スチールのベッドがひとつ、小さな机と椅子が用意されていた。数十人ほど収容できる食堂と十畳ほどの娯楽室(ビデオを見るためのテレビがあるだけ)、それにコンクリート剥き出しの床にバスタブを置いただけの風呂があった。トイレは住居の外にあった。建設現場によくある仮設トイレを思い出してもらえばいい。
土曜日の午後と日曜日が休日だった。
暇だったわけではないが、よく本を読んだ。いちおうフランス語の通訳なので、原書など持っていったが(ファーブルの昆虫記)、ほとんどページを開くこともなく、現場の同僚が日本から持ってきたエンターテインメント系の小説(冒険小説、アクション小説、サスペンス、ミステリーのたぐい)を、まるで砂が水を吸い込むように読み漁った。
そんなときに村上春樹の本が三冊、日本から届いたのである。アルジェリアの片田舎の、野なかの建設現場に! 郵便局もポストも見たこともないし、郵便局員がいるのかどうかもわからない!(でも、いたのだろう、ちゃんと小包が届いたのだから)。
送り主はミドリさんという。妻の独身時代からの友だちで、娘たちのことを親身になって世話をしてくれたし、我が家でよく一緒に食卓を囲んだ人である。
『風の歌を聴け』と『一九七三年のピンボール』はすでに文庫版になっていて、三冊目の『羊をめぐる冒険』は出たばかりだった。
唖然とした。自分自身にである。
『風の歌を聴け』という作品も、村上春樹という新人作家の名前も知っていた。大学を出て教科書関連の出版社に勤めることになった年、彼は講談社の文芸誌「群像」の新人賞をとったのである。駅ビルの小さな本屋で、たまたまこの新人賞受賞作品が掲載されている最新号をぱらぱらとめくっていると、手書きのTシャツの挿絵が目に飛び込んできた。こんな作品が文芸誌の新人賞を受賞する時代になったのかと思って、平積み台の上に投げ捨てるように雑誌を戻した記憶がある。
それなのに、アルジェリアの片田舎でこの作品を読むことになるとは想像だにしなかった。むしろ虚を突かれたというべきか。
感動してしまったのである。
ああ、そうか、と合点がいった。
アルジェでの一年を経て、またアルジェリアに舞い戻ってきて、しかも、ジジェルという片田舎を吹き渡る風と、真上から照りつける地中海の太陽に焼かれて、観念だとか思想だとか、ようするに難しい言葉ばかりギシギシに詰まった脳味噌が音を立てて崩れていく、ちょうどそのときに日本から『風』が送られてきたのである。
もう、どうでもよくなった。
どうにでもなれと思った。
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帰国すると、すぐにグールドのレコードをさがした。
『風の歌』の主人公が、バックハウスの演奏をあっさり切り捨てるかのようにグールドを選ぶ場面に、ただならぬものを感じたからである。
母が自宅でピアノを教えていたので、子供の頃から安物のアップライトの音を聞いて育った。たいていはバイエル止まり、ツェルニーとかソナチネを弾けるようになる生徒はわずかだった。家でまともなソナタが鳴り響くのを耳にしたことはなかった。
偉そうなことを言っているが、幼稚園の頃、無理やりにピアノを習わされて、二、三ヶ月くらいでやめてしまった。基礎練習に辟易してしまったのである。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、強制的に何かさせられるのが、心底いやなのである。受験勉強も拷問のように思えたし、大学に入って触れたフランス語も、なんでいまさら、アー・ベー・セーとかアン・ドゥ・トロワとか繰り返さなければならないのか、嫌で嫌で仕方がなかった。なのに翻訳者になっている。人生、よくわからない。
それはともかく、帯広の我が家にはバックハウスのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集があって、何度も何度も飽きるほど聴いていたのである。初めて一番から三十二番まで全曲聴き通したのは、大学時代に夏休みか何かで帰ってきたときだったと記憶している。それから四十年経って、帯広に戻ってきて、年代物のステレオ装置を修理に出して、また聴き通した。
バックハウスを聴いていると、ピアノという、たぶん人類が発明した最高傑作ともいえる楽器が過不足なく鳴っているという感じがする。バックハウスにはぎらぎらしたところが何もない。歌ってはいないが、無味乾燥ではない。レコーディングも、残響の少ないデッドなスタジオ録音であるのがいい。
さて、そのバックハウスが危ない。グールドって何者だ?
そのころは東京の荻窪に住んでいたので、すぐに駅の近くのレコード店に飛び込んだ。ない。
「ビデオならありますよ」
レコードがなくて、どうしてビデオがあるんだ? VHS版で、ピアノ協奏曲第五番「皇帝」を収めたもの。違う、違う、ピアノ・ソナタが欲しいんだ。
まだ、CDが出回っていなかった時代のことだ。
その足で、銀座の山野楽器まで行った——なぜ、もっと近い新宿のタワーレコードでなかったのか、はっきり憶えてないが、たぶんそのころのタワレコは今ほど店舗が広くなくて、ごちゃごちゃしていたからだろうと思う。銀座まで来れば、さすがにあるだろうと思ったのだが、ない。
あったのは、リストがピアノ用に編曲した交響曲第五番「運命」、これをグールドが弾いている。なんで、こんな変態みたいなのしかないのか! でも、買うしかなかった。だって、ほかにないんだから!
いや、じっくりさがせばあったにちがいない。でも、なぜか焦っていた。いち早くグールドのピアノが聴きたかった。
メゾネット式の狭ぜましいアパートに戻ると、リビングのターンテーブルにレコードを置いて、そっと針を落とした。
それは今までにない音楽体験だった。
部屋には妻も子供たちもいなかった。
ターンテーブルが回り、ピアノの音だけが響く。
闇のなかに楽譜が浮いている。
楽譜自体が生き物のように呼吸している。
その楽譜はベートヴェンの生きた時代に属しているわけでもなく、もちろんその前のバッハの時代でもなく、二十世紀でもなく、ただ白い五線譜に書かれた黒い音符たちが踊っている。
これがグレン・グールドとの最初の出会いだった。
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一九八二年に五十歳でこの世を去ったグレン・グールドという不世出のピアニストとその演奏については、おびただしい文言が費やされた。今さら、屋上屋を架すようなことはしたくないし、そのためにこの記事を書いているのでもない。
ジジェルの現場に、村上春樹初期の三部作を送ってくれたミドリさんは、その後しばらく我が家に足繁く通ってきたけれど、どちらの人生もそのまま何の変化もなくずっとまっすぐということはありえないので、やがて彼女が我が家を訪れる回数は減り、いつしか音信も絶えた。
ただし思い出は残る。彼女が遠いアルジェリアまで送ってくれた三冊の本は、そのままの形で娘たちの本棚で眠っている。
そして、今もどこかで、村上春樹の若い頃の作品を読んでいる人はいるだろうし、グレン・グールドというピアニストを親愛している音楽ファンもたくさんいるだろう。過去と現在はそのようにして繋がり、そして、目には見えないけれども信頼のおける確かな世界をかたちづくっているということを信じたい。